福田裕彦(PART2)


YAMAHA DX7用ソフト「生福」では業界を圧巻し、1998年からの浜田省吾とのツアー等、
多岐に渡る音楽活動を続けているキーボーディスト福田裕彦さんのロングインタビューです。


(2006年2月3日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)


福田裕彦(ふくだ やすひこ)

1957年 東京都出身。血液型A。
1980年、鳴瀬喜博(現・カシオペア)、岡井大二
(元・四人囃子)らとのバンド「QUYZ」のキーボーディスト
としてプロ活動開始。
1981年、斎藤英夫らとのバンド「YOU」でレコードデビュー。
以降、80年代はスタジオプレイヤーとして、シブがき隊、
松田聖子から尾崎豊にいたるまで1000曲以上のレコーディングに
参加。
1984年、生方則孝と共に発表したYAMAHA DX7用
音色ソフト「生福」はスタジオ業界を席捲。海外でも高い評価を得た。
1988年には同じ「生福」ユニットでオリジナルアルバム
「内容の無い音楽会」を発表、カルト的人気を獲得。
1990年、小泉今日子の「見逃してくれよ!」のアレンジで
ビクターヒット賞を受賞。

以後は主に作編曲家として活動。
宍戸留美、爆風スランプ、おおたか静流、鈴木結女、宇都宮隆、
谷村有美、玉木宏 他数多くの作編曲を手がける一方、
ゲーム音楽、アニメ音楽も多数制作。同時に、放送作家、
コラムニスト、コミック原作者、作詞家としても活動。
1996年以降、岸谷五郎プロデュースの「A.A.A. 
バラエティin武道館」の音楽監督を務める。
1998年から、浜田省吾の4年間に渡るロングツアー
「ON THE ROAD 2001」に参加。
キーボード、ストリングスアレンジを担当。
現在もツアーに参加中。
2001年から2年間、PS2ゲームソフト
「OVER THE MONOCHROME RAINBOW」の企画・総監督を務め、
同ソフトは2003年3月 SMEより発売。
2004年、Q・タランティーノ監督作「KILL BILL Vol.1」において
殺陣指導、振り付けを担当した島口哲朗率いる殺陣グループ
「かむゐ」のオリジナルDVD「斬雪」をプロデュース。



趣味:映画。特に「C級以下のSF映画」の鑑賞。
モンスターフィギアの収集。
ミュージシャンにあるまじき映像、特撮オタク。
最も好きなバンド:RAGE AGAINST THE MACHINE
特記事項:2003年末にタバコを止めて以来、酒量がほぼ3倍に。
 福田裕彦インタビュー (PART2)

暇にしてたら、山岸潤史から電話がかかってきて。「今度ヤマハのイベントでサンタナが出るイベントがあるんだけど、
キーボードの難波弘之がスケジュールが合わないから、福田くん弾いてくれんか」って。正直、ちょっとビビりましたけど、嬉しかったですね。それが初めての、プロのステージ体験です。大学4年の10月ごろですかね。




TERA(以下:T):ここから、PART2です。では宜しくお願いします!
(前号はこちら)

福田(以下:F):はい。

T:DX7のソフトに関してもう少し。

F:、『生福』っていう名前なんですけど、DX7の前身でFMっていう音源なんですね。FM音源っていうのが、それまでのアナログのシンセサイザーと全く違うシステムを持っていて、簡単に言うと打撃音が出る。打撃音はアナログシンセサイザーでつくれるんですけど、ピッチ感が出せないんですね。リングモジュレーションっていう方式じゃないと、いわゆる打楽器として成り立たない。で、DX7はそれを初めて、アナログという方式じゃないのでできるようになったんですよ。で、大革命に近いですよね。しかも、と同時にシンセサイザーがすべてデジタルになった。ミディというシステムも出てきた。全部83年に起きてるんですよ。僕は、ユーのときからヤマハの開発室によく呼ばれていて、DX7の前身のキーボードからちょっと触ってたんですよ。FM音源のロジックというのに詳しかったんですよ。普通の人はもっと感覚的に理解してる、おれは数式で理解してたから、すごくよくわかっていて、本も書いてたんですね、その時点で既に。DX7パーフェクト活用法っていう本があって、それをDX7ユーザーはみんな買って読んでるっていう。僕がDX7は使う人間だというのを水谷さんが知ってて、スタジオ入ったんですけど、と同時に僕よりもっと古くからかかわっていた生方ノリタカっていう人間がいて、そいつとヤマハのイベントで会うですよ、ばったり。そしたら、そいつは本当に音づくりが得意で、今聞いたらどうなのかわからないですけど、生ギターの音をDX7でシュミレートしたのを、すごくこって打ち込んだやつをデモでやってて、ショック受けて、すごいなっていって、二人で話が弾んで。二人で何か会社やろうかみたいに。

T:それで?

