佐藤史朗(Shiro Sato) PART1

 現在上演中の舞台「憑神」や映画「呪怨」等の音楽監督、また、アコーディオンユニット「プラネタリウム」でも活躍中の、
 佐藤史朗さんのロングインタビュー。その1。


(2007年8月31日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





 佐藤史朗 (Shiro Sato)

  Talk&Interview #57
 
  


    
 佐藤史朗 (Shiro Sato) インタビュー PART1

就職してから演奏の仕事っていうのはやっていなかったですけど、その頃、カセットのマルチトラックレコーダー出てきて、多重録音に手を染めるようになるんです。演奏して録音して曲を作るという面白さにひかれていって、だんだんと作曲っていうものに対して興味が強く向いていくようになるわけです。映像に音をつける作曲の仕事とかっていうのは就職してる間にあります。

TERA(以下:T):宜しくお願いします。

佐藤史朗 (以下:S):宜しくお願いします。


T:まず、生まれた場所を教えて下さい。

S:はい、東京都杉並区です。

T:ご兄弟は?

S:姉が一人。


T:幼稚園の時とか、記憶ありますか?

S:う〜ん、あまりないですが、おもらししちゃったりとか(笑)、そういうちょっと悲しい思い出が多少。あとは幼稚園の時にピアノやり始めたんで、まあその時の記憶も少々。

T:最初に弾いた曲とか覚えています?

S:曲としての記憶はあまりないですが、ピアノを習うっていうのがカリキュラムにある幼稚園だったので、その幼稚園の独自の教本も使いつつ、バイエルとかブルグミュラーとかの、誰もが習うような曲をやってましたよ。

T:なるほど。小学校入ると、好きな事とかよくやってた事とか記憶にありますか?

S:小学校はねぇ、まあ普通の音楽好き、野球好き、将棋好きの少年でしたね。で音楽好きっていうのもまあピアノならってたからですけれども、縦笛とか木琴なんかも好きだったし。で、五年生の頃、みんなと野球やったりして遊ぶ方が好きになって、ピアノ辞めちゃうんです。あとは漫画ですね、漫画大好き。


T:漫画は何ですか、よく読んでたのは?

S:よく読んでた雑誌は『少年サンデー』とか『少年マガジン』とかですけど、『少年キング』はこそこそっと立ち読みしたり。『少年ジャンプ』や『少年チャンピオン』は小学低学年時にはまだなかった。作品でいうと何だろうなあ、小学校高学年で『巨人の星』ですね。もっと小さい頃は『鉄腕アトム』とか『鉄人28号』とか。『スポーツマン金太郎』や『おそ松くん』『ブラック団』なんかも好きだった。


T:アトム世代なんですね。

S:そうです、そうです。テレビは欠かさず見てた。

T:マーブルチョコレートとか?

S:そうそう、おまけ欲しさによく買いました。

T:小学校の時に、レコード買ったりとかっていうのは?

S:初めて自分でお金を出して買ったレコードは、三年か四年ぐらいだったと思うんですけど、お年玉でブルーコメッツの『マリアの泉』ていうシングル盤です。たしか370円。それが初めてのお買い物ですね。

T:何買うか迷わなかったですか?

S:うーん、どうだったかな。グループサウンズ全盛時代だったんです、その時。

T:ええ、ええ。

S:で、なんとなく上品なブルーコメッツていうバンドに惹かれていて、ブルーコメッツの何にしようかなっていうのは考えたような気がしますね。レコード大賞とった『ブルーシャトー』というのはその後だったと思います。


T:他に買ったレコード覚えてますか?

S:小学校の頃はねえ、加山雄三も買ったかな。あとはクラシックですね。レコードって高かったんですよ。とてもお小遣いで買えるって感じじゃなかったんですがクラシックだとよく廉価版ていうのが、古い録音の名曲アルバムみたいなのがあったんで、

T:ありましたねー。

S:そういうのを買ったりはしました。

T:千何百円シリーズみたいなやつありましたよね。

S:そうそう、ええ。わりと手軽に買えたんですね。


T:中学入るとなんか部活動とかは?

S:中学時代は、部活はバスケットだったんですけど、フルート習いたくて、だから部活じゃないんですけど中学入ってからフルート習い始めた。


T:へぇー、それは何かきっかけがあるんですか?

S:小学校四年の時の担任の先生がフルート吹いてたんですよ。でクラスでみんなが縦笛吹くような時に、担任の先生がフルート吹いて、ああかっこいいなあ、と思ったのがきっかけ。で、ずっとフルートやりたい、やりたいって思っていて、中学の時、近くに先生見つけて習う事になったんです。

T:結構長い間やってたんですか?

S:いや、中学の間だけ(笑)。あ、そうだ。あと小学五年の時に、杉並から練馬に引っ越して、転校したんです。その練馬の学校に鼓笛隊があったんですよ。運動会でそれを見て楽しそうだなぁって思って、僕も入るんです。小太鼓やりたいと思って入ったんですけど、男子が少なくて、男子は全員トランペット、って言われて、そこでトランペットやってました。


T:中学の時はどんな音楽を?

S:その頃フォークブームだったんで、フォーク関係のものを聞いてるやつが多くて、あとビートルズを聞いてるやつとかいたんで、そういう人達の影響でなんかそういう方面に、目覚めてったって感じですかね。それまでは姉の影響でグループサウンズとかは聞いてたけど、割とクラシック少年だったんですよ。ピアノやったりフルート習ったり。聴くのもクラシック系が多くて、なんだか真面目な感じだったんですけど、中学の時に、「やっぱり加川良だぜ」とか「吉田拓郎でしょ」とかって言うやつがいて、さらに「ビートルズだ」「ストーンズだ」って言うやつがいて、それでちょっとまあ影響されたって感じですね。

T:フォークは実際何かギターとかやって歌ったりとか?

S:楽器を買ったのは中学卒業と同時ぐらいです。フォークギターを、6,000円で。西武新宿駅前の楽器屋さんで。

T:まず何から入ってったっていうか、何か歌いたいものがあったんですか。

S:やっぱり吉田拓郎弾きたいとか岡林信康歌いたいとか、そういう感じで。CとかEmのストロークでジャカジャカやるみたいな。Fが押さえられない、みたいな。

T:やっぱり歌本みたいなもの見ながら。

S:そうですね。

T:で、高校入ってそれが続くわけですか?

S:高校入ると、今度はもっとロックのほうに目覚めていくんですね。高校の同級生たちが結構ロック好きの人が多かったんで。簡単に影響されるんですよ、僕は。中学3年のとき、NHKのヤングミュージックショーという番組で、クリームとか、エマーソン・レイク&パーマーなんていうのをやってたのをみて、もうショック受けて、そのショックのまま高校に行き、ませた同級生が、僕の知らないロックのいろんな話とかする、そういう刺激の渦の中にいて、もうあっという間にそっちのほうにいくという流れです。(笑)

T:実際、バンドとかは?

S:高校のときはギターやってましたよ。グレコのレスポール買って。

T:そうですか。どんなバンドだったんですか?

S:それはね、それこそやっぱクリームやったりとか。あと、とにかく音を出せれば楽しいという感じで、節操なくビートルズやったりストーンズやったり、ザ・フーとか。あとディープパープルとかツェッペリンやったりとかしましたけど。

T:オリジナルは?

S:全然ですね。コピーのみ。

T:場所はどういうところでやるんですか?

S:高校の文化祭ですよ。

T:なるほど。

S:文化祭目指して。

T:練習して。

S:はい。かわいいもんです。

T:高校時代は、そのような感じの流れですか?

S:そうですね。あと、本当はだからギターずっとやりたかったんだけど、ギタリスト多いじゃないですか。で、ピアノやってた関係で、じゃあキーボードやるかみたいなことで、だから高校時代はキーボードも必要に応じてやってたって感じですかね。で、まあ、結構キーボードだとプログレが楽しかったんで、プログレ系ですかね。

T:高校卒業する頃、将来何やるとかって、何となく芽生えてくるじゃないですか。その辺って何かあったんですか?

