岡沢 茂

十代の頃からプロとして、渡辺香津美グループを経て、浜田省吾、長渕剛、甲斐バンド、尾崎豊等、ロックのみならず、
さまざまなジャンルのアーティストを支えて来た、ベーシスト、岡沢 茂さんの過去から現在までの、ロングインタビューです。


(2005年3月03日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 岡沢 茂インタビュー

カバーしてくれたのは、水谷さんと瀬尾さん。救済の手っていうか「みんな敬遠するだろうから、おれが使うよ」って。スタジオに呼んでくれて、みんなに「しげる、帰ってきたよ」とかって。なんですかね、おれをもう一回スタジオに戻してくれるようにやってくれて、いやもう、それはありがたかったですよね。もう金もないし、車もうっちゃってるし仕事もない、離婚もしちゃってるし。でも仕事で、水谷さんが「大丈夫か」って。それで少しずつ、盛り返して。


TERA(以下:T):では、宜しくお願いします!


岡沢 茂(以下:0):はい、こんにちは。

T:まず、名前と生まれた場所を教えて下さい。


O:岡沢茂。昭和32年2月18日生まれ。2月18日は、親父と一緒なんですけどね。ん?っていう感じですけどね、親父と一緒っていうのもさ、感慨深いというか。2月18日で。生まれは銀座ですね。東京都中央区銀座6−5、本籍もまだ今そこにあるんですけど。

T:都会育ちですね。

O:いや、岡沢洋品店というのが銀座7丁目にあって、親父がやってて僕はほとんど知らないんだけど。僕の前に兄貴2人いるんですけど、もう一番近い人で6歳離れてて。その上にまた一人いて、その上と10歳離れてるんです。だから、随分時間があいて僕が生まれたんです。実は間に1人いたらしいんですけど、死産というか。僕、兄貴たちは銀座に住んでて、僕が生まれた時は、ニッカツアパートって、昔のマンションのはしりで高級なとこにいたんだけど。岡沢洋品店が流行ってて、石原裕次郎だの、長門裕之だの、すごいんですよ。この間も明星の復刻版っていうのに載ってて、岡沢洋品店、石原裕次郎がいつも着てたセーターとかって、うちにもあるんですけどね。オリジナルブランドで。おれがやっておけばよかったんだろうに。僕が知ってるのは、お店をやめる時からですかね。銀座での写真っていうのが、赤ん坊の時のしかないんですよ。あと、おふくろ達が忙しいんで育てられないっていうんで、麻布のおばあちゃんとお手伝いさん、おじいちゃんと育てられて。保育園ですかね。毎週日曜日に親父たちが来るっていう。

T:3人とも?

O:そうですね。日曜日とかになると麻布に来て、あ来た来たみたいな。またその日には帰っちゃうんだけど。僕の家。何か不思議な感じだったですよね。でも「こういうものなんだ」って、知らないからね。「じゃあね、ばいばい」みたいな。

T:お友達とか不思議がらなかったですか?

O:いや、どうなんだろう。おばあちゃんのお手伝いさんが常に親代わりで麻布で育って。兄貴たちは銀座で。その銀座のお店をやめるんで、僕が小学校入るときに麹町に引っ越して、何を狂ったか、僕を麹町小学校に入れたいと。自民党代議士のところに行って、おやじとおれだけ住所を抜いて、麹町に移して、代議士さんのところへ。それで越境入学っていうんですか、とりあえず住所は銀座になっているんで、麹町に住所を移して、麹町小学校に。それからすぐ親父が洋服屋をやめて、麹町にレストランを、洋食屋やりたいっていうんで。で、アドリアっていう、今のレストランを開くんです。そこからは、よく覚えてるんだけど。

T:小学校?


O:小学校の入った時から、同じようにレストランを麹町で始めて。それでも、間もなくダメになるんですよね。麹町は夜人がいないっていうの。昼間はあんなにいっぱいいるのに、夜7時ぐらいになるとがらがらで。いつもお店にいてコックさんと話をしたり、遊んだりっていうかね、してたんで、それで4年か5年ぐらいですかね、もう。破たんしちゃうっていう事ですかね。洋品店をやめて借金してお店やったんだけど、夜お客が、住民がいないんで。

T:それで、どうしたのですか?


