高橋結子 (PART1)

 1999年。バンド「GOMES THE HITMAN」のパーカッションとしてCDデビュー。
 現在、様々なバンド活動や様々なアーティストの方々と活動を続けている、ドラム&パーカッションの高橋結子さん。
 ロングインタビュー。そのPART1です。


(2008年9月27日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 
 高橋結子 (Yuko Takahashi
 ロングインタビュー(PART1)

  Music #70
 
  


    
 高橋結子ロングインタビュー (PART1)

あのね、パイロットになりたかったんですよ、突然ですけど(笑)。子供の時にシンガポールに行った体験がずっとあったんだろうなと思うんですけど、パイロットになりたくて。でもまず数学が苦手だった事と、航空大学校ってのがあるんですけどその学校の受験資格が身長が163センチ以上っていう決まりがあって、私は160センチしかなくて受けられなくて。まぁその時点でなんとなくパイロットになれたらよかったなぁぐらいの感じで、ただの憧れで終わりつつあって。音楽もやってたし。でも大学に入ってみたら、サークルの先輩で全日空のパイロットの試験に受かった人がいて、「何それ?!」と思って。航空会社が民間の大学から直接雇って1から育てるっていう自社養成パイロットシステムってのがあるって。こりゃ「いっちょ受けてみよう」と思って。


TERA(以下:T)よろしくお願いします。

高橋結子(以下:Y)よろしくお願いします。

T:まず生まれた場所を。

Y:兵庫県の加古川市というところで生まれました。

T:ご兄弟は?

Y:ひとつ上に姉がいまして。ヒカシューの巻上公一の嫁です。姉は。

T:すごいところ、来ますね。(笑)

Y:(笑)。あと今は下にちっちゃい妹が2人います、母親違いの。いきなり4姉妹です。

T:なるほど。加古川はいつまでいたんですか?

Y:4歳ぐらいの時に親の仕事の都合で家族でシンガポールに移って、小学校3年生でまた加古川に帰ってきてそっから18歳まではもうずっと加古川で。

T:お父さんが外交か輸入関係のお仕事だったんですか?

Y:いえ、神戸製鋼です。兵庫県加古川市といえば(笑)

T:あ、なるほど!KOBELCOですね。

Y:そうです、そうです。間にシンガポールには行ってたけど3〜4年なので、ずっと加古川といえば加古川です。

T:なるほど。幼稚園の時の記憶ってありますか?

Y:本当だったら幼稚園に行くぐらいの歳にシンガポールに行くことが決まっていたので、日本では行かなかったんです。それで集団生活を全くしたことが無い状態で向こうの幼稚園に行かされたので、もうものすごい拒絶反応を示して、登園拒否を繰り返して結構転々としたんです。

T:向こうの幼稚園って、何か雰囲気違うんですか?

Y:あまりはっきりした記憶は無いんですけど、中国人が経営している幼稚園がまず、ずっと勉強ばっかりしてる幼稚園だったんです。そこはもうとにかく嫌でずっと泣いてて。あとクリスチャン系の幼稚園もあって、毎朝礼拝堂でお祈りをするのが意味が分からないって言って(笑)幼稚園を何回変えたかははっきり覚えてないですけど、最終的には国籍に関係なくいろんな国の子がいてとにかく一日中遊んでるっていう幼稚園に落ち着いたんです。そこでさえ精神的にストレスがあったのか幼稚園バスの中でしょっちゅうゲロゲロ吐いてて、服とか汚れるから幼稚園に着くとまずシャワー室に連れてかれて幼稚園に置いてある誰でも着れる服を着るんですけど、それがもうキャベジンみたいなビックリするくらい緑色のズボンとかで(笑)

T:ええ(笑)

Y:なんかそんな感じで過ごしてましたね。きっと神経質だったんだと思います。

T:なるほど。他に何かエピソードはありますか?

Y:中国系の幼稚園で王子様みたいな襟の制服があって毎朝制服のボタンをとめるたびにすごく行きたくないって思ったのを覚えてますけど…(笑)あとはその幼稚園はおやつが美味しかったとか。最終的に落ち着いた幼稚園は本当に一日中遊んでたり先生が手品やるのを見てたり映画見たりとかひたすら遊んでる幼稚園でした。パーティがあってマレーシア人の男の子とダンスしたのとか覚えてますけど…トムとジェリーの映画を見たりとか、すごく断片的ですけど。幼稚園に関係ないエピソードでもいいですか?

