special issue: 「トリビュートバンドの逆襲/これを観ずに君は死ねるか?」


  「ROCK」の楽しみ方は、様々である。「ROCK」の在り方もまた、様々である。『既に「ROCK」など、もう無い』と断言される人もいる。また、昨日今日「ROCK」を好きになった人もいる。その人の数だけ「ROCK」の在り方、楽しむ方法がある、といっても過言ではない。『トリビュートバンドという存在を知っていますか?』コピーバンドとか、カヴァ−バンドとか、観る人や演る人によって、色々な解釈によって、その呼び名は様々だけれども、実は、単に「トリビュートバンド」と言っていられないほど、面白い。「何でオリジナルをやらないの?どうせモノマネでしょう?」なんて愚問をしたい方は、どうか、今すぐこのページから御辞退いただきたい。そう断言できるほどに、彼等は「確固たる意志の元」に活動している。「正直」で「純粋」に「楽しめる」「自由な」「ROCK」が、ココにはある。少しでも興味を持ってくれた方は、彼等の言葉を聞き、音を聴き、出来たら一度、体験して欲しい。夢にまでみたあの幻のバンドを体験する事が出来る。もしかしたら、貴方にとって、それ以上の体験が待っているかも知れない。今、あらためて「トリビュートバンドの逆襲」が始まる。

#5 contents/トリビューとバンドの逆襲

Part1
MR .JIMMY
Part2JIMSEN
Part3ライブレポート/VON HALEN/MAKIN'LOVE

 

 special issue : Part I / MR.JIMMY




Jimmy 桜井 

小学校の頃より映画音楽に熱中する。
中学2年のとき高校生のバンドでで入った高校生のバンドで、気が付いたらリードギタリストの座を奪っていた。
高校のときHouses Of The Holy』を買い、一曲目の『Song Rem
ai ns The Same』が、ギタリスト人生を一転させる。絶対コピーできないと思う反面、絶対完全にコピーしてやると決意。
高校卒業後、プロにならないかという誘いを受け東京へ。しかしその現場で感じたのは「今は自分の居場所じゃない」。地元に戻り、ツェッペリンのコピーバンドで数々のイベントに出演し活動を続ける。かねてから世話になっていた某有名ロックギタリストに誘われ、再び東京へ。
『ZEPPELIN Remasters』の発売を期に、ミュージシャン仲間とパーティなどでZEPを演る機会も増える中、
1994年米軍横田基地に隣接するクラブ”Club49”に出演、米兵たちの熱狂的な支持を受ける。そのときに、イベンターが勝手につけたバンド名が”MR.JIMMY”その後、MR.JIMMYとして都内各地で精力的に活動中。

【MR.JIMMY】
GUITAR:Jimmy 桜井
BASS:Professor OTSUKA
VOCAL:Percy MOTO
DRUM:Cookie KURIKAWA



TERA(T):簡単な自己紹介をお願いします。

Jimmy(J):『MR.JIMMY』のギターを弾いておりますJimmy 桜井です。

T:Jimmyさんが音楽を始められたのはいつ頃ですか? 

J:音楽を始めたのは、実際にギターを弾き始めたいう意味では14才の夏休みですかね。中学二年の夏休み、親に買って貰ったギターで弾き始めたのが最初です。

T:最初はどんな音楽を?

J:あの頃は『KISS』が非常に人気がありまして『KISS』のコピーをいきなり始めてみました。最初は楽器屋さんに教えて頂いたりとかですね。弾き方も何も分からないんで、独学でコピーしてました。

T:その頃、バンドとかは組まれてたりしてたんですか?

J:バンドはですね、ギター弾きはじめてから1年くらいでかなり弾けるようになっちゃってたみたいで、高校生のバンドが引き抜きに来てくれてですね。高校生のバンドでリードギター中学3年の時にもう弾いてたかな。その時はビートルズとかKISSの曲を演ってたと思うんですが。中学3年にしてお客さんの前で、人の前で演奏したという感じですね。

T:高校以降の活動というか、どんな音楽生活を?

J:高校に入って、ツェッペリンのコピーバンドを演ってる仲間と知り合って、一緒にバンドを組む様になるんですけど、ツェッペリンに関しては最初に中学生の頃に聴いてるんですよね。ところがその時は「ただ難しい大人のロック」だって言ってた様な気がしますけど、全然理解出来なかったんですね。高校になって改めて聴いた時にもの凄く分かり易くてですね。その時にある程度、自分がギターを弾ける様になっていたというのもあると思うんですけど。それで案外早く入り込む事が出来たかな?と。それで、高校に入って間もなくツェッペリンのコピーバンドっていうのを始めて。ですから本格的に始めたのは高校に入ってからですよね。音楽が分かるようになったのは。

T:その後、本格的に音楽の道に入るようになった動機とかターニングポイントは何だったんですか?

