リクオ(PART1)


1990年代からライブ活動やCDリリース等の音楽活動を展開、幅広く色々なアーティスト、ミュージシャンと交流を持ち、
多岐に渡る音楽活動を続けているピアノマンでシンガーソングライター、リクオさんのロングインタビュー、そのPART1です!


(2006年7月26日/momentにて/インタビュアー:TERA@moment)


 リクオ (Rikuo)

 京都出身。

 1990年 梅津和時プロデュースの『本当のこと』でデビュー。
 1991年 初のフルアルバム「時代を変えたい」リリース。

 デビュー以来、ニューオリンズピアノ、R&R、 ブルース、
 ジャズ等に影響を受けたグルーヴィーなピアノスタイルと、
 ソウルフルなヴォーカル、切なさのつぼを押さえた楽曲で、
 世代・ジャンルを越えて支持を集める。

 最近は「世界で一番やんちゃなピアノマン集団」、
 CRAZY FINGERSの一員としても大活躍、注目を集める。
 
 2006年6月に久し振りのソロアルバム「セツナウタ」を発売。
 年間100本を越えるライブで鍛えられたファンキーな
 ライブパフォーマンスは超必見。

 現在、各地でリクオフリークが急増中。

 
 詳しいインフォメーション→オフィシャルサイト


    
 リクオ・ロングインタビュー(PART1)

大学時、2回生の自分よりひとつ年下の先輩の下宿に連れて行かれて、いろんなレコード聴かしてくれたんですよ。 その時ドクター・ジョンの「ガンボ」っていうアルバムを聴かしてもらって。ドクター・ジョンって、ニューオリンズを代表するピアニストであり、シンガーでもあるんですけど、当時の自分にはなじみのない音楽で、ころころ転がるピアノは何なんだろう?カッコいいなあと思いまして。「セカンド・ライン」ていうニューオリンズ独特のシンコペイトするリズムをそのときに初体験したんです。

TERA(以下:T)::まず、生まれた場所を教えて下さい。

リクオ:はい。生まれた場所は、京都の左京区浄土寺といいまして、銀閣寺のすぐ近くです。


T:ご兄弟は?

リクオ:3つ上のアネキがいるんですけど。


T:よく遊んだりとかは。

リクオ:ちっちゃい頃はよく遊んで、けっこういじめられてましたけどね。電気あんまとかされてました。(笑)

T:(笑)。幼稚園の時の記憶ってありますか?


リクオ:4月の桜の花が散る季節の頃、保育園の砂場で遊んでて、桜の散った花がその砂場にたくさん落ちていて、そこにちっちゃい蟻が、たくさん集まっていてね、なんかその花か何かを運ぼうとしていた。その光景をずっと眺めていた。そういう記憶が残っていて、なんなんでしょうね。桜の季節の記憶がありますね。

T:家の中と外、どっちが多かったですか?


リクオ:どっちも好きでしたけど、家で絵、描いたりするのも好きだったんで。ちっちゃい時は漫画家になりたかったんで。幼稚園の頃は、お絵描きは好きだったし、外でみんなと砂遊びしたりするのも好きだったし。インドア、アウトドア、どっちもこいみたいな感じでしたね。

T:小学校入る時って、習い事とか、習慣になったものはあったんですか?

リクオ:小学校入った時は、習い事はしてなかったですね。小学校4年生の頃からピアノと絵を習い出しましたけど。

T:最初に耳にした音楽って、どんなものですか?

リクオ:歌謡曲ですね。当時の流行歌(はやりうた)ですよね。「上を向いて歩こう」とか、歌ってましたね。あと千昌夫の「星影のワルツ」とかね。わりとさみしい切ない曲が、好きやったんですよ。「グンナイ・ベイビー(グッドナイト・ベイビー)」とかね。


T:家は、音楽を聴く家だったんですか?

リクオ:どうでしょうね、ビートルズを両親が聴いてましたね。ビートルズのドーナツ盤持ってたりしたんで。あとシャンソンも好きだったみたいですね。だからどちらかといえば、音楽聴く方だったかもしれないですね。

T:初めて買ったレコードとかは?


リクオ:自分のお小遣いじゃないんですけど、小学校6年生の時に、母親にビートルズの『オールデイズ』という編集モノのベスト盤を買ってもらったのが、自分から率先して手にした最初のアルバムですね。

T:それを選んだ理由は?

リクオ:それはね、家にビートルズのドーナツ盤が何枚かあったので、それを聴いていて、時々自分でも口ずさんだりしてたんですよね。「レット・イット・ビー」がエルピー(LP)っていってるように聞こえたんですよね。だからいつも「エルピー、エルピー」っていって、口ずさんでました。親父がよく聴いてたんですね。

T:もちろんその頃はピアノを?

リクオ:そうですね。ピアノは家に生産2000台目くらいの古いアップライト・ピアノがあって、うちの母親が小さい頃に、両親に買ってもらったらしいんですけど、そのピアノをなんとなくさわるようになっていて、それで母親が、「じゃあ、習わしてみようか」って思ったらしく、近所の音大に、貼り紙をしに行ったんですね。「家庭教師、アルバイト生募集」みたいな貼り紙をして。当時18才大学1年生の女子大生が、髪の毛サラサラでね、いい匂いしてて、うちの姉ちゃんより優しいみたいな、そういう女子大生の方が1〜2週間に1回、うちにアルバイトで教えに来てくれるようになって。その先生もまだ若かったし、こちらもそんなにクラシックを本格的にやって、音楽の道に進もうとか、そういう感じではなかったので、まあ音楽に親しめればみたいな、そういう気楽な乗りだったんで、最初クラシックのバイエルとかツェルニーとかやってたんですけど、そのうち先生がビートルズのピアノ譜面とか日本のフォーク・ソングのピアノ譜面とか、そういうのを持って来て、課題曲にするようになったんですね。だから「学生街の喫茶店」を今日はやりましょう!(笑)「レディ・マドンナ」やってみましょう!みたいな。そういう感じだったんで、なんか気楽にピアノと慣れ親しんだというか。

T:じゃあ中学入る頃には、かなり上達してました?

リクオ:いや、そんなたいして上手くなかったですね。音楽以外に楽しいことがいろいろあるんで、そんなに一生懸命にはやってなかったですね。中学生までは野球部入ってたんで、そっちの方も忙しかったし、長く弾いてない期間もあったりして、本格的にやり出したのはハタチになってからですね。

T:中学の時は、野球が一番?

リクオ:中学2年まではそうですね。

T:他に何か違うことは?

リクオ:小学生までは漫画家になることが、将来の夢だったんですよ。

T:なんか応募したりとかしたんですか?

リクオ:してないですね。いつもストーリーと絵が完成しないんですよ(笑)。ものすごい大げさなストーリーを考えてね、例えばスポ根の野球漫画で、覆面したピッチャーが主人公みたいな(笑)、それで描き始めるんですけど、完結しないんですよ(笑)。根気がない。全然向いてないなと途中で気付きました。

T:(笑)。当時、どんな漫画が好きだったんですか?


リクオ:もう王道ですね。一番最初は「あしたのジョー」ですね。梶原一騎、(高森朝雄)の世界ですよね。スポ根の。ちばてつやも好きだったし、手塚治虫も好きでしたしね。「火の鳥」とか、「ブラック・ジャック」とかね。あと当時は「ドカベン」とかね。水島新二の。すごい流行ってたし。横山光輝とか。もう、王道をいってましたね。

T:テレビはよく観ましたか?

リクオ:テレビは同世代の人達よりは見てないですね。プロレスは見てましたけどね。


T:プロレスは(猪木、馬場)どっち? 両方見てました?

リクオ:両方見てましたね。うちのばあちゃんがプロレスと相撲が大好きだったんで、欠かさずに一緒に見て、猪木、馬場、大鵬、輪島、北の湖、みんな応援してましたね。

T:中学卒業して、高校入る時は?

リクオ:中学生当時「ビートルズ・シネ・クラブ」っていう、ビートルズのファン・クラブに入ったりして、ビートルズをきっかけに、だんだん洋楽に目覚めるようになってきて、高校の時は、軽音楽部に入るんです。

T:そこではどういう音楽を?

リクオ:軽音楽部に入ったんはいいんですけど、当時はヘヴィメタルとフュージョンが全盛の頃で、回りもそういうのをやりたがる奴が多かったんですよね。一応オレも「ハイウェイ・スター」とかね、ジョン・ロードのオルガンとか練習してがんばってたんですけど、でもやっぱりなじめなくて、自分のやりたい音楽っていうのがよくわからなかったんですよね。結局ね。それで最初はバンド組んで、「カッコええなあ」みたいな感じでやってたんですけど、それほどモテるわけでもなく、だんだん気持ちも萎えてきて、フェイド・アウトしていって。もう高校2年生の途中くらいからは、あんまり軽音楽部の部室にも行かなくなって、そんなにバンドもやらなくなって。

T:ライヴを見に行ったりとかは?