S:何にもないんです。もうほんとに何やっていいのか全然わからないという状態。流されるように受験をして、何も考えず進学。大学卒業するまでは、もうとにかく社会に出たくないっていう、そういう数年間。何をやればいいのか考えることから逃避してたって感じですね。

T:大学は何専攻されてたんですか?

S:専攻はね……

T:特に今の仕事には関係ない感じですか?

S:もう全く関係ないんですけど、……哲学。

T:大学入って何かやり始めたこととかってあるんですか?

S:無目的に大学入って、真剣に音楽やり始めるかっていうとそうでもなくて、もう何かとにかくふらふら遊びたいっていうような、そういうほんとうにいい加減な学生でした。

T:バイトとかは?

S:バイトはね、ときどきやってましたね。何か欲しいものがあるとバイト、というのは高校ぐらいからちょこちょこはやってましたよ。例えばロンドンブーツが欲しいと思ってバイトをやるとか、エレキギターが欲しいと思ってバイトやるとか。大学のときは、エレクトリックピアノが欲しいということでバイトをやったり。

T:それはすぐ手に入ったんですか?

S:何か月か雀荘でボーイのバイトやって。それで頭金作って、憧れのフェンダーローズをローンで買う、っていう感じですね。夜中のバイトだったから、翌日学校休みがちになりつつ。

T:大学時代はバンドとかは?

S:いろいろやってました。僕、慶応なんですけど、高校の同級生で早稲田に行ったやつに誘われて、早稲田の音楽サークルにしょっちゅう出入りしてたんですよ。で、早稲田に友達がいっぱいできて、そっちのほうが家から近かったこともあって、ついつい早稲田に遊びに行っちゃって、今もつき合いのある音楽の仲間っていうと、大体早稲田の関係なんです。で、そっちのほうのサークルでは、いろんなバンド掛け持ちでやってましたね。

T:それはもうオリジナル曲を?

S:ぼちぼち、そうですね。コピーもやりましたがオリジナルもたくさんやってましたね。

T:もうこのバンドで続けるぞみたいなバンドっていうのは何か結成されてたんですか、その時?

S:いや、まだ何というか、覚悟決めてやってる感じじゃなかったんで、割といい加減だったような気がしますね、そこら辺は。

T:作曲とかはやられてたんですか?

S:やりますけど、大学時代、あんまり作曲っていうのは積極的にはやってなかったですね。僕は非常におくてなんですよ。そのころはまだ作曲に目覚めていなくて、むしろ演奏することに熱中していた。せいぜい数曲しかつくってないと思いますよ。

T:大学時代、今につながる仕事みたいなものっていうのは何かあったんですか?

S:大学の時に、いろんなバンドやってる中から歌手のサポートをやるというような機会もあったんですよ。で、その人脈が実は銀次さんにつながってるんですよね。あるサポートをやったときにいたスタッフのひとりが、その後の銀次さんのマネジャーだったんです。


T:大学出て?

S:軟弱に就職しちゃいました。

T:業種は何ですか?

S:音楽の出版社。音楽雑誌の編集とか、譜面の編集とか、何かそんなことをやったりして、地味にサラリーマン生活を送って。

T:何年ぐらいですか?

S:7年間。

T:長いですね。その間っていうのは、何か演奏の仕事とか、そういう仕事は?

S:そういうことはしていないです。要するに、音楽でプロとしてやっていけるんだろうかとすごく悩んで、就職することを選んだので、就職してから演奏の仕事っていうのはやっていなかったですけど、ちょうどその頃、カセットのマルチトラックレコーダー出てきて、多重録音に手を染めるようになるんです。で、演奏して録音して曲を作るという面白さにひかれていって、だんだんと作曲っていうものに対して興味が強く向いていくようになるわけです。それで映像に音をつける作曲の仕事とかっていうのは、その就職してる間にやったことはあります。

T:会社を辞めるきっかけっていうのは何かあったんですか?

S:それは、1つにはそのときやってたプロジェクトが終わっちゃったんですよね。雑誌が廃刊するみたいな、そういう状況になって、で、セクション替えをするというようなことになったときに、もう潮時かなっていう思いが。だから、音楽を仕事にするのはいかがなものかと思って就職したんだけど、就職しながらもやっぱり音楽やりたいなという思いはずっとあったんですね。でも、踏ん切りつかずにずっといたので、まあそれがいいきっかけになったと思うんです。で、え〜い辞めちゃえっていう感じで、勢いで辞めちゃった。

T:その後、辞めてからどういう動きをされたんですか?

S:まずはね、もうほんとにプー太郎状態になりまして、失業保険をもらいながら(笑)毎日ぶらぶらっていう生活だったんですけど、で、特に何をするっていう感じでもなかったんだけど、やっぱり曲を作りたいっていう思いが強かったんだと思います。だから、多分、何のあてもないですが、とりあえずオリジナル曲作ろうっていう思いで悶々とした日々だったような気がしますね。

T:なるほど。それが何か月か続くわけですか?

S:そう。で、そんなことしてるうちに、銀次さんのところから声かかったんですよ。さっき言った学生時代に知り合った人っていうのが銀次さんのマネージャーになってて、キーボードやらないかっていう話をしてくれたんだったと思ったな。多分会社辞めて半年ぐらいでそうなった。

T:それっていつ頃ですか?

S:もう15年ぐらい前だと思いますよ。80年代終わりぐらい。

T:銀次さんの、何かツアーだったんですか、最初?

S:ツアーだったと思いました。単発一本あって、その後、東名阪ツアーだったのかな。

T:銀次さん以外でも何かつながっていくんですか?

S:早稲田の音楽関係の1人に高橋研という男がいて、彼はシンガーソングライターとして学生時代にデビューするんですが、その後プロデューサーとして中村あゆみをヒットさせて、女性ロッカーブームの中心的プロデューサーとして活躍していたんですよ。その高橋研氏に声かけてもらって、彼がプロデュースするレコーディングとかライブに参加するようにもなった。

T:なるほど。高橋さんの仕事が続いていくんですか?

S:その中でも、特に深く関わってきたアーティストが加藤いづみ。加藤さんとは、もうずっと今でもやってますよ。

T:ドラムの河野道生さんも加藤いづみさん関係でのお知り合いですよね?

S:そうですね。

T:じゃあ、それが90年代前半戦の主な活動で。それ以外の映画とか演劇のサウンドトラックっていうのは、その後になるんですか?

S:その後ですね。

T: 映画、演劇の音楽の流れにつながるものっていうのは、どの辺から?


S:僕は基本的に歌ものも好きなんだけど、一番自分に向いてるのは歌ものよりもインストゥルメンタルのほうだという気がしてて、映像に音楽をつけるとか、お話に音楽をからませる、といった曲作りをやりたいなと思っていたんです。で、今所属している事務所では、舞台の制作をしたり、役者を多数抱えていたりするので、だんだんとサウンドトラックと縁が出来ていくことになるんですね。

T:それって何年前ぐらいですか?


S:う〜ん、10年くらい前からぼちぼち始まって、活発になるのが7、8年前じゃないかな。2000年入る前ぐらいから、映像とか、演劇とかとかかわる頻度がふえてくるっていう流れですね。

T:まずやった作品ってどんな作品だったんですか?

S:一番最初は何だろうな。『恋は舞い降りた』っていう映画かな。それは、さっき言った高橋研氏と2人でやったんです。で、僕にとって一番大きかったのは、98年だったと思うんですけど、『こどもの一生』っていうお芝居がパルコ劇場で上演されたんですが、その音楽をやったんですよ。そのときの演出家がG2さんという人だったんです。その後、彼が演出する作品を結構たくさん音楽つくらせてもらうようになって、仕事のベクトルがサントラの方向に向いていくことになるんです。

T:それは、例えば年間で何本ぐらいですか?

S:どうだろうな。年によって違いますが、まあ平均して3〜4本くらいですね。ことしは、4本やりましたけど、そのうち3本がG2さんの演出です。

T:じゃあ、結構もう10年ぐらい続いて。

S:そうですね。

T:なるほど。ここから、次回PART2という事で。ひとまず、ありがとうございました。

S:ありがとうございました。










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