J:ターニングポイントというか、やっぱり高校生とか、10代の頃ってものすごく集中力もあるし覚えも早くて、あの頃は色んなものが吸収できたと思うんですけど、そんな時にギター弾いてて、「ギターは楽しい、いつかバンドでプロになってやろう」という気持ちにやっぱりその時なりましたね。僕の場合は18才で某プロミュージシャンのボーヤくんをやるという話があって、就職活動も何もしないで遊んでいたんですけど、それがドタキャンになっちゃって、行き先を失って、東京に一旦出て来て、まあ、ここでは言えないような仕事とかしたりしてるんですけども。サラリーマンの間は全然バンドも出来なかったりで、一度は田舎に帰るんですね。昔、高校時代に一緒にやってたメンバーとまたツェッペリン演ることになるんですけども、その時はただ「プロになりたい」というか「音楽で飯を喰う」っていう事に、もの凄く憧れていましたね。それ以外で自分が生きていくというのがちょっと考えられなかった。

T:音楽でお仕事をしたのはいつ頃からですか?

J:まあ、お金を払って見に来て頂いたとか、ギャラという形で頂いたというと、どうなんでしょうか?20代前半だった気がするんですが、ただもうおこずかい程度ですよね。結局「自分がプロになりたい」と思うのに際して自分が考えるプロって何だったか?と思うと、それは自分がやってる音楽で飯が食えるようになれば一番いいと思ってたんですね。その時、それはイコール、レッドツェッペリンの音楽のわけで、ところがレッドツェッペリンの音楽をやって飯が食えるわけ無いですよね。だからそこでプロになるってどういう事なんだ、プロって呼ばれる人達はどういう人達なのか分かったような気がして「自分は好きな事をする為に仕事をしよう」という事で、今までいろんな仕事をやってきてますけども、いずれもそれは自分もやりたい事をやる為にですね。

T:Jimmyさんが、『MR.JIMMY』を名乗り始めた頃は?

J:『MR.JIMMY』っていうのは、イコール僕という風に捉えられがちなんですけども、実はバンド名でして。それも僕が付けたんではなくて94年ぐらいだったですかね。バンドがまだ初期の頃でしたけど、まだバンドネームも無い時代に、今はもう無いですけど福生のとあるクラブで、ゲストで演奏させて頂くという機会があって。友達のスタジオミュージシャンだとか気の合った仲間を集めて「ツェッペリンのコピーをやろうよ」という事でやる事になったんですが、その時、二度目だったですかね。たまたまブッキングをやってくれてた女の子が『MR.JIMMY』って名前を付けてくれたのがきっかけですね。その時はここまで真剣にやるとは思ってなかったんですが、それがそのまま今までつながっている状態です。

T:トリビュートバンドとしての『MR.JIMMY』は、Jimmyさんにとって、どういう存在なんですか?

J:純粋に今は好きな事をやっているだけなんですね。よく色んな人と話してて「何やってらっしゃるんですか?」という話で「ツェッペリンのコピーバンド演ってるんですよ」って話をするとですね「僕も大学の時よくやりました」とか、「高校の時、弾いた事あるな」って話を聞いたりするんですけど。まあその場の話としていいんですけど、やっぱりよく考えてみると皆さんがやってきたもののと、僕がやってきたものとは同じコピーでも、違うんだと思いますよ。楽譜買ってきてそのまんま演奏するっていうのもコピーだろうし、それもトリビュートという事になるんだろうけど、ちょっと違うのは僕がやっている事というのはものすごく労力がいるんですね。楽器のチョイスもそうだし、精神的な事もそうだし、思想的な所っていうか、本当に本人になりきっちゃう時があって。ちょうど子供の時に『仮面ライダー』になってみたり『ウルトラマン』になってみたりって、男の子だったら絶対経験があると思うんですけどそれが今も継続してるのかなとたまに思いますけどね。それに結構似てるのかも分からないですね。だけどそれがゴッコじゃなくてリアルタイムに、実際に大人のお客さんの前で(ショーとして)やってるというのが現実だと思うんだと思うんです。だから僕にとってトリビュートバンドというのはもうある意味生活そのものだったりしてますよね。余暇をつかってギターを弾いてるとかってつもりは全く無いですね。

T:ジミー・ペイジに対しては、『ヒーロー』みたいな存在なのでしょうか?

J:実はもの凄く「ジミー・ペイジに会いたい!」と思った事は無いんですよ。「憧れの人」という感じも今は無くなっちゃってるって事もあって。何でしょうね。すごく好きなんですけど、彼の音楽が好きなんであって、彼自身がどうこうというのは無い気がします。よく女性の方でジミー・ペイジの大ファンという方がいらっしゃって音楽も勿論そうなんでしょうけど、若い頃のジミー・ペイジの存在に憧れを感じている方がいらっしゃって、そういう方とは僕は違うかなと。男性の方でもそういう人はいると思うんですが、そういう人は「本人に会いたい」と思ってらっしゃると思うんですね。でも僕はそんなに熱望してない。もちろん会ってみたいし、握手もして欲しいですし、いろんな話をしてみたいんですが、ただ会うとしたら、同じプレイヤーとして、決してジミー・ペイジと同じレベルにもっていくつもりは無いんですが「あなたと同じ感性のギターを僕もやらせてもらってるんです」という立場で会いたいなっていうのが正直な所です。だから『ヒーロー』なのか『先生』なのかよくわからないですね。もの凄くインスパイヤされてるし、大きく変えたと思うんですジミー・ペイジは、僕の人生、僕だけでなく、色んな人が人生を変えられたと思うんです。

