村田和人 ロングインタビュー (PART3)

 約13年ぶりのニューアルバム「NOW RECORDING+」をリリースした、村田和人さんへのロングインタビュー。 そのPART3。

(2008年10月27日/都内某所にて/インタビュアー:TERA@moment)





 村田和人(KAZUHITO MURATA)
 ロングインタビュー(PART3)

  Talk&Interview #71
 
  


    
 村田和人 ロングインタビュー (PART3)


『NOW RECORDING』として出したものをデジタル・リマスターして出し直すという形なので。リマスターするとは言え、結局元の音源は同じものを使うので、そこで折角メジャーでリリースするんだったら、ユニバーサルのスタジオでリマスターをして、じゃあその際にボーナス・トラックを足そうかっていうことになって、それで「+」が付いたんです。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。

村田和人(以下:M):よろしくお願いします。

T:パート3です。東芝EMIを移籍する辺りから、その後の1990年代のお話をお願いします。

M:なんで東芝EMIから移籍したんでしょうかねぇ。元々最初に所属したムーン・レコードっていうレコード会社が、業界のレコード会社のスタイルとはかなり違ったんですけど。そこがデビューした会社だったんで、サラリーマン的じゃないものだと思っていたんですね、音楽業界って。そうしたら段々とムーン・レコードもサラリーマン化し始めて、何か違ってきたんで、じゃあ移籍しようって思って東芝EMIに移籍して3年いたら「あれ?やっぱりサラリーマンなのかな?」って。ディレクターも制作の人も。「アルバムってこういう風に商業的に作られていくのかな」って、音楽も含めて。アルバムの作り方もまっすぐだった村田が、こっち行って右行って左行って、今度は後ろ行ってみたいな、3方向に飛び散ったアルバムを3枚作ったものですから、自分の中でもちょっと小休止したい感じもあって東芝を辞めちゃったんですよ。

T:なるほど。

M:何のあてもなく目的もなく辞めて。とりあえずは杉真理君とアロハ・ブラザースというユニットの話が出てそれもやって、村田と斎藤誠君が中心になって楽曲を書いてアレンジして、アルバムを作るっていう意図でやった21(TWENTY-ONE)っていうユニットもやって。その他に杉山清貴君とIN & OUTっていうバンドも結成して。杉山君とは昔から知ってる間柄なので会って話した時に、アルバムで自分の楽曲として発表しない曲…例えば村田だったら割と夏的な、爽やかなすっきりした曲。中でもオリジナルの中にはちょっとブルース色のあるスリー・コードで出来ている曲とかファンクな曲とか、そういう楽曲をやらない?って話をしたんです。だから自分のアルバムでは発表できない曲をこのIN & OUTで発表していこうよって。CDにはしないオリジナル曲を作ろうっていうことで。

T:ライブ中心で?

M:そうです。だから最初はお互いの曲を少しずつ持ち寄って自分たちのオリジナルの曲もやってたんですけど、2〜3ヶ月したらKUWATA BANDのギターだった河内淳一君と3人が中心になって曲もオリジナルをいっぱい書いて。ライヴでは3年くらい活動していました。

T:何故音源はリリースしなかったんですか?

M:あくまでもアマチュア的スタンスでいこうっていうことで。杉山清貴君もその当時デビューして10年ぐらいで、その頃って色々と疲れてくるじゃないですか。作品を作って発表していくのに、この曲は前の作品の流れとか延長線を考えながら作ったりとか、この曲はどういう曲なんですか?っていうのに一応理論的な音楽のジャンルとか背景をいろいろ考えたりするんですよ。そういう作業がすごく面倒くさくなっていたんでしょうね。何にも言わずに自分たちのやりたい音楽を、自分たちのやりたいようにアレンジしてどんなエクスキューズもいらないバンドをやりたいね、っていうので結成したバンドだったんですよ。なので全然アルバムにすることは考えてなかったですね。

T:なるほど。3年間の活動後はもうやってないんですか?

M:3年くらい活動した時に村田がちょうどビクターでアルバムを制作し始めたんで。


T:ビクターに辿り着くまでの経緯は?

M:ある人が元ビクターのディレクターを紹介してくれて、その人はフリーだったんですけど「村田さん、今フリーだったら、僕は元ビクターなんでビクターと話してきていいですか?」ってその人が話を進めてくれたんです。それでOKが出たんで作りましょうかっていうことになって。


T:3年ぶりのアルバム制作はどうでしたか?