リクオ:当時はそんなにたくさんは行ってないですね。その頃、パンクバンドのスターリンが盛り上がっていて、知り合いからライブに誘われたんですけどね、なんかチンチン出したり、動物の生肉投げたり、お客さんが暴れたりするって聞いて、ちょっと恐れをなして、行かなかったんですね(笑)。それ見に行っといたら、もうちょっといろいろ目覚めるの早かったかもしれないですけどね。そういう意味では当時の日本のアンダーグラウンドの音楽というのにも接する機会があまりなくて。そういうのは大学入ってからですね。

T:高校時の遊び場って、どの辺だったんですか?

リクオ オレね、けっこう地味で内向的な学生だったんで。軽音楽部入ってる時は、友達とライヴハウス行ったりね、ちょっとカッコつけて飲みに行ったりしてたんですけど、基本的には帰宅部だったんですよ。あと地味に新聞配達してました。夜の街を友達と徘徊するなんてことはあまりなかったですね。

T:大学入る頃は? 将来の事とか考えると思いますが?

リクオ:うーん、あんまり考えてなかったですね。割と暗いティーン・エイジを過ごしていて、ちょっと自意識過剰だったもんですから、自我を持て余していて、あまり人とちゃんと接せられないような状態が、10代の頃に続いていて、それで高校出た後、浪人したんですよね。しかも2浪。それで大学入ったんがハタチの時かな。

T:地元の?

リクオ:大阪の、関西大学というところで、とにかく「京都出たいな、親から離れたいな」という気持ちが強かったんで。京都の大学も受かってたんですけど、そっちには行かないで、大阪の吹田市に下宿して。その時アネキが大阪の大学院にたまたま入ったんで二人で、六畳二間の板間六畳くらいの、小さな一軒家を借りて住んでたんです。

T:音楽で生活したいとかいうことは、全くその時は?

リクオ:入学した当時は、あんまりそういうことは考えてなかったんですけど、浪人してる時に、バンドは全然やってなかったんですけど、すごい音楽を聴くようになったんですよね。受験勉強しながら。それでまたバンドやりたいなという気持ちが、浪人中にすごい湧いてきて、大学入ってすぐ、軽音楽部に入部しましした。その時にいい仲間に巡り会えて、いろんな音楽聴かせてもらって。その当時にいわゆる黒人のルーツ・ミュージックっていわれるような、ブルースだとか、ソウルだとか、ニューオリンズ・ミュージックですね、そういう音楽を初めて知ったんですよね。

T:なるほど。

リクオ:入部してすぐに、大学の軽音楽部の総会って言って、部員全員が集まる定例会みたいなのがあって、そこで、新入部員として紹介された時に、当時2回生の自分よりひとつ年下の先輩に目をかけられて、いきなり彼の下宿に連れて行かれて、いろんなレコード聴かしてくれたんですよ。 その時にドクター・ジョンの「ガンボ」っていうアルバムを聴かしてもらって。ドクター・ジョンって、ニューオリンズを代表するピアニストであり、シンガーでもあるんですけど、当時の自分にはなじみのない音楽で、このころころ転がるピアノは何なんだろう?カッコいいなあと思いまして。「セカンド・ライン」ていうニューオリンズ独特のシンコペイトするリズムをそのときに初体験したんです。大学の時に出会った音楽仲間からいろんな音楽聴かせてもらいましたね。それがきっかけで、自分でも音楽を追求するようになったし、自分の好きなピアノ・スタイルというのが見つかった気がします。好きな曲やピアノの入っているレコードを何度も繰り返し聴いて、耳でコピーして、よくバンドでカヴァーしてました。