O:それで店を売って、おれが小学校5年の時に市川に家を借金して買って。今でもそこは親父たちが住んでるんだけど、そこへ麹町から引っ越す。麹町にいた時は、やっぱり借金してたからアパートに4年ぐらいみんなで住んで。報知新聞の先のところなんですけど、今でもありますけど。そこで小学校4、5年はそこで遊んでたから、ものすごい思い出は、おれはあるんですけどね。兄貴たちは、もう高校とか、何だ、大学と高校っていう感じで。そういう幼少時代っていうんですかね。

T:小学校の時に音楽に触れた事は?何か。

O:親父が、昔ジャズギターをやっていて、キヨモトもやってて、三味線好きで。歌舞伎の並んでる三味線のあれになりたかったらしいんだけど、家柄がね、岡沢家なんてあの中にない。それで「一生そんなのはなれない」って言われたらしくて、やめたらしいんだけど、親父は家で練習してたから。カッコいいんですよ。キヨモト。夕立って、「ジャンジャカジャカジャンジャンジャン、ユウダチノ〜」「なんて、カッコいい曲だね、カッコいいだろう」とかって。三味線でシャッフルみたいな、ユウダチっていうんだって。歌舞伎で歌われるんだとか。おふくろは長唄とか習っててね、友達に長唄の師匠がいて、浅草に一緒に稽古の時について行った覚えがあるんで。おばあちゃんは都々逸とか得意で、やっぱり三味線が弾けて。そういう音楽はみんな好きで。

T:具体的に何か楽器とかは?

O:僕は全然。ずっと音楽が流れてたんで、洋楽とか、ビートルズもそうだし、ベンチャーズも、もう兄貴たちも同じように。カーペンターズとか、市川に引っ越した時は、蛍光灯のひっぱるものをマイクにして、兄貴と二人でハモる練習とかってしてたんですね。「お前、学校帰ってくるまでに、カーペンターズの、このパートをコピーしとけ」とかって。「おお、そうなんだ」みたいな感じですよね。いつまでも親父もギター弾くし、クリスマスとかギター弾いて、みんなでジャズ弾いたりとかやってましたね。一時ですけどね。みんなでいる事はなかったから。大体俺だけ離れてるし。おばあちゃん子で小さいころの写真、兄貴たちは沢山あるのに、俺だけは、おばあちゃんとか、一人で写ってるのと、そういうのばっかで。

T:中学では、部活とかは?

O:2年の時には学生運動。中学で内申書裁判で。何年前に終わったのかな。Hって、今、社民党であいつは一つ上で、内申書裁判、内申書に政治活動をかかれて、高校全部受からなくて。そこでおれたちが2年でそういう学生運動のマルクスだなんだっていって、とにかくビラを刷って、トリデっていうやつが刷って。毎日、朝早く行って、中学校の玄関で配って。そういう事をやってましたね。あとは不正な予算が何でその温水プールが建てるんだとか、いろいろ運動して。文化祭で立てこもって、機動隊が来ちゃって。あの時、読売新聞か何か、中学で初めて機動隊導入とかって。その時は、アオヘルだったですけどね、僕は。

T:何人ぐらいで?


O:その時はね、ほかの中学、一橋中学とか九段中学とかの、チュウカクとか沢山いて、みんな呼んで集まって、20人ぐらいで屋上で占拠してって感じでしたよね。何か面白かったですけどね。おれは、あんまりマルクスったってね。それで、フォークソングでギターを。やっぱりみんなやるんで「バンドやろうか」みたいな。そういうやつと「はっぴぃえんど」何だの教わって。そこから始まっちゃったんですかね。おれはギタリストになろうって。

T:最初、どんな曲を弾いてたんですか?


O:みんなではっぴぃえんどです。あれを好きでやってて。向こうっぽいのがいい。日本のフォークってあんまりあれで。「五つの赤い風船」は好きだったですけどね。

T:ザ・バンドみたいなのが?


O:サウンドが外国、日本のじゃない、これいいなみたいなで。五つの赤い風船もそうで、コーラスとか好きで、よくやってましたよ、文化祭でも随分演奏したし。

T:西岡たかしさんですよね。

O:そうですね。まだ会ったことないんですよ。小室さんとはレコーディングもいろんな事をやって、そういう話もして。鈴木茂さんもスタジオで、おれがプロになってから随分一緒にやって、はっぴぃえんどの事言うと随分怒ってましたけどね。「うるさい」とかって。「その時の事は言うな」って。「だっておれ好きだったのに。おれあれ聞いて来たんですよ」みたいな。そう言ってる自分が不思議でしたよね。あのはっぴぃえんどの茂さんと話しして一緒に演奏してっていうのが。

T:高校時代からバンドで?


O:中学三年の時に。ベースの人が音楽学校に行くんで、「おれたちとはレベルが違うから、やりたくない」っていうので、「おまえ兄貴、ベースやってんだよな」みたいな。「じゃあベースじゃない?」みたいな。とりあえず文化祭迫ってるしみたいな。ベース弾いて、ベースってんでベース始めたんですよね。それは全然。

T:最初はどうでしたか?ベースは。

O:いや。最初は嫌だったんだけど、しようがないので。文化祭あるんで、ギターの上のガットギターの上の弦で練習して。ベース買って。今でもあるんですけどね、3万8,000円の。それでベース始めたんです。

T:最初文化祭でやったのは、どんな曲だったんですか?


O:はっぴぃえんどとか、人のカバー。赤い風船とか。おもしろかったですけど、別にプロになるほどじゃ。

T:本格的にバンドを組んでっていうのは?

O:高校入ってからですね。

T:それはどんなバンドだったんですか?

O:おれが学生運動やってるんで。デモとか。中学卒業して、高校も受からなくて、三鷹のタイセイ高校っていうところに行ったら、先輩がまた学生運動行っちゃったんですよ。たまりかねて親父が、兄貴に頼んで、やめさせてくれって。「ベースやってるんだろ、もっと深くやらせるから学生運動なんてやめろ」って。それで兄貴のところに住むんですよね。タイセイ高校が、バスで20分ぐらいのところ。普通だと市川からだから、終点から終点で。そしたらベースの事でいっぱい。そこでみんながツェッペリンだなんだ聞いてるときに、クルセイダースだ、ダニーハザーだ、マービンゲイだ、リアルタイムで。黒人のベースは、結構好きだなとか言われて、おれもそう思うなと思って、かっこいいよねみたいな。これは誰?って言ったら、これはチャックレイニっていうんだ、好きかと。これすごいやとかいう感じになって。ゴードエドワーズとか。兄貴はゴードエドワーズが好きで、おれはチャックレイニー好きかなんて。そういうので聞きたいのがあったら勝手に持ってって、自分でコピーなりすればいいじゃんって。それで始まっちゃったんですよね。バンドじゃなくて、とにかく学生運動をやめさせるために演奏を。年中やってたら面白くなっちゃって。兄貴のライブとか、高校の時にくっついていって。見てるとカッコいいじゃないですか。当時新宿ピットインとか、ダニーハザーのライブの写真のままなんですよ。あの色と。最初の新宿ピットインって、そうやってつくったみたいで。裏に写真があって、ウィリーウィクソンがいて、ダニーハザーがいてって写真が写ってるんだけど、あれがね、もうすごくかっこよくてね、それもここ一緒だと思って、「お、兄貴、カッコいいな」って。同じだとかって、そんな感じですよね。カッコいい、おれもやりたいと思って。

T:で、プロの道を?

O:もうそこで。「おれプロになる」って。勉強も嫌いだし、いいかなって。やればみたいな。やれるんならやればみたいな。どうぞご勝手にみたいな感じで。

T:それで、具体的にどういう風な動きをされたんですか?

O:とにかくコピー。学校は行くんだけど、兄貴のとこからじゃなくて、うちに帰るようになって、楽器をもう一本買ったりして。コピーして、とにかく兄貴の家にいくとお母さんもいるし「おれ、家帰るから」って。家に帰りはじめて。高校2年ぐらいまでは毎日。もう学校来て家に帰って練習して、また朝起きて。その繰り返し。もう、あり放題のレコード借りて、コピーして。ずっとそれでしたね。

T:高校三年では何か変わるんですか?