T:『MR.JIMMY』を聞き慣れてると、逆に「オリジナルに物足りなさを感じる」人がいるそうなんですが。

J:僕達が聞いているツェッペリンっていうのはレコードとかCDのツェッペリンであって、『MR.JIMMY』のライブを毎回楽しみに来て下さっているお客さんも殆どの方が生のツェッペリンは経験した事がない人達なんですよね。そう思われる事があるとしたら生で出てる音っていうのはやっぱりレコードとかCDとは違うものなんで。ちょっと話がズレちゃうかもしれないけど、たまにこういう皮肉というか、意地悪を言う人がいるんです「なんでコピーをやるんだ、コピーバンドを見たいとは思わない」「ツェッペリンが見たいんだったら家でビデオ見るか、大きな音でライブ盤聞くよ」ってそう言う人がいるんです。それはそれで考え方として間違って無いと思うんですけど。それでも何で僕らのライブに来てくれる人がいるかっていうと、もちろん本物ではないし、演奏も本物には全然到達しないくらい未熟なんですけど、ただ好きだからやってるというそこから生まれてくるものが多分その場(ライブ会場)に居てくれる人に伝わっているんじゃないかと思うんですよね。だから、本物に物足りなさを感じるって言う人が、もし居るんだったら「そういう事かな?」って思うんですけど。自分では絶対そんな事思わないですけど。自分達のライブ音源聞いていつも反省してます。やっぱりツェッペリンのブートレグ(海賊版)を含めてライブ盤なり色々聞くと、もう全くここまでやってるのに全然似てない似てない所があって、、。んー。

T:Jimmyさんにとって、バンドを続ける意義とかっていうのは何かありますか?

J:意義はないんじゃないかな。「ただ演ってる」それだけなんですよね。じゃあクラシックの演奏者達に「なんでその演奏をずっと続けるんですか?」という質問をするのと同じかもしれないですね。僕はツェッペリンを「ロックのクラシック」と考えてますね。だから新しいものは僕には必要無くて。クラシックの演奏家の皆さんもそうだと思うんです。最新の楽器を使ったクラシック調なもので「新鋭」って言われるものも出てはいるんでしょうけどなかなかポピュラ−にはなりづらくって、相変わらず何百と残された譜面を元に個人の解釈で演奏されてたり、当時の演奏家、あるいは作曲家の気持ちを汲みながら、想像しながら演奏されていると思うんです。それとまったく一緒で、もう誰もああいう音楽を演ってくれないので自分で演るというか。だから新しいものにはほとんど目がいかないし、耳も向かない。必要無いって感じですかね。

T:それは自分達のオリジナルも含めてですか?

J:そうですね。オリジナルも実はバンドの中で作ったりもするんですけど、正直言うとあんまり楽しんでは作ってはいないんですね。僕の場合。『MR.JIMMY』というバンドでオリジナルを作る場合、ツェッペリンのやり方で、ツェッペリンの音を真似たようなものが期待される訳だし、それが自然な形で生まれてくるし、そう作りますよね。だけどそれは、この曲はツェッペリンのあの曲からとかって自分の中で説明がついていてバレバレで。聴いている人に解らなければいいのかも知れないけれど、そうではなくて何か真剣に楽しめない。「あの曲すごく良かったです」とか言われた時に、「実はあれはツェッペリンのどこどこから頂いた曲なんだよ」って思っちゃってる自分がいて。そういう意味ではすごく冷めちゃうというか。じゃあ何でそんなことをするのかというと、音楽をやっている人のサガかもしれないですけど、自分のやり方みたいなものを、、。自分のやり方っていうのは多分存在してなくて誰かのやり方を真似てるだけなんですけど、だからそういう意味でこの世にオリジナルは存在してなくて、じゃあそれをいかに近付けて同じ音が出せるか、ちょうど戦車のジオラマを作る時に「どこからみても本物に見える」って思いながら作っていきますよね、あれと似ているのかもしれないですけど。フェイクの世界で、それを再現している自分の手で、耳で楽しみを感じているに過ぎないかもしれないですけどね。いつかオリジナルアルバムとしていつか残したいとかって話もよく出るし、自分もそういう話をしたりするんですけど、本当にそれを一番に考えているかというとそんな事はなくて、ただただ今の音楽スタイルで、つまりレッドツェッペリンのトリビュートバンドとして演奏し続けていればそれだけでいいのかなって思ってますね。

T:『MR.JIMMY』を聴いてくれる人に対して、表現したい事や聴いて欲しいところは何かありますか?

J:自分がジミー・ペイジのギターを聴いてもの凄くかっこいいと思える部分とか、感銘をうける部分。「何でここを、こういうビブラートかけたんだろう」とか「何でここでピッキング、ちょっとミスっちゃったのかな」とか思った時に、何かこう凄く解るんですよね。全然意識してないんだけど、同じ所で同じ間違いをしたり、「ミスピッキングまでコピーしてる」って言われるんですけど、僕はミスピッキングまでコピーした事は一度もなくて、つまり自分が聞いて感じた通りの事をそのままステージで表現したいんですね。それが出来ない事が多いんですけど。それが僕にとってのライブパフォーマンスかも分からないですね。だから動きもそうなんですけど、ジミー・ペイジという人は当時もの凄いアクションをする人で、やっぱりそれを見ている皆は「かっこいいな」と思ってるはずなんですけど、それも作られたポーズに再現するんじゃなくて、自然に出てくるようなそういう動きに自分がなれるといいな、何ていつも思ってはいますけど。


ラストは『今、Jimmyさんにとってギターとは?』を伺ってみました。これはムービーで本人の言葉を聴いて下さい。

      【HISTORY】


1994
今や伝説となってしまった福生の老舗[CLUB 49]で、初めてMR.JIMMYというバンド名で演奏。米兵達の熱狂的な支持を受け、以降定期的に出演。吉祥寺クレッシェンド、下北沢CLUB251を中心にライブをかさねる。この間Jimmy 桜井I 以外のメンバーは、ZEP好きなミュージシャン仲間での流動的なセッション・ライブで活動する。

1995
メンバーにOTSUKA教授、PercyMOTOが加わり、固定メンバーでの活動が始動。同じころ、トリビュートバンドが集結するイベント”ART ROCK NIGHT”の拠点である池袋LIVEGARAGE Admで、定期的にライブを開始する。

1996
3月[日清パワーステーションに2DAYS
に渡って行われた”ART ROCK NIGHT”のイベントに出演。このライブをきっかけメディアへの露出も増え、ますますLED ZEPPELINへの探求熱が高まる。6月からCookie KURIKAWA参加。現在のメンバー編成となる。

1998
10月[川崎クラブチッタ]にて”ART ROCK NIGHT”のイベントに参加。さらに同時期に発売されたオムニバスCD「ART ROCK NIGHT vol.1」にオリジナル曲2曲を提供。(このCDは現在廃盤のため入手困難となってます)


   
  「ART ROCK NIGHT vol.1」

1999
10月Von Halen, Jimi Sen & Zaisu Jop
plinと共に”ART ROCK NIGHT”初の名古屋公演に参加。

2001
8月名古屋ボトムラインにてワンマンライブを敢行。

〜2002.
JUNE この間、音楽雑誌をはじめ、民放やCS放送[北野チャンネル]などのテレビ媒体でバンドが紹介されたりと徐々に注目度もアップしていく中、現在は原宿クロコダイル等を中心に精力的にライブを続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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今、Jimmyさんに
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 special issue : Part ll / Jimisen





ジミ・アシッド・センズリックスこと、藤江博


【about Jimisen】


伝説のギタリスト、ジミヘンドリックス。今更彼を紹介する必要はない。そのジミヘンを生音で蘇らせる事のできる数少ないバンドが、『Jimisen』である。日本にも多くのジミヘンのフォロワーがいるが、Jimisen』ほど、そのバンドとしてのダイナミクスに忠実なバンドはない。燃えるストラトを叩きつけ破壊するそのライブの再現性には度肝を抜かれるし、ステージ上の緊張感はまさにジミ・ヘンドリックスそのものである。オーディエンスはいつしか自分の存在する時代を、時間を見失う。ノイズをも再現する驚くまでの演奏技術の高さ、素晴らしさは、コンピューター全盛の現代において、60年代のアナログサウンドを奏でるロックバンドの醍醐味が、いかに新鮮であり、熱いものであるのかを教えてくれる。 現ドラマーを迎えて、当時のジミ・ヘンが「クライ・オブ・ラブ・バンド」「バンド・オブ・ジプシーズ」の活動時に見られた、Blues、R&B、Jazzといった要素をより強調する演奏形態になり、コンテンポラリーなインプロビゼーション
を備えたロックバンドとして、自由自在に音楽が変化していくようになった。ジミ・ヘンドリックスの演奏をソウルフルにとらえ、内面から再現していくバンドであり、他のジミ・ヘンのコピーバンドの中では群を抜いた存在になっている。また、ジミ・センがサウスポーではないということで批判を受けてこなかったことが、彼のギター演奏を見れば理解できる。それは、見る者にジミ・ヘンがサウスポーで
あったことを忘 れさせるほどのリアリティーがあるからだ。 60年代にもっとも先鋭的な音楽アプローチを行っていたジミ・ヘン、そのアプローチを引き継いだジミ・セン。しかし、そこには古さという言葉が当てはまらない。ロックの郷愁であるはずのサウンドが、やはり先鋭的な音となって現代に甦っている。ジミ・ヘンに尊敬の念を止まないジミ・センが、ジミ・ヘンを再び表舞台に登場させている。 あの時代も今も、何が大切で、何が大切でないかを教えてくれるジミ・ヘンドリックスのサウンド、悩み迷走する人々にJimisenがその答えを教えてくれるだろう。


 


TERA(T):まず、お名前からお願いします。

藤江(F):ジミ・アシッド・センズリックスこと、藤江博です。ジミ・ヘンドリックスのトリビュートバンドで、「Jimisen」というバンドで活動してます。

T:藤江さんがバンドを始められたのは、いつ頃の時ですか? 

