安部恭弘(PART1)

 2007年に、デビュー25周年を迎え、2007年12月12日に、待望の25thベストアルバム「I LOVE YOU」をリリースした、
 安部恭弘さんのロングインタビュー。PART1。


(2007年12月21日/横浜某所にて/インタビュアー:TERA@moment)





 安部恭弘(Yasuhiro Abe)

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 安部恭弘 ロングインタビュー (PART1)

建築の仕事は、設計の仕事はすごく夢があっていいなって思ってたのね。何かを作り出す。イメージをしてそれを具体的な形、空間を作っていく。それはすばらしいなって思ってたから、それは是非やりたいなと。だから将来の仕事はこれで合ってるなと思ってたの。だけど音楽もすごいなって、「ビートルズ」を聞いて、とんでもない影響力はあるわけだから、世界中に。音楽ってすごいなって。これは自分はやりたいなって思って。建築と音楽だったら、両立するだろなって思ってたの。

TERA(以下:T):では、宜しくお願いします。

安部恭弘 (以下:A):宜しくお願いします。


T:まずは、生まれた場所を教えて下さい。

A:生まれた場所は、東京の文京区ですね。

T:小さい頃は、どんな遊びをしていたのですか?

A:鬼ごっことか、缶蹴りとか、野球とか、あとは公園行って野球をすることです。

T:好きな野球チームとか?

A:もうそれはジャイアンツですよ。

T:もちろん、そうですか?

A:もちろん。後楽園球場がすぐそばでしたから。それでジャイアンツの選手が泊まっている合宿所が湯島にあって、うちの小学生の仲間たちは、試合が終わった時とかは、しょっちゅう行って、応援するわけですよ。そうすると、王とか長嶋とか、柴田とか、みんなバス降りて、宿舎に入る時、握手してくれたり。そこに泊まってる時は長嶋が湯島天神で毎朝トレーニングするからそこに行けばサインがもらえるんですよ。もう小学校の時からそれは有名で。


T:じゃあ、サインはいっぱいに?

A:いや。サインはいっぱいではないけど。そんな感じでしたよ。


T:小学生の、部活とかは?

A:とにかく小学生の時は暴れて元気で、活発で、走り回ってて、体育、運動、体育が大好き、音楽もよかった。音楽と体育はすごくよかった。


T:何か楽器とかは?

A:楽器はねえ、もう、家庭の環境がよくて、小さい時からピアノがある生活だったの。で、ピアノも習わされたけども、自分はピアノはあんまり習うのが好きじゃなくて、まあ遊び回ってって。ただ姉がいたから、姉がピアノを習ってたから、ずーっとピアノの音はしてた。朝からずーっと。で、クラッシックをずっと耳にしてて。あと映画音楽、うちの親が映画を観るのが好きだったの。だから、映画音楽をよく聞かされてた。音楽の教育っていうのはそんなに、そのクラッシックを聞けとはまったく言われなくて、映画音楽、そうだな映画音楽が好きだったなあ。だから自分としてはピアノはやんなくて、それでウクレレか、牧伸二を見てウクレレをやったな。俺も、ああやって、おちゃらけて受けたらいいなってってウクレレ買ってもらってウクレレ弾いたのが、小学校3年か。

T:へえ〜なるほど。それで発表の場はあったんですか?

A:発表の場はあの学校のクラス会ですよね。大体が。それであとは、そのままウクレレやってるうちに小学校5年生になって、弦が2本増えて、ギターになってた。それはあれですよ。グループサウンズが出てきて、グループサウンズが出てきたのは、ビートルズが出てきたからだけどね。


T:音楽っていうのはラジオですか?レコードですか?

A:あ〜、レコードですよね。ああ、そうか。「アンディー・ウィリアムス・ショー」っていうのがあって、NHKで。「アンディー・ウィリアムス・ショー」を見てて、アンディー・ウィリアムスのアルバムを買ったし。テレビを見てレコードを買って、それから中学生になって、ラジオを聞いて、そっからラジオとレコードですよね。


T:例えば、音楽番組以外で見てたテレビ番組は?

A:「シャボン玉ホリデー」だよね。「シャボン玉ホリデー」って週に1回だったよね。あとNHKでやってた「アメリカのドラマシリーズ」。犬を主人公にして、犬が放浪するドラマがあったんです。これが非常に好きだったのと、あと「奥様は魔女」か。


T:ああ、なるほど。

A:あと、「おしゃべりエド」だったかしゃべる馬のやつ。


T:ああ、ありましたね。

A:あのへんだな。あと「魔法使い。ジェニー」、そうだな。


T:割と向こうの番組が多いですか?

A:うん。向こうの番組ばっかり。日本の番組で覚えてるのは「シャボン玉ホリデー」ぐらいかな。


T:中学に入って、部活動とかは?

A:うーん、とね、ていうかスポーツばっかりですよね。うん、バレーボール、バスケットとか、ソフトボールとか、そんなのばっかり。音楽活動は部活では一切やってない。ただギターを一人でやってて、クラスメートと一緒に何か遊んだり、クラスメートにもてはやされて、「この曲やってよ、あれ歌ってよ。」って言われて、クラスの中でやってたりとか。


T:なるほど。そこでは、どういうジャンルの音楽を?

A:もう中学の時には「ビートルズ」だね。それまではだからギターを持ったのはグループサウンズだったから、その頃は「タイガース」だよね。「タイガース」「テンプターズ」だから。グループサウンズをずっと。


T:やっぱり文化祭とか?

A:そんな洒落てないよね。洒落てない。中学の時に、自分の音楽の発表の場なんて言うのは、最後の、卒業する時ぐらいの謝恩会とか何かだね。それぐらいまでは。あとはね、音楽の授業で、曲を作りなさいっていう課題が一回あって、そこで初めて曲を作ってみたら以外とあっさり一曲出来ちゃって。それが音楽の先生にすっごい認められて、音楽の先生がびっくりしちゃって、すごい褒められて。その褒められた事が、俺は自信があるんだって思っちゃって。そっからもう嬉しくなっちゃって、曲作れるんだって思っちゃった。自分で曲を作れるんだって思い込んじゃった。だから人に褒められて、出来るんだーって思っちゃう事がきっかけなんだよね。


T:どんな曲だったのか覚えてますか?

A:全く覚えてない。全然覚えてない。


T:高校入ってからも音楽に。

A:そうですね。ずーっと、何てったって高校の時にはもう、自由な高校だったから。もうとんでもなく自由な高校で、先生が何にも文句も言わないし、生徒が何しててもいいんで、もう教室にギター置きっぱなしで。当然うちにもあんだけど。それで授業と授業の休み時間はいっつもギターを弾いてたし、昼休みもギターを弾いてたし。そうすると他の教室の音楽好きの奴が、どんどん集まって来ちゃって。あれやれ、これやれってリクエスト大会になっちゃって。それが三年間ずーっと、毎日。そう言えばそうだな。


T:バンドとかは?

A:他のクラスではエレクトリックで「クリーム」をコピーしてやってるバンドがいて、それを見てすごい羨ましかった。やりたいなって思った。エレクトリックバンド。スタジオも借りなきゃね。ドラムスやアンプも楽器も全部お金がかかるじゃん。それはちょっと無理だったから。やっぱりアコースティックギター一本でこそこそっと誰かの家に集まって、曲作ったり、コーラス楽しんだり。そういう方にいってたかな。


T:高校終わる頃、将来の事とか。考えましたか?

A:漠然とね、小学校の時から建築設計士になるのを。家がそうだったのね。建築設計事務所だったの。だから漠然と家を継ぐんだって思ってた。ただ建築設計事務所も浮き沈みが激しいから、いい時もあれば悪い時もあって。なかなかいい時は見た事ないけど。(笑) で、建築の仕事は、設計の仕事はすごく夢があっていいなって思ってたのね。何かを作り出す。イメージをしてそれを具体的な形、空間を作っていく。それはすばらしいなって思ってたから、それは是非やりたいなと。だから将来の仕事はこれで合ってるなと思ってたの。だけど音楽もすごいなって、「ビートルズ」を聞いて、とんでもない影響力はあるわけだから、世界中に。音楽ってすごいなって。これは自分はやりたいなって思って。建築と音楽だったら、両立するだろなって思ってたの。ものを作る事はノウハウは一緒だって思ってたの。高校の時にはそのまま建築の方向に、単純に大学に進んでって。音楽をやめようとは思わないし、音楽も追究していこうって思ってたの。

T:で、卒業してどういう感じに進んだんですか?

A:そうですね。まあ浪人だよね。まずは。浪人して、ていうか高校の時にも音楽をずーっとやってて、授業中、高校になるとさずーっと授業があるわけじゃなくて、休講があったりするじゃない。他のクラスは授業してるけど、うちのクラスは休講だっていう時に、音楽室に行ってピアノを弾きまくったり、大声で歌ったりするわけですよ。今考えると、その声と音は学校中に響いてるわけですよ。窓開いてたり、ドア開いてたり。そこで「ビートルズ」を歌ったり、何かロック歌ったりしてるわけよ。エルトン・ジョン歌ったりさ。思いっきり。誰も文句言って来なかったもんな。どういう学校だったんだろ。(笑)だから知れ渡ってたからね。うるせーな、あいつって。授業中、うるせーなって。まあ大学は建築系に進むって、けっこう難しかったから、やっぱり浪人して。浪人した一年間は、音楽はあんまり、本気で音楽は、やっちゃいけないなって自分で思ってたから、浪人してた時に音楽は本気でやっちゃたら、もう大学いかないだろうなって思ってたから。音楽の方にいっちゃうだろうって思ってたから。あえて、そのへんはちょっと、何でだろうね。何でだろうな〜。何かあんまり、そこそこいい子に勉強してたな〜。それで一年間、予備校通って、それで早稲田に受かったんだ、運良く。どうゆうわけだか。それでみんな一緒の予備校とか、高校の仲間とか、そんな訳ねえだろうって、お前が受かるわけねえよってって言ってたけど、運良く受かっちゃって。

T:なるほど。

A:まあそれで私は早稲田に通うようになった訳ですが。大学生になったらば、思いっきり音楽やるぞって思ってたの。で早稲田もロック研で、理工学部の下にはすごい有名なサークルがあるって聞いてて、楽しみにしてたんだけど。なかなか、ちょうどその時期なのかどうか知らないけど、巡り合わせがなかったのね。入りたいと思うサークルに。ていうか人がいなかったのね。サークルはあったんだろうけど、引き付けられる人がいなかった。例えばそこにさあ、山下達郎さんみたいな人がいればさ、いったんだけどさ。いたのかもしんないけど、見つけられなかった。本部の方まで20分ぐらい歩いて行くんだけど、そっちの方に行ってもなかなか見つかんなかったね。それで結局、何かないかな〜って、銀座のヤマハに何だか知らないけど行ってみたらば、銀座のヤマハのその「ポップスポット」っていうライブスペースにアマチュアバンドが一杯出てて、そこでオリジナルの歌を歌ってる。みんなオリジナルの歌、歌って入れ代わり立ち代わり、わいわい演奏してたのね。それを見てて、ここはエネルギーあるな、すごいなって。クラブ活動よりこっちの方がいいじゃないって。でそこに途中、顔出すようになって、そこにいた人とお話してたらば、まあ仲良くなって、私もそこに参加するようになって、でそこにだから杉 真理って言う人がピープルってバンドで参加してたわけですよ。んでそっから杉さんと仲良くなるわけですよ。ま、カシオペアも出てたし。とにかくすごかったですよ。


T:安部さんは、何かバンドで?

A:いや、個人で。個人で弾き語りで。


T:その頃はもうオリジナル楽曲を?

A:そうそう。オリジナルもいくつかあって。だけどジェームス・テーラーが好きだったり、ビートルズが基本的にあって、エルトン・ジョンも歌ってたかなあ。まあ、それを杉さんが見てて、「安部君、いいじゃない。一緒にやろよ」って声かけてもらって、お付き合いが始まるわけですよね。


T:それが大学の何年生ですか?

A:大学1年ですね。


T:最初に活動した場所は?

A:一番始めにコンテストに、私が飛び入りで参加した時に、ていうかコンテストに飛び入りで参加したコンテストに優勝しちゃったっていうのもあって、やっぱり何か音楽に、音楽をやりたいなって。出来るんじゃないかなって思ちゃったんだ。褒められちゃうから。また褒められちゃうとやっちゃうから。それで杉さんとかまりやとかがいて、杉さんがね、レコーディングっていうか、デモテープっていうか、ピープルの活動を本格的に、自分のデビューに向けて本格的に、活動を発展させていったのね。杉さんが。その為にメンバーを厳選していったんだね、きっと。それに選ばれたんだね。それで「安部君、やろうよ」って声かけてもらって。きっとね、だから杉さん、「リアルマッコイズ」っていう慶応のクラブ活動にいたから、「リアルマッコイズ」関係で一杯、それは頭数は一杯いるんだよ。だけど杉さんの感性を理解して表現できて、そしてのちのちまで一緒に音楽出来る奴ってのは、その当時いなかったんだろうな。だから「安部君、やろうよ」って声かけてくれたんだと思う。だから何か見抜いてくれたんだよ。だと思うな。

T:その頃、歌ってた曲って何か音源化されてるのですか?

A:うん。そう言えば「レッドストライプス」のあの頃に、自分でデモテープ録ったやつが、結局今回の「アイラブユー」のディスク3に収録したんだ。そうだ。そうそうそう。

T:曲は?

A:「季節風」とか「からかったってダメさ」とか、その2曲はその当時のやつだ。なるほどね。全然デビューする前の、「リアルマッコイズ」っていうか、「レッドストライプス」・・・。


T:大学に入る前に出来てた曲も、あったりするんですか?

A:いやいやいや。


T:大学の時に。

A:大学行って・・・、行ってましたね。


T:大学1年、2年あたりでオリジナル楽曲は、どのくらいあったんですか?

A:そう言えばね、浪人の時は、バンド活動はしてなかったけど、作曲活動は凄いしてた。そうだそうだ。浪人の時って何にも、そんなさ勉強ばっかしてたら、ほんとに気が変になっちゃうから。同じ浪人のお友達と一緒に、そいつに詩かいてもらって、曲作ってた。ああ、それで気ばらししてたんだ。


T:それはギターで作るんですか、ピアノで?

A:両方。曲によって。その頃はギターでも、ピアノでも、どっちでも一緒。ま、それなりにギターならギターの、ピアノならピアノの。それ時はそうだったろうけど。アマチュアの時はそうだな。そうですね。あ〜、今はそうか、今の楽曲と違うんだもんな。アマチュアだもんな。アマチュアは無理だろうな。あそうか。


T:大学3、4年あたりの音楽活動は?

A:大学?それで、「レッドストライプス」杉さんがデビューして、んーっとね、大学2年ぐらいの時かなあ。僕がね、ヤマハの嬬恋で、ヤマハポップコンの嬬恋本選会ってとこまでいっちゃたんですよ。それで嬬恋本選会でグランプリとれば、年末の世界歌謡祭に出れるっていう、そういうところまで行ってたんだけど、前評判ではグランプリだったんだけど、いざ本番ではあがりににあがっちゃって、声が出なくって、それで「ツイスト」の世良政則さんにグランプリを持ってかれっちゃったんだけど。それで、芸能界ってああいう人じゃないとやってけないんだなって思ったから、もう俺はデビューとかそういうのはいっさい止めようと思ったの。自分がフロントに立つ事は無理だって思ったの。世良マサノリのステージを見て。あの人と勝負するなんて、絶対無理だって思ったの。アマチュアなんだからね、その時に。世良君はアマチュアで「あんたのバラード」をあの何千人といる舞台で、やったんだから。アマチュアがあんな事するんだから、俺は絶対無理だと思った。

T:その後は?

A:それで杉さんの「レッドストライプス」でライブ活動が一杯、ライブハウスだったり、色んなところでやるんだけど、お客はもうせいぜい10人、20人っていうぐらいしかこないわけよ。俺たちは電車賃使って行くけどもさ、電車賃もでないくらいの奉仕活動っていうか。俺たちは音楽ができれば嬉しかったから、別に文句言わずやってたんだけど、勉強になって、杉さんの音楽がすきだったから。でこれが現実だ、これが本来っていうか、日本の音楽事情っていうのはこれなんだよっていうのを実感させられたの。これじゃあ食ってけるわけないじゃん。


T:それもレコード出た後の。

A:レコード出た後。杉さんの1枚目出た後。これは無理だよ。こんなにいい音楽やってんのに。売れないし、客は来ないし。それに世の中、他の歌謡曲とかいっぱい売れてるのと、僕たちがやりたい、この先ぜったいそっちの方がいいと思ってる音楽とのギャップがあまりにも有りすぎて。これは無理だ。それでフロントに立つのはやめよう、作家をやろう。やるんだったらば、就職して、それこそ建築の勉強とか仕事をしながら、作家として作品提供していこうと、っていう風に割り切ったの。で自分の好きなやつは、自分の許される範囲内で演奏してる。歌を歌ってればいいやって。それで杉さんがちょっと病気になって、2枚目をだした後に活動を休んだの。それでビクターの契約切れちゃったのね、杉さんの。それで「レッドストライプス」はしばし解散になったの。それで僕らは動きが無くなった。それで安部恭弘はどうしたかっていうと、アコースティックス系の仲間と作詞作曲の仲間たちと活動するようになって、「フェイドインファミリー」っていうのを作って、4つグループ、まあ個人とか4つのバンドがファミリーを作って、そこで作品を持ち寄ったりしてライブをしたり、そういう遊びをしてた。カセット作ったり。別に商売してるわけじゃないから。でもそれは非常に評価が高くて、ちょこっとライブをすると、売り切れたりして。まあそれで満たされてた。


T:その時にはどういう演奏を。

A:アコースティックだから、基本的には必ずコーラスが2、3人ついてる。それでメインがいて、「マンハッタン・トランスファー」みたいなコーラスをイメージしてもらって、そこにギターとピアノが入ってるって感じかな。ちょっと大きい会場だとドラムとベースをサポートとして入れたりした事もあったけど。作家として・・・、あ、それは大学を出てからか。とりあえずそんな事をしてる内に、大学を卒業するわけですよ。卒業するっていうか就職するわけですよ。わたしは。建設会社に。

T:なるほど。

A:建設会社に就職して、富山県に配属になったの。富山県に行ったらば、それまでの東京の環境と全く違う、信じられない、想像もしていなかった環境が待ってたんですよ。そこではね、自分が好きな音楽の話は一切出来ないわけよ。相手がいないの。洋楽の話は通じない。居酒屋のおばちゃんとか、そこのお客さんたちは基本的には演歌だから。演歌、歌謡曲の話だったら盛り上がるけど、私は演歌、歌謡曲全く分かんないから、「ボズ・スキャッグス」って言っても誰も知らないし。それでもう、どうしようって、結局その人たちとコミュニケーションとる為には、布施明をカラオケ屋に行って歌わなきゃいけないわけよ。(笑)だから会社の先輩にそういうパブとかに連れていかれて、新人歓迎みたいなところで、何かやれって言われて。何か歌はなきゃいけないから、前川清歌ったり、それだけですよ。そうするとさ、そこに来てた知らない客がどんどんリクエストしてくるわけ。「あれ歌え、これ歌え」って。それはそうだよね。何かさ、上手いんだから。上手く聞こえちゃうわけだから。それでさ、何だよこれって思いながら、ちょっとすみませんって言いながら1曲も歌える曲が無くなっちゃったから、すみませんってそこにあったピアノとギター借りてオリジナル歌っちゃたの。そしたらさ、そこにいたお店の女の人がさ、ファンになっちゃってさ、お酒飲んで下さいとかさ、持ってきちゃったりとかしてさ。嫌んなっちゃった。(笑)


T:(笑)富山には、どの位いたんですか?

A:半年かな。5か月だったか。それで杉さんに電話して、こういう状況なんだけど「どうしようか」って、「東京に帰って音楽やりたいよ」って言ったら、杉さんが「帰ってきちゃえば」って言ったんだ。何にも考えずに。(笑)ひどいよなあ。ほんと真剣に考えて、何か「もうちょっとがんばれよ」とかさ「あと1年、2年苦労して」とかさ「それからでも遅くない」とか言うのかと思ったら「帰ってきちゃえば」って言うんだよ。びっくりしたなあ。(笑)


T:(笑)何か、言い出しそうな感じですね。

A:ああ。もうそれ言われちゃったからもう即、退職願い出しちゃった。それで帰ってきたらさ、杉さんがさ「あれっ、ほんとに帰ってきっちゃたんだ」って。ひどいよなあ。(笑)ほんと、ひどいと思ったよ。


T:(笑)それで退職してどうしたんですか?

A:結局、退職してさ、やる事ないから、実家にぶらぶらしてて。建築の修行ったってさ、建築も苦しい時代なわけよ。日本の景気に合わせて。で、仕事が無いわけでしょ。それで作曲、昔のヤマハのつてとか色々、音楽たどって、色んなとこ顔出したりして、バイトをちょこっとしたりして、全然音楽とは関係ないバイトをしたりして。ベースの伊藤コウキと一緒にバイトをしたりして。面白かったなあ。そうこうしてる内に、ヤマハのポプコン、嬬恋本選会に出たっていうポプコンがらみで、曲を出してた。「機会があったら使って下さい」って言って。その曲が、今度デビューさせたいってアマチュアをヤマハが抱えてて、九州のバンドで。その九州のバンドに「安部君の曲がぴったりだから歌わせるからね」って。「おそらくその曲でデビューすると思うよ」って言われて。「お願いします!」って言ってるうちに、そいつらは俺の曲を聞いて、歌ってそれでデビューするはずだったんだけど、私の曲からインスパイアされて、自分たちのオリジナルを作ったのね。その自分たちのオリジナルが凄く良くて、それでデビューする事になったんだけど、それが「クリスタルキング」の『大都会』なわけよ。それで『大都会』1曲できてレコーディングして、それでもう1曲あるのは、私が作ってレコーディングしてあった『時流』って、その2曲しかないから、それをAB面にして。それで「クリスタルキング」は『大都会』で世界歌謡際でグランプリとったのかなあ。それが100万枚売れたわけですよ。


T:いきなりですね。

A:ええ。そうすると B面作家の私もそれなりに印税が入ってくるわけですよ。半年後ぐらいに。それまでもアルバイトしてもお金が無くて困ってた所にお金が入ってきたんだけど、そのお金もあぶく銭だから、俺は単純に曲書いて預けてただけだから、それは全部、建築業界不況で親がひいひい言ってたから親にあげて、全部あげちゃって。それで音楽の仕事出来んじゃんっていって、スタジオの仕事とかくるようになったのね。それでスタジオでコーラスやったり、ギター弾いたり、そういう仕事をするようになって。スタジオミュージシャンか。そういう仕事と作曲家の先生みたいな。そういう事をやってるうちに「安部恭弘」ってデビューさせた方がいいんじゃない」って出版会社の人が思ったらしくて。「デビューする気あるの?」って言うから「いや、する気ないです。」ってそれでまた「あ、そう」って、またそこから1年、2年経っていくわけですよ。そうこうしてるうちにデモテープとかなんか友達と一緒にバンド組んで、作ったりして。デモテープも貯まってきて。でもまだ全然自分が納得するデモテープじゃないから、まだちょっと違うなあって。そうしてるうちに寺尾聰さんが一気に「ルビーの指輪」とかで売れて、「なんだこれでこんなに売れるんだったら、いけるんじゃない?」って思ってさ。一気に変わったでしょ?あそこで。これまでの歌謡曲のところから、井上鑑さんがアレンジと、寺尾さんの「ルビーの指輪」の息の力ちょっと抜いて。洋楽のテイストを肩の力抜いて軽ーくやって売れちゃったんだから、これだったらいけるじゃんて、それでいいかもしんないって、そこから思って。本気でデモテープ作るようになって、そしたら段々良い方向に進んでって、東芝EMIから「うちでやりましょうよ」って話になって、「デモテープ作りましょう」ってスタジオでデモテープ作るようになった。すごかったよ。


T:それが82年位ですか?

A:デビューが82年だから、82年だね、やっぱり。でも1年くらい曲を作ったりした準備期間があるから、だから大体、1年くらいかかってるんじゃないかな。まあ半年、82年の夏には、夏前には、82年11月にデビューしたんだから、夏にはもう全部完パケてるんだから。10曲本気でレコーディングするんだから、3か月かかるよね。5月からレコーディングが始まってるるわけだよね。て言う事はデモテープ、その前に作ってるのは冬か。冬だね。


T:それは今まで作った楽曲は全く入れてない?

A:入れてない。


T:新たに?

A:新たに。

T:新たに音源をつくる時に、最初イメージしたものは、復活したりするのですか?

A:どうしたんだろうね。それ面白いね。もうすっかり忘れてたね。どうしたんだろ。それ探せばあるんだろうけど。カセットは。曲を作った時のスケッチのカセットてのは必ず残しておくようにしてるの。捨てないようにしてるの。凄いよ。最終的な形になっちゃう前に、色んな要素が削ぎ落とされていくのね。いちばん始めは全然違う無限の可能性のあるスケッチなのね。その無限の可能性のあるスケッチから、削ぎ落としていくっていうか、捨てていくわけね。もったいないけど、要素がいっぱい有り過ぎるから、色んな要素を排除していって、ストレートに伝わるものだけ骨格が見えるように捨てていくわけ。削ぎ落としていくっていうより、捨てていくいくって感じかなあ。いちばん始めのカセットを聞くと、全然違うじゃない、この曲はっていうそういう風に聞えるんだろうなあ。聞いてみたくなったあ。


T:その時は曲先行ですか?

A:曲先行。色々何十曲も作ってるわけだけれど、アマチュアの時に竹内まりやに『五線紙』を書いたり、その後ポートレート書いたり、上田正樹に曲かいたり、色々してたけど、安部恭弘自身がデビューするキーとなる曲を作りたかったのね。その曲が一曲出来ないと、その先、安部恭弘の指標になる、ちゃんと置いとかないと見失っちゃうなと。どっか違うとこ行っちゃった時に戻ってこれないなって。その一曲作っておかないとヤバいなって思ってて。やったこれで大丈夫だって思って出来たのが『ウエイト』って曲なのね。「ウエイト」って曲は「松本隆」さんの詩によって『We Got It !』という詩になったんだけど。その一曲を作った時に、自分の部屋で多重録音してて、これしかないな、これで完成だ、これが安部恭弘の形が出来たなって、すごくいい手ごたえがあったんだ。それからデモテープの形を清水信之が天然色に具体化して、レコーディングした。ノブの才能と合体して花開いたって感じだったなあ。それで松本さんが詩を乗っけて命をもらったって感じだなあ。


T:出会いは初めてだったんですか?

A:松本さんと直接お話するのは初めて。まりやに『五線紙』を書いたのが1980年で、その時に一緒に作品としてはおつき合いしてるけど、82年の安部恭弘の作品をお願いしますっていってお会いしたのは初めて。


T:これが安部恭弘だっていう音楽とは?オリジナリティの始めの見極めみたいな事ですが。

A:オリジナリティっていうか、他の人には出来ない事を・・・。ここがちょっと問題なんだけどさ、自分のやりたい事をやればいいっていうのがあよくあるけど、自分のやりたい事をやって、他の人が認めてくれなかったらしょうがないし、光ってなきゃしょうがないし、他の人が出来ない、その人だからこそ意味がある、それで自分のやりたい事。そこは合致してないと存在する意味がない。そこなんですよねえ。それがその一曲が出来た時に、「これだ!」って思ったの。それでその他のこれまでに作ってた曲はそれまでは作曲家だったから、作曲家として普通に書いてたから、作曲家っていうのは作曲家の手法っていうのがあって、この人にこういう感じの曲を歌わしたら良いなっていう、基の曲があったりするわけですよ。でディレクター、プロデューサーからの依頼の仕方もそうなんですよ。このタッチのこういう感じの曲をお願いしますと。で極端な話、それを歌えばいいじゃないですかなんですよ。ね、だからそこが問題で、そこが難しいとこですよ。だから曲の依頼の仕方もそれがわかりやすいから、そうなんだけど。結局はそうやって出来た作品集、ずーっと何年も世に残っていく楽曲っていうのはなかなか、何十曲も普通は存在しないよね。一年の中でほんとに限られた楽曲の中でしかない。そういう意味でオリジナリティ、1曲出来たっていう手ごたえだったんだろうな。ただその時はそうだけど、本音はそうなんだけど、それを20年25年歌ってるとやっぱり自分の始めはどっかからヒントを得た曲だとしても、最終的には自分の曲になりますけどね。結論としては。でも始めのコンセプトが違うよなあ。

T:そのファーストアルバムにて、達成出来たのですね。

A:そうですね。いかに他のアーティストとは異なる、安部恭弘独自の色あいをどうだせるか。ほんとに似た様な感じのアーティストが多かった。あの当時。80年初頭。これはもう間違いなく別格だっていうくらいの作品集にしないと太刀打ち出来ないっていうか、飛び抜けなきゃダメだったんだよ。あの時。危機感があったんだろうと思うよ。作品作りの中で。


T:アルバムを作る過程で、サウンドという事については。

A:出発点はメロディだよね。サウンドっていうのは最後、結果としてサウンドでまとめるんだけど、出発点は完璧にメロディ。メロディに心情がどう乗るか。心情をどこまで含ませたメロディなのか、そのメロディに松本さんがどこまで汲み取って詩を乗っけてくるのか、そこの勝負だよね。サウンドっていうのは色をチョイスして、色づけしていくっていうことだから。


T:松本さんに詩をお願いした時には、曲ごとにイメージを伝えるんですか?

A:うん。漠然とね。事細かくは言わないよ。だって言葉の選び、詩の神様だからね。自由なところ、松本先生が、松本さんが動ける自由なところをどうやって引き出すかっていうか、それが欲しくてお願いしてるんだから。


T:1stアルバム完成時の事については?

A:完成時っていうかね、なかな完成しなかったんだよね。思った以上に苦労した。メロディとサウンドは平気なのっていうか見えるわけですよ。清水信之アレンジだったから。ノブの事よくわかってたし、これから先のサウンド、時代が進んでいくサウンド展開の仕方とか、それもある程度、お互いにみてた。オーソドックスの中で、先々廃れない音作りと、斬新であって新鮮なもの。音は大丈夫なわけよ。歌だよね。ボーカル。松本さんが書いてきた言葉を歌うっていうのはすごい難しいんですよ。あの人は。やさしい、素直な言葉だから、解釈のしかたは二つあって、さらりと歌えばそれはそれで存在してて、いい詩ですね、いい作品ですねってなるわけよ。でもそうすると、いいボーカリストですねってならないわけよ。いいアーティストですねってならないわけよ。いい作品ですねってなっちゃうわけよ。さらりとした言葉の中に主人公の心情とか顔の表情までも伝わるぐらい、歌いこまないと松本さんの詩の世界って松本さんの書いてくれた仕事にかなわないわけよ。そこが勝負なわけよ。歌の解釈の仕方、歌の表現の仕方っていうのはものすごく、そっからが大変な作業だったわけよ。洋楽を聞いて、洋楽で育った人はそんな事は思わないわけよ。インストルメンタルもそうだけど。リズムと音色の響きだったり、日本語の持ってる言葉の響きとか心情的な伝わり方、そこまでは計算してないわけよ。表現者として。だからね、日本のインストとかはね特に今の若手のボーカリストは全く伝わってこないとこなんだけど。そこの葛藤っていうか、努力しないといけないっていうかすごい時間かかった。歌入れに。ただやればやるほど一歩一歩前進していくこともあったからそれを理解してくれて、お金を出してくれた当時の現場制作会社はすごいよね。普通だったらさらりと形になって歌って、「はい、OKですね」ってクリアしてんだもん。


T:実際にボーカル録りには、どのくらいかかったんですか?

A:っていうか出発点?始めの1曲、2曲っていうのは異常にシビアでしたよ。今どうなんだろ?今では考えられない。今はひどいよな。デジタルで直しちゃうからな。アナログだから直せないからな。どのくらいかって言うと、3日とか4日とかかけたんじゃないかな。1曲に。全曲じゃないよ。始めの1、2曲。これは絶対やっとかなきゃっていう歌に関してね。



PART1-END/PART2(#62)に続く
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安部恭弘さんの詳しいインフォメーションについては、
<安部恭弘オフィシャルサイト>
まで。