M:その3年間の活動で煩わしい音楽の理論を語ることもなくアマチュア的に楽しいことだけを追い求めて作っていた時に、一緒にいっぱい出来上がった曲たちが既にあって。だから曲的にはピック・アップするのに困らなかったんです。作り方も変わってきて、ちょうどMacで作ろうっていうことになって、いきなりスタジオ入って、さあリズム・トラックを1週間で録って、ダビングを1週間でやって、歌入れを1週間でやって、っていういつものてきぱきした作業じゃなくて、ビクターでのアルバムは足元をしっかりと確かめながら最初は作りたいなっていうので。昔、村田バンドでベースを弾いていた山内薫君がMacを使えるって言うから、じゃあ彼のところで1ヶ月くらいプリプロをやろうっていうことになって、毎日行っては「この曲のアレンジだけど、コードはここが違う」「そうじゃなくて、こうやって」「音はこういう感じで」なんていうのを1ヶ月くらいかけてやりました。プリプロをやって、そこで作ったものを今度はちゃんとしたスタジオに持ち込んでマニピュレーターに音をどんどん作ってもらってアルバムを作ったんですけど、コンピューターを使って音楽を構築していくっていうのがこの時に初めてで、スタジオでは最初は「全然分からない」って感じで見ていたんですよ。マニピュレーターやキーボードがパチパチパチパチって打ち込んで「はい波線一本ずらしました」ってやってるのを「ん〜音楽じゃないなぁ…」って思いながら見ていたんで(笑)。でもそのベーシストと一緒に作ったMacのソフトはまるでテレコで、いわゆるMTRと同じ感覚で自分でやったことをそのままパソコンに記録するだけのことかっていうのが分かったんで、自分でもできるなってその時に思ったんです。それが92年ぐらいですかね。その時に村田もMacを買って、その後Macでデモとかは作るようになったんですよね。

T:ではアルバムの曲は3年前の感じとは違いますか?

M:そうですね。全然違うというか、迷いがなかったですね。どういう風に進もうか?って東芝の時代は世間の流れの中にあるジャンルで決め込んで「次のアルバムはこっち」って方向を決めていたものを、こっちとかどっちじゃなくて自分のやりたいものを自分のやりたいアレンジでやりたいスタイルで音にしてこうって。だから自分の気持ちが向いてる方向で作ったアルバムですね。

T:自由な?

M:そうですね。より村田らしいっていうか。そういう意味で言うと初めて完全な自分のプロデュース。意識とか自分の音楽とかを含めてちゃんとコントロール出来たアルバムだったと思います。


T:タイトルは3年ぶりということで。

M:そうですね…『HELLO AGAIN』。でもタイトルはもう安藤(芳彦)君が作ってきた「HELLO AGAIN」というタイトルの詞があったんで、もうこれでしょう!って。『Boy's Life』の時と全く同じですね。安藤君が作ってきたのが「Boy's Life」で、これでしょ!っていうのと同じように、安藤君が「HELLO AGAIN」を書き上げてきて「これだね、アルバム・タイトルは」って。

T:続く10枚目『evergreen』については?

M:『evergreen』は前の『HELLO AGAIN』がかなり打ち込み的な形で出来ていたので、そのままのやり方で今度はバンドに置き換えよう、っていうやり方ですね。だから村田バンドを使ってレコーディングをしたアルバムです。曲によっては岡沢(章)さんとか渡嘉敷(祐一)さんとかその辺の人たちにも来てもらったりしたんですけど、ほとんどが自分のバンドのメンバーを使って完成したアルバム。だからライブ感が強いアルバムになっていると思います。アレンジやプロデュースも 、もちろん自分でやっているんでまさに『HELLO AGAIN』の延長線っていうか。ここら辺の時には迷い自体はない状態になってましたね。

T:10枚目ということについては何か意気込みがありましたか?

M:枚数的なことについては全然考えていなかったですね。ただ、やっと自分のやり方を見つけたっていうか、自分で自分の良し悪しを決められるっていうか。誰かに聞くことなく、歌入れにしてもアレンジにしても今の歌がこれがいいものなのか悪いものなのかっていうのを自分で判断できるようになって。このテイクは良かったんじゃないかって思うと大体向こうで聞いていたディレクターも「今のテイク良かったですよ!」「だよね〜!」みたいな感じで一致するようになったっていうのが、ちょうどその頃ですかね。しかし喉の調子が悪くて、高い声がかすれ始めた時期でした。でも音楽的には迷いはなく、曲的にも迷いはなく。アメリカの音楽を自分のオリジナルと融合させた形のアルバムです。

T:なるほど。喉の調子ですが、何か原因はあったんですか?

M:元々東芝にいた80年代後半からポリープの小さい物が出来ていたんですよ。それで医者に行って「ペンダコぐらいのが出っ張ってきてるけど、まだ小さいから大きくなったら切りましょうね」なんて言われて。それからビクターに移籍して2年目ぐらいからラジオの仕事が多くなって、それがテンションが高いんで、やっているうちにちょっとずつ喉の調子が悪くなっていって。その後FMの仕事がもっと増えて、神戸だけだったのが京都と福岡で週3本になったんですよ。それで必然的にテンションもわーっと上げてわずか半年で大人のポリープが完成したんですよ。阪神淡路大震災があった頃で、大震災を境に神戸のラジオ番組が終わったので覚えているんですよ。置き土産でポリープが大人になったみたいな。それでポリープを切ってしばらく歌えない時期が。


T:切ってどのくらい歌えないものなんですか?