T:オリジナルっていうのは。

リクオ:最初はカヴァー・ソングをバンドでやってたんですけど、当時はまだキーボードしか弾いてなくて、歌は本格的にはやってなかったんですよね。でもやっぱり曲を作り出したら自分で歌いたいじゃないですか。それで自分がヴォーカルでオリジナル曲中心のバンドをやりだすんやけど、なかなか続かないんです。で、当時ニーナ・シモンていう人の「ニーナ&ピアノ」っていうピアノの弾き語りのアルバム、、RCに当時在籍してたチャボさん、仲井戸麗市さんの「仲井戸麗市ブック」っていう非常にパーソナルで内省的なソロ・アルバム、早川義夫さんの「カッコいいことはなんてカッコ悪いんだろう」ていう、ジャックスを辞めたあとに出されたピアノの弾き語りのアルバム、あとジョニー・サンダースの弾き語りアルバムとかね、そういうまあ弾き語りのアコースティック・アルバムをけっこう聴いてたんですよね。それで、「あ、そうか、一人でやるって方法もあるな」と思って、自分の作った曲を、ピアノで弾き語りするという活動を、バンド活動と平行して始めたんですね。大学3年生くらいかな。それが本格的に歌い出すきっかけですね。

T:主に発表の場は?

リクオ:ライヴハウスですね。

T:どの辺なんですか?

リクオ:今はもうないですけど、大阪梅田東通りにあったコットン100%っていう、ブルースマンのジェームス・コットンのアルバムタイトルからとってるんですけど、そういうR&B系のバンドをたくさんブッキングしていた店。それと当時はオープンしたばかりで、今も続いている十三にあるファンダンゴっていうお店。あとバーボン・ハウスっていう、当時大阪では老舗だったライヴハウス。大阪に住んでたんですけど、やっぱり出身地の京都ていうのは自分になじみのある街で、大阪からも近かったんで、京都の磔磔と、拾得、これは今も続く老舗の、どちらも酒蔵を改造した、非常に地場が強いというか、味わいのある30年以上続くライヴハウスなんですけど、そこで定期的にライヴを演らしてもらって。今だに演らしてもらってますけどね。

T:その時は名前は本名で?

リクオ:うん、もう「リクオ」で。カタカナで。

T:そのカタカナで「リクオ」というのは、いつぐらいからですか?

リクオ:もうライブを始めた頃からですね。まあ回りからもそう呼ばれてたんで。

T:その後、何かターニング・ポイントみたいなものは出て来たんですか?

リクオ:ターニング・ポイントね。曲作りに関しては、恋愛が大きかったんじゃないですかね。他者を知ることで自分と向き合って、いろいろ感受性を刺激されて、曲を作る大きなモチベーション、きっかけになりましたね。

T:大学はちゃんと卒業は?

リクオ:なんとか4年で、卒業できましたけど、未だに単位が足りない夢を見ますね。

T:(笑)。大学出たあとっていうのはもう、本格的に音楽一本でいってるんですか。

リクオ:当時はバブル全盛の時代で、新卒は引く手あまた、大学3年生の後半頃から、みんな就職活動始めるような、そういう時代やったんですよ。各企業の案内パンフレットが自宅にいっぱい送られてくるんですよね。大学3年生になると。それでまあ卒業してからどうするかっていうことをだんだん考えなければいけない状況になってきて、最初に考えたのは、「地方公務員になろう」と。

T:ほー。

リクオ:人づてに聞いたんですが、自分が当時住んでた吹田市の市役所は「5時には帰宅できるよ」と(笑)。土日も休みやと。そういう話を聞いて、もうそれだったら仕事のあと好きなこともできて、気楽でいいやって思って地方公務員になるための参考書を購入して、勉強しようと思って、ページを開いてみたら、けっこう難しかったんですよね。地方公務員だったらすぐなれるのかみたいな(笑)、わりと気楽な気持ちでいたんだけど、けっこう大変そうだなと。今からまた受験勉強やるの嫌だなと思って。
 もう当時けっこう音楽にのめり込んでいたので、「音楽好きなんだから、いいや、やりたい音楽をやろう」と、大学3年生の終わりくらいに思ったんですね。今もそうですけど、基本的に「なんとかなるわ」っていう楽観的なところがあるので。それでもう一切の就職活動放棄して、どうにか4年で大学を卒業して、ライヴもやらしてもらってた京都の磔磔というライヴハウスで、アルバイトさせてもらいながら、大学卒業してからも、音楽活動を続けたんです。

T:アルバイトしてた頃って?

リクオ:1989年前後くらいですかね。世の中が空前のバブル景気と、それとすごいバンド・ブームだったんですね。東京では『イカ天』という番組をやっていたりして。その番組は関西ではやってなかったんですけど、やっぱりバンド・ブームの余波っていうのは関西にも来ていて、当時はメジャーのメーカーの支店も大阪に色々あって、メーカーのスカウトの人がさかんにライヴハウスを回ってたんですね。いわゆる青田買いで、とりあえずデビューさしとこみたいな状況で。オレは当時のバンド・ブームの流れとはかなり違う方向の音楽をやってたんですけど、メジャーメーカーからの話が、当時は来てたんですね。まあそれで舞い上がるとまではいかないけど、なんとかなるかなと思っていたところもあって。磔磔でバイトしながらそういうデビューの話も進んだりして、たいした苦労もなく、90年に一応CDデビューという形になったんですが。

T:東京に出て来るというのはまだなく?

リクオ:そうですね、当時は地元に住みながら音楽活動やりたいなと思ってたので、大阪に住みながら、活動するっていうことをひとつの条件に、契約さしてもらったんです。それで東京にも一応、仕事用のアパートを借りて、東京に行った時はそのアパートに寝泊まりして、大阪に戻るっていう、そういう生活をデビュー後も6年ぐらい続けてましたね。

T: ファースト・アルバムを作る経緯は?

リクオ:初めて東京にツアーに行った時の初ライヴが高円寺に今もあるJIROKICHIという、ジャズやブルースを中心とした音楽性のバンドをブッキングする、少し年齢層高めのターゲットのライヴハウスだったんですね。で、その時のライヴが近藤房之介さんと梅津和時さんの二人を中心としたブルース・セッションのオープニングで、オレが弾き語りをするというライヴだったんです。近藤房之介さんはオレにとっては地元で「ブレイク・ダウン」というブルース・バンドで活躍してた大先輩というか、憧れの人で、サックスの梅津和時さんは、オレはRCサクセション直撃世代なので、RCでサックスを吹いてた人ていう、どっちも憧れの二人ですよね。その二人のオープニングで弾き語りをさしてもらうということで、梅津さんとはその時初対面だったんですけど、ライヴが終わった後に、梅津さんの方から「自分の事務所に来ないか」という話をしてくれて、同時に梅津さんがオレのアルバムのブロデュースをやってみたいという話も持ちかけてきてくれたんですよね。それで梅津さんの所属している事務所を紹介していただいて、その事務所経由でレコード会社とも交渉してもらって、デビューの段取りをつけてもらって、という感じですね。それでデビューは、梅津さんのプロデュースで。

T:メーカーは?

リクオ:MMG。今のワーナーですね。

T:はじめてのレコーディングはどういう感じで進んで行ったんですか?

リクオ:レコーディングは河口湖近くのスタジオで合宿レコーディング。今もけっこうやってる方多いと思いますけど、あのあたりは泊まりがけで、合宿してレコーディングできるスタジオがね、いくつもあるので。そこに一週間ぐらい合宿してたんですかね、ちゃんと覚えてないですけどね。

T:わりとスムーズに?

リクオ:そうですね、もう弾き語りの延長線上のアルバムだったんで、そのレコーディングの為にアレンジを極端に変えるとか、そういうことはなかったので。梅津さんとも当時ライヴを重ねていたし、そんなに苦労した記憶が、ないですね。

T:この間のライヴで披露した、あの曲の。

リクオ:ああ、そうですね。「本当のこと」っていうタイトルのアルバムなんですけど。

T:ファーストは以前に作った楽曲をまとめた感じですか?


リクオ:そうですね、当時かなり楽曲がたまっていたんで。梅津さん他、スタッフのみなさんと選曲を話し合って、当時の持ち曲の中から選曲してという形だったと思います。

T:CDを1枚出したあと、何か思った事とかありましたか?


リクオ:戸惑ったことっていうのは、録音よりもその後のジャケット撮影とか、プロモーションとか、そういうことの方が、戸惑いは多かったですね。ジャケット撮影の時に、スタイリストさんに始めてついてもらったんです。それでスタイリストの方が、いろんな撮影用の衣装を用意してくださるじゃないですか。それを見たら、とりあえず上着が全部、肩パッドが入ってたんですよ。まずそれがけっこうショックで(笑)。

T:なるほど。(笑)。

リクオ:オレはどっちかというと、なで肩なんですけど。なで肩のオレの肩がいかるぐらいの、肩パッドの入ってるような、そんな服ばっかりだったんですね。今まで自分が着たことのないような服だし、すごい化粧もするじゃないですか。ファンデーション塗ってね。そういうことがいちいち慣れなくて。撮影に入っても非常に違和感があって、笑顔も作れないし、うつむいてる写真ばっかりになって。インタビューも慣れてないですし、「シオンと大江千里を足して2で割ったような音楽ですね」とかいわれてね、いや別に、シオンさんや大江千里さんが嫌とかいうことじゃなくて、そういうことへのリアクションとか、立ち居振る舞いみたいなのとか、慣れてなくてできなかったていうのが、戸惑いとしてありましたね。

T:なるほど。


リクオ:大学出て社会人経験ほとんどしないで、デビューして、世間知らずだったし、うわついてたんで、わりと「そこそこすぐ売れるのかな」みたいな(笑)。オリコン・チャートで、まあ右ページくらいはすぐ入るのかなみたいな。全然そういうことはなくて、「あ、おかしいな」と。

T:その後のセカンドはどういう流れに?

リクオ:梅津さんのプロデュースで。


T:契約というのは?

リクオ:何年かで何枚かの契約をしたんですよね。
アルバムごとに担当のA&Rが変わったり、事務所のマネージャーが変わっていったり、レコード会社の方針も変わったり、そういうことがいちいち慣れなくてね、デビューしてから急にストレスが増えましたね。いろんなことに対応しきれなくて。


T:なるほど。二枚目のレコーディングは、すぐだったんですか?

リクオ:そうですね、1枚目のミニアルバムが出て、わりとすぐに次のフルアルバムのレコーディングに入ったかな。

T:
そのレコーディングに合せて、新たに作り出す音楽ていうのも。

リクオ:当時はすごい曲を書いてたんで。しょっちゅう曲を作ってたんでアルバムの為に曲を作るというよりは、日々曲作りやってるみたいなところがあって、コンスタントに曲はできてたんですよ。だから曲数が足りなくて困ることはなかったです。曲のクォリティーは別として。

T:二枚目というのは一枚目と違う部分が?


リクオ:ドラムとベースが入ったバンド・サウンドになったんですよね、二枚目は。

T:それは当時、リクオさんのやりたい事で?


リクオ:どうだったんでしょうね、もうよく覚えてないですけどね。そうですね、多分自分がやりたかったんじゃないですかね。もともとバンド志向がすごくあったんで。

T:MMGでは、トータルで何枚? それで3枚目は?

リクオ:4枚ですかね。次のアルバムがニューヨークで、トラック・ダウンとダビングをやって、プロデューサーが元サディスティック・ミカ・バンドのキーボードの今井裕さんに代わって。当時忌野清志郎さんのサポートをやらせてもらっていて、2-3's(ニーサンズ)を名乗り出した頃ですよね。それで清志郎さんと一緒に曲を作る機会とか、けっこうあったんで、清志郎さんとの共作のナンバーをアルバムに収録させてもらって。清志郎さんのプロデュースという形でシングルを切って、それが大阪のFM802のヘビー・ローテーションに選ばれて、そこそこ関西ではヒットしたんですよね。それで「全国的に盛り上がるかな?」と思ったんですけど、そんなに盛り上がらなかったですね。

T: 3枚目というのは特別な感じが。

リクオ:どうなんでしょうね、今までの中で、最もプロデュースされた作品だったんだろうなっていう気はしますけどね。

T:(清志郎さんとの)共作というのはどうだったんですか?

リクオ:面白かったですね。

T:どういう感じで進んでいくんですか?

リクオ:ネタを持ち寄って、スタジオに二人でこもって、最初のネタをオレの方から清志郎さんに渡して、それで二人でコードをつけていったり、歌詞を足していったり。シングル・カットになった曲は、清志郎さんがまとめ上げてという形で。

T:逆に清志郎さんとのライヴは?

リクオ:2.3'sで活動していたので、かなりツアーもいろいろ連れて行ってもらって。すごいいい経験になりましね。

T:それ自体はどれくらい?

リクオ:忘れたけど、けっこう回りましたね。地方も連れて行ってもらったので。

T:なるほど。では、前半はこの辺りで、、。


リクオ:はい。


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リクオさんについて詳しいインフォメーションは、オフィシャルHP(http://www.rikuo.net/)まで。