O:もうバンド。ほんとうに、バンド。高1の時に、風間ってドラムのやつがいて、不良ってか番長なんだけど、そいつがすごい上手かったんですよ。音楽の話したら、「おれドラムやってるぞ」みたいな。それで知り合って、そこからは、俺が高校やめちゃうんで、それから1年ぐらい合わないんだけど、ドラムやってたよなみたいな感じで交流も始まって、そこから色んな人とつながりでバンドやるようになっていくんですね。

T:初めて組んだバンドは、どんなバンドなんですか?

O:何だろう。ビリーコバムの、そいつがビリーコバムが好きだったので、CTIのジャズ、いわゆるクロスオーバーですよね。ほんとにクロスオーバーのインストで、ロックみたいな、でもジャズじゃない、4ビートじゃない、こういうのカッコいいよねみたいので。ちょっと変ですよね。みんなツェッペリンとか弾いて、キングクリムゾンだのやってるのに、何かおれたちだけ。だれも見向きもしないような、そういうのばっかり聞いて。

T:バンド名は?

O:バンド名ってなかったですね。高円寺のアマチュアのコンサートやるっていうんで、風間の知り合いがいるんで、行こうって行って、道場破りみたいなね。やらせてって、ギターのやつとそいつと。「ハイウエイスター、あれならできるよ、簡単簡単」ってやって、ものすごい受けて。アンプ飛ばしちゃって、俺。でかい音で。今でも覚えてるんですけどね。

T:高校卒業する頃にはどんな感じに?


O:高校3年の時に、ボーヤになりたいから。「プロになるにはどうしたらいいか」って言ったら、兄貴がとりあえずローディーやったらいいんじゃないかって。仕事ってどうやってするのか、自分で行って自分で勉強してきた方がいいんじゃないかみたいな。それで、高校3年の中ぐらいから、渡辺貞男さんのところに紹介してもらって、卒業してすぐ楽器持ちでお願いしますっていう。高校卒業してすぐですね、そこからアイミュージックっていうところに。

T:そこでは、ミュージシャンとして?

O:そこに貞男さんの楽器持ちで入ったんだけど,結果的にあんまりいなかったんですけどね。ほかにアイミュージックが呼びやさんだったので、キースジャレットとか、来日ツアーとかやってて。その時の楽器持ち。ツアー、全国ツアー回ったんですよ。おれボーヤやって、キースジャレットと。三人のバンド、チャーリーヘイデンっていう、電車で日本全国を、何カ所、15カ所ぐらい回ったんですかね。それが勉強になったんですけどね。

T:それが初めてのツアー?


O:ツアーですね。旅っていうんですか。赤帽とあれで、楽器を。そのかたわら、練習練習。旅には持っていけなかったんだけど、チャーリーへイデンが色んな事を教えてくれて、すごいみんないい人で、「リズムっていうのはこういう感じで」って。キースジャレットも、変な弾き方するんだけど、あれは自分で「おれはとにかくリズムジャストでいきたいから、もう」ってなっちゃうんだって。とか言ってた。なんであんな格好になっちゃうのかなって、食事とかも終わってから一緒にいくから、通訳の人とかいて聞いてもらったら、とにかくリズムがジャストに行くのが、ひゃってなっちゃうっていうそうなんだ、すごい人なんだなと思って。リズムは大事なんだ、やっぱりっていう感じですよね。

T:そのツアー終わって、その後は?

O:それで、貞男さんのところにまた行こうと思ったら、全然行かせてもらえなくて。貞男さんに、たまに会うんですよね。「おっ、ベースやってんだな、どっち行くんだ」みたいな。「決めないと、決めなきゃだめだ」って。どっちかですかって。どっちかだと。「エレキベースで」。「じゃあ、もうおれのところにいてもしようがないな」みたいな。「じゃあ、がんばって」みたいな感じで。どうしたらいいんだろうっていう感じですよ。「ここにいてもしようがないし貞男さんのところに行かせてもらえないし、スタジオミュージシャンのボーヤかな」みたいな。それで、スタジオミュージシャンでギターの矢島さんっていう人がいるから、その人のところへ離してみるかっていうんで、スタジオミュージシャンのボーヤを。そこから1年半やるんですね。その時に水谷さんとか出会うんですよね。いわゆる全盛時代ですよね、スタジオの。

T:何年ぐらいですか?

O:何年だ。今48だから30年前ですね、ちょうど。75年ですね。スタジオミュージシャンの坊やっていうか。

T:そこからスタジオミュージシャンが始まった。

O:スタジオミュージシャンっていうミュージシャンは、バンドとかじゃなくて、スタジオミュージシャンっていう頭が、もうこべりついちゃってて、もうスタジオミュージシャンになるっていう目標もあったので、19歳でスタジオミュージシャンの仕事を始めるみたいな。

T:それでプロに。


O:プロにしてもらったのは水谷さんなんですけどね。

T:それはどういう流れでですか?


O:ギターの矢島さんのボーヤをやってたんだけど、よく同じグループでスタジオも動くから会うんですよ。同じギターなんだけど、必ず2人で、矢島さんと水谷さんで。水谷さんがやけに気に留めてくれて、それでたまに「矢島さんに内緒で練習しよう」とかって、エピキュラスの貸しスタジオとって「おまえあれコピーしてこい」とかって、練習してくれたんですよ。それで「すごくいい」って、「弾けるな」って言う感じで、「ありがとうございます」とか言って。でも矢島さんのボーヤだから戻って1年半した時に、突然水谷さんから、「シゲル、風って知ってるか、ツアーがあるんだけどやるか」とかって。「えっ?おれが?」「バンド探してるから」って。だって、「やめりゃいいじゃん、話してやるから」って。「やめちゃう?、そうですか、じゃあよろしくお願いします」みたいな感じですよね。それで矢島さんはなんか「ん?」って。おれも坊やっていうか、重宝な、何なんだろう、あれしたんだけど、とにかく水谷さんからプロになるから、もういいだろうみたいな。それで水谷さんが恩師っていう形で。それで、プロデビューですね。風っていう。

T:風のツアーでプロデビュー。


O:はい。それは、2年ぐらいですかね。

T:その2年間は風だけ。

O:いや。風と同時に、渡辺香津美さんから、年中スタジオで坊やのときにヘッドフォン、ベースをヘッドフォンで聞くやつがあって、それとコピーしたいんで、レコードのあれのヘッドフォンをばってんにして、片方ずつしてよく練習してたんですよ。そのことを渡辺さんが見てて、突然電話があって、「しげる、ベース弾いてたよね、スタジオで」って。「じゃあバンドやろう」って。「明日朝、渋谷のヤマハのスタジオに来て、リハあるから」って。「曲? 大丈夫、大丈夫。とにかく来て」って。それでベース一本持ってヤマハ行って。そしたら渡辺さんとかがいて、突然クロスオーバーっていうの、何ていうの、「できるできる、クロスジャズが好きなんだろう」とかって。「この曲行くから」って。「知らないですよ」、「大丈夫大丈夫。このリズムでやろう」とかって初めて。で、2、3曲やったら「オーケー、できる。じゃあ、明日ピットインね」って。「え、うそ、今、曲今3曲」。「大丈夫大丈夫、やる前にちょっと打ち合わせするから」って。「ビートだけ出来れば好きなようにやってればいいんだからさ」って。そうなんだと思って。それで、渡辺香津美グループ、同時に。始まるんですよね。そこから一気に。スタジオも水谷さんの関係から、スタジオの仕事もちょこちょこ、水谷さん系の、もう紹介で兄貴もありましたけどね、いろいろ使ってくださいみたいな。それで、突然だーっと仕事が。

T:売れっ子に。

O:売れっ子までいかなくても、若手って、岡沢章の弟っていう。「弾けるらしいよ、少しは」みたいな。ですよね、高校出てまだ19歳なのに、生意気でしたよね、やっぱり。変に知ってるものですから、その前から勉強してて。スタジオの雰囲気とか。もう何ですかね、生意気な。そこからでもずっと始まるっていう感じですね。「風」が終わっても、今度水谷さんたちがこうせつバンドをやってたんだけど、そっちがベースを、シゲルに交代するからっていうから、えっ、そんなこと。いやいや、先輩が。いや、だってもうサウンドが違うんだからって。いやおれはそれは、何かそういうのがよく、その後も随分あるんですけどね。問題になるよね、これも。あれ、もうたまたまやることになって、やめるようになってっていうね。いろいろ。でも、それで水谷さんとそれでもずっと。こうせつバンド、そこから5年、6年。随分やりますね。レコーディングも全部やって、浜田省吾もその間に。「イルミネーション」っていうアルバムを箱根ロックウェルで。

T:水谷さんも浜田さんと一番最初にやったのが「イルミネーション」って言ってました。

O:それです、それそれ。若手、おれ二十歳ぐらいですか。この間もやってましたけど、浜田省吾っておれ知らないから、「何サングラスしてるんだ、こいつ」みたいな。今考えると、この間ツアーやったとき、もう謝って。もう言われましたから、「しげる君はあの時、幾つだったの」って。「二十歳ぐらいですかね」。「そうだろ」とかって。普通に。でも、「イルミネーション」から5枚やるんですかね。そのバンドで。ドラムのロバートグリルっていう外人で。もう、ものすごく面白くて。スタジオも面白かったですよね。とにかく肝心なリズムが、もうこれこれって、日本人にないかんじ、これがいいっていうんで、みんなで。なんか変にしゃれたね。

T:それで70年代終わっていくわけですよね。

O:もう、走りまくって。

T:80年代になると新たな展開はあるんですか。

O:いやいや。落とし穴が。ベンツも乗り、離婚して、2回目の結婚して、なにやらいろいろとありすぎて、もう夢のような話がそこから始まるんですよね。どん底ですね。もうすごかったですね。

T:それからどうなるんですか。

O:そういうのっていうのは、自己責任ってずっと言われて、いろんなものやるのはいいけど、好きになるのはいいけど自己責任だからって。

T:それから仕事っていうのは。


O:ないですよね。でもそれをカバーしてくれたのは、水谷さんと瀬尾さんっていう人が、今、中島みゆきのアレンジとかやってる人が。とにかく救済の手っていうか、みんな敬遠するだろうから、おれが使うよって。スタジオに呼んでくれて、みんなに「しげる、帰ってきたよ」とかって。なんですかね、おれをもう一回スタジオに戻してくれるようにやってくれて、いやもう、それはありがたかったですよね。もう金もないし、車もうっちゃってるし、仕事もない、離婚もしちゃってるし、でもそれで仕事とかで、水谷さんが、また大丈夫かって。それで少しずつ少しずつ、盛り返して、で、長渕とかやり始めるんですよね、ツアーを。長渕は年が一緒だったっていうのもあるし、「順子」とか弾いてるんですよね。チャゲアスもそうなんだけど、デビューとか。そういうので、長渕が新しい世界にまた。甲斐バンドとか、ロックのツアーの話がいっぱい来るようになって。それで、スタジオともまた両立してっていうか、バンドはもう風もやらなくなるので。

T:復帰したのは。

O:あっという間に。気がついたら、また。お金が入ってきちゃうっていうのはよくないんですよね。でも、少しずつ、やっぱりベースっていう方向は、こんなになってるんだけど、何かやっぱりおもしろくなっていくし、勉強しはじめるっていう感じですよね。真剣にリズム、ベース。それで、マニアックな方向にどんどん。練習とか。それで去年暮れになくなっちゃったんだけど、ドラムの菊池タケオっていうのがいて、それは水谷さんたちのバンドにロバートブリルがいなくなるので、オーディションしたんですけどね。同い年なんだけど。そいつや何かとリズムの世界へのめりこんでくって言う感じですよね。コンビみたいに、スタジオ10年間、その後「タケオ」って、2人でコンビで、黄金のリズムセッションとかって勝手に言って。おれたちに勝てるのはいないって。浜田さんのもやるんだけど。それで、そういうスタジオがいっぱいありましたからね、仕事が。今と違って。おもしろい、一番よかった時期ですよね、バブルですよね。そうですよね。手帳もすごいですよ。

T:ほかにどんなアーティストやってたんですか。

O:わからないぐらい。覚えられない。尾崎豊もやってたし、だから、あの変は全部、ユーミンもやったのは覚えてるんですね、レコーディング。ほとんどニューミュージック、ロック、松田聖子とか、スタジオですよね。

T:それで、バブルが弾けて変わりました?

O:仕事が、やっぱりだんだんなくなっていってっていう感じですね。スタジオの仕事が。事務所、転々とするんですけど、ブッキングするだけなんだけど、仕事がなくなってきて、ここにいたってしようがないんじゃないみたいな。タケオと2人で追い出されたりとか。そうなんだみたいな。評判があんまりよくなかったんじゃないですかね、生意気で若いのに。それで追い出されて、いろんなところをいくんだけど、やっぱりだめで。どんどん仕事がなくなって、居場所もなくなってくるっていう感じですよね。その時にまた長渕から連絡があって。じゃ、ツアーやろうかみたいな感じで、ツアーやるんですね。ジャパンツアーって、DVDとかになってる。そういう時にたまたま出くわして助けられるっていう感じですよね。それをやってって、また。それなりに食ってきたんですね、だから。でも、スタジオの仕事はどんどん、もう昔スタジオミュージシャンって、今、もういないですよね。

T:インペグって、今、もうないですね。


O:インペグ屋さん、もう4つぐらいしかないのかな。もう要らないですもんね。水谷さんもそうだけど、何時に来てみたいな、みんなそうじゃないですか。自分たちで入れて。1万円とか2万円で、それでもお金、こっちは弾くのが好きだから。嘘みたいな時代ですよね。バブルだったんですね。残ってないですけどね、使うばっかりで。

T:その長渕さんとのツアーの後は。

O:浜田さんのツアーを。水谷さんの口添えで、とにかくシゲルは絶対やるべきだみたいな。がんがん押して、ほんとにやることになって。この間の1998年から2001年までの大ツアーをやって。水谷さんがいなかったら、全然おれなんかね、こんなあれだから。水谷さんとも、いろいろけんかしたりして、あれなんだけど、やっぱり水谷さんっていうのは恩師ですからね、水谷さんとずっとともに、先に10年行ってるんで、教えてくれるんですよ、いつもね。50になったらこんな感じだみたいな、もう今のうちにやっておかないと、10年早くたっちゃうぞとかって。やれることはやっとけみたいな、そういうアドバイスとかね、いつも。なんかでも、いいですよね。師匠っていうか。何かあれば水谷さんのもとに駆けつけるっていう感じですね。

T:2001年浜田さんのツアーが終わった後は。

O:もう、仕事激減ですね。やっぱりその間、4年間べた、もう何もほかの仕事できなかったので、ほかのスタジオっていったって、ほかの人達も敬遠するんですよ。ツアー行っていないだろうからって。どんどん4年間ですから、長いですよね。どんどん、だんだん、使ってくれてた人も使わなくなってきて、ほかの人っていうか、いろいろ。そういうふうになっていっちゃって。おれも事務所やめちゃったというのもあるし、所在がわからなくなり、水谷さんとか、ああいう知ってる人だけみたいな感じになっちゃったんですけどね。それで、仕事は激減ですよね。

T:TORIIっていうバンドは。

O:あれはFEBっていう、お世話になってるスタジオがあって、そのまま浜田さん終わって、そこでレコーディングがあって。しげるさんだの、森園さんだの、ギタリストを集めたアルバムっていうのでベースを弾きに行って、そこにいるジョージさんって言うオーナーが、風のデビューのときのエンジニアだったんです。それで、「しげる、おれは風やった時、兄貴に頼まれてたんだぞ。面倒みてくれって、二十何年前に」とかって。それがきっかけで、ジョージさんが、「面倒見てやるからアンプとか持ってこい」って、それで楽器も全部そこにただで置かせてもらってるんですよ。烏山に。その奥さんも、またすごいよくしてもらって、ご飯食べさせてもらったり、仕事、今回のピンクレディーも、実はその辺から紹介してきたっていう。

T:FEBっていうのは。

O:そこでレコーディングした時に、2月生まれのライブをやりたいんだよって、タケさん、紹介されて。そこで初めてあって、マック清水っていうパーカッションとか、みんないて、森園さんもいて、みんな2月で。出来るじゃんみたいな、ドラムは?って、そういう話になってその時にやろうっていうんで、FEBが。6年前ですか。それで初めてフェブのライブを。

T:その中でTORIIが?


O:タケさんがフェブの発起人みたいな。タケさんはトラスロットとかというのをやってたんですよ。だけどそれがバンドがだめになっていく間に、毎年フェブやって、何か気になってたらしいんですよ。おれのベースの感じがね。あまり周りにいないので、「一緒にやらない?」みたいな。「別にバンドをやろうか」みたいなので遊びに行くようになって、交流が始まって、知らないうちに曲を覚えさせられてて、「TORII」っていうバンドになってたんですよね。キーボードを入れたほうがいいんじゃないって、じゃあ西本がいいんじゃないとか。西本おれよく知ってるからみたいな。おれも知ってるけど、やるかなっていうんで電話したら、「やる、やる」って。それで、正式には去年ですよね。突然。全然普通の人、知ってる人が聞いたら、何でこのメンバーっていう、どこにも接点がないじゃないみたいな人達なんだけども。でやってるうちに、とにかくおれもやらなきゃわからないだろうと思って、とにかく。

T:ドラムの矢壁さんも2月?

O:トラストっていうバンドがフェードアウトする時に、ドラムに代わって入ってて、そこでタケさんと仲がよくなってて、「トラスロットやめる訳にいかないだろ」って、この2人で。でもほかのメンバーは離れていっちゃうんですよ。で2人で練習してたらしいんですよ。ドラムとギターで。つまらないからベース弾いてくれない、ちょっとって。それで夜中、遊びにいって、「いいじゃんいいじゃん」っていうんで、何かじわじわ。それでキーボードもいた方がいいって、西本もそういうときにちょこちょこ呼ばれて。バンドだっていうんで。「やるよね」っていう、半ば強制。やろうって始まって。不思議な感じですけどね。随分、もう1年半もやってれば、サウンド、また聞いてもらえば、随分まとまりが。人に聞かせられるようになったっていう。すごいですね、バンドってやっぱり。

T:この間の「FairLife」の中で矢壁さんと(西本)明さんと3人で。

O:そうですね。あれ珍しいですよね。タケさんいない、タケさんヤキモチ焼いちゃうみたいな感じだから。たまたまあれは水谷さんのだったので、「ベースとドラムとキーボードがほしい」って。西本の事は、おれも話をしてたので、水谷さん別の方向から、西本の話をだれかにいいよって。おれはおれで水谷さんの方に。それでドラムがいないかっていうんで、水谷さんが「おまえらTORIIってバンドやってなかった?」って。「そのドラムで」っていう、そういう。「いいんですか?大丈夫」って。おれ言ってて、「大丈夫だよ、おまえ一緒にやってるんだろ」とかって。「やってる」、「やってるなら大丈夫だ」って。「だけど、待って、まだそんなに」「オーケー、もう電話したから」って。「決まり」、「じゃあしようがないね。知りませんよ」、「しりませんよじゃないよ」って。「ちゃんとやってくれよ」ってあのアルバム。初めてですよね。おれカベちゃんとレコーディングするの初めてですから。バンドやってるのに。でも西本も変わったから、ここのところものすごい、ものすごいいいと思うし、前と違う。いいですよね、ああいうピアノ弾く人いないから、クラシックでもなく、ロック系であのテイストで、ああいうピアニストがいないから、いいですよね。水谷さんもすごく。それで、西本が来たんで、あいつも、moment。おもしろい取り合わせ。つながっていくっていう感じですよね。おれもここにいるんですもんね。

T:で、今後何かやりたい事は?

O:「TORII」でCDを出したいですけどね。CD出したいのと、ツアー、稲垣さんから、この間直接電話があったので、「またツアーやろう、ライブやろう」って。やっぱりバンドで少しあそこまで固まったものを、やっぱり何か世に残しておきたい感じですよね。このライブだけじゃもったいない。せっかくオリジナルばっかりで。そうですね。あとは結婚できたらいいですね。そんな感じですね。

-end-