M:時間がなかったんで…。本当はちゃんと3ヶ月くらいのリハビリをやって元の声に戻してから歌っても良かったんですけどね。ちょうどビクターのレコーディングの時期だったのでオケまで全部作って、(ポリープは)5月ぐらいに切ったんですけど。本当はその5月に歌入れをして6月〜7月辺りにアルバムを発売する予定だったんです。でも7月の終わりか8月になってから歌を録音し始めちゃったんで、2ヶ月くらい延期ですね。だからビクターでの3枚目の『sweet vibration』は楽曲的には納得がいく形でアレンジも全部完成していたんですけど、歌が、自分の声がコントロールしきれていない状態で…。

T:『sweet vibration』はどんな内容ですか?

M:これはまた、自分のバンドじゃなくて違うミュージシャンを呼んでレコーディングしているんです。違うミュージシャンを呼んできてやると、そのミュージシャンが自分が想像しなかったものをいっぱい出してくれるっていうのを感じたんで。このアルバムは割と村田バンドをちょっと離れて、例えばギターはいつもずっと山本圭右君がやっていたんですけど、この時は佐橋(佳幸)君が全部付き合ってくれて作ったりとか、ドラムとベースは曲によって岡沢さんとか渡嘉敷さんに来てもらったりして。なんていうか、上手いんですよね。村田バンドのことは付き合いも長いんでメンバーがどういうプレーをするか大体予想して、でもまた佐野予想よりも上には行くんですけど、他のミュージシャンを呼ぶとまた違うところから村田を喜ばせてくれるようなプレーが出てくるから、そういうのが本来の音楽の作り方としてはいいですよね。自分で良し悪しを決定していくっていうのがすごく楽しかったですね。


T:タイトルはどうやって決めたんですか?

M:その頃は精神世界的なものに村田がハマっていた頃で。「愛はどこにあるんだろう」とか「どうして生まれてきたんだろう」とか、そういうのを考え始めた時期だったんですよね。"vibration"だから人間と人間の波長的なものを表していて、誰かに惹かれるとか何かに惹かれるにはその人や物が持ってる"vibration"を感じているんじゃないかなっていうんで、『sweet vibration』になりました。聴く人にとって村田の曲とか声が"sweet vibration"になってくれるといいな、っていうつもりで付けたタイトルですね。


T:でもこの年に他のバンドでも活動してますよね?

M:Jean & Gingersね。これは京都のFM番組で違う曜日を担当していた吉川みきちゃんっていう女の子と2人での震災のチャリティー・ライヴをFM局が催すことになって、「じゃあ、みきちゃんと一緒にバンドやりましょう」ってなった時に「僕たちの名前何かないですか?」って言ったらそのFM番組に投書があったんです。「やっぱり京都で出来たバンドやし」っていうことで「寺院と神社でしょ」ってファンから投書があって(笑)。

T:ははは(笑)。

M:寺院をJean、神社はGingersでって。そうしたら「いいんじゃない?! みきちゃん、Jean & Gingersでいこうよ!っていうことで、村田バンドの山本圭右と小板橋博司を入れて、男3人のコーラス隊とみきちゃんのヴォーカルって言う組み合わせで。コーラスをちゃんと3パートで作って、その上でみきちゃんに歌ってもらうっていう形のグループを作ったんです。それもまた音楽的には変わったやり方で刺激的でした。アルバムも1枚作ってツアーもやって。

T:結構いろんなところを回ったんですか?

M:そうですね、東名阪は2回くらいやったと思うんですけど。その後みきちゃんは自分の活動に行っちゃったんで、結果的に活動が終わって、それから10年ぐらいやっていないんですけどね。

T:それが98年ぐらい?

M:はい。

T:で、翌99年に安部泰宏(当時の表記。現在は安部恭弘)さんや(鈴木)雄大さんと?

M:"A,M,S&I"ですね。安部の"A"と村田の"M"と鈴木雄大の"S"と伊豆田洋之の"I"で"A,M,S&I"っていう4人組を作って。


T:これはきっかけは何だったんですか?

M:安部君だったと思います。安部君が言い出して「やらない?」みたいな話がいきなり来て「あ、やろうか〜」みたいな感じで始まったんですよね。安部君がポリスターの人と最初に話を決めたんだと思うんですよ。そこら辺の経緯は全然知らないんですけど「僕と雄大君と村田と伊豆ちゃんを集めて4人でどう?」なんていう話を安部君がプレゼンして、それでポリスターから出ることになったんだと思うんです。でも実は村田はあまり……やる気が沸かなかったっていうか(笑)。


T:え?(笑)。

M:言っちゃっていいんでしょうか?