T:ええ。

Y:当時家にあったカセットテープをすごくよく覚えているんです。「さだまさしベスト」と「沢田研二ベスト」、ハイファイセットがユーミンの曲をカバーしてるカセット、それと「研ナオコ・中島みゆきを歌う」っていうカセット、その四本。歌詞とかそらで歌えるくらいだったからよく聞いていたんだと思います。この四本が、自分の音楽の原風景みたいなものかもしれないって、最近時々思います。初めて行ったコンサートもジュリーでした。親に連れられて行っただけですけど。 多分幼稚園くらいの時だったと思うけど、クリスマスにまだサンタさんがいるって信じてて姉と2人でサンタさんにお酒を飲んでもらおうって言って、ブランデーを置いといて本当に飲むかどうか調べようよって線を引いておいて次の朝「減ってるー!!!サンタさんがブランデー飲んだー!!!」って言ってすごい大騒ぎしたのを覚えてます。今思えば父親が飲んでたんですけど(笑)そういうのですごい盛り上がりましたね〜。


T:へぇ〜(笑)

Y:あとはシンガポール独特の事かもしれないですけど、多分雇用機会を増やす為だと思うんですけどメイドを雇わなきゃいけなかったんですよね。家にマレーシア人のメイドさんが居て、言葉も分かんないしほとんどコミュニケーションしてなかったんですけど、マレーシアのお正月にマレーシア料理を食べさせてくれたのを覚えてますね。でもあんまりおいしくなかったんですよね…謎の食べ物みたいな(苦笑)

T:なるほど。向こうでは何か独特の行事はあったんですか?

Y:遊んでばっかりいる幼稚園だったのでパーティとかはありましたけどそれが何の名目かとかは覚えてないです。でもその後小学校は日本人学校にいったんですけどすごい自由でしたね。どんだけ自由だったかっていうのは帰国してから分かるんですけど(笑)

T:小学校はちゃんと行けたんですか?

Y:小学校はたまにお腹痛いとか言って休んだりはしましたけど、幼稚園の時よりは大丈夫でしたね。まぁまた加古川帰ってきてから登校拒否するんですけど(笑)

T:はは(笑)

Y:子供の頃は迷惑かけっぱなしでしたね。昔の自分を象徴している映像が残ってるんですけど、シンガポール行く前の8mmテープで、家族ぐるみで仲の良かった人たちと河原にピクニックに行く映像で、皆ワイワイ楽しそうにしてるのにカメラをズームアウトすると離れたところで私が草を弄ってて。集団にあんま入りたくなくて1人で道草してるみたいな、そういう子供だったのかな〜って。シンガポール行った後の8mmも何個か残ってて、いとこの家族がシンガポールに来て皆楽しそうにワーってしてるのに私だけものすごい眉間にしわ寄せてて。何だこの可愛くない子は?!みたいな(笑)何がそんなに不満だったのかわからないですけど。

T:それで、日本に帰ってきて一番のギャップって何でしたか?

Y:一番最初にビックリしたのは全校集会があることですね。あと、シンガポールの学校に行ってたって言ったら「シンガポールってアメリカのドコやー?!」って言われて“なんだろうここは…”みたいな。今思えば可愛いおちょくりなんだけど、ちょっとしたイジメに遭って、平松君っていう子がいて(笑)

T:ええ(笑)

Y:その子に会いたくなくて登校拒否しちゃって。でもそのときの担任の先生が今年で定年くらいのおじいちゃんで口の角に泡溜めながら喋るおじいちゃん先生で、その先生がすごく悲しそうだった。女の子の友達も良い子たちが居てそのときはわりと早めに復帰出来たんだと思います。

T:なるほど。何か習い事とかはしてたんですか?

Y:エレクトーンを3歳から13年間やっていました。最初はテレビでやってるドレミファソラファミレドみたいなリズム教室だったと思いますけど、その中にエレクトーンもあって。そのときのお道具箱みたいなのがあって、青と赤のカスタネットとちっちゃいトライアングルとタンバリンとシェーカーが箱に入っててそれがすごい好きだったんですよね、お道具が。それでシンガポール行ってからもエレクトーンずっと習って、帰国してからも16歳までずっと習ってましたね。あとはクラシックバレエ。姉がクラシックバレエをやりたいって言ってついでに私もほうり込まれちゃって。

T:それはいつくらいですか?

Y:それがシンガポールだったんで小学校1年くらいかなぁ?先生が日本人で急に帰国しちゃったからあんまり長くはやってないんですけど。習い事は多分それだけですね。塾とかも行ってなかったですし。記憶から抹消してるものとかがあるかもしれないですけど(笑)エレクトーンだけはずっとやってましたね。

T:小学校の後半はどんな感じでしたか?

Y:本当に神経質だったし内向的ですごい地味な子だったと思うんですけど、小学校の4年か5年の時にチェッカーズがすごい流行ってて、チェッカーズ初主演映画だと思うんですけど、「たんたんたぬき」を見に行こうやって近所の子に言われて何か分からないままついていったんですけど、結構衝撃だったんですそれが。こんなバンドがあってこんなことやってる人たちがいるんだって、帰ってすぐ友達にレコード借りてハマって。多分そこが転機で、話題が出来て友達もすごい増えたし、親にこっそり隠れてテレビとかも見るようになってトップ10とかベスト10とか。

T:チェッカーズを中心に?

Y:そうそうそう、とにかくチェッカーズが大好きで。急に部屋にポスターとか貼って「結子どうしたー!」みたいな。藤井郁弥さんがやってたラジオを毎週聴いてて、ビートルズとかオールディーズがいっぱいかかってそれが取っ掛かりだったと思うんですよね、本当に一番最初の。

T:80年代前半?

Y:そうですね。82、3年ぐらいですかね。

T:洋楽は?

Y:全然全然。ビートルズとかポールアンカとかニールセダカとかそういうのがよくかかってたんですよ、郁弥さんの番組で。そういうのをレンタルレコード屋行って借りてきて。リアルタイムの洋楽もちょっとは聴いたりしてましたけど、小学校の間はチェッカーズ一筋です。

T:誰のファンとかそういうのは?

Y:もうバンドが好きでしたね、存在が。

T:弾いたりは?

Y:してましたね多分。

T:歌も?

Y:歌ってましたね(笑)

T:じゃあ、チェッカーズのカバー弾き語りっていう感じですか?

Y:まぁ、勝手に遊んでただけですけど(笑)

T:なるほど。中学入る頃には何かありましたか?

Y:中学に入ったらイカ天とかでいわゆるバンドブームがきて、でも相変わらず田舎なのであんまり洋楽聴いてる人はいなくて。バンドブームで「ボウイだ!ブルーハーツだ!プリプリだ!」みたいな時代でしたけどね。それで結局、中学の時の友達と「バンドやろう!」ってことになって卒業してから始めたんですけど、中学在学中に曲作ったりとかしてましたね。

T:部活ではなくて?

Y:単純にクラスメイトが集まって。

T:バンド編成は?

Y:どうやって決めたんでしょうね?「私ギター!」みたいな感じだったと思いますけど。ブラスバンドでフルートとかやってる子がいて「私フルート!」とか。私一番最初、ボーカルだったんですけど(笑)

T:え、鍵盤とかではなく?

Y:うん、ヴォーカル(笑)。鍵盤は結構他に弾ける子がいるじゃないですか。

T:ええ、なるほど。音楽活動はカバーを?

Y:在学中にオリジナル曲を作ってみたりもしたけどコードの当て方とかも知らないし、歌詞書いてメロディ付けて皆で歌って終わりみたいな。そういうノリですね。

T:文化祭とかで演奏はしたんですか?

Y:中学はものすごい厳しい学校で、意味の分からない校則がいっぱいあって。団塊Jr世代なので最初に入った中学が生徒を収容しきれなくて教室がプレハブ小屋だったんです。その学校が分かれて新しい学校が出来たんですけど、最初なのですごい厳しくて、前髪は眉毛にかかっちゃいけないとか髪の毛を結ぶゴムは一個だけとか、本当に意味の分からない校則がいっぱいあって、文化祭でバンドとか出来るような状況じゃなかったですね。今でも忘れられないのが、体操服につけるゼッケンの文字が何センチ以上ないと駄目っていう校則があって、それを守らなかった子がすごい体罰を受けてて、なんなんだろうこの状況って、ホント意味分からなかったですね。一番厳しい生活指導の先生が英語の先生だったんですけど、たまたま私は英語の成績がずっと良かったので私だけ大目に見てもらってて(笑)髪の毛を結ぶゴムはひとつだけって言うきまりは前髪を伸ばしてる子がゴムを何個も使ってごまかすのを防ぐ為なんですよ。しょうもないでしょう?!ヘアピンも同じ理由で駄目だったんです。だからもう皆、バッサー!ってオシャレのオの字もないみたいな酷い髪型だったんですけど。私も癖毛で髪の毛をひとつに束ねると先っぽがピョンピョン跳ねちゃうのでそれを防ぐのにまとめたのをさらにゴムでもう一個とめるんですよ。だから校則違反なんです。

T:ええ。

Y:で、それが見つかって普通の子ならそこで体罰なんですけど「ひとつにしとけよ〜」で済まされるみたいな。それがみんなに申し訳ないなぁってつまんないこと思ってたのを今すごい思い出しましたけど(笑)

T:はい(笑)

Y:そんな状況だったから学校内では全然音楽活動なんて出来る状況ではなかったですよね。まぁその時は音楽活動しようなんて意識は欠片もないですけど。ただ皆で集まってなんか楽しくやってたって言う。

T:音を出す場所っていうのは?

