水谷公生


G.S「アウト・キャスト」、ニューロック期を経て、ギタリスト、アレンジャー、プロデューサーとして、日本の音楽史に残る数多くの活動を展開し、2004年12月「Fairlife (水谷公生/春嵐/浜田省吾)」として、1stアルバムをリリースした水谷公生さんの過去から現在までの、ロングインタビューです。

(2004年2月04日/FairlifeSTUDIOにて/インタビュアー:TERA@moment)





1947年6月17日生まれ。東京都町田市出身。
中学時代からギターを弾き出し、高校時代に「ブルーボーイズ」
というバンドで活動を始める。
渡辺プロで「ブルー・エース」というバンドでリズムギターを担当。
1966年、GS「アウト・キャスト」を結成。
翌年『友達になろう』でデビュー。
1968年、新GS「アダムス」として、CBSソニーから
『旧約聖書』をリリース。
1970年代に入り、スタジオプレイヤーとしてNO.1の
売れっ子として活躍。
1971年、唯一のソロアルバムであり、今や名盤の
『A PATH THROUGH HAZE』を発表。

その後、浜田省吾のプロデュースアレンジ、ギターを担当し、
他にも矢沢永吉、村下孝蔵等々、数えきれない音楽活動を通し、
日本音楽シーンを語るには、欠かす事の出来ない大きな存在である。
昨年2004年「Fairlife」として、『Have a nice life』をリリース
したばかり。
 水谷公生インタビュー

僕がずっとイラク戦争にすごく反対してたり、という事があって、静かな、静かな反戦歌なんですよ。
例えば世界中の兵士でいるでしょう。僕は基本的にそういう人たちって、自分たちが戦争しようと思ってしてるわけじゃなくて上の首脳陣が決めたことを兵士達が実行するのだと思うのね。一番たまらないのは家族でやっぱり待つだけの苦しさじゃないですか。そういう人に宛ててる歌だと僕は解釈してるんですけど。その他にも世界中でいろいろな事で窮地に追い込まれている人たちが大勢います。いろいろ話し合って行く中で浜田君が、これはチャリティシングルにしようという事で、「永遠のともだち」と、「砂の祈り」が、最初のシングルになったんですよ。


TERA(以下:T):では宜しくお願いします!

水谷公生(以下:M):どうもこんにちは。

T:まず、生まれた場所を教えて下さい。

M:生まれたのは、東京の四谷です。カワゾエ病院というところだったらしいです。まだあるみたいですけど。

T:小さい頃は、どんなお子さんだったんですか?

M:やっぱり野球好き、みんなそうだったんですけど、今でいえばサッカー少年というか、野球をこよなく愛する少年でした。

T:ご兄弟は?

M:姉さん2人です。

T:仲はよかったですか?

M:僕より上の姉さんが5つ年上、5つ離れてて、女の人の5歳上って、やっぱり大人なんですよね、子供のときって。
子供のとき、男の子ってちょっと幼い でしょう。幼いって言ったら変だけど、発育が女性よりおそい。だから、随分離れてるから、あんまり意識の中ではなかった姉弟かな?(笑)

T:初めて音楽にふれたのは?

M:実はですね、禁じられた遊びっていう当時の映画のテーマソング、その音を聞いてギターっていいなと思ったのが最初なんです。

T:割とレコードをいっぱい聞いてた感じのご家族だったんですか?

M:ビートルズぐらいになってからよく聞きましたけど、でもいわゆるマニア的に聞くタイプではないですね。僕自身マニア的に聞いたのは、その後になってピンク フロイドっていうのは、ほんとによく聞いたんですけどね、子供の頃は普通に聞いてるっていう程度で。

T:中学生の頃は、どんな感じの活動をされてたんですか?

M:中学生の時は、まさにそのままの延長で野球部に入って、それで実は、中学1年の夏に少年野球大会、今でいうリトルリーグみたいなものが警察が主催で行われたんですね。その地区で1年生の時に2年生、3年生の先輩を破って優勝しちゃったんですね。僕がちょうどピッチャーで投げてて、それで夏休みが終わって学校の野球部に戻ったら、野球部の先生に怒られて、「おまえ、クビだ」って言われたの。それで、何だか意味がわからなくて、何でですかって言ったら、おまえは上級生に勝っちゃったから、チームワークが保てないからやめろって言うんですよ。それって、変でしょう。で、やっぱり泣きましたよ、わんわん。二、三日。ほんと野球が好きだったしね。でも意味がわからないし、周りの大人の人の説明は、同じ言い方、先生がそう言うんだからしようがないっていう。で、ちょっとぐれたんですよ。でも今となって思えば、その時にクビにしてもらえなかったら、いわゆるロックというか、ギターを始めてはなかったんじゃないかなという気もするので、人生何があるかわからないという事です。

T:実際にギターとか音楽を始めるのは中学生の頃ですか?

M:そうですね。中学の時に、いわゆるエレキじゃなくて、フォークとも言わなかったんですね。クラシックギターしかない時代で、それに当時はスチール 弦って言わないで、鉄線って言ってたんです。鉄線を張ったギターで禁じられた遊びとか弾いてて、それでビートルズが出てきてから、やっぱり何とな く面白いなと思い出して、それから高校に向かって始めたんですね。

T:最初に覚えた曲は何ですか?