T:(笑)ええ。

M:最初にスタジオに入って、何をやるかも決めてないまま「何やろうか?」って言いながら、レッド・ツェッペリンの「LIVING LOVING MAID(She's Just A Woman)」っていう曲を「こんなのアコギでやったらどうかな〜?」なんて言って皆でガーッと合わせてやって1曲それを録って。「この4人で一体何が出来るかな?」って。90年代の初めに杉真理君とやったユニット(アロハ・ブラザース)とか(斎藤)誠君と2人でやったユニット(TWENTY-ONE)とか杉山君とやったユニット(IN & OUT)とかと比べると、その時は何か違う感じでね。例えばその昔の作られたバンドってあったじゃないですか。ビートルズに対抗してモンキーズが出来たっていう。それみたいな感じだったんですよ。"A,M,S&I"って。

T:なるほど。

M:何故かって言うと、90年代の最初にやったものは「自分らしく」っていう、お客さんよりもまず自分たちがやりたいものを見つけていくスタイルだったんですよね、杉君にしても杉山君にしても。「お客さんありき」じゃなくて「まず自分たちがやりたいものありき」で曲とか出し合っていこうっていう感じだったんですけど、この時は安部君の作品の延長線上から来るものだったんですよ。安部君のスタイルから外れたところからじゃなくて、彼の中心部から出てくるものだったんですね、その"A,M,S&I"の曲が。そう考えると、安部君の曲を違う人がバッキングしてるグループなのかなって感じて。最初のレコーディング段階で皆の楽曲が出た時に「あれ〜?」みたいな。これってまとまってアルバムになった時にもう完成系が見えちゃうじゃないですか。それで急にやる気が落ちちゃったんです。すいません!

T:なるほど(笑)。ライヴは?

M:やりました!これも東名阪でツアーを2回ぐらいやっていると思います。5〜6本ずつのツアーをやって、次の年か時期をおいてまたツアーをやったんですけど、その時に赤坂グラフィティっていうところでライヴをやった時に、機材を持ち込んでライヴ録音したんですよ、"A,M,S&I"の。「ライヴ・レコーディングするの?」なんて言っていたらその後に「"A,M,S&I"のこの前に録ったものをCDとして出したい」っていう話が出て来たんです。ライヴ・ヴァージョン+新録を何曲か入れて、"A,M,S&I"の2ndアルバムとして出したいんだけど、って話が来て。それが来たんで「それなら俺、抜けるから」っていきなり安部(恭弘)君にメールして、抜けてしまったんですね。

T:じゃあ、幻のライヴ・アルバムなんですね。

M:そうなんです。基本的にライヴ・アルバムは出したくないんです。

T:その時のテイクが良くなかったというわけではなく?

M:違います。どんないいライヴのアルバムでも、個人的にはあまり聴く気がしないんです、自分の中では。山下達郎さんにしてもビートルズにしてもローリング・ストーンズにしても、ライヴ・アルバムはやっぱりライヴであって、スタジオ録音のCDとかアルバムのクオリティとは別物だっていつも思っていたんです。

T:なるほど。

M:最初はいいんです。「へぇ、こうやってライヴで演奏してるのか」って。でも続けて聴く気にはならないです。


T:それは今でも変わってないですか?

M:今も変わってないです。だからライヴ・アルバムだけは絶対に出さないと思います。まあボーナス・トラックとしてちょっと入れるとか、そういうのは別ですけどね。あくまでも単体のアルバムとしてはね。


T:なるほど。ではそれを踏まえて。2000年に入って「ピュアミュージック」が始まりますよね。この経緯は?