Y:学校にはないです。自分たちの部屋で。中学出てからめでたくバンド活動を。それにしてもすごい田舎なので市内に一個だけあったスタジオが高くて、とても中学高校の子供に借りられる値段じゃなかったから、公民館を借りて適当な団体をでっち上げて。楽器も通販で皆でお金出しあって買って。それを自転車の荷台に括り付けて毎週運んでたんですよね〜。もうそのガッツたるや今の私に見せてあげたい(笑)ドラムセットも自転車で運んでましたからね、考えられない。

T:高校はどういうところに?

Y:高校は一応、加古川市内で一番の進学校に行って、そこはもうすごい自由だったんで高校は楽しかったですね。最初は中学の友達とバンドしてて高校ではやってなかったんですけど、ボーカルって言うのがすごく性に合ってないっていうのがやってから分かって(笑)結局そのボーカルやってたバンドは一年くらいで辞めちゃった…っていうか皆なんとなくやんなくなって。2つ目に組んだのが高校の友達と組んだバンドでそっからドラム始めるんですけど。

T:それは部活で?

Y:それも部活とかじゃなくて。一応フォーク研究会みたいなのあったんだけどエレキギター禁止だったので(笑)。

T:なるほど。

Y:学校の外でやってましたずっと。学校の中では全然やってなかったです。フォーク研究会に入ってる子もいたけどドラムやりたかったし、学校の外で。

T:中学から高校の頃の流れの音楽っていうのは、もうチェッカーズじゃない?(笑)

Y:もう流石に(笑)

T:どういう風に流れていったんですか?

Y:中学時代は多分ビートルズですね、洋楽は。あとなんか当時の流行り物をちょこちょこ聴いてたぐらいだと思いますけど。周りが洋楽聴く環境じゃなかったから、皆と一緒にプリプリとかレベッカとか聴いてましたけど。洋楽はほんと流行り物をたまにレコード屋で借りてくるぐらいで。

T:はい。

Y:高校入って憧れの先輩が出来てその人がレッドウォーリアーズのカバーをやってたんですよ。それでレッドウォーリアーズ聴き始めて、動機が本当に不純で。

T:(笑)


Y:今度はユカイさんがやってるラジオを聴いてたらツェッペリンがかかって“なんじゃこりゃあ?!”と思って。なんかもう気持ち悪いけどカッコイイと思ってそのときの衝撃はすごくよく覚えてます。次の日すぐ買いに行って。そっからですね、やっと自分で開拓し始めたのは。

T:それは高校1年生のときに?

Y:高1ですね。ツェッペリンって知ってる?って聞いても誰も知らない。何それ?なんかよくわかんないその音楽みたいな。相変わらずバンドはプリプリとかのカバーですねずっと。

T:そのバンドでオーディションを受けたりは?

Y:あったあった!ドラムを始めた時に、一番最初にやった曲がプリプリの『ダイヤモンド』だったんですけど、ハネてて。ハネモノで、ハネてる裏にキックが入るんです。普通の人はまず始めていきなりは叩けないリズムだと思うんですけど、出来ちゃったんですよ。それでもう天狗になっちゃって(笑)それでまあそこそこ叩けたから、どこに行ってもドラマーはちょっと少なくて、違う学校の人たちからも呼ばれて叩くようになったりして。だから当時の皆がよくカバーしてた曲っていうのはほとんどやってるんですけど。だから今とあんまり状況が変わらないですね(笑)。いろんなところに呼ばれていろいろやってるみたいな。で、その中に全然学校に関係なくいろんな人が集まったTHE BOOMのコピーバンドがあって、そのバンドがすごく楽しくて演奏レベルも他のバンドに比べたら高くて。THE BOOMのアルバム最初の3枚くらいまでは、ほぼ全曲コピーしたんですよねそのバンドで。だから私はTHE BOOMの栃木さんにドラムを習ったと言っても過言ではないかもしれないぐらいコピーしたんですけど(笑)。何年か前にイベントでTHE BOOMと一緒になって、直接この話が出来る!と思ってすごい嬉しかったんですけど、栃木さんにその話したら「いやぁ〜それは災難だったねぇ〜」って言われましたね(笑)それはさておき、そのバンドでコンテストみたいなの出て準優勝して。

T:お〜。それはどういうコンテストですか?

Y:どういうコンテストでしたかね〜、隣町の姫路城の前の広場で。いろんなバンドの人たちが出ててヤング部門で準優勝して。1位がSHOW-YAのコピーバンドでしたけど。衣装なんか「それ下着じゃないの?!」って感じで決め決めで、ホントに演奏の上手なバンドだったけど、でもなんかロボットみたいでつまんねぇとかって文句言いながらやってましたけど(笑)そのコンテストで準優勝してさらに天狗になっちゃって、それが高校2年か3年の初めくらいで「私はもうドラムでやっていくから!」って。今聴くと本当酷いんですけどその時の演奏が(笑)今聴くとなんでプロになるって言ってたんだろうって、本当酷い演奏なんですけど。それで高3になってもろくに受験勉強しないでずっとバンドばかりやってたんですけど、高校が大学に行かない人が年間4人くらいしかいない進学校だったんですけど、そんな状況でも私大学行かないからって勉強全然してなくて、そしたら流石に親に諭されて「気持ちは分かるけど社会に出る時の保険だと思って大学に行きなさい」って言われて。今思えば本当にいい親だなぁって思うんですけど。

T:ええ。

Y:「あーじゃあまー行くかー」って言って大学受験を始めたのが高3の10月で、それまでなんもやってなかったんですけど、受験勉強始めてみたら結構面白くて、なんかゲームみたいで。それでもう数学とか物理とかホントに駄目だから英・国・社に絞ってそれだけで受けられる学校!っつって。

T:それは普通科の大学?

Y:結局、外語大に入ったんです。ゲーム感覚で受験勉強してたらいっぱい受かっちゃって。

T:東京方面?

Y:そうです。元々私は関西出身ですけど、親は東京の人で親戚も皆東京にいてうちの家族だけが仕事の都合で関西にいたので、東京に出ることに抵抗もないし家もあったから、東京に出たいなら出てもいいよって親が言ってくれて、「行っていいって言うならいくかー」みたいな感じで。だから本当にその時の両親には感謝しないといけないなぁと思いますね。加古川でドラマーになるとか言ってたら悲惨な人生になってたと思うんですよね。ものすごい視野も狭いし、勝手に天狗になってるだけだし。大学に入ってみたら、軽音サークルの新入生歓迎会があって、「けっちゃんって言うんだー、けっちゃんは何が好きなのー?」って言われて、高校では誰にも知られてなかった「レッドツェッペリンとかエアロスミスが好きです!」って言ったら「へぇ〜王道だね!」って(笑)

T:ははは(笑)

Y:「え〜王道なんだ〜?!」ってもうそこから必死の勉強ですよ。だから大学デビューみたいなもんです。

T:なるほど(笑)。場所はどの辺だったんですか?

Y:今は移転しちゃってるんですけど、当時は巣鴨にあって、環境も良かったですね。専門的だからすごいちっちゃな大学で、だから孤独な気持ちになることもなく。姉は早稲田に行ったんですけど学校がでか過ぎて孤独っぽかったんですけど(笑)。私はちっちゃい大学に行ったからなんか風通しがいいって言うか。楽しかったし。巣鴨っていうあんまり若者が集う町じゃないとこにあったのがすごい良かったなって。全然授業出てなかったですけどね(笑)

T:そうですよねぇ、遊べないですよね。

Y:いえいえいえいえ、そんなこと言っちゃ駄目です(笑)。ちゃんと勉強しておけば良かったなぁって思うことがいっぱいありますけどね。適当な時間に行って校舎スルーしてサークル行ってダラダラして朝まで飲んで帰るみたいなホントに駄目な暮らしをしてました(笑)。

T:バンドは組んでたんですか?

Y:そうですね。バンドも組んだし、やっぱりドラマーが少ないんで手伝いでいろんなバンドもやったし。同期の友達と組んだバンドは私の趣味でFACESとか、ブリティッシュ系、ブルースロック系のバンドのカバーとかしてましたね。ほかにも手伝いですごいいろいろやりましたね、ほとんどがコピーバンドでしたけど、とにかく何でもありで。大きい大学だと音楽のジャンル別にサークルが分かれてたりするのかもしれないけど、軽音ジャズ研オーケストラみたいな括りしかなくて何でもありだったから何でもやってましたよ。結局そこのサークルにいたからデビューしたようなもんなので。

T:そこでデビューに行く流れというのは?

Y:それが面白いですよ、テキトーで(笑)。あのね、パイロットになりたかったんですよ、突然ですけど(笑)。子供の時にシンガポールに行った体験がずっとあったんだろうなと思うんですけど、パイロットになりたくて。でもまず数学が苦手だった事と、航空大学校ってのがあるんですけどその学校の受験資格が身長が163センチ以上っていう決まりがあって、私は160センチしかなくて受けられなくて。まぁその時点でなんとなくパイロットになれたらよかったなぁぐらいの感じで、ただの憧れで終わりつつあって。音楽もやってたし。でも大学に入ってみたら、サークルの先輩で全日空のパイロットの試験に受かった人がいて、「何それ?!」と思って。知らなかったんですよ、航空会社が民間の大学から直接雇って1から育てるっていう自社養成パイロットシステムってのがあるって。「そんなのがあったんだ」ってその先輩にいろいろ聞いたりして、こりゃ「いっちょ受けてみよう」と思って。今ではどうかわからないですが、当時は女性でその試験で採用された人が1人もいなかったんです。しかもその試験は一生に一回しか受けられないって決まっていて。勉強したら受かるとか運がよければ受かるとかじゃなくて素質を見る試験だから一生に一回しか受けられないんです。で、私が就職活動する年にバブル崩壊で、自社養成パイロットをやってる航空会社が5つあったんですけど全社がその年に採用試験をやめちゃって「あらら」みたいな。

T:パイロット志望、凄いですね。それは90年代頭?

Y:94年とか95年ですね。それでその次の年にJALが採用試験再開して、JAL受けて落ちて、その次の年にANAが再開して、ANA受けてやっぱり落ちて。どっちも面接で落ちたんですよ。実際にその試験をパスしてパイロットになった女性は1人もいないってことをなんかすごくつっこまれて…。なんていうかもうこっちよりそっちの問題じゃないですか?みたいな(笑)

T:わりと男社会なんでしょうか?

Y:男社会ですよね。外国行くと女性のパイロットっていっぱいいるんですけど、日本ではやっと航空大学から正規のパイロットになった人が1人いるかいないかぐらいなので、向こうが構えてる感じがすごくあって、「そんなやってみないとわからないから今とやかく聞かれても…」みたいな(笑)採用試験には沢山段階があるんですけど、筆記があって面接があって身体検査があって。けっこう本気でパイロットになりたいと思って体鍛えたりとか、目をなるべく使わないようにとかいろいろ準備してたんですけど、でも結局面接でJALもANAも落ちて。JALもANAも駄目なら他のとこも駄目だろうって。けっこう本気だったから、ANAが駄目だったって分かった日に“これが挫折っていうやつか”っていう感覚になって、もうどこにも方法がないみたいな感覚になって、すぐ羽田に行って宮古島に飛んだんです、その足で。で、宮古島の隣に下地島っていうちっちゃい島があるんですけど、その島は滑走路がドンってあっていろんな航空会社のパイロットが最後の訓練をする場所なんです。タッチ&ゴーっていう離着陸の訓練をする為の島で。それを見に行って、それでもう「よし!パイロットは終わりにしよう!」って決めて。東京に戻って、さぁどうしようかなってしばらくふらふらしてたんですけど。まぁここまでは余談ですけど(笑)

T:いやいや、大変、面白いです。(笑)

Y:かたや大学内にGOMES THE HITMANというバンドがありまして。そのバンドのリーダーは私の一個下の後輩で、彼が大学に入ってすぐ組んだバンドなんです。だからずっと以前から活動していて私も普通にお客さんとしてライブを見に行ってたりしたんですよね。リーダーは一個下だけど同期の友達がベース弾いてたりしてたし。で、そのパイロットの夢も終わってどうしようかな〜ってふらふらしていたある日、たまたまそのリーダーがサークルの部室でデモテープを録音してて。ライブで売ったりする用のカセットテープですね。ちょっとテンポの速い16ビートの曲にタンバリンを入れたくて、普段はリーダーが自分でやってたんだけど、ちょっとテンポが速い曲で俺には無理!誰かにやってもらわなきゃって思ったときにたまたま私が部室の前を通ったんですね。それで「あー!けっちゃんちょっとちょっと!」って呼び止められて(笑)

T:はい(笑)。

Y:「これタンバリン振ってくれない?」って言われて「いいよー」ってサークルの部室に転がってたタンバリンでバーって録って。結構速い曲で私も大変だったんですけど(笑)それが録り終わった時に「××日がライブだからさー、出る?」って言われてどうせ見に行くつもりだったし「出るー」みたいな感じで。そこからちょこちょこライブに参加するようになって。タンバリンだけだと退屈じゃないですか。それで勝手にコンガとかボンゴとか頼まれてもいないのにどんどん増やしていって。それも別のサルサ研究会から借りてきたやつだったりして(笑)みたいなことをしてたらデビューが決まったんです(笑)

T:へぇー!

Y:だからデビューが決まった瞬間に自分の楽器がビールの空き缶にお米入れたシェイカーくらいしかなくて「ヤッベー!」みたいな(笑)。メジャーデビューする前にインディーズで2枚CD出してるんですけど。

T:それは学生の時ですか?

Y:私、実は7年行ってるので、大学に(笑)。97年の時はまだ大学にいたかなぁ。とっくにリーダーとか他のメンバーは卒業して就職しながらやってましたけど。

T:7年滞在したのには理由があったんですか?

Y:4年になったときに母親が病気で、もう長くないって言うので休学して実家に1年戻ったんです。だから5年目が4年生だったんですけどその時点で、あと3コマ取れば卒業出来たんですけど1年に1コマずつ取っていった、みたいな。

T:なるほどー。

Y:まぁ、それは結果論ですけど(笑)。

T:それはバンド活動を中心にしていたから?

Y:いやー、5年目はパイロットの試験を受けたくてJALが駄目で、6年目はANAが駄目で。

T:あ、そうですか。

Y:7年目は行く末が決められなかったからだと思いますけど(笑)。国立大学で学費が安いってのをいいことに本当に親には迷惑をかけましたね。

T:声をかけられてタンバリンを叩いたのは、大学何年目なんですか?

Y:何年生の時かなー…6年目?ANAの辺りだったと…ちょっともうわからないですね。

T:じゃあタンバリンを叩いた時は、まだパイロットの夢が終わってない?

Y:いや、終わった後だったと思います。91年に入学してるんですよ。

T:98年卒業ということですね?

Y:98年…。えー!そんなにいたのー?!

T:(笑)

Y:あ!そうですそうです、98年の3月に卒業して、4ヶ月だけOLをやって、98年の8月から契約だったから98年に卒業してますね。

T:じゃあ声をかけられたのは97年?

Y:ですかね。多分パイロットが終わった直後だったと思います。パイロット追っかけてた時はサークルふらふらしてなかったんで。ドラムもたまにしか叩いてなかったし。

T:なるほど。話は戻るのですが、ライブ出てみないか?と言われて、最初はどの辺のライブハウスに?

Y:最初は、JAMが多かったですね。新宿JAM。新宿JAMばっかりだったぐらいの記憶ですね。他のとこも多分出てたと思うけどあんまり記憶に残ってない…あ、秋葉原のグッドマンも出たなぁ、そのくらいですかね。その前にサルサ研究会って言う伏線もあるんですけど、それは何年の時かなぁ。専攻がスペイン語学科だったのでサルサ研究会に入ってるスペイン語科の友達がいて。わりと有名なバンドがあったんです、サルサ研究会のLos Muchachosっていう、原宿のクロコダイルとかにも時々出てるようなバンドで、学生バンドにしては結構レベルの高いバンドだったと思うんですけど。そこのティンバレスの人が急に辞めちゃって。「けっちゃんドラムやれるならティンバレスも叩けるよね?」って引っ張り込まれて、ラテンとか全然聴いてなかったんですけど、まぁ出来るかもねってすごい気楽な気持ちで行ったら、やっぱりノリが全然違うじゃないですか。よくわかんないまんまやってたら「やっぱなー、所詮ロックの縦ノリしか知らないやつは」とか言われて「頼まれて来てるのにー!!」みたいな(笑)

T:そうですよね(笑)。

Y:一応、これを聴いたらいいよって言うラテンのCDを沢山借りて勉強してみたものの、その“所詮ロックの縦ノリしか知らないやつは”って台詞がこびり付いちゃってトラウマになっちゃって。でもそうこうしているうちにそのバンド自体が解散になっちゃって結局半年くらいしかやらなかったですけど。そのサルサ研究会でリハの休憩時間中とかにコンガの叩き方とか遊びで教えてもらって。遊んでただけなんですけど、それで“けっちゃんはパーカッションが出来る”ってことになっちゃったんですよ、軽音サークルの方では逆にね(笑)。それでオリジナルラブのコピーバンドでオリジナル裸族っていうしょーもないネーミングの(笑)。そのバンドに誘われてパーカッションやってみたり。自分の楽器何にも持ってないし本当ただの遊びですけど。その流れで、GOMES(THE HITMAN)も誘われたんだと思うんですけど。サルサ研究会に知り合いがいたから、コンガとかライブの度に借りたりして、インディーの最初のCDが97年の末に出てるんですけど、それを録音した時もやっぱり全然自分の楽器じゃなくて、やっと600円くらいのトライアングルを買ったとか、その程度でコンガとかおっきいのは全部サルサ研究会から借りて録音してっていう。何にも知らないで録ってるからむちゃくちゃなんですけど、今聴くと結構面白くて、逆に何にも分からなくて感覚だけでやってるから、このコンガどういう手順で叩いてるんだろう?って自分でもわかんなかったりして。へたくそなんですけど、結構面白いんですよ。

T:なるほど。それでデビュー直前の流れは?

Y:インディーの最初のCDを出した時はサポートメンバーだったんですよ。必要な時だけ行って。

T:その時のバンド編成は?

Y:普通にドラム、ベース、ボーカルギター、鍵盤ともう1人ギタリストがいて、私がいて。メンバーは5人で私はお手伝い。それで同じ流れで2枚目を録音したんですけど、CDが完成してクレジット見たら私の名前がメンバーの方に入ってて。2枚目はゲストの人が他にもいっぱいいてそのゲストの中にけっちゃんの名前入れるの変だなーと思ってメンバーにしといたって(笑)

T:なるほど(笑)

Y:結局それを持ってしてメジャーデビューが決まったので、レコード会社的には、ポップスバンドにパーカッションがいるのってちょっとしたキーワードだったのかもしれないですけど。全然サポートのままの気分でいたら決まっちゃって。その時はやっと決心して普通の会社に就職しようと思って、就職活動をして決まった後で。

T:何の会社ですか?

Y:大型コンピューターのソフトウェアを作る会社で一応技術職で入ったんですけど。就職決めたのになぁと思いながら。「けっちゃんはデビューするかしないか自分で選んでいいよ」って言われて。バンドメンバー全員にそう言ってたと思うんですけど。ドラムの子とベースの子はもう仕事をしてたから、それでバンド辞めちゃって、デビューが決まってメンバーがゴロッと変わったんですよね。もう1人のギターの子も辞めちゃって、結局5人編成でデビューしたんですけど。新たに入ったドラムの子もベースの子も音楽的に繋がりがあるとかじゃなくて、単純に同じ大学のサークルで就職もせずに、ふらふらしてた人みたいな(笑)。今思うと、とんでもない選択の仕方ですけど。それで私はどうしようかなと思いながら1回就職してみたんです。それはそれですっごい面白くて。大学7年もいたから新入社員とはいえ25歳、絶対年下ばっかりで友達とか出来ないだろうなーと思っていたら、同期入社20人の中に年上がゴロゴロいたんですよ。私を採用するくらいだから、多分ちょっと変わった会社だったんだと思うんですけど。1回大学を出て違う事をして戻ってきた人たちが多くて、アメリカに行ってたとか自分のお店やってたとか面白い人が集まってて。めちゃくちゃでしたけど。しょっちゅう飲みに行ったり。

T:仕事は具体的にはどういう内容ですか?

Y:技術職で入ったのでずっと研修だったんです。SEでプログラミングの研修をしてたんですけど、大型コンピューターを動かすソフトだったからアセンブラーっていう多分、今全然、どこも使っていないような言語を勉強して。C言語とかいろんな言語がある中の本当に一番大元の原始的な言語なんですよ、アセンブラーって。それがまた性に合ってたんです。1から全部自分で打つみたいな作業がすごい面白くて、コンピューターの仕組みとかも結構ちゃんと勉強してたし。仕事っていうか研修してただけなんでお金もらって勉強してたみたいな。

T:プライベートでコンピューターを持ってたりは?

Y:全然(笑)。学生時代にバイトで使ってた程度で、まだ自分のコンピューターを持ってなかった時代ですね。携帯をやっと持ったかなくらいの感じですね。それで4ヶ月間研修して、一番最後に4ヶ月間の成果を会社の偉い人たちの前でバーンと発表して「こういう成果が出ました!ところで今日で辞めます!!」みたいな(笑)

T:ははは(笑)

Y:だから、一応就職はしたんですけど研修しか受けてないです、実際には(笑)

T:なるほど。

Y:だから1回就職したけどそれはそれで楽しかったっていうのは間違ってるんですよ、働いてないから。お金もらって勉強して辞めたみたいな。「お前は腐ったみかんだ」って言われましたよ人事部長に(笑)同期の中で私が一番最初に辞めたんですけど、会社って辞めていいんだー!って言ってみんなゴロゴロ辞めちゃったらしくて、本当に悪影響を及ぼしたみたいですけど。でも未だにその時の同期の何人かとは地方の支社にいる子とかがいて名古屋行った時は連絡してみたりとか飲みに行ったりとか未だにしてるから。

T:皆さんは、いまも大型コンピューターの仕事をしてるんですか?

Y:さすがに、流行んなくて会社ももう傾いてて、私その会社で姉さんって呼ばれてたんですけど「姉さん、さっさと辞めて正解だったよ〜」って皆言ってるけど。いや〜、なんか、皆、頑張れ、頑張れ〜!って(笑)

T:10年前ぐらいですよね?

Y:そうですね、10年前ですね。そんな感じで7月末に会社を辞めて、8月1日からレコード会社との契約が始まり非常に無駄のない人生というか(笑)

T:在学は長かったですけど(笑)

Y:そんだけダラダラいたからこそそういう流れになったので。迷ったけど、デビューする機会ってのもそうそうないかって軽いノリでデビューしてみたら、大失敗!みたいな。最初はほんとに苦労の連続で。

T:なるほど。この辺でパート1終了ですね。

Y:あー、続くんですね。

T:はい。次回もよろしくお願いします!

PART1 END>>>

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高橋結子さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルサイトにて