高橋結子 (PART2)

 1999年。バンド「GOMES THE HITMAN」のパーカッションとしてCDデビュー。
 現在、様々なバンド活動や様々なアーティストの方々と活動を続けている、ドラム&パーカッションの高橋結子さん。
 ロングインタビュー。そのPART2です。


(2008年10月18日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 
 高橋結子 (Yuko Takahashi
 ロングインタビュー(PART2)

  Music #71
 
  


    
 高橋結子ロングインタビュー (PART2)

SUIKAっていうバンドは、言葉をすごく大事にしてて言葉の部分と音楽的な部分をきちんと両立させたくて、「スイカ夜話」っていう自主企画イベントは、SUIKAと、言葉を武器にしているアーティストと、音楽的な部分で繋がりのあるアーティストと、っていう3組を組み合わせてイベントをやろうよっていうことになって始まったんです。


TERA(以下:T)では、PART2。よろしくお願いします。

高橋結子(以下:Y)よろしくお願いします。

T:まず、インディーズで出したアルバムの内容等のお話を聞かせて下さい。

Y:どんな内容だったかな…その前に出したミニアルバムと続けて録ったんですけど。

T:ライブでやってた曲をまとめたという感じですか?

Y:そうですね。この時にはもう既にバンドは5年くらい活動していたので、昔からやってた曲が多いと思います。これの為に書いた曲っていうのもあると思うんですけど。

T:ジャケットがビタミン剤のようなものですが?

Y:このときにデザインをお願いしたデザイナーチームに今でもずーっとお世話になっていて。沢山CD出してますけど全部同じチームにデザインしてもらっているんです。それはたぶんあんまり他のバンドにはないことなんじゃないかなぁと思いますけど。バンドのロゴとかもそのとき作ってもらったやつずっと使ってるし。すごい素敵ですよね。

T:そうですね。そして1999年、メジャーデビューの流れを教えてください。

Y:いやー…よくわからないです(笑)何せ直前まで私はサポートメンバーだったので…。これ言っていいものかどうかわからないですけど、メジャーデビューにいたる最初の出発点っていうのが、オリジナルメンバーの1人が大学を出て就職して中国に赴任する事が決まって、たぶんリーダーがそれを阻止しようとして、急にデモテープをいろんなところに送ったりし始めて。その流れでまずインディーズからリリースすることになり。

T:なるほど。

Y:私はもう全然、メジャーデビューが決まったけどどうする?みたいな、そんなノリでした。

T:メジャーデビューのレコーディングはインディーズとは全然違いましたか?

Y:そうですね。98年の8月に契約が始まってもうその頃からプリプロしたりレコーディングが始まってました。

T:それはもうスタジオも全然違ったんですか?

Y:そうですね。インディーズの時はレーベルが小さいスタジオを持っていてそこに事務所もあって、そこで録ったんですけど。メジャーデビューのミニアルバムはもっと大きいスタジオで。皆でせーので録れる環境で。

T:レコーディング自体はどう進行していきましたか?

Y:下手くそだったんで辛かった記憶しかないですね〜私は(笑)

T:結構長くかかったんですか?

Y:長くかかったと思います。PART1の時にお話したと思うんですけど、本当に素人同然の状態でデビューしてしまったので、セオリーも分からないし、演奏にも自信がないし…辛かったですね(笑)

T:メジャーデビューのアルバムはインディーズの頃に比べて意識的な違いはありましたか?

Y:すごく嬉しかったですね。お金のかけ方も違うし、プロモーションの量も違うし、大きいスタジオになったし。デビュー後のファーストアルバムはジャケットの撮影でロケバス借りて伊豆まで行ったんですよ。「なんだそれ?!」と思って(笑)多分バブルの最後の名残だったと思うんですけど、今はそんなことしないですよね。見た目のぱっとしない新人バンドなのに伊豆まで行って写真撮って、なんか現実離れしてましたね。

T:ファーストアルバムの『weekend』って言うのは最初のミニアルバムやマキシシングルとほぼ同じレコーディングしたんですか?

Y:同じ流れではありましたけど別ですね、たぶん…記憶がものすごく曖昧です。とにかくこのくらいの頃は一生懸命勉強しながらやってる時代で、楽器も買い揃えなきゃいけないし、貧乏だったから、朝の6時ぐらいからモーニング出す喫茶店でバイトして昼までやって、そこからレコーディングなりリハなりプロモーションなり仕事して、仕事のない日は午後からまた別のバイトしてみたいな。ほとんど寝てない状態で、1〜2年はそんな感じでしたね。ゴメス・バイト・バイト・ゴメスみたいな(笑)

T:この年すごいですよね、ミニアルバム・マキシシングル・アルバムと立て続けに。もうレコーディング漬け?

Y:レコーディング漬けでしたね。ライブもいっぱいやってたと思うし。

T:このころ斎藤誠さんや杉真理さんのプロデュースで?

Y:そうですね。それまではずっとセルフプロデュースだったのが、二枚目のアルバムで斎藤誠さんと杉真理さんにプロデュースをお願いする事になって、その年の秋ぐらいからレコーディングが始まったと思うんですけど。杉さんと誠さんはプロデュースの仕方が全然違って、それがすごく面白くて。誠さんはわりとバンド気質というか、体育会系って言うとちょっと違うかな…とにかく「まずは皆で音出してみようよ!」っていう。あれこれ曲をアレンジする前に皆でスタジオに入ってとにかくやってみるっていう、レコーディングに入る前にそういう時間があって。逆に杉さんは、このまま出しても良いんじゃないかっていうくらいわりと細かいアレンジも入ったプリプロを事前にやって、それを持ってレコーディングするっていう感じで、正反対で面白かったですね。

T:なるほど。

Y:それで一番嬉しかったのが誠さんのレコーディングの時、それまではパーカッションはいつも後回しだったんですよ。ドラム録ってベース録って全部録って、楽器が全部入った状態でじゃあパーカッションどうぞって、もう「別に何にも入れなくていいんじゃない?」って、隙間探すのが大変で。そういうことが多かった中で、誠さんのレコーディングのとき初めてベーシックで一緒にやらせてもらえたんですよ。それが当時は本当に嬉しくて。

T:なるほど。

Y:まずベーシックを録る時に一緒にパーカッションも録って、さらにダビングも一番最初にパーカッションからやらせてもらえたんです。ギターとか鍵盤とか入れる前にまずパーカッションいっぱい重ねて、それから他の楽器っていうその流れが本当に嬉しくて。それで誠さんにも気に入ってもらえて、すごい有意義なレコーディングでしたねぇ。

T:なるほど。

Y:杉さんは杉さんで、とある曲で、ドラマー以外のメンバー4人が叩いたドラムを1小節ずつくっつけて4小節のバンプを作るっていう企画があって、それを録る為に1人4節ずつくらいドラムを叩いたんです適当に。その4小節を聞いただけで気に入ってくださって、杉さんは(笑)本当に懐の深い人だなぁと思いますけど。その4小節でけっちゃんドラムいいね!って松尾清憲さんに紹介してくださったんですよね。杉さんはあのお人柄なので、ゴメスザヒットマンはわりと無口なメンバーが多いので雰囲気がジワ〜っとしてるんですけど、挨拶以外は喋らないとか(笑)そういう雰囲気なんですけど杉さんのあの明るさですごい盛り上げてくれて楽しいレコーディングでした。

T:それがセカンドアルバム?

Y:そうです。『cobblestone』です。

T:そしてその一ヵ月後のマキシでは村田和人さん?

Y:そうですね。村田さんこのマキシで他の曲のコーラスアレンジもして下さったと思います。

T:村田さんのプロデュースはどうでしたか?

Y:仏様のようですね。今もそうですけど(笑)でも本当に正直に言うと事前に全然存じ上げなかったので。

T:世代が違いますもんね。

Y:初めて村田さんが歌っている、“村田和人”ライブを見たときは衝撃でしたね。ものすごく仏様で和風なイメージだったのが「わっ!ウエストコートだ!」っていう(笑)びっくりしましたね。

T:それが2000年入ってから?

Y:そうですね。

T:さっきお話に出てきた松尾さんについてですが、松尾さんのイメージは最初どんな感じでしたか?

Y:松尾さんも本当に申し訳ないんですけど、最初は存じ上げなくて。当時いた事務所のディレクターから「君すごいね〜松尾清憲だよ〜愛しのロージーだよ!サインもらってきて!」って言われて(笑)ライブのリハーサルに入る前に甲州街道沿いのロイヤルホストかなんかで待ち合わせて打ち合わせ的なことをやったんですけど、まぁ…謎でしたね(笑)

T:謎?(笑)

Y:独特の雰囲気でしょう。歌も独特だし。松尾さんのライブっていうのがバンドから離れた初めての個人のお仕事だったので、全てが初めての体験だったし。

T:ライブはどこでやっていたんですが?

Y:確か渋谷のネストだったと思います。アコースティックセットで、まだカホンを始める前だったからスネアとかでやった記憶がありますけど。

T:ライブ自体は上手くいきましたか?

Y:いやぁ〜どうでしたかね〜(笑) ダメダメでしたから、当時の私は。

T:この年浜崎さんのサポートもやられてますよね?

Y:そうです。これが個人でやる2つ目の仕事でした。当時ゴメスでよく対バンをしていたHARCOっていうアーティストがいて、HARCOのマネージャーさんが浜崎さんのディレクターの方と仲が良くて、多分女性のパーカッショニストを探してるって言う話でいい子いるよって紹介してくださったんですけど。「うっわぁフライングキッズだぁ〜!!」って。

T:浜崎さんはご存知だったんですか?

Y:もうだって、高校生の頃すごいよく聴いてましたから!だからもうびっくりでしたね。それもリハーサル入る前に顔合わせみたいなのがあって「浜崎貴司だぁ〜!」って。その時まだ全然私はポッと出のパーカッショニストだったから「ふ〜ん、けっちゃんって言うんだ〜。けっちゃんはさぁ、何が得意なの?」って言われて。そのときに一番悩んでたとこなんですよそれが。パーカッショニストって一口に言ってもいろんな方向性とかスタイルがあって、例えばコンガに全てをかけている人みたいに何かの楽器に特化しているっていうパターンもあるし、スティーヴエトウさんとか山口ともさんのように、完全にエンターテイメントというか、片や重金属系メタルパーカッショニスト、山口ともさんは何でも自分で作っちゃう人。そういうのに憧れの裏返しみたいなコンプレックスを抱えていた時期で、自分は流れでデビューしてその場その場に応じてがむしゃらにやってきた。自分の中でパーカッションとは何だ?っていう整理も出来てなかったし、その場その場でやってきたから何が得意で何が好きっていうことも分からなかったし混沌としてたんですよね。でもなんかライブでお客さんの前で演奏することが好きで、ライブをやるとパーカッションの子は華があっていいねって言われることがあってそれが嬉しかったし、それしかないのかな〜とか思って、浜崎さんに「けっちゃんなにが得意なの〜?」って言われて「ダンスです!」って言ったんですよ(笑)そしたら「お〜そうなんだ!楽しみにしてるよ〜」って(笑)言ってくれたんですけど。

T:(笑)

Y:でもまだ自信がないしできないこともいっぱいあったから、それを上手く誤魔化しながらやってたのがちゃんとバレてて(笑)全部終わった後に「けっちゃんはまだ殻に閉じこもってる」って言われて、分かる人にはすぐバレるんだな〜と思って。その頃は、とにかく下手くそ下手くそって言われ続けたし売れないのは演奏が下手だからだってずっと言われながらやってたから、今思えば本当よくあの時期に辞めなかったなぁと思うんですけど。まぁ負けず嫌いなんで絶対見返してやるみたいな感じで頑張ってたんだと思います。がむしゃらでしたね、本当に。

T:それで、2001年に入ってBMG最後のマキシシングルが出てますね。

Y:そうですね。これがまた、タイトル曲のプロデューサーが笹路正徳さんだったんです。今までの杉さん、誠さん、村田さんはアーティストじゃないですか。笹路さんが一転して職業プロデューサーでしょ?これまたすごい面白くて、プロの仕事ってこうなんだって言うのをすごい勉強させてもらって本当に面白かったんです、レコーディング自体が。多分あのレコーディングが面白かったって思ってるのバンドで私だけだと思うんですけど(笑)皆には本当に辛い記憶として残ってるんだと思うんですけど、そのぐらい厳しくて。

T:なるほど。

Y:すごい判断が早いし何が駄目で何が良いかっていうのを全部言ってくれるんですよその場で。でも全部怒ってるんです口調が(笑)だからやってる方としては怒られてるって思っちゃうんですけど、私はその判断の早さと今のが何が駄目だったっていうのをはっきり言ってくれるのが面白くて「そっか!」みたいな。隠し事がないっていうか。普通は例えば誰かが向こうでダビングしててこっちで皆で聴いてて、向こうにはこっちの声が聞こえないじゃないですか。で、トークバックで「今のは良かったけどもう一回やってみようか」って言うじゃないですか。でも笹井さんは「チッ、これ下手だね〜!君さ、下手だねっ!!もう一回!」みたいな(笑)

T:(笑)

Y:全部言うんですよね。それがもうおかしくてしょうがなくて。レコーディングするのも誠さんと同じでベーシックと一緒にやらせてもらったんですけど、何をやるって決めないで使いたいものばーって並べて適当にやれって言われて、勢いで適当にやったものをこれよし!これよし!って部分的に採用してくれて、こういうのはこの時の勢いが大事だからって。それも初めての体験ですごい面白かったし。あとダビングの時もウインドチャイムを4小節かけて上がってまた下りるっていうのを録ったんですけど、それに一時間半くらいかかったんですよね。普通だったら数テイクで終わることだと思うんですけど、「駄目!駄目!全然音楽的じゃない!全然駄目下手くそー!!!」って言われながら何度も録って。笹路さんがつかつかやってきて「ちょっと俺にやらせてみろ!代われ!よく聞いてろよ!」って実際やったら「結構難しいなぁ〜!まー頑張って!」って(笑)

T:ははは(笑)

Y:それでなんとか録り終わった後に「ごめんごめん、こういうのは2本並べて録るんだったね」とかいって(笑)そんな感じですごい面白いレコーディングでしたね。この楽器の音がこれに合ってるとかそういう判断もたくさん教えてもらったし。で、楽器を録り終わって歌を録る段階になったら急に「歌っていうのは精神的な部分が大きいから歌い終わってボーカルが戻ってきたら皆で拍手するんだ。すごい良かった!って本人の気分を盛り上げてやれ。」って。なるほど〜!って。さらに歌も録り終わって後はトラックダウンっていう段階になったら急にプレイステーションを持ってきて「遊ぶぞー!」って。本当切り替えが早くて、すごい面白いレコーディングでした。

T:なるほど。他の曲については?

Y:残りの2曲は井上富雄さんプロデュースだったんですけど、これまたそれまでと全然違うアプローチで。富雄さんはバンド出身だからかなと思うんですけど「このバンドはどうしたらいいか」っていう捉え方でプロデュースして下さって。楽曲がどうっていう前にバンドとしてどうっていう考え方で進める人なのかな〜ってやりながら思いましたね。

T:結果、この3曲は?

Y:このシングルは、ゴメスザヒットマンで唯一、オリコンチャートの右端に入った曲ですね。

T:おお〜!

Y:笹路さんのプロデュースしてくださった曲は本当に良く出来てて、すごいメジャー感があるんですよやっぱり。富雄さんがやって下さった2曲も今聴くとバンドっぽい音だなぁと思います。

T:それでBMGは。

Y:ここで契約が切れましたね(笑) せっかくオリコンチャートに入ったのに。

T:何故ですか?

Y:「日本の音楽業界分からん」って思い始めた出発点ですね(笑)BMGの方にもお世話になったのでなんとも言い難いところなんですけど。まぁ売れなかったのがいけないんですけど、普通は「こっからだろう!」って思いますけどね(笑)こっからが踏ん張りどころだったんじゃないのかって。バブルがとっくに崩壊したあとだったしその時の数字が出てないと駄目だったんでしょうね。2年で契約切れましたね〜。

T:そこからライブ活動を?

Y:このBMGとの契約が切れた時っていうのはいろんなことがゴロゴロっと動いた時期で、ドラマーがまず脱退しちゃったんですよ。で、さらに事務所も皆で辞めたんです。本当はまだ契約が残ってたと思うんですけど、いろいろあって事務所も辞めようってことになって。バンドの結束が一番強かった時期ですね。自分たちで動かないと何も始まらないしどうしようかって、BMG時代に事情があってリリース出来なかった曲とかを、ベースの子の自宅スタジオで録音してCD−Rに焼いて1枚1300円とかで売ってっていうのを繰り返しながらバンド資金を得て、自分たちでワンマンライブをやってみたり。ワンマンってこんなに儲かるものだったんだ!ってのを知ったり(笑)あと同世代の仲良いバンドとGAPCツアーってのをやったんですよ。ゴメスとアドバンテージルーシーとプレクトラムとセロファンの頭文字をGAPCでぎゃーぺーせーって言ったんですけど。東名阪、広島とかでやって。この頃はすごい精力的にライブをやってた時期じゃないですかね。ドラマーが脱退して最初の何回かはサポートドラマーお願いしてやってたんですけど、リハも余計にやらなきゃいけないしギャラも払えないので仕方なくと言うかまた流れで私がドラムをやるようになって。

T:なるほど。

Y:最初の頃は酷かったと思いますね〜。

T:ではこの頃からドラマーとして本格的に活動を?

Y:そうですね。この頃までは仕事的にはパーカッションばっかりでしたからね。

T:秋に、元ちとせさんのライブに出ていらっしゃいますが、これはパーカッションとして?

Y:これはパーカッションですね。アコースティックで、パーカッションと間宮工さんのアコギだけっていう編成で。まだデビュー前なんですよ。元ちとせちゃんが。

T:あ、そうなんですか。

Y:でもその次の年の2月に「ワダツミの木」が出るのでじわじわ来てた頃です。最後にやったのがその「ワダツミの木」のインストアライブで、これはもうただのCDショップに1000人くらい集まってましたね。それで結局その後は藤井珠緒さんがやってたのでしばらくやってないですけど。

T:それで翌年2002年にQUATTROレーベルから1枚出してますよね?

Y:そうですね。インディーズで1枚作りました。

T:これはどういうアルバムですか?

Y:これはですねぇ、今までのメジャー感を一掃したものすごく内省的なアルバムですね。本当はこういう音楽がやりたかったって言うリーダーの作家としての思いが凝縮されたアルバムだと思います。だから曲によっては打ち込みでループの曲もありますし、全曲は参加してないんですよ。これは当時のお客さん達を驚かせもしたと思うんですけど評判も良かったと思いますね。

T:この頃はバンド活動と個人的なフリー活動両方やってましたか?

Y:そうですね。個人的な活動がちょっとずつ増えてる頃ですね。

T:杉(真理)さんのライブとか?

Y:そうです。杉さんのライブに初めて参加したのが2002年ですね。これは杉さんの25周年ライブでしたけど川崎のクラブチッタで。なんかね、パーカッションコーナー!みたいなのがあって里村さんと清水さんと私のトリプルパーカッションでちょっとお祭りっぽくっていうコーナーで呼ばれて、あとは最後の何曲かを里村さんとダブルパーカッションで清水さんがドラムでっていう。だから全編参加ではなくゲスト的な扱いでしたけど、杉さんのライブに参加したのはこのときが初めてでしたね。

T:そして2003年ゴメスで4枚目のアルバムが。

Y:これはインディーズから奇跡のメジャー復帰したアルバムで、VAPから出したんですけど。このレコーディングはすごい楽しかった記憶があるな〜なんでだろう(笑)

T:そのアルバム『omni』は、セルフプロデュースだったんですか?

Y:そうですね。ドラムもがっつり叩いてるし。『omni』がやっとかな、自分が参加したものの中で冷静に好きで聴けるっていうか。それまではいろんなコンプレックスを抱えながらここが駄目あそこが駄目って思いながら聴いちゃう感じだったんですけど。

T:これはパーカッションも?

Y:そうですね。両方ですね。曲によってベースの子がドラム叩いたりしてる曲もありますけど。でもドラムの方が多いかな、パーカッションはあんまり重ねてないかも。

T:編成は4人?

Y:そうです。プレクトラムっていうバンドの藤田顕君にギターを弾いてもらって。ほとんどメンバーみたいな感じでライブもレコーディングも沢山参加してもらってましたね。アッキーがいてくれないとどうしようもないみたいな場面が沢山あってすごい感謝してますね。このアルバム好きですね『omni』。

T:この年は他に新たな動きが?

Y:SUIKA結成ですね。これはですね、セロファンって言うバンドが近いところにいてゴメスとしょっちゅう対バンしてたんですけど、それでパーカッションとしてセロファンのサポートをするようになったんですね。ライブも参加してレコーディングもアルバム1枚がっつり参加して、それが2001〜2002年ぐらいだと思うんですけど。そのセロファンで同じくサポートとして参加していた鍵盤のタケウチカズタケっていう人がいて。これがまた面白い人で、キーボードプレイヤーというよりはいろんな企画を立ち上げてお祭りをするのが好きな人で(笑)だからそのセロファンのサポートをしてた当時からカズタケ君がやっているいろんなプロジェクトに「ちょっと手伝ってや〜」って言われて参加したり、いろいろと一緒によく遊んでたんです。で、2003年の夏に新しいプロジェクトでライブをやりたいからちょっと手伝ってくれって言われて、今までの流れの延長線上でやるのかなと思って「いいよいいよやるやる〜」って気軽に始めたら、こんな大変なことになるとは思わなかった、みたいな(笑)カズタケ君はすごいヒップホップの人で、私は全く聴かないんですけど、でもまぁ「ヒップホップゆうてもけっちゃんやったら大丈夫やから」って誘われて。他のメンバーもそれぞれソロで活動している人たちで、最初にどんな人たちなのか知っておきたいなぁと思ってライブを見に行ったんです。夜中に暗いクラブでやってる煙た〜いヒップホップのイベントで(笑)その場にいるのが辛くて「早く帰りたい〜、これ引き受けるの絶対やめよう」って思ってたらメンバーの1人が参加してるユニットがやっと登場して、それがすっごい面白かったんです。なんかその中で完全に異端だったんです。ずば抜けて面白くて「あ、これなら出来るわ」と思って手伝い始め…最初は手伝いの感覚だったんですよね。で、たまたま一番最初にSUIKAのライブをやった場所が銀座のギャラリーでドラムが使えないって言うんで「なんかパーカッションでアプローチして欲しいんだけど」って言われて、あんまり何も考えずにカホン持って行って演ったら、他のメンバーはカホン自体見たことがなくて「なんじゃそりゃー!」って興奮してくれて、そのまま今でもカホーンでやってるっていう(笑)

T:へえ〜!

Y:それまでカホンでヒップホップをやる、っていうかまずヒップホップをバンドでやるっていうっていうのがその当時はまだそんなに多くなかったし、さらにそれをドラムじゃなくてカホンでやるっていうところにアンデンティティがあって。

T:なるほど。

Y:特にゴツゴツしたヒップホップじゃないので、ラップする人たちのやり方が。柔らかくてオーガニックな匂いもあるのでカホンがちょうど良かったんですよね。ドラムより言葉がちゃんと届くし。結構好評になってしまって次々ライブが入って、皆で集まってどんどん曲作って、その次の年にアルバムを作ってリリースしたらフジロックに出ることになって(笑)とんとん拍子でしたね〜。

T:最初のアルバムはどんな感じですか?

Y:そもそもはポエトリー(詩人のイベント)やヒップホップのイベントで皆が出会って、遊んでるうちに一緒に曲を作り始めて、ライブもやり始めてちょっとずつ曲が増えていって、そんな感じで録り溜めていったものがパッケージされたのがファーストアルバムです。何曲かパーカッション重ねたりパーカッションだけでやってる曲もありますけど、ファーストは結構トラックメインですね。渋谷に「Flying Books」って言う古本屋があるんですけど、そこの店主が面白い人で皆その人を介して知り合ったみたいな感じなのでそこが根城になってるんですけど、そこでレコーディングもしたし。夜中にお店が閉まった後に楽器持ち込んで録音したりして。その店主が新しく立ち上げたレーベルから出してるんですけど。ジャケットも知人が作ってくれて中のイラストも友達が描いてくれて素敵なんです。

T:単なるCDというよりも、よりアート的に?

Y:そうです、読み物でもあり。パッケージも全部、夜中に集まって手作業で自分たちでやったりして。CDと本とを別々に作ったりして。CDを入れる封筒を作ってくれるところとかいろいろ調べて。

T:では、そこの本屋さんでも発売中ですか?

Y:そうです。今でもそうです。そこでリリースパーティをしたりミーティングもレコーディングもそこでやってるし。

T:メンバーの方々は?

Y:リーダーはさっき言ったタケウチカズタケ君で、キーボードプレーヤーというよりはトラックメーカーですね。プロデューサータイプというかその人がいないと何も始まらない感じで。ラッパーが二人いて、一人はウッドベースを弾きながらラップをするタカツキ君。ソロアルバムをもう3枚くらい出してて、ヒップホップを知らない人にもちゃんと届くアプローチをしてて、言葉の中身とかも面白くて。もう一人はATOM君って言って、もうこれは天然のラッパーなんですけど(笑)すごく勢いのある人で、タカツキ君とは結構性格の違うラップをするのですごい面白くて。あともう一人が女の子で元々詩を描く人で、この人がまたすごい声を持っててなんか全てを包み込んでしまうような。いろんな朗読の仕事とかもしてるし作詞家として歌詞提供もして、今や3児の母です。私は全然ヒップホップを聴かないし、ヒップホップの世界で名前を挙げてやろうとか言う気はまったくないんですけど、メンバーがとにかく面白いんですよね。何が起こるかわからなくて面白くて続けてるんです。やっぱりたまに辛い場面もありますけど(笑)ヒップホップのイベントだと「居場所がないなー」みたいな。

T:なるほど。

Y:なんかね、文化がすごく違うんですよね。

T:SUIKAっていう名前は?

Y:名前がまたいい加減なんですけど、知り合った当時Flying Booksで皆でよく遊んでて、その建物には屋上があるんですよ。で、夏だったからその屋上でスイカを食べながら渋谷の街に種を飛ばすっていう遊びを夜な夜なやってて、それで「スイカクルーの皆さんへ」っていう件名のメールが回されることが多くてそのままバンド名がスイカになった…らしいです(笑)

T:らしいですか(笑)

Y:私が加わった時にはもう名前は決まっていたので。今でも夏は種飛ばしてますよ(笑)

T:なるほど。フジロックと、あと自主企画イベントのスイカ夜話については?

Y:SUIKAっていうバンドは、言葉をすごく大事にしてて言葉の部分と音楽的な部分をきちんと両立させたくて、「スイカ夜話」っていう自主企画イベントは、SUIKAと、言葉を武器にしているアーティストと、音楽的な部分で繋がりのあるアーティストと、っていう3組を組み合わせてイベントをやろうよっていうことになって始まったんです。一番最初は渋谷のSPUMAって言う小さいカフェで始めて出演者の方が多いんじゃないかって言うくらいお客さんが少なかったんですけど、2回目からは渋谷の、今は場所が変わってるんですけど「gabowl」っていう所で。

T:ああ〜。

Y:知ってます?そこの雰囲気がすごい好きで。2回目からは「gabowl」で7〜8回、最初の頃は2ヶ月に1回やっていました。最終的にはそこに入りきらないくらいお客さんが来てくれるイベントに成長したので、gabowlが閉鎖しちゃうこともあって青山の月見ル君想フの方に場所を移して今はもう13〜4回くらいやってますね。

T:年に数回くらいですか?

Y:そうですね。当時は2ヶ月に1回やってたんですけど間にポエトリーの子の産休が2回挟まって(笑)

T:あ、なるほど。

Y:それからペースダウンして、さすがに2ヶ月に一回って言うのはすごい大変だったから…。次にやる夜話の前にはその次の次にやる夜話の事考えてっていう。ゲストを誰呼ぶか考えたりとか、もうスイカ夜話にずっと追われてる感じでしたね。フライヤーもちゃんと作って。来てくれた人全員に缶バッジを配るとか、前売りを買ってくれた人にそこでしか手に入らないリミックスCD−Rをプレゼントとか、いろんな太っ腹企画を今でもやってるんですけど。だからとにかく準備が大変で(笑)でもやってるうちに段々、お客さんがどんどん増えてくれて。今は回によってバラつきはあるんですけど多いときは200人とか入るようになって。次は12月にあるんですけど。

T:普通のバンドの集まりじゃない良い雰囲気がありますよね。

Y:そうですね。それぞれがソロでもアルバムを作ったりパフォーマンスの出来る人たちの集まりなので。1+1は5じゃなくてもう100くらいの感じになりますよね。

T:その頃にはもうサポートの仕事も結構ありますよね?

Y:サポートはすごいいろいろやってますね〜。

T:それまでにどんな人たちのサポートを?


Y:2003年くらいから加藤千晶さんっていうアーティストのサポートを始めて、今でも5年くらいずっとやらしてもらってるんですけど。加藤さんのサポートを始めてからすごいまた音楽の幅が広がって、加藤さんの場所でなきゃ生かせない自分の部分ってあるんですよ。だから加藤さんとの出会いは大きいですね。あとはその頃だと、オセロケッツの森山公一君とかインザスープの中尾諭介君とか、ダイヤモンドユカイさん、はやしいとちゃん、高田志麻ちゃんとか。志麻ちゃんのバンドで知り合ったキーボードの五十嵐さんに誘われてMichelleっていう女の子のサポートもしばらくしてましたね。Michelleは楽しかったな〜。

T:どんな感じだったんですか?

Y:ギターのテラシィイさんとMichelleと3人で葛飾で飲んだり、山登りに行ったりとかして。あとは有里知花ちゃんですね。有里知花ちゃんは結構長いことサポートしたなぁ。元々はヒックスビルの中森さんの紹介だったんですけど、そこで黒澤秀樹さんと知り合ってるんです。黒澤さんが当時知花ちゃんのプロデュースしてて。その時知花ちゃんバンドのバンマスだった奥沢明雄さんと何年か経って今また一緒に別のバンドやってたりしてるし、その時の繋がりも大きいですね。

T:なるほど。で、この辺でパート2、終了ですね。

Y:あー、また、やっちゃいましたね。(笑)

T:(笑) はい。PART3もよろしくです!

PART2 END>>>  PART1に戻ル>>>

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高橋結子さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルサイトにて

また、高橋結子さんも参加決定の「moment Christmas Session 2008」はコチラ(映像メッセージ配信中です)