M:これはクラブチッタが主導で始まったんです。村田と杉(真理)君と伊豆ちゃん(伊豆田洋之)、この3人は元々知り合いで、あと山本英美君をステージをやっている事務所の人が紹介してくれて、このシンガー・ソングライター4人でやろうということで。まぁ"A,M,S&I"と括りは同じ感じのスタートだったんですけど、この4人で何が出来るかをちょっとやってみませんか?みたいな試みだったんです。で、その4人で集まって話をした時にやっぱり"A,M,S&I"の事があったんで、最初に村田が「そういう形は嫌だから!」って話をしたんですよね(笑)。そうしたら杉君も「そうだよね!」って。じゃあベースとかドラムとか他のミュージシャンに頼んでバックをつけるより、僕たちだけで演奏とかアレンジをして、オリジナルは作らないにしても僕たちにしか出来ないカヴァー曲っていうのを集めてきて、売り物は皆コーラスが上手いから、コーラス・グループでありお互いのオリジナル曲をコーラスをちゃんと漏らさずにやるグループにしない?なんていう話になって。「あ、いいねーそれ!」って半年に1回やることになったんです。最初は1回だけだと思ってたんですけど、半年経ったらクラブチッタから「またいかがですか?」って話が来て、いつしか「ライヴの売りとして楽しい感じも出そうよ」「じゃあ夏なんでビアホールの雰囲気を出そうか!」って、ビアホールのちょうちんとか、セットとかイスがあってチッタの会場には模擬店とか焼き鳥屋さんも有りとか、お好み焼き屋さんも有りとか、そういう趣向でやったりして(笑)。「楽しかったね〜」なんて言っていたらまた冬にもやって、半年に1回のペースになってきて。冬は「じゃあ、お座敷作ろう!」ってステージ上にお座敷作ってそこで「やっぱ冬だから鍋かなー!」なんて言いながら本当に鍋を入れてグツグツさせながら前半10曲ぐらいが終わって、「ちょっとくつろいじゃおうかなー」って、皆で本当にお座敷に行って鍋をつつきながらそこで最近の出来事を「あーだったんだ、こーだったんだ、アレだよねー」っていうのをお客さんに全部見せちゃうっていうやり方で。「あ、誰か来た」って言うと向こうから安部(恭弘)君が「いやーなんか、宴会やってるっていうんで来ちゃった」とか言いながら、輪に入ってお座敷囲んで「安部君、今何やってんの?」なんて話をしながら「じゃあ1曲聴かせてもらっちゃおうかな?」って言って他のメンバーは座敷にいるんだけど、安部(恭弘)君だけはピアノのところに行って弾き語りをやるみたいな(笑)。そういうやり方で、割とゆるいライヴをやろうっていう試みでしたねぇ。楽しかったです。

T: 今でも続いてますね?

M:そうです。今もまだゆるいまんま続いてますね(笑)。さすがに今はもう鍋物とかはやらなくなって、最近誰も食べないのが分かったんで。出てるものを村田しか食べないんですよ。ピザの宅配とか取ったことがあって、本当にピザのデリバリーの人が「あそこに行ってください」ってステージに出てきちゃうっていうやり方で(笑)。でも来たピザは口つけるのは村田だけなんで、他の人は食べないんですよね。ライヴ中とか歌う時は。で、お客さんに配ったりして。なんで最近はあんまり食べないライヴになっちゃいましたけどね。

T:そしてこの辺からわりとライヴ中心の活動に?

M:実は2000年から2005年くらいまでライヴが少なく…。


T:それは何か理由があったんですか?

M:1999年くらいから音楽学校の先生やってみない?って言われて尚美学園っていう学校に行ったんですよ。それでプロミュージシャン学科っていう学科なんですけど、プロミュージシャンを目指して来ている生徒を2年間担当するんですけど、もう最初の4月に「じゃあ、とりあえず歌を聴かせてもらっちゃおうかなー」って歌を聴いた途端にぶっ飛んでしまってね。「こいつら本当にプロになれるのかしら…?」って(笑)。

T:ははは(笑)。

M:「うそーっ!!!」みたいな!「なんでこいつらが、プロミュージシャン学科に来るんだろう」って思うぐらいのグレードの生徒たちで信じられない!みたいな。カラオケでもDランクぐらいのヴォーカル力だったんですよ。


T:なるほど。

M:「どうやったらこいつらをプロに出来るんだろう」ってすごく真剣に考えて、5月から「ちょっとこれ出来る?これやってごらん!」って1つずつ教えていって。で、1つ教えるとその曲とかその歌は上手くなるんですよ。「あ、上手くなった!オッケー、オッケー!」「上手くなるんだ〜、教えると…ということは、こういうこと出来る?」ってまた違うことを教えるじゃないですか。「こういうことを意識しながら歌ってみて?」っていうと「あ、また上手くなった〜、面白いな〜!」って。それから人にどうやってどういうことを教えると、どういう風にヴォーカリストとかシンガー・ソングライターへと変わっていくのかっていうのが分かりました。まるでずっと実験が楽しい先生みたいな「この溶液を加えるとどんなにおいがするんだろう!」みたいな。


T:ああ、なるほど。

M:もう手当たり次第自分が持っている化学物質をパラパラパラパラ生徒にふりかけているうちに、生徒に教えるのが楽しくなっちゃって。そうしたらまた違う学校の関係者が「村田さん、あの学校で教えていらっしゃいますよね?」って言うんで「はい、やってるんですよ〜。楽しいんですよ〜!」って言ったら「うちも実はそういう学科を作りたいんで」ってまた違う学校でも教えるようになって、そのうちに、ウィーク・デイは全部サラリーマンのように先生の仕事になっちゃって。で、今度は3〜4年経つうちに自分が2年間教えた生徒が卒業するじゃないですか。卒業してその子たちは1人立ちして活動を始めるんですけど、そうすると半年とか1年くらい経った生徒からまた連絡が入って「実はいろいろあってまた煮詰まっています。個人レッスンいいですか?」っていう話になって、個人レッスンも始めて。そのうちに生徒も増えちゃって。

T:歌わせる以外にどういう風な指導をしたんですか?

M:シンガー・ソングライター志望が多いので、曲をどうやって作るかっていうのをすごく教えたりしますね。曲が出来るようになるとヴォーカルのアドリブとかフェイクなんかも強くなるので、例えば5人ぐらい生徒がいて村田が循環のコードをいきなりばっと弾いて「さぁこれで皆はどんなAメロ作るかな!」って言いながら、いきなりマイク渡して。するともうマイク渡された生徒はしょうがないから8小節なら8小節のAメロを作るんですよ、その場で。それがだんだん慣れてくると、今度は自分でいいフレーズが生まれてくる時があることを発見するんですよ。そういうのを1つずつ育てていくんです。で、誰かが良いフレーズを出した時には、その場で演奏を止めて「イエ〜イ!!!」って。「今のすっごい良かったでしょ?!」って言うと周りの4人も「今のすっごい良かったよ!」って、1つそれが出たらそこからは芋づる式っていうか。皆もそれを目指して、そこから姿勢ががらっと変わって一段レベルが上がっていくんです。自分もそういうフレーズを出したいって意識に変わるんです。

T:へぇ〜。

M:それまではとりあえず無難なフレーズを作ろうって考えているのが、無難じゃなくて自分らしいかっこいいフレーズを作ろうっていう風に変わってくると、ミュージシャンが育っていくっていうか、良いシンガー・ソングライターが育っていく土壌になるんです。で、今度はライヴハウスで活動を始めると、最初はバンドでやっていたのが、バンドが解散しちゃってとか、活動が停滞するんで、そうしたら「バンドなんかあてにしていたら、ライヴなんかいつまで経っても出来ないから!お前にギターを教えるから、ギター1本で弾き語りになれ!」って今度は村田が今自分でやっている感じの弾き語りのレッスンに入っていったりして。基本的には個人レッスンなんですけど、夏休みとか何人か友達が集まる時なんかはアドリブ大会を6時間かけて10人ぐらいの生徒でやったりするとすっごい刺激的なんですよね。村田も思いつかないようなメロディとかフレーズをその場で生み出す若い生徒とかもいたりするんですよね。そういうのを見ると「まだすっごい才能っていろんな所に眠ってるのね」って思って、夏休みになるとそういう大会みたいなものやったりしています。もちろん今でもまだ学校でも教えています。ただし自分のライヴ用の時間を作って、一時期よりは大分先生の仕事は減らしましたけどね。

T:なるほど。ではそろそろ『NOW RECORDING+』のお話を?

M:もう7〜8年くらい前だと思うんですけど、先生をやっている時に、17〜8歳の頃の自分の作曲モチーフだとか、バンドの演奏テープなどの入ったカセット音源がゴミ袋に5つくらい入った状態で押入れにずっとあって、これをいい加減なんとかしないと劣化しちゃって聴けなくなるんじゃないか、って思ってオーディオ・インターフェイスを使ってデジタル化を始めたんです。それで昔の曲を自分のパソコンに取り込んでいるうちに、デビュー曲の「電話しても」と同じ頃に作った他の作品がいっぱいあって「あれ?これって発表してないけど…これ、いいな」って感じたんですよね。デビュー当時にはバンドではライヴで演奏したり、デビューする時のアルバムの候補曲には挙がっていたんですけど、17〜8とか20歳くらいの時に書いたこの辺の曲は、やっぱり(当時の)今の自分が書ける曲を優先してっていう形にすると、古い10年ぐらい前の曲っていうのはどうしてもアルバムの選からは漏れていって、結局は発表されないままだったんですね。そういうのを7〜8年くらい前からデジタル化する時に、「今の村田がこのメロディを作れるかって言ったら、作れないな」って思ったんですよね。例えば「このフレーズがあったら、ここからもっとこういう風に持っていきたい」って思って、今だったら手馴れた作業でさらに進めてしまうと思うんですけど、昔のテープを聴いた時に「ここで止まっているメロディが、逆に美しい」って感じたんですよ。若いけど輝いているっていうか。それで「いつかこれを、今の自分がプロデュースする形でアルバム1枚にまとめてみよう」って思いました。5年ぐらい前からですかね、昔の曲をもう一度持ち出して、自宅でこつこつアレンジして、ベースを入れたりギターを入れたりして作っていたんですよね。