F:ギターを始めたのは、どのぐらいだろうな?中学の終わりくらいですかね。多分15才くらいの頃だと思います。

T:仕事として、やり始めたのは、いつ頃の時ですか?

F:初めてギャラをいただいて仕事したっていうのが19才の時でした。

T:ミュージシャンとして生きていこうと、何か決断された何かきっかけみたいなものはありますか?

F:そうだな、とりあえず当時、お金がいい訳ですよ。一月少なくとも50万とか、CM のお仕事頂いたりとかすれば100万とか、当時、まだ(CMの)制作費も多かったんで100万円とか、そういう金額がその19才、20才で入ってくる訳ですからね。「あ、これは儲かるな」と。「いい暮らしできるじゃん」ていう。「食っていこう」というよりは、何だろう、そういう事の繰り返しになって、飲み込まれたって感じですかね。

T:その時は、バンドとかはやってましたか?

F:ええ、やってました。オリジナルのバンドもやってましたし、ヘンドリックスのカバーバンドもずっとやってました。1982年位からですかね。20年オーバーでやってますね。恐え(笑)。


T:バンドをやりながらフリーのスタジオワークとかの活動だったんですか?

F:そうですね、主にスタジオワークですね。あまりツアーメンバーで参加したっていうのはないですね。

T:その頃、仕事のメインは何ですか?

F:例えば、当時だとゴーストやったりとか。そういうのも、もちろんありましたし(笑)メインはそういう間に広告代理店さんが入ったりして落ちてくる制作っていうのがメインですね。それが一番お金頂いたんじゃないんですかね。今までで。

T:その時の肩書きって何になるんですか?

F:当時だと色々なんですよね。主にギタリストなんですけど、だから間にプロデューサーさんとかがいらっしゃる時はギタリスト、作家として紹介され、間に誰もいらっしゃらない時はプロデューサーとして動いたりとかっていう感じですよね。

T:トリビューバンドの『jimisen』に関して、それを「やろう」と思ったきっかけというのは?

F:もともと、僕はガットギターを弾いていたんですよ。それでフラメンコをやっておったんですが、ヘンドリックスの映画(『ウッドストック』)を観まして、エレクトロニックギターと言うのはこういう音がするんだと。で、たまたま映画館に入った時にはヘンドリックスが演ってるとこだったんで、エレクトロニックギターがこういう音するんだったらこういうのやろうと思ってて、たまたまその時にべーシストに「ヘンドリックスのカバーのバンドをやろうよ」というのでお誘い頂いて、それで始めました。

T:それが82年頃。

F:そうですね。2年か3年か、くらいですね。

T:初めてのライブのこととか覚えてますか?

F:ハハハ(笑)。ええ、ヘンドリックスやった初めてっていうのは覚えてます。 えっと、成蹊大学の学園祭.で『子供ばんど』さんの前座でやらせていただいたんですよ。それで、学園祭だったり、野外だったりで、当時の僕らのイメージがウッドスットクとかぶるんで、もう前座でギター燃やしたり、叩き壊したりしてメチャクチャして、『子供ばんど』の方に喜んでいただいた記憶がありますけど。


T:そこから、「もうずっとやっていこう」って思ったんですか?

F:そうですね、僕にとってエレキトリックギターがイコール『ヘンドリックス』だったんで、その後、誰を聞いても、どんなギターリストの方のを聞いてもあんまり変わらないんですよ。やっぱり、ヘンドリックスを超えるな、という方がいらしゃらないんで。ですんで、ずっとそこを追いかけてプレイしている。まぁ、いろんな意味でですけど。というのも、ずっとやっていこうと決めたというよりは、今だにそういうところに捕われているんだと思いますよ。

T:それは、リスペクトで自分なりに伝えたいものがあるからなのか、自分のものを伝えていきたいのか。演っている時の思いというのはどういう感じですか?

F:えっと、そうですね。もちろんリスペクトはあるんですけど、例えばそこに、こういう音楽家としての表現という形があるじゃないですか。そうすると、例えば、音楽って宗教みたいなことだと思うんですよ。だから、じゃあ、宗教の信者の方は神様をリスペクトしているかというと、ちょっとそれと違う。で、あって当然で、いて当たり前という。音楽にそういうものを僕は持っていて、それが『ヘンドリックス』を通じてなのか、ロックを通じてなのかは分からないんですけど。音楽というコミュニケーション手段が多分いろんな、例えば言語とかそういう色々な感情表現を超えているんじゃないかなと。その手段としての音楽をやるっていうのが、当たり前のような気がするんですよね。特にこう決めてやるとか、やりたいと思うからやるというよりは、やることがすごく自然な気がしてます。

T:やっぱり、楽しさっていうのは感じますか?

F:そうですね。うん、やっぱり基本的には根底にあるのは楽しさで、楽しくないとやらないんだと思いますね。多分エッチするのが楽しくないと子孫が繁栄しないのと同じ理屈ですけど。

T:もう凄いステージ数でやっていると思うんですが、セットリストは決まってるんですか?流れみたいな。

F:うちの場合は決めてないんですよ。例えば収録の時にそれで御迷惑をおかけしたりするんですけど、毎日毎日、ステージに立ってお客さんの感じが違うんですよね。なんで、いつも決めてやらないんで、だからアレンジも全部ギターから出るアレンジになっているんですよ。その日の感じで組み立てていく方が多いですね。

T:藤江さんにとって『ヘンドリックス』っていうのは、今思うとどういう存在なんですか?

F:んー、イノベーターだったんじゃないですか?まぁ、当時、僕にとっては圧倒的に考えられないことをやったなっていう。なんだろ?例えば発明家とか、かなり近い人だと思いますね。そういう意味でたぶんビートルズとかとの延長上で展開した人だと思います。

T:今、一言で『トリビュートバンド』って色々とあると思うんですが、藤江さんにとってトリビュートバンドする事の意味は何ですか?

F:さっき言われた「バンドのリスペクト」でいいと思うんです。例えば、ビートルズがエルビスが好きで、エルビスみたいになりたかった。で、そのビートルズは何かミュージックビジネスの革命を興してしまう。そして今度はそのビートルズが好きで、例えばヘンドリックスがいたりとか、ボブディランがいたりとかしてて、で、ヘンドリックスが好きで例えばプリンスがいたりとか。今度はプリンスが好きで…って連々とくる音楽のスタイルってあるじゃないですか。そういうのがトリビュートバンドという形をとることで、前人達が表現してきた音楽に敬意を表しすと言うか、音楽ってそういう「積み重ね」な科学だと思うんですよ。だから突然何かがポッと始まるんじゃなくて、何かこうあったところから+αが出てくる。その+αがあるから誰も予想ができないという、ちょっと科学っぽいところがある。ちょっと実験と失敗の繰り返しみたいなところがあるんで、そういう意味でトリビュートバンドっていうのは、そういう前人達に敬意を表してとか、もしくは音楽の流れを表現としていくという解釈を僕はしています。

T:トリビュートする時と、オリジナルをやる時の違いって、何か気持ち的なものはありますか?

F:オリジナルをやる時と、一番大きく違うのはマテリアルとしての楽曲が違うってことですね。例えばヘンドリックスのカバーをやるとすれば、ヘンドリックスの曲をやる訳で、自分の曲をやるときは自分のオリジナルの曲をやりますね。ヘンドリックスも結構カバーの曲が多くて、カバー曲そのままアルバムにしたりしてるんですけど、で、プレースタイルとか抜いてしまうと、あまり変わらないかも知れないんですが、一番大きいのは多分楽曲と、「歌を歌う」というという、それが違うってことですかね。自分のオリジナルの場合は僕は歌いませんから。あとは、例えば来月末にデトロイトでやってくるんですけど、アメリカに行ってやる、アメリカ人もしくはイギリス人の前でやるっていう、ヘンドリックスに似たスタンスの中でそういう聴衆の中でやる時に、『ヘンドリックス』をやるのと、オリジナルをヘンドリックスのスタイルでやるっていうことは全然違いますよね。『ヘンドリックス』をやる時はみなさんが『ヘンドリックス』として見てくれますから。でなく、オリジナルをヘンドリックスのスタイルでプレーする時は「ヘンドリックス好きでしょ?」っていう見方をしてくれますからね。その辺はそういう違いが自分にはありますけど。


ラストは『今、藤江さんにとってギターとは?』を伺ってみました。これはムービーで本人の言葉を聴いて下さい。

      【HISTORY】


1983年
結成。某バンドの学園祭ライブに前座として出演。
1989年
この間、都内ライブハウスを中心に定期的に活動を続けるも、あまりに過激なステージ演出から、出演拒否を受け都内での活動を断念。

1991年
ウッドストックの影響を受けて、60年代、70年代を愛するライブハウス池袋「ライブガレージAdm」のバックアップを得て活動を再開。シリーズ企画「アート・ロック・ナイト」にてレギュラー活動開始。雑誌「フロムA」のカラーページにてそのマニアックぶりが紹介される。年間80本のライブを消化。

1995年
雑誌「じゃらん」にて特集。年間100本のライブを行う。

1996年
バンド名を「エレクトリック・レディ・バンド」に改名。上半期の総集編として、日清パワーステーションにて行われた「アートロックナイト'96」に出演し、600名を動員する。また、マジシャンの「スピリット・ももせ」氏 と氏の漫画化記念ライブにて競演やラジオ短波でのジミ・ヘンドリックスの追悼番組にゲストで出演するなど、その活動の幅を広げる。ニューヨークへ、ジミ・ヘンの足跡を辿る旅を続ける。帰国後、福生横田基地内(US AIRFORCE)でライブ。米兵から、パーフェクト・サウンド!!という評価を受ける。バイク雑誌「Mr.Bike」にて特集され、ゴッド・スピード主催のイベント「シンヤ・デイ」に出演。年間120本のライブを行う。

1998年
ヤングギター誌上でギタリストとして、ジミ・センが特集される。さらに、読売テレビ「新橋ミュージックホール」に出演するなど、メディアも大きく注目することとなる。「トゥナイト2」「東京デイズ@」「東京1週間TV」等に出演。篠原涼子のCMのプロモーションビデオに参加、並行して「ボディ・ワイルド」のバックバンドとしても活動し、同名のアルバムに参加する。ジャニス・ジョプリンの生前のバックバンド、「ビックブラザー&ホールディングカンパニー」と共演、まさに本物を見てきた彼らから、最高のロックン・ロールバンドであると賞賛せれる。また、フリーモーションレコードより全国発売された「アートロックナイトVol.1」と題したオムニバスアルバムに参加し、話題になる。年間130本のライブを行う。川崎クラブチッタにて「アートロックナイト」開催。

1999年
スカイパーフェクトTV「北野チャンネル」でのコピーバンド選手権に出演。ジミ・ヘンのギターテクニシャンであったロジャー・メイヤー氏が来日時にライブに来場し「ジミをさらに進化させたバンドサウンド」と絶賛する。氏から「Tokio Jimi」という称号を授けられる。

2000年
ロックストリッパー「ハリケーン・サリー」とのステージが「週間フライデー」紙上にて紹介される。

2001年
バンド名を「Jimisen」に戻す。横浜クラブヘブンにて「アートロックナイト」開催。

2003年
現在、池袋「ライブガレージAdm」にて定期的に活動中。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今、藤江さんに とってギターとは?
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 special issue : Part lll / ライブレポート(4/27『原宿クロコダイル』)

  さる4月27日。原宿。19:30。老舗ライブハウス『クロコダイル』の前には、長蛇の列が。人の波をかき分けて、スタンディング200人も入れば一杯の店内まで入ると、そこには300人を超える聴衆がいた。年齢層はバラバラ。ビール片手の外国人から、なかには中学生かと思うぐらいの若い男の子まで。皆、視線はステージに。彼等の演奏が始まるのを今か今かと待ちわびていた。
この日の出演バンドは『ランジェリーズ』、『VON HALEN』、『MAKIN' LOVE』の3バンド。いずれも多くのファンに支持されているトリビュートバンドである。
今回、『VON HALEN』と『MAKIN' LOVE』から、コメントとライブ映像の一部をご紹介します。興味をもった方は是非、一度ライブ会場に足を運んでみて下さい。オリジナルのバンドのファンの方はもちろんの事、知らない方もたっぷり楽しめるステージが、そこにはあります。
詳細なライブ日程等は、各バンドのウェブ サイトからどうぞ。



VON HALEN



【VON HALEN】


VOCAL:てふっちょ・リ−・ロス
GUITAR:E・D(え〜で〜)ボン・ヘイレン
BASS:マイコロ・アンソニー
DRUM:アレ?くさい・ボン・ヘイレン

【VON HALEN HISTORY】

1992年 結成

1993年 池袋「ライブガレージ Adm」のシリーズ企画「ART ROCK NIGHT」に出演をきっかけとしてレギュラーライブ開始。

1994年 メンバーチェンジとギタリストのレコーディングにて多忙の為、活動縮小。

1996年 新宿パワーステーションでの「ART ROCK NIGHT '96」にて復活!都内ライブハウスを中心に、「日比谷野音」から村のお祭り?まで神出鬼没、大胆かつ精力的な活動を展開。

1997年 アレ?くさい・ボン・ヘイレン脱退。2号加入。

1998年  パーフェクトTV「北野チャンネル・全日本コピーバンド選手権」出演
パーフェクトTV「奔放Kクラブ」出演

1999年 テレビ東京「Tokyo Deep」出演テレビ東京「徳光の情報スピリッツ」出演
テレビ朝日「今週の所さん」出演声優・岩田光央氏の2ndアルバム『気の毒』にE・D(え〜で〜)ボン・ヘイレンが「Bloody“O”Lady」の楽曲提供。VON HALENで演奏。

2000年 Dr.がアレ?くさい・ボン・ヘイレン2号から、3号、4号に変わる。更に変更を余儀なくされ、オリジナル「アレ?くさい・ボン・ヘイレン」が電撃復帰を果たす。

2003年 シンコーミュージック「ザ ギターマン エドワード・バンヘイレン特集」にてメインホストを務める。

メンバー4人と+aによって再現される「VAN HALEN WORLD」。合言葉は『魅せる・乗せる・笑わせる?』。でぶっちょ・リー・ロスのここまでやるかというパフォーマンス、爆撃機にふさわしい重厚なリズムセクションと、これだけ再現できるギタリストもいないのでは?と思わせるほどトリッキーな部分からメロディアスで繊細な部分まで弾いてみせる、E・D・ボン・ヘイレン。このノリの良さは、まさにキング・オブ・アメリカン・バンドの貫祿十分。今や見る事の出来なくなった、デイブ在籍時の「VAN HALEN」を中心に、無限の可能性と広がりを感じさせる「VON HALEN WORLD」をぜひあなた自信の瞳で身体で体感してください。

詳細なライブ日程等は、バンドのウェブサイトからどうぞ。
VON HALEN web site →http://www.geocities.co.jp/Hollywood/5338/

 

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MAKIN'LOVE



【MAKIN'LOVE】


BASS:コジーン
DRUM:コーター
GUITAR:ぷれり
VOCAL&GUITAR:★之助

【MEMBER】

●ポール・スタンレイ役●
芸名  : ★之助(ほしのすけ)
パート : Vocal、Guitar
キャラ : 3の線風2の線、セックスシンボル、MC担当
出身地 : 大阪
●ジーン・シモンズ役●
芸名  : コジーン・シモンズ
パート : Vocal、Bass
キャラ : 火吹き、血吐きなど大道芸系列担当、コンセプト制作担当
出身地 : 千葉
●エース・フレーリー役●
芸名  : エース・プレーリードッグ
パート : GUITAR、Vocal
キャラ : 現実離れした役割、リードギター
出身地 : 埼玉
●ピーター・クリス役/エリック・シンガー役●
芸名  : コーター・クリス
パート : DRUMS、Vocal
キャラ : 愛くるしい役柄だがヘヴィーなドラミング
出身地 : 博多
職業  : 自営業(ぼんぞらーめん)

【MAKIN' LOVE HISTORY&CONCEPT 】

1995年  結成

1999年までの間、池袋Admを活動拠点にライブをこなしていく。この間に★之助、ぷれりが出会い、現在のMAKIN' LOVEのベースが完成。 AKIN' LOVEがもっとも重視するのはKISSコンサートやマガジン露出時に見られるエンターテインメントのコピーであり、21世紀の日本という時空間でそのスピリッツを再構築してみせるという点であるということはこのころから一貫している。 つまりMAKIN' LOVEはKISSの演奏や見た目、形だけでなく、KISSの精神をコピーしている。

2000年1月 こじーん加入さらにライブを精力的にこなしていく。このころからライブ内容の工夫が始まる。オリジナルKISSがコンサートで行なう各種アトラクション「火吹き」「血吐き」「各自のソロ」「MC」「ドラムせりあがり」「客席内仮設舞台での演奏」などすべて行なうようになっていく。★之助、音楽雑誌にKISS記事を連載する。
2000年10月 KISS映画「Detroit Rock City」公開初日イベント参加。トリビュート系アーティストの王様とともに、ジョイント同時通訳ライブを行なう。

2001年 2月  神戸チキンジョージ出演。CATV296ホール公開録画。3都市ツアー敢行、選択した3都市がなぜか、神戸/千葉/横浜。単にメンバーの里帰りにかこつけたツアーだったという噂もあるが事の真意は不明。2001年 3月ご本家KISSジーン・シモンズ面会ご本家のジーン(KISS社長)がMAKIN' LOVEのビデオをチェック、ジーン役のコジーン(Vo.&Bass)に「おまえはサイコーだ」というお言葉をいただく。それに対してMAKIN' LOVEのコジーンは「Nice to meet you」とビジネス・ライクな大ボケかますあたり、スケールの大きさを感じる。

2001年 5月 このころから中型クラスのライブハウスが満員になるようになる。
コータークリス加入、現在の最強ラインナップとなる。
MAKIN' LOVEのショウはKISSファンにウケるのは言うまでもなく、
KISSを知らなかった人々までKISSファンにしてしまうくらいの分かりやすさがあり、
お客さまから「KISSのCD買いたいんですけど、まず何から買えばいいですか?」
という問合せが来たことも数知れず。

2002年 主催ライブとゲストライブを交互に行い、熱狂的なファンの遊び場をコンスタントに提供するとともに、ヴァーチャル・ワールド(ネット)でもMAKIN'ニュースを開始。常にファン、オーディエンスが楽しめる状況を第一に考えた活動を行なう。
この間、音楽雑誌、民放やCS放送など媒体の取材が相次ぎ、注目度もアップ

2003年 4月 原宿の老舗ライブレストラン、クロコダイルで動員160人を記録、共演バンドの動員も含めるとこの日は300名の動員で、テーブルなどのあるレストランを
急遽オール・スタンディングのホールとしてしまった。★之助(as PaulzVo.&Guitars)の英語+関西弁MCやトレーニングに裏打ちされたアクション、エース・プレイリードッグ(as Ace、Guitars)の本格的なギター・スタイルと大掛かりな仕掛、 コーター・クリス(as Peter Criss、Drums)のどの時代のKISSグルーヴでもプレイできる実力、コジーン・シモンズのライブでどっしりと構えた態度とメディア発言時のユニークな視点など、ご本家KISSに肉迫する点では21世紀において、最も『最適化された(justified)』KISSトリビュート・バンドである。



詳細なライブ日程等は、バンドのウェブサイトからどうぞ。
MAKIN' LOVE web site → http://homepage2.nifty.com/co-gene/indexe.html

■■■ 連絡先 ■■■
makinlove@anet.ne.jp

 

   Live Clip & Message Movie

MAKIN'LOVE /
Live Clip &Message Movie』

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