F:まず会社をつくってから、『生福』という名前でDX7の音色カードリッジを。DX7の一番の売りっていうのは、音色がカードリッジ形式で供給できる。今は当たり前なんですけど、その当時はなかったんですね。そういうハードでかちゃっと指して、カードリッジから音が供給される。そこでそのカードリッジに入れる音を作ろうって。で、二人でつくっていったんですね。で、最初はヤマハに話を持っていったら、買うよって、すごい安いこと言われて、そんな金じゃ売れないよね、どうしようかって言ってて、で、リットーミュージック、キーボードマガジンにつきあいがあったので、で、僕らはこれを出して印税でやりたいんだと。音色で印税もらうっていうのって、多分その当時は世界で例がないですよ。音色つくって一個売れたらコピーライトくれるっていう。で、やりましょうって話になって。で、リットーミュージックで商品として、今考えるとすごい高いんですけどね。一個が64音色入ってるんですけど、9800円もするんですよね。それが売れまして、『生福』1、2、と出してものすごく売れたんですね。ものすごく売れたっていったって、DX7のハードの数より売れないんだけど。DX7という楽器自体は、シンセサイザーというのはそれまでマニアックな楽器だったんですね。シンセはマニアックだと、おれは今でも思ってるんだけど、市場としては、本当に、例えばヤマハというメーカーの中で考えたらば、シンセサイザーっていうのはエレクトーンの下にあったわけですよ、常に。これは開発体制からそうで、最も優秀と言われているエンジニアはエレクトーンにいて、次にポーターサウンドっていう、小さいエレクトーンより小さいキーボードのところにいて、その下のエンジニアがシンセにいると言われてたんですよ。だけど、そのFM音源のシンセサイザーをつくったのは大逆転に近くて、ちょっとプロジェクトXですよね。それまでシンセサイザーなんというのは、ヒットって言って1万台売れたら大ヒット。実際の話、そこまででヤマハで一番売れてたシンセが、CS01っていう、このぐらいの大きさの電池で動くモノフォニックのシンセだった。それが3万台、もう大ヒットと言われて。でも価格が3万円ぐらいだった。だから対して儲からないんですよ。ところがDX7は定価24万8000円で15万台売れたんですよ。これはもう想像を絶する域なわけ。これまでのシンセの歴史から言うと。だから、ちょっと大革命が起きた。

T:ほとんどDX7っていうことですよね。ある意味ね。

F:ある意味。15万台っていう数は、これまでのシンセサイザーであり得ない数だったのね。で、スタジオもがーって設計して、で、その、『生福』っていう音色ソフトはみんな買ってくれたんですよ。買ってくれたから売れたんですけど、基本的にはそれの印税が全部会社で受け取っていたので、結局会社の運転資金で消えたんですけど。でも、うわさとしてはすごかったですよ。生方と福田は、『生福』売って家を3軒ずつ建てたらしいとか、とてつもない、そんな売れるわけないじゃんみたいな噂が飛び交いまして。というぐらい、『生福』は売れたというのがすごくあります。だから、いまだにそのころの、『生福』の印象のある人は、あれで儲かったでしょうって言うよね。儲かってないってばって。その後は、、『生福』という一個ブランド名になったので、いろんなシンセに対して、『生福』というブランドで音色供給をやってたんです。それがもう大体80年代いっぱいまでやってましたね。

T:そのハードっていうのは?

F:まずM1もやりましたし、あとは名前忘れちゃったな、コルグに対してもやったんですよ。ヤマハのにもほとんどやったし、出てくるのは。最後のショウフクを出したのは、SY99っていうシンセまでですね。これが多分89年、90年ですね、そこまでやりました。だから、相当な数出てますよ。もちろん一番売れたのは、DX7。その後、DX7が、DX7Uという機種になったときも、もちろんDX7Uの、『生福』を出したし。相当その音ソフトという形ではやったですね。

T:その流れが90年代入ると変わってきたりとかしたんですか?

F:まず、90年代になって大きく変わったことの一つには、音色単価が下がってきたということですね。まず、格納する、例えばDX7の場合は、一個のカードリッジに入れられる音色数っていうのは限られていたんですよ、すごく少なかった。それがどんどん、例えば何百音色とかを供給できるようなシステムができてしまった。そうなってくると、音色単価下がってきますよね。そうなってくると、つくっても儲からないんですよ。さっきの  に近いですよ。やっぱりすごく1音色つくるのに時間かかって、その音色というのは形はないけどプログラムとしてはすごい時間のかかったプログラムであると。それを売ってるのが音色を売るっていうことだったんですけど、その単価が下がってきちゃったっていうのが一つ。それから、シンセサイザー自体が、PCMシンセサイザーにどんどん変わっていって、要するにFMっていうのが、まず本来で言うと、ものすごい、『生福』の出る幕だったんです。複雑なシステムで。それが、PCMっていうのは、基本的に行ったらウェブロムに音色のもとが入っていて、それを加工するっていうシステムになっちゃったんですよ。そんなに難しくなくなっちゃったんですよ。簡単に言うと。それでもM1とかはPCMシンセなんだけどそういうのを出したし、あとは海外でも、、『生福』っていう名前はつかなかったんですけど、エンソニックっていう、VFXっていうシンセがあったんですね。それに対しても出しました。だから、それは、『生福』っていう名前ではないですけど、基本的には、『生福』でつくって。それも印税でもらいましたね。音楽の部分とはまた別じゃないんだけど、マニュピレーションという形で。だから、ちょっと意味があるのは、音色が著作権の対象になるという前例をつくったことですよね。著作物であるということですよね。音色は著作物であるというのは、多分でも、どこの法律を見ても今は出てないはずです。でも事実として、多分前例にはなるはずですね。

T:で、90年代入ってアレンジとかプロデュースの活動が。

F:ふえますね。90年に入ってすぐ、実は僕、爆風スランプのツアーに復帰するんですよ。90年、91年、92年と爆風スランプのツアーをやります。ただ、残念なことに爆風スランプの売れ方がどんどんシュリンクしていく時期にそれは重なっていて、一番売れたシングルである「涙、なみだ」っていうときは、僕もまだツアーをやっていて、その後、結局ツアー動員がどんどん減っちゃうんですよ。その辺も話すといろいろな要因があるんですけどね。そのころから、クロスしてアレンジの仕事がふえていったんで、そこからしばらくツアーやらないですね。ずっとアレンジ、プロデュースの仕事をがーってやってましたね。すごいハードで、ちょっと体おかしくなってる感じ。なんかちゃんと息できないとか、不整脈出るとか、それぐらい仕事をしていて、でもそのころ稼がないとだめな時期なので、一生懸命やってて。ミュージシャンっていうのは、やっぱり稼ぎ時っていうのがあるんですよね。明らかにあって、というのは、例えばディレクターが発注してくるディレクターであったりとの年齢の関係というのもすごくあって、例えばディレクターのもっとも働き盛りが35、6だとすると、その人より上の人にはなかなか発注できないんで。というのは、これはもう現場に行ってみればわかるんですけど、僕だって例えばアレンジャーとして僕より上の人、例えばポンタさんドラムで呼ぶの恐いっていうのがあるわけですよ。別に呼んだら怖くないんだけど。だったら、もっと簡単に言うこと聞いてくれる人を呼んだりするわけですよ。そういうのがあるから、結局そうすると現場のディレクターが入れ替わるにつれて、結局現場に入るミュージシャンの年齢っていうのもどんどん変わってくるんですよ。そうやって回転しなきゃ僕はいけないと思ってるんだけど、いつまでもだってね、その人たちがずっとやってたら、下から入って来れないじゃないですか。そういう交代っていうのがあるから、だから一番圧倒的に忙しかったのが、33、4、5、6、7、8。そこはもう吐きそうっていうぐらいには仕事してましたよね。壮絶にしてましたね。そのころ、でも僕が一番おもしろかったのは、おおたか静流さんっていうシンガーをプロデュースしてたのがおもしろかった。自分的にはね。

T:96年ぐらいから、AAAのライブが。

F:始まりますね。実はもっと前からやっていて、エーエーの音楽監督と言ったって、それはほんとに、いい意味で  なんですよ。エーエーエーが、ことしは休もうと言ってるんですけど、みんなすごく楽しくできるのっていうのは、いい意味で無責任なんですよ。だから結局、ギャランティが本当にないので、ギャランティがないということは、金銭に対する責任感がないわけですよ。例えばこれが中途半端にお願いしますって20万円って言われると、20万でお願いしますって言われると、安いけどやるしかないしな、でも20万円分はやらなきゃって思うわけじゃないですか、人間って。でもないんですよ、金。ゼロ。交通費は出しますけど。以上って言われたときって、案外居直って一生懸命やるんですよね。やって、失敗してもいいじゃん、でも失敗しないよ、おれらプロだしって思う気持ちがすごくピュアに出るのが、ノーギャラ仕事なんだよね。おもしろいんですよ。終わったときは、反省点ももちろん残るんですよ、あのときあれ失敗したとか。でも、いいよ、ノーギャラだしっていうところで納得もできて、うまくやった分量のほうが多いじゃん、だったら楽しく酒飲もう、終わったしってなれるんですよ。それでエーエーは続いたと。でも、ほんとにまじめなチャリティーで、実は4年か5年前まで打ち上げもやったことなかったですよ。ほんとに。武道館で終わったら、じゃあお疲れさまって帰ってた。こんな小さいビール1個で。それぐらいまじめにやってました。あるときに、ゴロウちゃんが来て、福田さん、おれら打ち上げやってもいいよねって。やろうかって言ったら、そのときアミューズの会長の大里さんがお金出してくれたの。打ち上げ用にポケットマネー。そこから、エーエーの打ち上げあるようになりましたけど、それは絶対意地でも収益金からは出してない。すごくいいですよ、エーエーは。みんなすごく楽しくやれるし、チャリティーとしてはすばらしいんじゃないですか。金銭管理完璧だし。例えば今回1000万円できました。1000万円どうぞってやるチャリティじゃないので、向こうに対象がいて、これだけお金が必要なんでくださいって、こっちにリストをよこすんですね。それが本当に厳しくて、トイレットペーパー1個分まで書いてある。それしか渡さないんです。だから、プール金がすごくあるから、いざというときに払えるし。だから、どっかでだれか抜くなんて汚いこと一切ない。すごいいいですよ。あのチャリティーはだから続いてるよね。それにかかわれるよになって、とても楽しかったし、12月1日というのは、もうずっと自分の中では特別な日みたいな。楽しいの、文化祭みたいで。

T:98年からの浜田さんのツアーは、長かったですね。

F:アレンジもやりつつなんですけど、基本的にはツアーに入った。で、その浜田さんは全然聞いたことがなくていたんですよ。ロードアンドスカイとのかかわりは古くて、レコーディングも、僕は『J-BOY』とかしてたんですけど、いまだに思い出しても、どれがジェイボーイの  かわからないんですよ。アルバムの。というぐらい、ワンオブゼムの仕事としてやっていて、僕が音楽の趣味というのは、パンクよりに行ってから、ブリティッシュだったのね。XTCとかをがーっと聞いていたり、あとはテペッシュモードだったりしていたので、アメリカンロックっていうのを本当に聞かなかったんですよ。だから、例えば浜田さんは実際はアメリカンロックじゃないんですけど、一部の楽曲がちょっとブルースプリングスティーンっぽいだけで、あの人モータウン、アメリカンロックというよりは。もちろんLAのポップスではあるんだけど、モータウン的な要素がすごくあって、実はそういう名曲が多い人なんですけど、僕もそれはやるまで知らなかった。僕は、ウエストコーストロックの人だと思ってたんですよ。だから、聞いてなかったし、で、やるまでどういう人かも知らなかった。何回かは会ったことがあったんですけど、いい人だなってわかってたんですよ。というのは、浜田さんのギターのチョウシさんのアルバムに関してプロデュースをしたりしていて、それのボーカルで浜田さんが助けにきてくれたりしてたんですよ。話をいっぱいしてて。僕も歌詞書いてたんですね、チョウシさんの。だから、浜田さんがいろいろアドバイスをしてくれるんですけど、すごい的確なことを言ってくれるんですよ。一番そのときに印象的だったのが、浜田さんという人を知る上で重要なポイントになったんですけど、ある歌詞を僕がチョウシさんに書いてて、浜田さんが読んで、フクちゃん、これいいんだけど、いい歌詞なんだけど、これ恥ずかしがってるでしょって言うんですよ。てれてるでしょって。だめだよ、それじゃ、もっと照れる、自分で照れて二度と読めないっていうぐらい恥ずかしく書かないと伝わらないよ、歌詞はって言うんですよ。えーって思って。それって確信犯っていうこと? そうそう。 浜田さんって確信犯なの? そうだよって。そうだったのかって。この人、すげーなと思ったんですよ、そのとき。で、書き換えたの。恥ずかしいと思って。浜田さんが、フクちゃんこれ、これ、これでいいの。これでいいんだよ、すごくよくなったって。浜田さんはやっぱりおれはいろんな側面がしる、シンガーとして、声の部分、楽曲の部分とかいろいろあるんですけど、やっぱり歌詞は天才ですな。浜田さんは、やっぱりちょっとすごいね。何本指の人ですね。

T:ツアーでは何か新たな動きがありましたか?


F:ツアーをやってる間に、僕、浜田さんのホームページでいろいろ遊ばせてもらってて、僕の趣味むき出しのコーナーとつくらせてもらって、アタックオブバカモンスターっていう怪獣もののショートストーリーの絵ものがたりとか、ツアー先々でデジカメで写真とって、そこに最大にすごいのは、浜田さん、怪獣にしちゃいましたからね。お好み焼きマンっていう。お好み焼きなんですよ、浜田さん。お好み焼きが合体してる怪獣ですよ。というのをやってたんですよ。チョウシさんはカキオトコでカキが体中、カキみたいな。そんな巨大化して二人でチョウシさんが光線出すと、浜田さんがバリアって、そういうくだらないのを、ちゃんとビジュアルでつくってましたから。で、やってたんですよ。そんなのもやりつつ、2001日記っていう、日記をアップしてたら、浜田さんが「フクちゃんこれおもしろいから、まとめて本にしなよ」って言われたの。僕、ただ、もともとすごいひねくれ者だから、昔キーボードマガジンにコラム書いてるときも、キーボーディストがキーボードの話を書くの反則だよねと思ったんですよ。詳しいのは当たり前だから。だから一切書かなかった。音楽の話もしなくて、映画の話ばっかり書いてて、すぐ打ち切りになっちゃったんですけど、怒られて。そのときも浜田さんに、『オンザロード2001』っていうツアー、4年かけて1ツアー、そんなツアーやったやつだれもいないし、その「日記を書いて出したら、絶対面白いよ、フクちゃん」って。だよなと思ったの。絶対悔しいと思ったんですよ。ずるじゃん,それある意味。いつも思うんだよね、ずるじゃんって。そんなんおれじゃなくても売れるじゃない。書けば。

T:そうですよね。

F:ね。浜田さんの話が出てくるツアーの日記なんてね、ファンの人みんな読みたいじゃない。絶対イヤだと思って、何かないかな?と思ってた時に、ゲームつくろうと思ったんですよ。で、ツアーをユーザーの人がつくるゲームを。もちろんきっかけは昔のおれの弟子がつくったゲームを見て、がーんって衝撃を受けたっていうのがあるんですけど、じゃあ浜田さんが言ってた日記のかわりにゲームつくろう。こんな長いツアーにせっかく参加したんだしと思ってつくったのが、『オーバーザモノクロームレインボー』というゲームになったと。それは本当に長くかかったので、ちょうどつくり始めた時期が2001年3月なので、オンザロード2001の最後の1年間とかぶってたんですよ。アリーナツアーとかぶってて。でも楽しかったですね。だから、ゲームの資料とかビジュアルの資料の確認とか、ホテル帰ると来てるんですよ。嬉しくてね。見て。違うとか文句言って。で、ツアー、ライブもやりながらみたいな。ちょうど、だから、脳味噌フル稼働している感じが。すごい楽しくて、ライブで使ってる脳と、考えてものつくってる脳とあって、幸せに脳みそ全開な感じで。あれは楽しかったですね。また、だからそういう状況に自分を持っていきたいんですけど、ゲームははっきり言ってセールス的に失敗したんで、もう多分つくれない。続編つくってくれってマニアックなファンもいるんですけど、いや、ちょっと無理。お金ないから。お金出してくれないかななんていって。次はだからもっと違うものをつくりたいなと思いつついる今日ころごろで。だから、その中で殺陣の連中のDVDをつくったりということもやってるんですけど。

T:その殺陣のPVの内容的なものは。

F:殺陣の連中のやつは、基本的には僕が先に曲を書いて、エンブと言っているんですけど、4人の集団なんですが、4人に演じてもらって、舞ってもらって、それをPVにしようと。PVにしたときに、ソニーの板谷さんという監督と相談して、1個コンセプトとして、剣豪たちが、名のある剣豪たちが死んでもまだ戦っているというコンセプトでいこう。基本的に、一応メイクもしていて、戦っているのは宮本武蔵と人斬り伊蔵とホウゾウインインシュウっていうやつと、もう一人あとなぞのキャラ、それ本当はだれかにしたかったんだけど、うまく似なかったっていう。なぞのキャラで。4人でとにかく延々戦ってるっていう。あの世とこの世の行き来みたいな形で、イメージですけどね。ストーリーというよりはそういうイメージで一個つくってまして、実際はこのDVの後にライブも彼らはやっていて、その斬雪っていう、斬る雪っていうタイトルにしたんですが、そのロングバージョンというのもありまして、それは要するに生前の彼らが死に至るまでの物語を殺陣で見せる。実際、それは去年の夏赤坂プリンスホテルとかで公演やってるんですよ。海外公演もやってて、ことしは案外いくんじゃないかな、ヨーロッパとか。去年はアメリカも行ってて、アメリカではすごく受けてるんですよ。やっぱり殺陣っていうのは、日本だとえ、チャンバラで済んじゃうんですけど、やっぱり逆に言うと日本オリジナルのものなので、圧倒的に海外で強いですね。彼らがオリジナルだから。そこのアドバンテージでもっとどんどんやってほしいなみたいな。

T:音楽はどういうふうな感じになってるんですか?

F:聞いていただければわかりますけど、まずテーマがはっきりあって、それはカムイのテーマと僕は呼んでいるんですけど、そのテーマがどんどん展開していく。構造的にはドラマティックなプログレみたいな感じですかね。僕の中でヒロイックな感じとか、あと基本的には日本的なんだけど、余り強力に日本的じゃなくしたくて、普通のプログレロックですね。そうじゃないと半端にイヤな感じが、僕の中でイヤな感じになるので、だから明らかに日本的なにおいはするけど、決して例えばメロディに尺八が出ることはないみたいな感じにはしましたね。

T:で次に、怪獣フィギュアの話に。

F:フィギュアなんですかね。

T:きっかけというか。

F:もともとフィギュアとか持ってなかったわけじゃないので、でっかいゴジラ何体とかいろいろ持ってたんですけど、やっぱりきっかけは今単純にものをつくりたい飢餓だよね。ビジュアル的なものひかれているのがすごくあり、あとは単純に買い出してみたらかわいかったっていうのが大きいかな。だから、あとはゴジラファイナルウォーズっていう映画が、ゴジラの総決算みたいにしてあったときに、案外その企画にのってやろうと思ったんですよ、楽しいから。実を言うと、ゴジラファイナルウォーズのエキストラに出てたりしてるんですね。それで、そういうお祭り的なのりをしてるうちに、ゴジラでいろいろフィギュアが出て、買おうって買い出していってるうちに、最初はリアル系のものを買ってたんですけど、だんだんかわいい系のソフビ、最初は興味なかったんですけど、はまってきちゃって。T:昔の造形で、割とラフなイメージでつくってあるやつですよね。
F:そうなんですよ。かわいいかもねってどんどんなってきちゃって。ってなってきたら歯止めかからなくなっちゃって、最近だといわゆるトイフェス系のイベントあると必ず行って、しかも朝一ぐらいでいって、限定のやつ買うようになっちゃって。ちょっと病深いですね。真冬でも行ってますからね。この間もスーパーフェスティバルって1月8日にあったんですよ。6時に並んで。ところが、スーパーフェスティバルってそんなに並ぶところじゃないんですよ。フェスによっていろいろあって、スーフェースは朝6時に行ったら、3、40人なの、普通。そしたらそのときは前に120人ぐらいいるんですよ。そしたらやっぱりね、実はローゼンメイティブっていう萌え系のアニメがあるんですよ。それのフィギュアが客を呼んでたらしい。やっぱり萌え系ですよ。今は。怪獣系はね、ちょっと押されてますよ。それでも買い出すととまらんね、怪獣は。

T:やっぱりゴジラ系が多いんですか?

F:ゴジラ、実数を一回、自分の仕事部屋、ばかの部屋と呼んでるんですけど、そのばかの部屋に何体あるのかというのを一度チェックしようと思ったときがあって、ところがチェックして勘定してるうちにどんどんふえてきちゃって、わけわからなくなったんでやめましたね。でも、多分ちっちゃい食玩系のものから入れると、多分ゴジラが90ぐらいあるかな。こんなのも入れてですけどね、大小取り混ぜて。ゴジラ90、ガメラ40とか、そういう感じですよ。ガメラも大好きなんで。どっちかというと、ガメラなの。ガメラ第一世代で、ゴジラには微妙に間に合ってないんですよ。最初に見たゴジラ映画が、三大怪獣地球最大の決戦だから。モスラ対ゴジラは間に合わなかったんで。ということは、実は最大怪獣地球最大の決戦のときって、ゴジラがモスラたちと対談したりするシーンがあるわけよ。ね。もうコミュニケーション可能な怪獣になってるんですよ。それが最初に見た怪獣映画だから、ゴジラ第一世代じゃないんだよ。ところがガメラは、本当に一作目が小学校1年か2年なんですよ。だからストレートに来てて、両方大好きですけど、ガメラのほうがストレートに好きだなって言えるかもしれないですね。ガメラ大好きですね。ガメラ、だから見ると買っちゃって、カメばっかだなみたいな。

T:ガメラ、万博会場のやつですね、最初見たのは。

F:そうなんだ。もう後期だよね。制作費落ちちゃったから。

T:そうですね。

F:ガメラは知ってると思うけど、1、2、3と成績が上がっていくんですよ。『ガメラ』、『ガメラ対バルゴン』『ガメラ対ギャオス』、ところがその後大映自体がものすごく経営不振になって、次の『ガメラ対バイラス』でどたんと落ちるんですよ、制作費。で、いったん落ちるんだけど、ジャイガーはちょっと上げる。で、またギロンで下がって、最後、ジグラなんか制作費ねえみたいな。ジグラなんにも壊さないからね。壊すシーンないんだから、怪獣。お金なくて。だから、そういう栄枯盛衰を見てるわけですよね、全部。それでも、多分余りにも貧乏になっちゃったんで、ガメラ映画が。僕は実を言うと、劇場ではバイラスまでしか見てない。ジャイガの一個前しか見てない。がっかりしてやめてるんですよ。そういう世代だね。から、ガメラがあって、あとは怪獣だったら何でもいい、ある意味何でもいいので、がーっとあるじゃないですか。それ以外に洋ものの、おれの好きな1950年代クリーチャーがたくさんあるし、基本的にはモンスターとより怪獣なんですよね。だから、フランケンシュタインとかそういうのはないんですよ。だから狼男もないし。基本的には怪獣。ばかなんですけどね。

T:ウルトラ系も。

F:もちろん好きですよ。ウルトラ系も、出ると買っちゃってどうすんだみたいな。ウルトラ系も最初はリアル系を買ったんだけど、ウルトラ系もきりがないんだよね、メーカーもよくわかってるんだけど、かわいいのどんどん出してきてくれるから。

T:でも、セブンまでとか、そういうのってあるんですよね。

F:そうです。僕は明らかにセブンまで。だけど、しかももっと厳密に言ったら、セブン前半までですね。だから、一番没入したのはウルトラマン。そこで、セブンで途中からあの暗い雰囲気がイヤだったのかな、見なくなったな。わからないんですけどね。ただ、いろいろそのころ家庭の事情があって、親父が入院したりして家庭の雰囲気が暗かった。それとリンクしてて、見たけど覚えてないのかもしれないんですよ。で、ちょっと、セブンは途中まではもちろん見てるんだけど、ちょっと欠落してる部分ですね。今、埋める部分をしようと思ってるんだけど。

T:スペル星人とかって見てるんですか?

F:スペル星人は放送のときは見てないですね。あとになっては見てますけど。後になって、海賊版の汚いやつで、これかーって。あれ実相寺監督の作品なんで、見てるんですね。で、セブンはね、最初の放送のとき見てないけど、再放送になってから見て、やっぱり実相寺さんの見て、やっぱりなみたいな感じでクールに見たりはしてますね。ウルトラマンまでですね。ウルトラマンまでは全怪獣、全タイトル全部言えるから。

T:もう『ウルトラファイト』とか。

F:そういう世代だよね。完全に第二期ですね。

T:そうなんですよ。

F:わかる、わかる。それはすごくよくわかる。『ウルトラファイト』のころは、おれの世代見ないじゃないですか。見てて、ああ、またばかみたいなやってるなと思う年頃になってるからね。でも、なってない人も世の中にはいて、年々全部全部見てるっていう人もいるから。だから、ウルトラシリーズは正常に一回離れて、大人になってまたおもしろがって戻ってきてる感じかな。

T:二子玉川園で、昔、怪獣ショーをやってたんですよね。怪獣ビルも二子玉にあって。


F:あったんだ。そう。そうなんだ。おれ、引っ越して来たのは結婚してからだから、世田谷に。もともと板橋じゃないですか。全然ないですよ、だから。そういう記憶は。だから、怪獣ショーとか、怪獣の着ぐるみを見た記憶はないね。ないない。ある意味田舎というか、辺境だったから。

T:僕の時代って、ぬいぐるみっていう感じの意識があって、見てる感じですよね。

F:そうかもしれないね。

T:目の前でサインとか書いてるから。

F:そうか。なるほどね。

T:福田さんの世代が幸せだったかもしれない。

F:かもしれないね。だから、自然に離れて、それでも例えば『ゴジラ対ヘドラ』はちゃんと見に行ってるし、映画館に。『メカゴジラの逆襲』で、いったん昭和ゴジラが打ち切られるんですけど、74年。それも高校2年生だけど見に行ってるよね、ちゃんと。しかもそれ修学旅行をさぼって見に行ってるんだよね。修学旅行に行きたくなかったんだよね。そういう集団行動とかしたくなくて。で、見に行ったみたいな。

T:で、またちょっと話戻りますが、去年からまた浜田(省吾)さんのツアーが。メンバーが変わってましたね。

F:ちょっと変わったというだけですね。

T:長田さんとか。

F:そう、長田さんとかね入って。

T:このツアーはどんな感じだったんですか?

F:この間までやっていたアリーナですね。まず、よくこんな長くやれるよねっていうぐらい長くやってて、浜田さんの自力に驚いたというか。浜田さん自身、ポールマッカートニーのDVDを見てとても勇気づけられたふしがあり、多分あると思うんですよ。それはすごく大きかったんじゃないのかな。で、すごい幸せ、聞いてる人があー、よかった、見てよかったっていうふうに思ってたライブのような気がするんですよね。というのは、これは僕の意見ですけど、ミュージシャンって齢を重ねて大御所になっていけばいくほど、ライブを見にくる人は幸せになりたくて来てると思うんですよ。だとしたら、やっぱりその義務は完璧に果していたかなと。すごいなと思いますね。その責務の果たし方が。やっぱり何も変わらない浜田省吾が見たいわけじゃないですか。で、もちろん前回のツアーよりは動きの度合いも減るし、それでもああ、浜田だってみんな言いたいわけだよね、男の子は。で、女の子もそう言いたいじゃないですか、浜田さんって。それをちゃんと見せてたよね。それがすごいなっていう気がする。やっぱりその、何というかな、こう言うと大げさかもしれないけど、浜田さんは偉いなと思うのは、ミュージシャンとしての社会的な責任を果してるよね。自分のためにやってる部分もあるけど、本当にリスナーのためにやってるかな。

T:そうですね。

F:だから、例えば今って、企業とかでも、おまえ社会的な責任をどう思ってるんだっていう企業とか多いわけじゃないですか。企業ってそういうものっていう。だから、もう本当にライブドアだって全部そうで、君たち金転がしてるだけでしょっていう、ようなのでも企業活動。それ、正しいんですかっていうのがあるじゃないですか。そういうのが全部あるから、例えば  出てくるわけじゃない。浜田さんってそういうのの最もっていうところにいるよね。本当に社会的な存在だって、公の存在である浜田省吾として振る舞ってるし、普段は違う普通の人なんだけど、ステージに行ったときの責任の果たし方がすごいなと。というのを実感したツアーで。メンバーは、とっても、まあ、前のツアーももちろんそうだけど、すごい気の置けない関係で、とっても楽しかったです。楽ちんな感じ。みんなすごい性格いいんですよね。よっぱらってくだまくやつもいないし、すごく楽。それもこういう年齢になったからかなっていうか、おれと同い年の面子が、おれも含めて4人いるんですよね。サックスの古村とミックとコジマと。長田が一個下なんだけど同じじゃないですか。小田原君だけちょっと若いけど。でも似たような世代で、似たような経歴で、似たような音楽を聞いてきてやってきてて、そうすると何ていうかな、片意地はる必要もないしみたいな年齢になってるじゃないですか。そうすると、そういう年齢じゃないと出ないオーラってあるでしょ。ある意味おっさんなんだけど、それはそれで安心感として、そういう安心感は、もはや与えなきゃいけない義務として、ユーザーにっていう気はしてて、そういう部分では本当にすごくちゃんとできたツアーだったんじゃないでしょうかという気はするけどね。おもしろかったですよ。っていうか、楽だったっていうのが一番かな。だから、本数をもっとやりたかったなっていうのがみんな思って。浜田さん的にはあれで、26本でとりあえず勘弁してよって思うと思うけど、みんな言ってたから、もうちょっと長くやろうよって。楽しかったっていうことですよね。やっと終わったなんてだれも思わなかったから。

T:2006年に入って、福田さんの活動としては?

F:まず、インディーズでプロデュースしてる女の子が。去年も1枚出したんですけど、まず急務としてその子の2枚目をつくらなければいけないので。今、曲を整理したりしている最中ですね。それはもう、とにかく今月中に形で、もう3月ぐらいにはお皿上がってるぐらいにしたいなと思っているので、まずそれをやりたい。あと長い目で見たら、とにかく映画つくりたいので、それは多分怪獣映画か、怪獣映画までいかなくても特撮映画かをとりたいので、それだったらとにかくシナリオばんばん書かなきゃと思ってて。シナリオの元ネタになってるものが、要するにだーってたまっているので、それをとにかくどんどん整理しようというのがありますね。それをとにかくやって、で、僕がそのゲームをつくったときに一番思ったのは、企画というのは持っていってお金を出してくれる人がいれば出来るんだっていうこと。本当に思ったんですよ。だから、できないんじゃないかと思っててもだめで、とにかくこっちで揃えるだけ揃えて、どうよって見せるところまでまず行かないと話にならない。要するにプレゼンまで。プレゼンさえ通ればできるんだっていうのは、一つ味を占めた部分ではある。多分、間違ってないと思うんだよね。だから、僕自身はどうしても音楽だけやってるのはイヤなんだよね。それはもう、音楽だけやってるのはイヤだって、はっきり言うとイヤなんですよ。ほかのこともやりたいんですよ。

T:なるほど。

F:トータルの中で、自分が音楽もやっているっていうことがやりたいから、だから、もちろん監督まではできないにしても、シナリオは書いてそのとった映画の音楽は自分がつけるとか、そういうところまで、今年中に持っていけなかったら、とにかく今年は準備でもいいんですよ。やりたい。とにかく絶対にとりたいし、死ぬまでに記念で1本とかではなくて、死ぬまで20本以上はとりたいんですよ、映画。そういうふうに持っていきたい、自分を持っていきたいし、そういう意味ではいろんな友達をいっぱいいろんなところにつくって、幸い、実はおととし、一昨々年たばこをやめたんです。そうしたら酒をすごくよく飲めるようになって、もともと本当は酒強かったんだけど、たばこを吸ってると気持ち悪くなった。それが治ったんですよ。そしたらね、すごく酒を飲むのが億劫じゃなくなって、いろんなやつとすぐ飲もうって飲めるようになった。そうしたら案外友達がどんどんふえて、いろんなところでいろんな事やってるやつが多いじゃないですか。人材的には、もうそろってるなと思って。後は要するにどっかで企画通して、ゴーして金引っ張ってくるしかないんだっていう感じですかね。それは絶対やりたいですね。そういうのは、なにかぜひあったら協力してください。

T:是非、何かあれば声をかけて下さい。で、最後に。ブログ、ありますよね。すごく面白いなと。タイトルはどっかから。


F:っていうか、ずっと福弾頭っていう名前で、その福弾頭っていうのはどこから来ていたかというと、浜田さんのロードアンドスカイのオフィシャルホームページでおれのコーナーの中に、さっき言ったアタックオブバカモンスターというのと、2001日記というのと、もっともひどい企画としてモヒカンリレーというのがあったんですよ。これを今回復活させようかなと思ってるんですけど、浜田のツアーで。モヒカンリレーというのは、これはちょっと相当すごくて、入り待ちしてるファンをつかまえてモヒカン刈りにするっていう。というのは、浜田さんの2001ツアーのときギターリレーってやったんですよ。浜田さんが使うギターをリレーしていく。それのパロディ。モヒカンの輪をつくる。全会場で1人ずつモヒカンをつくると、終わるまでにはすごい数のモヒカンのやつができるはずだから、最後はファイナルの時にモヒカンのやつ集めてパーティーやろうっていう企画だったんです。残念ながらそう簡単にモヒカン刈りにはできず。モデルになってもらったスタッフ、「きょうはごめん、ツアマネ来て」とかって。「きょうはごめん、楽器担当のローディーの君来て」って、人前でがんがんモヒカンにしつつやってたんですけど。

T:何か凄いですね。

F:あれは忘れもしない1999年の立川でやったライブのときに、1人ご機嫌に酔っぱらったやつがいて、福田さん、モヒカン刈りしてくださいって言うわけよ。おれが、ほんとにいいのって。モヒカンには3つレベルがあって、弱、中、激っていうのがあって、激っていうのは本当のモヒカンですよ。だーってかっちゃうんですよ、スキカルで、おれが。弱っていうのは、ちょっとツーブロック。中はちょっとツーブロックの深いやつ。激でいいからって言うわけ。ほんとにいいの? やっちゃうよ、おれ、ほんとにって。やってください、やってくださいって言ってるわけ。じゃあこっちこいって。ホームページ上にちゃんとカメラも用意して、やりますとかって。周り、ギャラリー取り囲んでぶわーってもうもろモヒカンにしてたら、その刈っちゃったやつの奥さんっていうのが門から走ってきて、なんてひどいことするんですか!って、泣いちゃってるんだよ。しまったと思っても、いまさら後引けないわけ。もう、ほとんどモヒカンになっちゃって。そしたら、その奥さん泣いて去って行っちゃって。あわててモヒカンの旦那が追っかけていって。その後の情報によると、もう離婚寸前にもめたんだって。で、どうなったのって言ったら、坊主にしてあやまって終わり。いろいろあるんですけど、でもからしてもらったんで文句は言えない。そういうのをやってたコーナーがあるんですよ、福弾頭って。ちょっと危ない。だから、福弾頭なんですね。そのまま受け継いでブログをやり出してみたら、おもいのほか案外みんな見にくるなと思って。最初、「すっごい簡単にブログってできるからやってみ」って言われたのよ。それで、へーと思ってやってみた。そしたら、あっという間に1位とかなっちゃって。何でこんなに来るんだよって。こんなくだらないことしか書いてないのにと思って。で、やってて、福弾頭、47、1、2、3とあって、48ってあって、で福弾頭っていう名前もやめようと思って、で、今の名前に。

T:なるほど!

F:非常にくだらないんですけど。長々としゃべってしまいました。

T:色々楽しいお話ありがとうございました!また。これからもブログ読ませていただきます。

F:いやいや、とんでもございません。ありがとうございます。


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とても面白い、福田裕彦さんのブログは、http://diary.jp.aol.com/x4yqq2e/まで。