T:なるほど。

M:家での作業ですから自由に出来るので、聴くとそこで納得しなくて「あれ…これどういう風にやったっけ?ギターはもう1回録り直しちゃおうかな」なんて言いながら今度はベースを録り直して、さらにリズムを入れ直したりして、ずっと入れ替えていたらいつの間にか5年が経っていて、全然アレンジが完成していなかった。それが去年の暮れくらいですかね。その頃、2008年の4月に村田バンドのメンバーを久しぶりに集めて東名阪でツアーやろうっていう事になって、そこでライヴのプロモーションをしたい!ってことになったんです。やっぱり久し振りのバンド・ツアーなので、いっぱいお客さん来て欲しいんで。村田がまたバンドでツアーやるって言ったら、昔のお客さんも絶対に来てくれるはず。そこで大阪とか名古屋の知人に「番組とか雑誌関係で知ってる人を紹介して?」って話をしたら「村田さん、お土産無しで番組出してくれるようなところはありません」って。「そうか、そうだよね〜。久しぶりに来ちゃった〜!じゃ番組出してくれないよね〜!」って。それで(その知人に)「プロモーション・プランを用意するから、その代わりに何かお土産になるような新しい音源とか新しい曲を2月ぐらいまでに用意してよ」って言われて「それなら絶対にプロモーションをやりたいんで、2月までにはなんとかアルバムを作るよ」って言って、クリスマスからお正月を越えて約3週間くらい自宅でレコーディングして、アルバム1枚を完成させたんです。

T:ほ〜。

M:7〜8年前に自分の昔のデビュー前の楽曲を掘り起こしていた時に見つけた曲を全部ピックアップして、今回のアルバムはこれをベースに作ろうって。その後に作ったここ10年ぐらいの間の未発表曲も色々あるんですけど、敢えてそれはここには入れないで、これだけでまとめてアルバムにしようっていうことで。音は2月中に全部完成して、3月には工場に出して、4月の村田バンドのツアーに合わせて『NOW RECORDING』として手売りしよー!みたいな。昔の村田のアルバムを知っている人たちの中には、その話を聞いて「ディストリビューションだけだったら出来ると思うから、その時は必要だったら言って」っていう話もあったんですけど「ディストリビューションだけじゃダメッ!」みたいなことを言って(笑)。


T:(笑)。

M:「ディストリビューションだけじゃダメッ!プロモーションもしてくれなくちゃ」って。レコード屋さんに折角CDが置いてあっても、そこにあるのを皆が知ってくれなかったら無駄だから、だったら最初は手売りだけで、っていうことで。だから村田バンドの最初のライヴの時にバッと売って、あとは自分1人でツアーして色々なところを回って、ライヴ会場で『NOW RECORDING』を売り始めました。それで何年か経って全部売れちゃえばいいかなって思ってたんですよね。そうしたらレコーディング・エンジニアで、『NOW RECORDING』のトラックダウンをしてくれた安部徹さんが色々な人に『NOW RECORDING』を聴いてってばら撒いてくれて。で、それが土橋(一夫)さんに渡って…土橋さんは杉君の『魔法の領域』のディレクターで、去年スタジオでも一緒に仕事していて、しかも土橋さんとは武蔵小山のペット・サウンズ・レコードの繋がりもあって何度もその前に会ったりしていたんですけど、その土橋さんから杉君の『魔法の領域』の担当でもあったユニバーサル ミュージックの三上(栄一)さんへとうまく話が繋がって、その結果、ユニバーサルから出しませんかっていう話を頂いて。

T:そして『NOW RECORDING+』についてですが、まずは何が「+」されたんですか?

M:『NOW RECORDING』として出したものをデジタル・リマスターして出し直すという形なので。リマスターするとは言え、結局元の音源は同じものを使うので、そこで折角メジャーでリリースするんだったら、ユニバーサルのスタジオでリマスターをして、じゃあその際にボーナス・トラックを足そうかっていうことになって、それで「+」が付いたんです。再リリースでボーナス・トラックを足すって言っても、オリジナルが出てからわずか4ヶ月ちょっとで再発みたいな…確かに変といえば変なんですけど。あまりないパターンですよね(笑)。

T:(笑)。

M:でもやっぱり同じものを出すのもいやなんで、難しいですよね。レコード会社の立場としても、同じものをそのまま出すわけにはいかないし、『NOW RECORDING』を買ってくれた人からも何ですぐにこっちが出ちゃうわけ?って、そういう諸々の意見が出ることはもちろん分かっていたんですけど、村田が音楽活動をまた始めたっていうことをメジャーのレコード会社を通じてさらに多くの人に知ってもらいたいって考えたら、それならば「敢えて違うもの」っていう意識で見てもらった方が良いかなって。それで、ボーナス・トラックも足しましょう、っていう形にしました。アマチュア・バンドの時にやっていた頃のライヴとか、プロになってからやったライヴ・テイクを入れたりとか。で、村田の家の押入れの中で眠っていたカセット音源から取り込んだ、20歳の頃の自分の多重録音テイク(デモ)も3曲足して、『NOW RECORDING+』として出しました。

T:ライヴ・テイクを入れたんですか?