M:やっぱり何でしょうね。ポップスとしては、やっぱりビートルズを聞いてたんだけど、簡単だったからパイプラインとか、ああいうのじゃなかったで しょうかね、覚えてはないですけど。

T:高校に入って、バンドとかは?

M:後にGSで一緒になった連中とやってました。高校になってから当時の人は、覚えてるかもしれないけどパーティーというのがあって、パーティー券を自分たちで売って参加させてもらってみたいな、そういうので楽器を自分 で積んで運んだりして、あちこち出てました。

T:主にそこではどういう活動を?

M:ベンチャーズやったり、アニマルズとかビートルズとか、やっぱりそういう感じのをやってましたね。

T:オリジナルっていうのは?

M:その時はやってないです。オリジナルは、やっぱり後にGSに入ってからです。

T:高校は音楽中心の生活ですか?

M:そうですね。高校は、実は野球で引っ張られたんですけど、野球で引っ張られると野球をやめたときに学校もクビになるって言われたんで、ちゃんと試験に合格して入りました。何てことはないんですけど、、野球部は坊主だって言われて、それで結局野球部はやめて応援団に入っちゃったんですね、アホですよね 。今は坊主なのにね。音楽と応援団っていうめちゃくちゃな組み合わせで、高校時代は。そして高校途中で、ワタナベプロから新しいグループが出るので参加しないかって言わ れて、それでもう高校は途中で中退しちゃって、それでワタナベプロのバンドに入りました。

T:そのバンドは?

M:最初、「ブルー・エース」っていうエレキバンド。もう今の人達は知らないと思いますけど、、、、。望月浩さん、田川譲二さん、木の実ナナさん、あと森進一さんも来たことがある。そういう歌手のバックを。いろんな人のバックやった 記憶がありますね。

T:すぐ、お仕事の形で?

M:そうですね。もう、行ってすぐフェンダーの、当時はジャズマスターかな。「おまえはこれだ」って言われて、でもフェンダーの楽器なんて触ったことも ないしね、使ったこともないから大喜びで、それで、そうです、そうです、それだけ。もう行ったら即、寺内タケシさんが推薦してくれて、すぐそのままプロ に、行ったらプロだったっていう。

T:それは、給料制?

M:給料はもちろんもらいましたよ。当時2万5千円でした。こんな話していいのかな。(笑)楽器の返済が月5000円、だから2万円で生活してました。 でもそんなに贅沢するわけじゃないし、もう音出すことが楽しい時ですからね。実家からだし、当然。

T:それは、ライブがメインになるのですか?

M:当時ジャズ喫茶って言ったんですけど、新宿アシベ池袋ドラムとかっていう、そういう今で言うライブハウスを回ったり、ウエスタンカーニバルっていうのが年に1回か2回あったんです。それに出たり、ほんのたまに「シャボン玉ホリデー」とかいう番組に出たり、懐かしい話です。

T:そういうお仕事が何年ぐらい続くわけですか?

M:そのバンドは1年ぐらいで、その後すぐ、「アウト・キャスト」っていう自分たちのオリジナルをつくってやっていくグループを作りました。GSブームの後半ですけどもね。

T:そこでは、もちろんオリジナルを?

M:はいやってました。もう、オリジナルをどんどんつくって。

T:詞曲、両方ですか?。

M:そうですね。僕も詞曲つくってましたし、同じ仲間でキャンディーズの、「もうすぐ春ですね」っていう、あれを作曲した穂口雄右さんっていう人もいたんですよね。だから、そういう面じゃ曲をつくるのは、誰かが一人つくるんじゃなくて、みんなつくるぞみたいな感じでやってました。

T:本格的なオリジナルバンドとしては、それが初めてになるのですか?

M:そうですね。「アウト・キャスト」(1967年1月「友達になろう」でデビュー)が最初ですね。

T:「アウト・キャスト」は何年ぐらいですか?

M:それは2年ぐらいです。そのリードボーカルの轟健二さんと2人で今度は「アダムス」(1968年9月「旧約聖書」でデビュー)っていうバンドを結成しました。 それは、CBSソニーの、1号アーティストのうちの1つでもありました。

T:「アダムス」は、どういう編成のバンドですか?

M:ギター2本に、キーボードとベースとドラムです。

T:サウンド的には?

M:当時はGSでもみんな後半ブームになってて、タイガースとか、スパイダーズとか、いわゆるそういう感じの日本のGSサウンドですね。でも、コピーっていうよりも、日本独特の和製ポップスのはしりというんですか、そういうのがあのときのGSにはあったような気がします。

T:アルバムのリリースは?

M:アダムスは、シングルは出したんですけど、5万枚ぐらいが一番のヒットで、アルバムは1枚 つくったのかな? 何かもやもやっていう感じで。もちろん後期だということもありますけどね。そのままフォークブームに日本はなっていくので。ですよね、たしか。流れとしては。

T:70年代入るとどんな感じになるんですか?

M:実はGSの終わりから、反戦ロックミュージカル「ヘアー」っていうのが始まるんですけど、そこの「ヘアーバンド」っていうのがありまして、そこに入りました、その後は。

T:はっぴいえんどに参加するはずだった小坂さんとか?

M:小坂忠さんもいました。

T:ご一緒に。

M:一緒にやってました。結構危険なイベントではあったんですが。今は亡くなられた、名ドラマーの石川晶さんと一緒のバンドで。それで石川さ んに誘われて、スタジオに入るようになって、それ以後はずっとスタジオプレイヤーをやってたんですよね。

T:じゃあ、「アダムス」は?

M:2年ぐらいでアダムスは解散して、その後「ヘアー」のミュージカル。

T:それは、フリーという形での参加ですか?

M:そう。完全にフリーですね。それで、以後スタジオミュージシャンとしてやってるんですよ。

T:スタジオミュージシャンとして最初の仕事とかって、何かきっかけは。

M:それが僕の中の記憶では、関口宏さんの奥様の西田佐知子が唄った、「涙の乾くまで」っていう曲です。最初にスタジオやったの は、フリーになる前のGSの時で、でっかいスピーカーを持ってスタジオに入っていったら、スタジオのエンジニアの人が、「グループサウンドはあっち、ここは君の来るところじゃない」みたいな事を言われたんですよ。でも、ミュージシャンを呼ぶ会社に頼まれて来たんだって言ったら、「おかしいな、じゃあここだよ」って言われて、そのスタジオに入ったんだけど、当時ってストリングスもリズムも全部同録なんですよ。2チャンですから、今みたいにマルチではないから、2チャンで「せーの」でとるでしょう。当然でかいですね、僕の音が。だからみんな弦の人達に「うるさい、うるさい」って言われるんですよ。イントロとエンディング?そこだけ弾きなさい」って言われて、「はいわかりました」って、弾いて、何となく上手くこなして、それがいきなり100万枚売れちゃったんですよ。そしたら何だか知らないけどその後メチャクチャ忙しくなったんです。だからラッキーと言えばラッキーですね。

T:凄いですね、それ以降、ギタリストで、インペグ屋さんに頼まれて?

M:頼まれて。いわゆるフリーのミュージシャン。

T:それがどのぐらい続くんですか?

M:もう随分やってましたね。10年、20年って言っていいんじゃないですか。

T:その間にバンドとかっていうのは?

M:バンドとかは、セッションミュージャンがちょこっと集まって、誰かリーダーの人がいて,ちょっとライブハウスに出るような事をやってましたけど、バ ンドとしては別にやってなかったですね。

T:80年代前後に大きな出来事は、ありました?

M:80年代っていうと、いわゆるニューミュージックの人達とおつき合いをして、南こうせつさんのツアーを、80年だと思うんですけど、10年間一緒にやっ たんですよ。それと並行して、浜田(省吾)君のアレンジしたり、(矢沢)永ちゃんのアレンジをしたり。だから、スタジオミュージシャンっていうのは、ニューミュージックもやるし、演歌もやるし、いろんな事をやっていくでしょう。それで、片方ではそういうニューミュージックのツアーをやったり、帰ってくるとアイドルの伴奏したり、その時期が70年代、80年代やってましたね。

T:その中で、浜田さんとのお仕事は?

M:それは、「イルミネーション」っていうアルバムからおつき合いするようになって。

T:どういうキッカケだったんですか?

M:当時プロデューサーの鈴木幹治さんっていう、もと「モップス」のドラマーなんですけど、その人と打ち合わせをして始まっていった感じ。今 は、まずアーティストと会ってお見合いをするんですよ。「お互いに気に入るか」みたいな感じで始まっていくんですけど、当時は、永ちゃんの時もそうで すね、とりあえずプロデューサーの人と会って、「どういう事で、どういう風にしたいので」という話を聞いて始まっていくので、最初に浜田君と会ったのはスタ ジオだったんですよ。そのスタジオで、顔もよくわからないジーパン履いて白のTシャツだったと思うんだけど、すごい地味な青年がいました。「ね、君、 浜田省吾っていうアーティストのスタジオは何スタ?」って聞いたらたら、「僕わからないですけ ど」って。「何でわからないんだよ」みたいな事を話してたら、それが浜田君だった。(笑)変ですけどね、ちょっ と流れとしては。アーティストと会ってお話しをしなくちゃいけないんだけど、そういうシステムだったですね、当時は。

T:「イルミネーション」では、アレンジとギターを担当されていたんですか?

M:今で言うプロデューサーなんでしょうけど、当時はアレンジャーだったんですよね。いつからか名前が変わって、アレンジしてると、今はプロ デューサーになっちゃったけれども、僕はプロデューサーって、ほんとはちょっと違うと思うんですけどね。ほんとに、プロデューサーっていうと、制作から売 ることまでやるのがプロデューサーだと思うんだけど、僕はそんな事はできないし。相変わらず今でもアレンジャーでいいと思っているんですけど。

T:「イルミネーション」のレコーディングで何か覚えているエピソードはありますか?

M:今でも浜田君にはよく言われるんだけど。ヘッドホンに歌が返ってきますよね。そのバランスがすごく大きくなっちゃうと、ドラムの音とか聞きづらいじゃないですか。それで、「ちょっと歌を下げてくれる?」みたいな事を言ったのが、彼の心を傷つけたっていう。(笑)でもそれは、限られてますからね、ヘッドホンの中って。その中で、例えばピアノを聞きたいとか、ドラムの音を聞きたいとかになりますよね。今だと、それぞれ自分の好きな音を上げるシステ ムになってるんですけど、当時って、それができないので、ちょっと歌が大きくてほかの音が聞こえないからって、悪意があったわけではないんですけど。歌でかいよって言ったことが、彼の心を傷つけたというのは、いまだかつて、もう20年以上たってますけど、まだ言われますけど。(笑)

T:僕もたまたま、その「イルミネーション」が浜田さんを当時、聴いた最初のアルバムでした。「散歩道」と「片想い」が印象的で。

M:そうですそうです。

T:楽曲的に印象的な事は、ありますか?

M:メロディーが、何ていうんですかね、フォークロックっぽかったんですけど、音楽用語で言うとテンションをよくひろうメロディーなんですよ。例えば、Cというコードにレの音を歌ってたり。Cのコードっていうのは、知ってる人は知ってるんだけど、ドミソの和音。「おもしろい音のとり方をする人だな」って思ってましたね。それと、やっぱり当時から詞がいいじゃないですか、すごく。ね。

T:僕の中では、特に印象的なアルバムは、「PROMISED LAND」 ですね、すごい好きなんですけど。

M:当時続けて7枚アレンジして、その7枚目なんですけども、今、こういうイベントのインタビュー受けてる僕としては恥ずかしいのですけど、「何でこんなにメッセージばっかり歌うの?」って、彼に言ったことがあって、「もっとラブソング歌いなよ」って。今思うと恥ずかしいですけど、でも今 聞いても、彼は何ていうかな、プロフィットというか、先に先に時代を感じて詞をつくる人だと思うんですよね。あのアルバムはよく戦ってるし、素晴らしいですね。ミスチルの桜井君なんかもカバーするのはよくわかりますよね。深いアルバムだし、今若い人にももっとどんどん聞いてほしいアルバムですよね。

T:特に「パーキングメーター」とかって、鋭い詩ですね。

M:最近でもそういう歌はありますけど、エンターテイメントの部分と、世の中でおきていることをうまく ミックスさせてるっていう、浜田君の作詞の妙というか、あんまりストレートに言わないで、そう いう彼の表現力はすごくやりますよね。

T:何か「バランス」感覚が今までなかったもので。

M:そう。バランス感覚もすごいですね。

T:被も加も同時に歌うって事を。両側を平等にとらえてる愛の詞が好きですね。

M:そうですね。

T:で、80年代後半になってくると、何か変わってきた事は?

M:とにかく嫌だったのが、日本のバブル。あれが何ていうかな、ものすごく嫌でもちろん音楽業界もどんどんそうなっていくんですよね。それが完全に嫌に なっちゃってて、たまたま友人がオーストラリアのパースっていうところにスタジオを持ったので、遊びにこいって言うんで行ったら、ものすごい。ほんとに のどかな平和なところで、一番多いのがカンガルーじゃないかっていうような感じの街。すごくそこが好きになって、それで5年間のうちに15枚のアルバムを作りました。みんな日本人アーティストですけど、亡くなった村 下孝蔵君のアルバムとか、今、武豊さんの奥さんの佐野量子さんのアルバムとか、あと、ものすごいハードなロックの連中とか、いろんなことで、楽しい時でしたね。

T:その間にもライブに出たりとかは?

M:ライブはほとんどやらないんですけども、当時は、以前の方とは余り接触しなかったですね、でも、あんまり向こうにいたら、今度ストレスのないことがストレスになっちゃうんですよね。やっぱりずっと東京にいたということもあるんでしょう けど。だから、そこもバランスだと思うんです、さっきの話じゃないけど。

T:バブルが弾けて90年代、どんな感じでしたか?

M:そうですね。結局、パースにいて刺激のないことにストレスを感じて、今度はほどよく自分の中でかなり年齢的にも達してきたので、またこっちでも仕事しようっていう意思になってきて。一時はもう10年ぐらい前ですけど、クラ ブっていうのがはやり出したっていうか、本当に純粋にアンダーグラウンドの音楽がどんどんおもしろくなってきて。そもそもロックが商業的なロックになっちゃってからは、あまり興味がなかったので、そういうクラブで、レゲエとか含めて面白いものが出てきてて、一時ずっとクラブ活動ばっかりしてたんですよ。夕方の3時か5時に起きて、もそもそして12時になったらクラブへ行って朝5時に帰ってくるという生活をしてた。 それがたまたま浜田君の耳に入った。「あんなことやってるとどうにかなっちゃうぞ」って。それで、94年だったかな、浜田君がツアーのPAの音のプロデュースをしてくれって言われて、彼のツアーに参加するようになっていった。それでまたいろんな話をしつつ、またアルバムのアレンジとかするようになったんですけど。でも、その時の音楽はやっぱりおもしろいし、今の世界中のポップスって、その時のものの変形したものだと思うんですけどね。当時は、ヒップホップだって何だかわからない。日本ではヒップホップなんてはやるわけないってみんな言ってました からね。人間ってやっぱり必ず進歩し変化するでしょう。だから日本語なんか合うわけないって言っても、やっぱり今はみんなすごくうまく日本語を使って、和製ラップをつくっていく。。それはそれで楽しいですよね、見ててもね。GSの 時と似てるなと思いますね。

T:そのクラブ活動なんですけど、音楽的にはテクノとかトランスとか含め、いろいろと?

M:もう全部好きですよ。僕は打ち込みというのが始めたのが早くて、MC4っていう、今みたいにMIDIでやるやつじゃなくて、数字で全部音を入れていくっていう、いわゆるYMOのころからやってたので。でもね、 ビートルズってすごいテクノだと思うんですよ、僕。でもみんなテクノっていうと「ピホピポ」っていう音楽の感じがすると思っているけど、そうじゃなくて、僕の解釈のテクノっていうのは、ビョークもすごいテクノだし、最先端の技術をうまく音楽に取り入れてるっていうことだと思う。ビートルズなんか、例えばマルチのテープを切って張り合わせたりという事も、ある面ではアナログ的なテクノだと思うんですよ。でも、レコードの時代からそうだけど、新しい技術を導 入してやっていくわけだから、それもテクノかなって。なにかそういう科学的な平和利用ってすごくいいと思うんですよね。新しいこと に敏感というか、好きですね。新しいものが出たら、それはそれで。反対側に古いものや伝統的なものを敬っているからだと思うんですけど。今は当たり前になっちゃったんですけど、プロツールスっていう、家庭でもできるデジタル録音機器があります。浜田君がリリースした、「LOVE HAS NO PRIDE」っていう楽曲が、メジャーミュージシャンとして初めてプロツールスで作ったシングルCDだと思うんですけどね。その時も抵抗されましたけど。 (笑)

T:90年後半は、どのように?

M:2000年に奥さんと一緒にパリへ行ったんですけど、その時地元の人に紹介してもらったクラブに行ったんですよ。そこでソニアっていうアーティストと知り合い意気投合してコラボレーションすることになったんです。僕がまずサウンドをつ くって、それを彼女に送る。彼女がフランスでメロディとか詞を考えて録音してネットで送ってきてくれるんですよ。でもその過程ってすごい大変でね、データーが大きすぎて開かなかったり、CDが届かなかったり。それでそのうちに 「日本に来る」ってソニアは3回来て、1回は1か月ぐらいこの部屋に居候しました。今、25、6曲あるんですけど、途中で彼女がパリのミュー ジカルに出て、そのプロデューサーと結婚して、子供が生まれたという事もあって、今はちょっと中断してますけど、そのうちリリースしようと思ってます。そうですね、1990年代の後半は、プロツールを買って、自分でテクノ、それも2枚分ぐらいあるんですけど、それをつくったり、その後ソニアと会っ て、でもそういうプロツールとアンダーグラウンドな音楽がそういうことで結びついたというか。宅録の駆け出し時代が1990年代の後半です。

T:2000年に入って、その後の活動は?

M:浜田君の「SAVE OUR SHIP」で共同プロデュースをして、それで2003年に柳田ヒロさんっていう、知る人ぞ知るスーパー化け物キーボードの人と30年ぶりにアルバム、 「浮遊」を「ma-ya」というユニットで出して、それで去年2004年に浜田君と「Fairlife」っていう楽曲制作集団を立ち上げました。僕は音回りなんですけど、浜田省吾君の曲と春嵐の詩。あとはいろんな人にその歌を歌ってもらって。

T:「Fairlife」の事を詳しく聞きたいんですけども、きっかけというか、そもそもの始まりは?

M:きっかけは、去年の正月です。浜田君とうちの夫婦と食事をした時に、「何か面白い事やらない?」っていうんで始まったんです。浜田君のプロジェクトって、いつもすごい巨大なプロジェクトでしょう。そうする と、浜田君のつくってる曲の中で、この曲は自分に合うけど、この曲はどっちかというと今の自分には合わないなとか、そういう曲がいっぱいあるわけです 。浜田君のアルバムには合わないけれども、曲として浜田君が好きだという曲がいっぱいあるみたいで、それを詞を書くのを誰かに任せて、それで浜田君が 基本的には歌わない。そしていろんなシンガーを探して「歌ってくれる人がいたら、お願いする。」っていう話をして。その時に、すでにカセットがあってね、1本。「実はもう出来てるんだよ」って、これを持ってきて。でもうちにはカセットを聞くものが無いので、できたら次回からMDに して欲しいって言ったんですけど。(笑)それがきっかけで始めて。

T:そのカセットの中にはどういう曲が?


M:その曲は、実際に1枚目の「Have a nice life」っていうアルバムには入ってないんですけど、ちょっとロックっぽい曲で、何曲かつくってるうちに、「砂の祈り」っていう曲が生まれて。僕がずっとイラク戦争にすごく反対してたり、という事があって、静かな、静かな反戦歌なんですよ。
例えば世界中の兵士でいるでしょう。もちろん日本だったら自衛隊の人がいて、もちろんイラクにもアメリカにもオーストラリアにもイギリスに も、みんな兵士がいて、家族がいるわけですよね。それで、僕は基本的にそういう人たちって、自分たちが戦争しようと思ってしてるわけじゃなくて、すごく 上の首脳陣が決めたことを兵士達が実行するのだと思うのね。で、一番たまらないのは家族で、家族はやっぱり待つだけの苦しさじゃないですか。だから、そうい う人に宛ててる歌だと僕は解釈してるんですけど。その他にも世界中でいろいろな事で窮地に追い込まれている人たちが大勢います。いろいろ話し合って行く中で浜田君が、これはチャリティシングルにしようということで、「永遠のともだち」と、「砂の祈り」が、最初のシングルになったんですよ。

T:冒頭の砂の嵐っていうのは、テレビ画面と砂の嵐と、中東の砂の嵐をかけているんではなくて?

M:ううん。いわゆるテレビの終わっちゃった砂の嵐じゃなくて、本当のイラクとかの砂の嵐のイメージだと思いますけど。

T:1曲ごとに聞いてもいいですか。1曲目の「永遠のともだち」、これに関しては。

M:いちばん思うのは、やっぱり個人主義ってあるじゃないですか。いつからか日本にも入ってきている。利己主義と個人主義の違いをはっきりと教えて上げる必要があると思うの。利己主義って、自分だけよければいいんですよね。個人主義っていうのは、自分が自分の事を好きだから、相手の事も好き、相手のことも尊重して相手のことも理解するから、自分も好きだっていう、それらのものが独立していかないと、個人主義にはならないと思うんです。今の、最近の個人主義という言葉が流行り出してきてから見てると、もうでたらめ。自分さえよければいいじゃないかみたいなのがあって、だから、アメリカも、例えば民主主義がいいというのは、それはわかりますよ。でも、例えばイラクっていうのは、いろんな民族がいて、それはもちろんフセイン大統領のやった事は最悪ですけど、それはそこなりに難しい事があると思うんですね。だから、何か革命と言ったら変な言い方ですけど、怒っていくんだったら、その中にいる人たちが頑張って歴史を重ねて、それを自分たちでやっていくことが本来の姿だと僕は思うのね。だけどそれを横から行って暴力でつぶすということは、やっぱり大間違いだと思うんですよね。だから本題に戻りますけど、結局本当にお互いにお互いがわかってやっていけば、そういうことはないんじゃないかなっていう事だと思います。僕はね。曲の説明にはなってないかもしれないけど。

T:2曲目の、「虹」

M:曲のタッチとして、ほかの曲とちょっと違うんですけど、すごくクオリティが高いというか、すごくいい曲だと思ってます。これはプリプリの、奥居さんが歌ってくれました。女性の優しさと強さとを含めて、奥居さん6年ぶりとは思えないパフォーマンスでした。最初お会いしたとき に、気合の入り方というかね、ロッカーなんだなっていう。うちのスタジオで歌とったんですけど、おもしろかったですね。そのパワーというか、気合というか。やっぱ りマドンナもビョークもそうなんだけど、お母さんになってから、やっぱりそうやってね、実力のある人はどんどん輝いていくなというのを実感しました。

T:3曲目の「アイラブピース」。


M:これは、最近巷のインターネットなんかで、浜田君がああいう詞を歌っているというのが、なんか皆さんおもしろいって。もともとは、リズムアンドブ ルースのオーソドックスなメロディで、もうちょっと浜田君は違う詞を想定してたみたいなんですけど、そういうまさに足元に幸せいっぱいあるというよう な、すごいかわいい詞じゃないですか。だから、それを浜田君が、浜田省吾節でリズムアンドブルースを、チョウチョが飛んでくるとかって、ね、だからおもしろいですよね。はい。でもそういう和製ポップスというのは変な言い方だけど、日本の人達、日本語で歌ってるわけだから、日本の人が聞くわけじゃな い。でも、そういうカテゴリーは外れて、おもしろいかなと思うんですよね。

T:4曲目「Siesta」は?

M:これは、実は最初に我那覇ちゃんの仮歌を聞いた時、自分と重ね合っちゃって、涙が出たんですよ。人間ていつか死ぬじゃないですか、死んだ時に、例えば僕の大好きなシンガーソングライターの浜田君がつくったメロディで、照れくさいけど自分の奥さんがつくった詞 で、我那覇ちゃんっていうステキな声の人が歌ってくれて。僕が死んだら、これで出棺してくれと言ったぐらい気に入ってますね。人をね、すごく好きになるっていうことの大事さ、それはずっと続いていけば戦争なんて起きないわけで、だから、そういうものが中心にあると思ってるんですけどね。

T:5曲目の「Virgin」。

M:これは、曲を渡されて、春嵐の中で最初から藤岡正明君のイメージがあったみたいです。彼のきれいな声で女の子の言葉には出せない心の中を歌ったら、すごくいいんじゃ ないかなということで。ピアノの西本明君の事は前から知ってたんですけど、始めて一緒に仕事をしていただいた作品。ウエストサイドっていうスタジオで、同録で藤岡君とレコーディングしました。イントロが始まったその空気感のテンポと、最後まで何もぶれないでいく流れが、西本さんのピアノを聞いてて、「これはすごいな」と思ってたのが印象的ですね。びっくりしました。

T:6曲目。「冬休み」は?

M:これは、浜田君が最初に、この詞の感じは夏休みのコンセプトでって、最後「夏休み」って入ってたものを、山形出身の春嵐が雪の山 とソリと冬休みに持ってちゃったっていう。でも気に入ってますけどね。岡野君の歌い方が。岡野君は広島の出身でそんなに雪の感じがないんだけど、岡野君の声って、何か切ないんですよね。いいなー。

T:7曲目。「左手で書いたラブレター」ですが。

M:これは、出来た時から、浜田君が「この作詞はすごい」って言って絶賛してたみたいです。恥ずかしい話ですけど、僕はぱっとタイトル見たときに、何か 適当に書くラブレターかなと思ったんですよ。(笑)内容を見て赤面しちゃったぐらいに、ああ、そうじゃなかったんだって。なるほどな、浜田さんが褒める だけのことがある詞だなっていうのが。ほんとにいい詞ですよね。浜田君の声やフィーリングもすばらしいなぁと思ってます。

T:8曲目。「小さな夜の下」。

M:これはね、何だろう、おかしいんだけど、これって主人公が死んじゃってて、その人に女性が、思いか何かしらないけど、一緒にお茶でもていうような歌なんですけれども、実はレコーディングしてて、うちで僕デジタルでデータつくってやるじゃないですか。ああいうシーケンスで、例えば1というところがあったら、それが崩れることはないんですよね。これ、何十年間もシーケンスを使ってるんですけど、1回もないんですよ。その時に、何だか知らないけど、いわゆる出発、スタート地点がばらばらになっちゃったんですよ、データーの。それで、シーケンスデーターっていうのは、オーディオデーターではないので、前に行ったり後ろにいくという事はないんですね。それが動いちゃったんですよ。こんな事あるんで、「やっぱりバグかな、でもこんな事、今までないしな」と思ってて、それでちょうど夜中の2時ごろだったかな、「もうやめたら」っていう、「明日の朝にしたら」ていう電話があって、僕も疲れたんで、こんな事があったから、じゃあ、もうやめようと思って、「わかった、もう帰るよ」って。それでスタジオを出るんですけど、出る時に、外の扉のスタジオの間に1枚ドアがあるんですけど、それを閉めるっていう事がないんですよね。いつも閉めないし、その時に電気を1個だけ残して、スタジオか ら出てきて振り向いたらドアがしまってるんですよ。それで、「えっ、何でしまってるんだ??」って思って、鳥肌ものになって、あわてて2階に帰っていっ て、部屋に帰っていった。そしたらね、「こんなことがあったんだ」って言ったら、お盆の真ん中の日だったんですよ、僕は全然知らなかったんだけど。しか もその歌の内容がそういう歌の内容だという事がわかって、その時はちょっと「何でかな」っていうぐらいね、びっくりしちゃったですね。でも、昔から言われてるんですけど、音をやってるスタジオって、よく霊が遊びに来るっていう話をしてて、楽しいから、おもしろそうな事をやってるから、もちろん僕もすご い嫌な気分になったとかそういうのではないんですけど、何かそういう事を感じてしまったなというエピソードがありました。

T:ミステリアスな感じですね。次は、9曲目「Fish...」ですが。

M:浜田君ならではのリズム&ブルース。これも藤岡君が歌ってるんですけど、詞としては、すごく大人っぽい詞。サウンドのドラムのルー プは、モータウンのファンクブラザーズのドラマーが叩いてたサンプルなんですよ。そのループを切って、それを中心にしてできてるので、やっぱりグルーブ感 がすごくいい。ヒップホップのグルーブもちょっと混ざってるんですけどね。やっぱり藤岡君の声がすごい。このアルバムのマスタ リングエンジニアのドンさんは、この曲大絶賛してました。

T:10曲目、「潮騒」。

M:沖縄に、今、住んでてインディーズでやってる首里さんという、ジャズボーカリストなんですけどね、うちに来ていただいて、ちょうど桜のころ だったかな、うちでレコーディングしてくれたんですけど、雰囲気がすごくのんびりおだやかで。それとそのとき同録はできなかったんですけど、古川望君のギター一本で、すごい何ていうんですか、東京にいながら沖縄に行っちゃったみたいな空気感ですごいよかったです、ゆったりしてましたね。

T:この曲だけ、ぼっとなんか面白い感じですね。異国感、沖縄というか。

M:なんか、それ以上音は要らないなっていう感じで。

T:そうですね、11曲目、「砂の祈り」。

M:これは、チャリティーになった曲で、さっき話したとおりで。これはシングルバージョンと違うんですけど、西本さんにローズピアノを弾いていただいて。

T:「木霊」。最後の曲ですが。

M:これは、浜田君ファンの間では、今、やっぱりこの歌が、話題になってるみたいで、支持されてるっていう話を聞きます。この曲も、Virginと一緒の時に西本君にアコスティクピアノを弾いてもらっています。浜田君とは以前ツァーをしたことがあるそうでやっぱりいいですね。僕もよく聞きます。

T:レコーディング自体はどのぐらいの期間かけたのですか?

M:ちょうど10か月ですよ。2月の14日バレンタインから始めて、ちょうどミックス終わったのが10月14日。それで12月に出てますからね。長いですよ。8か月。でも、今回はね、ものすごく音を減らす作業、やってて、どんどんいろんなものをそぐっていうので時間がかかったのかな。それと、浜田君が最初デモテープ歌ってくれて、アレンジをしていくじゃない。それで今度女性が歌ったり、変わってくるわけじゃないですか。そうすると全部キー合わせからやり直さなきゃいけないという事も、やっぱり時間がかかった要因だと思います。

T:例えば、アルバムに漏れた楽曲とかはあるんですか?

M:もちろんありますよ。それは次のアルバムに、もう四、五曲はできてきてるんですけどね。

T:曲順とかは、どういう風に決められたのですか?

M:もう、ほとんど浜田君のアイデア。いいんじゃないでしょうかっていう感じです。やっぱりそれはさすがに大ベテラン。バランスがよくて。

T:なるほど、このジャケットのアートワークは?

M:これは春嵐がまちを歩いてて、ポストカードを見てすごい気に入っちゃったアーティストなんですけど、コイヌマさんに頼んで快くやっていただいたっていう。

T:これは1回、全曲を聞いてもらって?

M:全部聞いていただいて、そのイメージで。

T:アルバムタイトルは、どの辺から。

M:これも浜田さんじゃないかな。それで、実は「Have a nice life」っていうと、dayと違って、「きょうはいい日でね」とかじゃなくて、lifeっていうと、「じゃあな、元気でやれよ」みたいな意味もあるんですって。だから、最後に当分あえなくなるぞっていうような感じの、そういう意味ではもちろんなくて、一期一会みたいな感じで浜田君は捉えられてるあれですけど。だから、いい人生を送ろうねっていうことです。日本語的な解釈をしていただいたほうがいいと思います。

T:先ほどもちょっと出てたんですけど、第二弾なんですけども、どの辺まで?

M:ことしは、実は浜田君がシングルとアルバムを出すので、それでライブも久しぶりにやるんですよ。だから、それがもちろん中心になると思うんです。 でもライブって、実はリハーサルが一番大変で、始まっちゃうと結構時間があるので、浜田君はそこの間にどんどん曲を出していくと言って たので、ことしは無理かもしれないけど、またどんどんつくっていきます。浜田君が歌うわけじゃないので、曲と詞があれば,また歌ってくれる人を探してやっていこうと思ってます。

T:とっても楽しみですね。では、最後の話なんですけども、今後の活動は?

M:実は、Fairlifeで知り合った人に曲を提供したり、さっき話したソニアも子供が生まれて落ち着いたら、それも出したいなと思ってる。Fairlifeのアルバムは、すごくオーガニックな静かなアルバムなので、ロックっぽいのもやりたいなと思っているので、そのことを僕個 人としてはやろうと思っています。

T:音楽以外に凝ってることとかありますか。やってみたいこととか。


M:凝ってる事は、おいしいものがないかっていう。(笑)ちょこっとおいしいものが食べたいなっていうタイプで。そうですね、でも、やっぱり気になるのは、何と言ったって、世の中の事が一番気になるでしょ、みんなね。だから、もちろんそれに大した事はできないんだけど、自分で出来る範囲のこと、だから、相変わらずピースウォークを続けたり、それからもし政治家が変な事を言ったら政党に電話して、おかしいんじゃないかと言ったりという事は、続けたいなと思ってます。割とやるタイプなんですよ。でも,あくまで平和裏に。ものをぶつけたり、暴力はどんどん悪いほうに進むので。だから、あくまでピースで。でも間違った事は毅然と間違ってると言わないと。

T:全くその通りですね。本日は、ありがとうございました。


-end-

 インフォメーション
Fairlifeに関しての詳しい事は、オフィシャルHP(http://www.fairlife.jp)まで。

最後に。水谷公生さんの貴重なソロアルバムを簡単にご紹介をいたします。
今から、30年近くも前になりますが、1971年にポリドールからリリースされた
アルバム、「A PATH THROUGH HAZE」。水谷さんの巧みなギタープレイが聴ける、
8曲入りの名盤です。
ヨーロッパの70'sロックマニアの間では、ブートレグも出回るほどの高い評価を
受けています。
日本でも、1998年に「ニューロックの夜明け〜70'sコレクション」として、
再発しましたので、気になる方は、是非、探してみてはいかがでしょうか?
お勧めです! (TERA@moment)