M:入れたんですよ、今回は!そう、初めてなんですよ、そういうのは!アマチュアの匂いとライヴでのアレンジの感じと、今の違いみたいなものをここで一緒に見てもらえるといいかなぁと思ったんです。比べるものがあるんで楽しいでしょ、っていうライヴ・テイクです。

T:なるほど。

M:でもアマチュアの時のライヴ・テイクは、まるで違う人間みたいな感じですよね。趣向とかアレンジの感じとかも。アマチュアっぽいやり方だけど、やりたいようにやっているっていうのがやっぱりアマチュアの頃から出ていて、良い感じですね。


T:その頃の自分と今教えてる生徒さんは…

M:よく比べる時ありますねぇ。

T:どんな感じですか?

M:俺はもっと上手かった、って思いましたね。18〜9歳の頃の多重録音した歌とか、例えば自分の生徒がこれを持ってきたとすれば「お前イケてるじゃん!」って言っちゃうような気がするんですよ。上手いって。「そこまで上手く出来るんだったらこういうことやってごらん」って自分に自分を教えたい。今の自分がその時の自分に教えたら2〜3年早くプロになっていたと思います。

T:ほお〜!

M:ってよく思うんですよ。なんであの時、今の村田みたいな人間が現れなかったんだろうとか。

T:では、これからの活動の展望はありますか?

M:次のアルバムは村田の集大成を作りたいっていうことで“夏のアルバム”。村田の夏の集大成を来年は作り上げようと思っていて、それはもう楽曲の半分くらいは出来ているんです。ここ10年くらいの間に新たに作った曲の中からピックアップが出来ているんで。で、そのまた次は「村田のお送りするちょっとロックなアルバムを」っていうコンセプトも。だから2部作、2部作と、もうビッチリ再来年までの計画は。

T:楽しみにしてます!

M:はい!で、村田の夏を演じるのに必要だったムーン・レコード時代からの安藤芳彦君っていう作詞家とコンビを組んで、出来たら全部安藤君に詞を作ってもらいたいって。

T:何年振りに組むんですか?

M:もう15年振り…ビクターの最後のアルバム以来、お付き合いがないですから、そのぐらいですね。活動としてはとにかくライヴ。昔は形とかスタイルにこだわっていた部分もあったんですけど、最近は東京で1人でマンスリーでライヴをやるようになって、1人でやっても十分にお客さんも自分も含め満足感の得られるライヴが出来るなって感じているんで、これを日本全国規模で広げてみようって。

T:なるほど。

M:今、大阪のライヴがマンスリーに決まって、じゃあ大阪を拠点に関西では月に1回は必ずライヴが出来るっていう体制が整いました。東京はもちろんマンスリーでやっていて。で、関西から足を延ばして、福岡まで今は伸びているんで、来年はこれを北に伸ばしていかないと、って思っているんですよ(笑)。


T:なるほど(笑)。要チェックですね!

M:はい。きっと面白いと思うんで。


T:わかりました!それでは3回に渡ってありがとうございました!

M:こちらこそありがとうございます!お疲れ様でした(笑)。

T:来年、新しいアルバム期待してますので。

M:良いですよ〜来年!


T:また、お話聞かせてください。

M:よろしくお願いします。

T:ありがとうございました!

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■村田和人オフィシャル・ブログ
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デビュー前の1970年代〜80年代初頭に書き溜められた未発表曲たちに、新たな息吹を!約30年の時を経て完成した珠玉の1枚。まさに村田和人の音楽的ルーツがここにある。

ニュー・アルバム『NOW RECORDING+』
NAYUTAWAVE RECORDS / UPCH-20108 / 定価¥3,000(税込)
24bit デジタル・リマスター / ボーナス・トラック5曲追加 / 村田和人コメント掲載 / 監修:村田和人/土橋一夫

村田和人、13年ぶりのニュー・アルバムとなる本作は、プロとしてデビューする1982年より前のアマチュア時代に書き溜められていた未発表曲を新たにレコーディングし、甦らせたものです。若き日の村田和人の感性や当時のテイストが詰まった楽曲の中には、デビュー前に既にライヴで披露されていたナンバーも含まれており、その後の活躍を予感させる興味深い楽曲が満載です!

本作は2008年4月に自主制作盤『NOW RECORDING』として発表されましたが、今回新たに貴重なボーナス・トラック5曲(全て未発表音源)を加え、24bitでデジタル・リマスタリングし、ジャケットも一新してタイトルも『NOW RECORDING+』となって登場。若き日の村田和人のテイストをお楽しみ下さい。

村田和人さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルブログまで。