横内タケ


「TENSAW」のギタリスト、佐野元春、矢沢永吉等さまざまなアーティストのサポート活動を経て、現在、「TORII」のボーカルであり、ギタリストの横内タケさんのロングインタビューです。
(2005年6月2日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





横内 健亨(よこうち たけひろ)
神田生まれ。A型。



15歳でギターに目覚める。
好きな、影響を受けたギタリストは多い。
1973年に、プロの世界へ。
いくつかのバンドを経て、「オレンジ」「TENSAW」の
ギタリストとして、活躍。
以後、さまざまなアーティストのサポートメンバーとして
ツアーへ同行・レコーディングに参加。
サポート・レコーディング アーティストは、
宇崎竜童、かまやつひろし、佐野元春、佐久間学、
白井貴子、レベッカ、矢沢永吉、山下久美子、渡辺美里 etc. 
(五十音順)
 横内タケインタビュー

ソロでやろうかっていう話も出てたんだけど、僕のギタースタイルをつくるには、やっぱりバンドでやったほうがいいんじゃないかと思って、それでバンドを選んだんですよ。ただ、ギター2本だったらやらないっておれは言ったんです。ギター1本だったらやらせてもらいたいけどって言って。それで、やっぱりそこでギタースタイルをある程度固めることが出来ましたね。だから、やっぱりテンソーのおかげだと思ってるんですどね、今のスタイル、ポジションがあるのは。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。

横内タケ(以下:Y):よろしくお願いします。

T:まず、生まれた場所から教えてください。

Y:生まれたのは、どこだったっけな、麻布にある病院です。逓信病院かな。それで、神田育ちです。

T:兄弟は?

Y:兄弟はいません。

T:小さいころはどんな遊びをしてたんですか?

Y:赤胴鈴の助とかの時代で、チャンバラしてたり、月光仮面の時代で、うちのおふくろが洋裁の仕事してたから、月光仮面の上下つくってくれて、それでその格好して二階の階段から飛び下りたら、ちょうどたまたまそこにそば屋の出前持ちがきて、そば屋が出前を捨てて、おれのことを受けとめてくれて、事なきを得たんですけど、あれがいなかったら、多分大怪我してたんじゃないかな。(笑)

T:小学校の頃、音楽にかかわることって。


Y:小学校の時におふくろがピアノを弾いてて、歌を歌うのが好きだったんで、少年合唱団みたいのに入れて、トップソプラノボーイで、一応ラッカー盤でレコードも出してるし、神田共立講堂でリサイタルもやってるんですよ。それで、中学校の受験のために、小学校4年ぐらいからやめて、NHKとか出てたんですけどね。それで、中学に入ってから誕生日プレゼントか何かでギターもらったんですよ。それでギターもらったんだけど、チューニングのフエはついてるけども、チューニングちゃんとできないし、コードも何も知らないからつまらないのね、結局つまらなくなっちゃって、で、ポータブル電蓄って、そのころポータブル電蓄ってシングルがかかるやつ、あれに取りかえてもらって、それでリズムアンドブルース、ウィルソンピケットとか、サム&デイブとか、あの辺のを聞いて、リズムアンドブルース気持ちいいなと思って。それで、何かドラムにすごくインスパイアされちゃって、ドラムを始めましたね。中学1年ですね。それで、ドラムやっててもうちが貸し事務所みたいなのやってたんだけど、そこの一部屋がおれの部屋だったから、もう迷惑だったろうなと思って。昼間からどたどた、バスタオルでミュートしたりしても、ドラムだからうるさいでしょう。それでドラムをばたばたやってて、小学校の仲間とつき合ってたから、結構お金持ちのうち子が多かったんで、PAも持ってたし、自宅をステージに改造しちゃうような子もいたし、そこでドラムたたいてリードボーカルをやりながら、そのとき曲はね、アニマルズとか日本のバンドのコピーしたのはモップスとか、ポップなところでワイルドワンズかな。その辺で歌を歌いながらドラムを叩いてたんだけど、ある日鼓の家元の息子がいて、その子がプレジデントのセットを持ってきて、僕のはもっと安いセットだったんだけど、一番いいセットを持ってきて、僕よりか多少うまかったのかな、それでドラムはくびになりまして、それでボーカルだけになったんだけど、見よう見まねでギター弾いてるのを横で見てて、ちょっとずつ押さえ方を覚えて、使ってないギターがあったから家に貸してもらって持って帰って。それで家で練習してて、学校が違うからあんまり会えないんですよ。残っちゃった子はほかの学校だから。それで、間があきながら会ってたりして、そこでギター弾くとおれのほうがスムーズに弾けてるような気が、自分で感じられて。それでもう結構ドラムあんまり叩かないで、ギターの練習ばっかりしてて、それである日モップスを見に行ったときに、モップスの仲よくしてもらってる若い子がいて、その子たちと仲よくなったら、一人の子がドラムだったんですよ。で、一人の子がギターで。楽器何やるのて聞かれたから、僕ドラムやってるんだって言ったら、その子が僕のパートがなくなっちゃうって、奥ゆかしい子で、今話すとあれだけど、ポーラ化粧品の会長の息子ですよ。お金持ちでね、ラディックのツインバス持ってましたよ、当時。僕ギター少し弾けるから、ギターでもいいよって言ったら、もう一人のギターの子が、「タケ、どのぐらいギター弾けるんだよ」って言われて、それでちょっとやったら、その子がすぐおれベース弾くよってすぐ言ってくれて、それで3人でバンドを始めたのが中学2年ぐらいかな。それでそのときには、中学のときには同級生で秋山カズマサって、ジャズ界で今ギター弾いてるけど、あいつがやっぱりギター弾いていたんだけど、一緒に僕がドラムのころやったことあるけど、そのころ寺内タケシの運命とかを完コピしててね、すごいうまかったですよ。今でもテクニックがあるほうに入るんじゃないですかね。それで、何だかんだってバンドを3人で初めて。

T:ジャンルは、ロック?

Y:ロック。ゴールデンカップス、当時、外国の曲のコピーしてくれるグループってモップスとか、ゴールデンカップスとか、ダイナマイツとか、その辺ぐらいしかいなかったのね。その辺のバンドをよく見に行かせてもらって、だんだんかわいがってくれるから仲よくなってきて。それで、オリジナルの曲は知らなくても、モップスがやってるその曲は知ってるわけですよ。モップスがやってるバージョンをコピーするから、オリジナルをコピーしたことにはならないんだけども、それで何曲か覚えてステージで3曲ぐらい演奏をやらせてもらったりしてて。それでだんだんそれが成長してって、なんか知らないうちに今の仕事につながった。いつプロになったかあんまりわからないんだよね。

T:じゃあ、もう高校生?

Y:そうですね。高校生なってました。高校生のときに、その夜バンドの練習だっていうので、僕、玉川学園のスーツかなにかの学生服で、ギターケースもって新宿のアシベか何かに着いたんだけど、まだちょっと早かったのね、夜のゴールデンカップスと、モップスの始まるのが。まだ昼の部をやってて、昼の部すごい人だかりだったんですよ。で、何だろうなと思ったら、フォーリーブスが出てたの。フォーリーブスちょっと見てみようかなと思って、ギターケースを持ちながら一番後ろで見てたのね。そしたら、今でいうジャニーさん、ぽんぽんて肩叩かれて、君ギター弾いてるのって言われて、そのころ横分けでジミーページに憧れちゃってるから、それで、レッドツェッペリンが大好きで命掛けてますみたいなこと言ったんじゃないかな。あそこでギター弾いてみないかいって言われて、それでジャニーズ事務所に半年ぐらいいたのかな。でもやっぱりジャニーズ事務所じゃやらせてもらう曲がしれてるし、ずっとフォーリーブスのバックだし。それよりも何よりもいろんなうわさもあったし、すぐやめちゃって。当時、フォーリーブスのバックやってたドラムの子で佐山シュンジって知ってるかな、お父さんが。佐山シュンジっていう喜劇役者の息子さんがいてね、その子がドラム結構ガッツあったんだけど、その子も一緒にやめて、一緒にバンドを組みました。それが「エンジェル」っていうんだけど、自作でシングルも出してるし。昔でいうブルースクリエーションとか、あの辺の対バンでよくやりましたよ。

T:そのときは、いくつぐらいですか?

Y:そのときはもう高校、18ぐらいかな。で、新宿のアシベとか、サンダーバードとか、ゴーゴーアシベとかに掛け持ちでやってて。

T:「エンジェル」の編成は?

Y:えっとね、ドラムがその子でしょ、それで一人外人なんですよ、アメリカンスクールのジェフ・ブリストルっていう背が高くて。で、もう一人は昔からやってる池田君っていう整形外科の息子で、この子がまたお金持ちで。お母さん、お母さん、ボーカルアンプ買ってくれよっていきなり100万出させましたからね。びっくりしました。シェアのボーカルアンプ買ってきちゃったの。それで4人でやってて。それで、結構それはアシベとか、そういうジャズ喫茶とか結構いっぱい出てたな。で、朝までの仕事もやったことあるし、  ホールなんかで。夕方の4時ぐらいから朝の5時ぐらいまで、ずっと3軒ぐらい掛け持ちで。そのバンド、マネジャー金持って逃げたんですよ。(笑)

T:事務所は?


Y:事務所はね、そのころは入ってなくて、ずっと入ってなかったですね。それで、そうそう、ある日かまやつさんと知り合うことになって、それはエンジェルの後で。エンジェルの中のサヤマシュンジの息子のサヤマタケシっていうのが、テンプターズの大口ヒロシと中がよくて、ウエスタンカーニバルとか出てて、それのつき合いでおれも大口ヒロシと友達になって、それでグループサウンズも一時代終わって、ピッグなんてグループやってたかな、オオグチ君はサワダケンジと一緒に。それで、それも終わって、僕らの世代はショーケンなんかがスターじゃないですか。それでかっこいいななんて思って。ある日ビブロスみたいなところで遊んでたら、オオグチ君がおまえギター弾いてるのか」って言うから、ギター弾いてるよって言ったら、あしたぎょえんスタジオに何時に来いって言われて、それで行ったら、アランメリルっていう外人のやつがいて、それでオオグチ君と二人でセッションしてるわけね。それで、そのときにやつのサイドギターを弾いたときに、日本人とグルーブが全然違うと、押さえてるコード感も全然違うと。ストーンズとかフェイセスが使うようなオープンコードみたいなのを使ってて、すごい新鮮に聞こえたのね。あ、このバンドだったらギター弾かないでベース弾かせてもらって、ギターの感じをおれのものにしたいなと思って、それで一緒にやらせてもらって。それが「ウォッカ・コリンズ」の始まりで。で、ウォッカ・コリンズでベース弾いてたけど、結構勉強になったかな、やっぱりいろんな意味で。

T:名前は誰がつけたんですか?

Y:ウォッカ・コリンズは大口君。ストーンズが好きなカクテルの名前らしいんだよね。もう大好きだから、キースリチャードが。おそろいのスーツまで買っちゃうぐらいだし。

T:カタカナで書くの?

Y:カタカナと英語と両方。ウォッカ・コリンズ。コリンズも英語かな、C、全部英語。それで、結構キャロルとかミカバンドとか、ファニーカンパニー、クワナ君のやつ、その4つぐらいでツアー回ってたの。で、よくキャロルのポマードの匂いにやられてさ。当時からすごかったから、キャロルは。

T:そのツアーって、どのぐらい、期間的に。


Y:数的には10本、20本ぐらいだったと思うんだけど、全部、裕也さんが絡んでるやつで。沢田さんもゲストで何度か出てきたことありますよ。それで、ウォッカ・コリンズやってたんだけど、アランメリルが逃げちゃって、なんかお金の面とかいろいろ合わないことがあったのかな、わからないけど。魚食べられなくて、打ち上げも出たことなくて、一人でいつもホテル帰って、一人で酒飲んでたから、寂しかったんじゃないかな。で、いなくなっちゃって、でもスケジュールが残っちゃってるから、それでユーミンとかでベース弾いてた、ぎっちょのベースの僕の友達がいるんですけど、その子に声掛けて、ウォッカ・コリンズの残りのスケジュールを彼にベース弾いてもらって、僕はギターになって、それで何発かこなして、ウォッカ・コリンズは終わったんですけどね。それで、その後に今話したベースの子と一緒に「オレンジ」っていうグループを組んで、今の山本達彦とか一緒にやってたんですね。それでレコードも出して。

T:年代的には?


Y:19です。二十歳ぐらいかな。

T:そうすると、年代で言うと。

Y:二十歳ぐらいだからね、七四、五年ですね。それで、その「オレンジ」っていうのをやってて、オレンジって名前はね、昔、大口くんが麻生レミと大口ヒロシとルイズルイス加部とワイルドワンズにいた渡辺シゲキ、チャッピーっていう人と、あとチン・シンキ。この5人でバンド組んでたんですよ。これが「オレンジ」っていうバンドで、すごいカッコいい名前だなと思って、今のオレンジレンジみたいな感じだけど、それでオレンジっていう名前をもらってデビューしたんだけども、そのデビューがまたすごい話で。この事務所がちょっとかんでまして、まあ何だかしらないけど、衣装もオーダーしたのと全然違うようなのが来ちゃうし、レコードも録音したんだけども、僕らが知らない間にさびが8小節増えてるんですよ。どうやって録音したのかなと思って。当時、レコーディングミュージシャンだったのが、水谷さん。うん。オレンジのレコーディングは、水谷さん。

T:そうなんですか。


Y:そう。ソロまわしは僕なんかが弾いてるんだけど、バッキングは水谷さんが。ロビーさんはビクターの人で、ディレクターだったからね。それで、オレンジの話もまたすごいんですよ。オレンジっていうのが、かまやつさんのバックで、テレビの愛川欽也とムッシュのなんか、アマチュアバンドの登竜門みたいな番組があったのね。日曜日かなにかにやってて。それも始まったばっかで2週ぐらいプロとして出てたんですけど、ある日六本木を遊んで店出たら、ロビーさんと出くわして、それで、あ、どこかでギター弾いて歌える男の子いないかなって。俺が、「おれっ」て言ったら、「そうかタケがいたか」って話で、デビューが決まって、その話を聞いたら、かまやつさんがやってる番組、日本テレビでやってたんだけど、その番組に優勝させてやるから出ろという話で、かまやつさんに相談したら、「ぜひやったほうがいい」っていう事で、「よろしくお願いします」って。だけどプロででちゃってるから、2週にわたってバックで。「ばれちゃうんじゃないですか」って言ったら、「2週休めばわからないよ」って言われたんですよ。そんないい加減なものかなと思って。でも、それで一応イギリスも連れてってもらったし、レコーディングもさせてもらったし。それでやってたんだけど、これで引っかかっちゃって。まあ、やめさせてくれって言ったら、当時で「200万、損害賠償払え」って言われて。それでかまやつさんに泣き込んでツアーをやらせてもらって、2ツアー分かな、それで200万返しました。150万かなにかに安くしてくれたのかな、かまやつさんが。話してくれて。もう。恐いですよ。そんなんでやってて、その事務所、オレンジも終わって、やっぱり東京のミュージシャン大体そうかもしれないけど、やっぱりスタジオに憧れてるのかな?当時いたはっぴぃえんどとかに憧れてて。そういったレコーディングの仕事とか、人のバックの仕事とかをこなしてた時に、かまやつさんの「わが良き友よ」っていう売れた曲あったじゃないですか。あの曲で、僕に「ギターを弾いてくれ」って話になって、それでテレビで弾かせてもらてたんですね、かまやつさんの横で。そしたらそれをたまたま見て、野口五郎がこの子のギターを使おうということで、僕のところに電話がかかってきて、野口五朗さんの仕事もやらせてもらうようになって。それで野口君と結構仲よくさせてもらって。うん。いろんなギターとかもやれたりなんかして。今でもつきあいありますけど、結婚しちゃってからあれかもしれないけど。すごいギター好きでね、楽器全般が好きで、家にスタジオ持ってるし、家からでも素っ裸になってドラム叩いてますからね。なかなかうまいんですよ、ドラムも。で、ちゃんとした録音スタジオだから、ドラムだから全部フットスイッチで動くようになってるのね、レコーディングが。野口君の仕事やらせてもらったりして、それでTENSAWが始まったんですよ。24歳くらいの時かな?

T:きっかけは?


Y:かまやつさんのバンドやってるときに、僕らの後釜のバンドでルーていうバンドがついたんですね。そのバンドにいたのがミチアキっていうベースのやつと、セイボーってボーカルのやつなの。セイボーはまだそのころドラム叩いてたんですけど。それで知り合いになって、ミチアキとセイボーが横浜でテンソウっていうグループをやってて、僕らが入る前から存在してたのね。ヤマハのポプコンか何かも出てたらしいんだけど。それでメンバー移動が結構激しくて、ドラムと、セイボーもうドラムやめてボーカルになりたいっていって、ドラムとギターが、あんまりメンバーが落ちつかなかったらしい。それで、カルメンマキのところにいたオズのシマダ君なんかも、今、ボデトリーなんかもやってるけど。

T:しーたかさんが入る前。

Y:うん。入る前。それでやってたらしいんだけど、落ちつかなくて、そこで「ギターソロだけ弾きに来てよ」ってミチアキに言われて。それで、曲のコードも知らないけど、ミチアキがコードを直前に教えてくれて、合図くれて、がーっとひくみたいなそんなことやってて、それで結構楽しかったから、バンド一緒にやらないかっていう話が向こうから来て、で、そのころちょうどね、僕もシーエムの仕事とかそういうのも来て、ソロでやろうかっていう話も出てたんだけど、うーん、僕のギタースタイルをつくるには、やっぱりバンドでやったほうがいいんじゃないかと思って、それでバンドを選んだんですよ。ただ、そこに入る内容としては、ギター2本だったらやらないっておれは言ったんです。ギター1本だったらやらせてもらいたいけどって言って。それで、やっぱりそこでギタースタイルをある程度固めることができましたね。だから、やっぱりテンソーのおかげだと思ってるんですどね、今のスタイル、ポジションがあるのは。

T:もう、入る前にテンソーはアルバムを出してたんですか?


Y:出してなかったです。

T:じゃあ、入ってから?

Y:うん。まだ、出てなかったですね。で、入ってすぐ合宿みたいな形で。何せバンドがデビューするまで1年間練習しなきゃ嫌だっておれが言ったんですよ。バンドは曲がこなれてないと、やっぱりね。それで、1年間練習してライブやってたら、横浜の連中だから、マーチャンなんかともつきあいがあって、マーチャンは、ちょうどジョニールイス&チャーをやってる頃で、チャーが遊びにきたりなんかして。チャーとはもっと前からつきあいもあったんだけど、よく見にきてくれるようになって、それでチャーの会社に入る事になったんだよね。そこでジョニールイス&チャーとは一緒に動かしてもらったりとか、結構初めてデビューコンサートが晴海のロックフェスティバルか何かで、トリがRCサクセションで、その前がジョニールイス&チャーで、その間に。(笑)すごいところでしょう。それでもう、TENSAWはWHOに憧れてたから、楽器ばーっといっぱい並べて、壊して帰ってきちゃうみたいなことやってたから。

T:それが、70年代後半。


Y:えーっとね、25ぐらいだから、後半ですね。その辺から、だんだんその辺のファンたちにお披露目するようになって。それで、関西とかも回してもらうようになって。それで、まあ、なんかやっぱり確執が合わなかったのかな、ごたごたもめるようになっちゃって、それで解散ということになったんだけど。

T:何年ぐらい?

Y:3年。3年の一番最後の仕事が、ジャニーの前座っていうやつで。なんかどっかで聞いたのかしらないけど、Aパターンみたいなのができてて、テープ送ってきてくれて。これを使ってA.B.Cつくってあとは残りを作って、シングルをつくれっていうふうなメッセージだったのね。それで、一応つくって送り返したらオーケーがもらえて、それで前座やることになったんですよ。でかいホールね、体育館サイズのやつやらせてもらえたんですよ。そんな感じですね。

T:解散したのが?

Y:だから、何せ3年間しかやってないから。それでテンソーの後半も、ちょっとメンバーが、がたがたしはじめちゃった頃に、俺はたまたま宇崎さんを前から知ってたから、宇崎さんのところに遊びにいって。あの人はバンドの先輩だから、実はバンドでこんな形でちょっとうまくいってないんですっていう話をしたら、もうその次の次の週あたりには、宇崎さんがバンドにおれのこと誘って。宇崎さんのバンドもやらせてもらいました。ツイストの鮫島とか、松浦君とか、リュウベンとか、その辺のメンバーで。

T:竜童組の前?

Y:竜童組の前ですね。アールユーシックっていう、宇崎竜童がシックになってるみたいな意味の感じで。結構かわいがってくれたんだけどね。それで、そんなことやってて。

T:それが82、3年。

Y:そうですね。初期の頃ですね。その辺からだんだんバックの仕事をやってるギタリストだっていうのが、だんだん浸透してきて、山下久美子を始めるようになって。山下久美子をやるようになったら、山下久美子が佐野君の曲やってるでしょう。ある日、しーたか(古田たかし)とずっとつき合いがあったから、しーたかから連絡があって、「実は佐野君のところでギター募集してるんだけど」って言われて。それで、一応オーディションみたいなのがあったんだけど、その日、僕もクミちゃんの仕事があって、一番最初に受けさせてもらったんだけど、10人ぐらいきたのかな。一応、見事合格いたしまして。で、まあ、佐野君と。

T:その時の、オーディションって?

Y:まず、「エイトビートを自分でリフからスタートしてみて」って言われて。「自分の好きな形でいいから」ってやるんですね。それで、2、3分のセッションで終わって、その頃、佐野君はエイドリアンブリューが好きで、「奇怪な音を出してほしい」って言うわけ。「僕が合図したらその音を出してほしい」って、何かやってほしいっていう、そんなようなオーディションだったかな。今度は「シックスティーンの乗りのカッティングを聞かせてほしい」とかって、そういう漠然とした形で。それで、彼が言ってくれたのは、「リズムアンドブルースフィーリングはすごくあるから、僕が好きなタイプだな」って言ってくれて、それでやる事になったのね。佐野君とはつながりが多くてね、僕も立教で、一緒の学年になったことはないけど、立教に行ってたし、彼も神田の出身だし、水泳部だし、何か共通してるところが多くて、とても意気投合しちゃって。乗せられたのかなと。でもなんか、持ってる力よりも、120%の力を出させる人だね。言い方は悪いけど、すごく使い方が上手っていうのかな、その人の無理のないところですごく一生懸命な感じを引き起こしてくれるっていうのかな、やる気にさせてくれるっていうのかな、すごくクレーバーなんだと思うけど、あと、10人ぐらいのメンバーに一つ一つのパートを説明するのに、はっきりとした言い方をしないのね。フレーズがあって、そのフレーズをぱっと教えちゃうと、そのフレーズから超えることがなかなか出来ないんですよ。だけど、漠然とした、口で何とかカントかみたいな口で説明すると、その人がつくってくるフレーズだから、その人のものになってるわけじゃないですか。そうすると、全然違うじゃないですか、説得力というか。そういうところのやり方はすごく学んだな。伝え方というのかな。

T:それで、ハートランド入って、最初はツアーですか?


Y:そうですね。まず、オフィシャル関係のお披露目みたいなの、ラフォーレでやったのかな。それからツアーに出ていって。アリーナツアーもやらせてもらったし。何しろ、僕はあんな管が入ってる10人近い編成のバンドは初めてだったから、すごく勉強になったかな。そうだな。勉強になったというのは、ギター一本の曲のつくり方とかね、あと管のフレーズを、管の連中に説明の仕方とか、フレーズのつくり方とか。すごい勉強になったな、ほんとに。伝え方が上手。説明するのも、なんか想像力をかきたてるような説明の仕方っていうのかな。それがすごく新鮮だったし、やっぱり説明を受けると、フレーズ直に教えてくれちゃうのが大体多いから。ほんと、でも、そうするとその枠から超えられないんですよね。おれが弾けばいいんじゃないかと思っちゃうし。でも、やっぱり自分でつくったフレーズだったら、自分のものになってるから、全然違うと思う。だから、今でも佐野君、たまに会ったりするけど、やっぱりいつも次のことを考えてるというのかな、佐野君が別に今のところで出すつもりはないだけど、テスト的にアマチュアみたいな連中と一緒にやってるテープとか聞かせてもらうと、ものすごい尖ったことをやってるんですよ。そういうのを聞かせてもらうと、「この人、ちゃんとこんなことをやったりするんだな」と思ったりしてね。いろいろ会社とかもやったりしてるとね、やっぱりなかなか数字の面と芸術的な面とが融合しないじゃないですか。大変だろうなと思うけど。

T:で、ハートランド以後は?

Y:ハートランド以降は、永チャンとか、ハートランド以降はね、渡辺美里。西本と一緒に何本かやらせてもらって。種ともこもやったかな。その辺じゃないですかね。永チャンは、すごかったけど。

T:矢沢さんはどの辺ですか?

Y:永チャンはね、アメリカ人のメンバーが来る前かな、ポンタとグレッグリーっていうやつと、フカマチ君っていうキーボードと。全員外人になるちょっと前ですね。僕らの前のところが、ギターがニシシンジだったのかな。で、グリコも入ってたかな。だってもう、ドゥービーのメンバーとか使ってるわけだからね、ポンタもダメ出しくらってましたしね。すごいですよ、エイチャンは。耳がいいんだよね、すごくね。いつもとちょっとでもバランスが変わると、「違うだろ」って言ってくるし。やっぱり生ギター1本でできる人っていうのは、やっぱりパワーがあるから、バンドつけたらもっとよくなるに決まってるじゃないですか。そういうのはあるんだなと思った。エイチャンは、ふだんおっさんみたいだけど、Tシャツとジーパンに着替えるといきなり二十歳代みたいに見えちゃうのね。元気あるし。走り回ってるし。エイチャンは言ったことをやる男だから、カッコいいですよ。うん。

T:そのツアーはどのぐらい続いてるんですか?


Y:ツアーは長いのはワンツアー結構長かったですから、50本近くありましたよ。それやって、1回で終わりましたけど。岩城滉一もやったな。岩城滉一とはね、現場で合わなくて、いつも原宿とか遊び場で会ってたから、おれがレコーディングスタジオでセットしてチューニングしてたら、おれの目の前に来て、「お、タケ、ギター弾けるのかよ」って、おれに言ったんですよ。そんな。

T:岩城さんといったら、あの「K'sファクトリー」。僕も昔、お世話になりましたが。

Y:そうそう。今ね。あの人ギターも弾いてるね。手けがしちゃって、医者にリハビリにはギター弾くのが一番いいって言われて、それでギター始めたの。僕の友達の  専門店やってるところに仲よくつきあってるやつがいるんだけど、ミニモークって、ミニのジープいっぺんに3台も買ってったらしいですよ。あんまり勝てないんだけど、レースでは、でもばりばり人気あるの。もう負けるとね、すごい怒るんだって。ツールケース、ペンチとか入ってる、こんなでかいのあるじゃないですか。あれ持ちあげたって話ですから、怒って。すごい力だよね、それは。あれ持ち上がらないもん、絶対。

T:で、90年代。


Y:90年代入って、自分の曲つくった曲や、タイプによっても違う曲があったりするから、いろんな曲を試すメンバーが欲しかった。それでそういうメンバーを集めるのと同時に、編成の多い、僕は編成の少ないトリオだとか、フォーピースだとか、そういうイメージがあると思うんだけど、それは結構散々やることやっちゃたし、トラウマなんてやらせてもらったし、あれで大分やることになっちゃたから、今度大きい編成のグループに憧れてて。それで曲をつくるためにメンバーを集めたかったから、「トラスロット」っていうバンドを組んで、そこはスタジオの連中ばっかりで、今でもつきあってる連中もいますけど、その辺の連中とやってて、CDつくるわけじゃないから、展開がないっていうんで解散して。それで、その後にTORIIになったのかな。

T:TORIIのきっかけ。


Y:TORIIのきっかけは、トラスロットっていうバンドやってたんだけど、メンバー間の問題でできなくなっちゃったやつが何人かいて、それでメンバーを足すっていう形で今のドラムのカメちゃんに、ドラムを手伝ってもらたの。それで手伝って何本かやったところで、ベースのやつの家の事情が変わっちゃってできなくなっちゃって、それじゃあクボタハルオってギターがいたんだけど、クボタも活動停止にしておこうかと、解散じゃなくて。それで、解散というか、停止にして、それでそのころからレコーディングスタジオでよく会う、岡沢なんかと顔見知りになってて、岡沢のベースは結構地を這うようなベースだから、ベースらしいベースだからいいんじゃないかと思って、それで誘って。本当は最初からキーボードなんて考えてなかったんだけど、西本も多分何回かやってるうちに、キーボードを入れるなら西本がいいなと思って。で、やっぱりキーボードが入ってたほうがアカデミックなこともできるし、何せギターソロ弾いてるときにバッキング入ってくれるし、で、やっぱりふた空けたら、その前に佐野君のグループやってた後半あたりに、しーたかと西本とユーミンのベースやってたやつで一緒にバンドをやったことがあるんですよ。だけど、なかなかこっちの3人はそろっても、ベースの一人だけ足踏みがそろわなくて、佐野君の前座もやらせてもらったことがあるのね、日本青年館やらせてもらった事があるんだけど、何かそれは立ち枯れしちゃったの。立ち枯れする前にレコーディングしたんですけど、それでもいろいろあったんですよ。皆に迷惑かけちゃったりして。

T:80年代後半?

Y:ハートランドやってる最中ですね。西本とは一緒にやりたいなと思ってたから、ちょっと声かけたら、彼もCDつくった後で、それを発表する場もほしいって言うし、じゃあ一緒にやろうかっていう話になって、それで今の4人に落ちついた。みんなスタジオ畑の連中だから、もう腕的には問題ないし。

T:流れ的に、曲はどんな感じで。


Y:曲はトラスロットをやってる最中から、割と少ない編成の曲とか、大きい編成の曲とかいっぱいキープしてあったのがあったから、トラスロットでやってた、おれはいろんなバンドでやってるけど、過去にやったバンドの2曲ぐらいずつピックアップして、選曲してるんですね。今のバンド。トラスロットの曲も2曲。ほかのバンドの曲も2曲だしていって、TORII用に新しい曲も2曲ぐらいだして。それで、レパートリー20曲ぐらいないとライブできないじゃないですか。それで20曲ぐらいにして、ライブとりはじめて。で、明の曲も入れるようにして。ほんとうはもっとね僕の曲今8割方だけど、できればもっとみんなの曲をやったほうが、うねってくるじゃないですか、サウンドも。やっぱり一人の力でつくると、同じような形になっちゃうのはしようがないだろうと思うし。そういったバンドサウンドにもっとしていきたいなと思ってるし、あともっと自由なところがほしいのかな。インピルビゼーションみたいな。それには各自が自分が引っ張るんだっていう気持ちがないと、そういうセッションってうまくいかないから、だから、というのをやってみたいかな。曲も全体的に長いから、みんなのやってる曲が、練習結構大変なんですよね、覚えてもらうのが。バンドはあんまり譜面台とか立ててやってもらいたくないじゃないですか。(笑)でも、明も言ってたけど、1年かかるって、本人も言ってたしね。一か月に一回しかやらないセッションでも、1年間やってると、ちゃんとそれなりにまとまってくるんだなというのは実感したけど。

T:それで、今後の活動は。

Y:今後は、おさらをつくって、おさらを手売りでもいいからしていこうと。あとは、やっぱり何かやっぱりもうちょっと大きいところでできるようなグループにしたいんですよね。カラーが合えばバックの仕事でもいいだけど、やっぱりバンドだからイベントとか出たいかな、夏場のイベントとかね、野外あたりをやってみたいなって。そういうのぽつんぽつんと入ってないと、メンバーの士気にもつながってくるんじゃないかな。やっぱり楽しい場をいっぱいつくってあげたいな。あんまりこのごろ、グループ、バンドがいくつか集まって一緒に動くなんていうのがなかなかないじゃないですか。そういったムーブメントみたいなのがね、仲間のバンドなんかと組めて、ツアーみたいなのが生まれたらいいかな。

T:個人的に音楽以外の何か目標とか、やってみたいことはありますか。

Y:音楽以外に……。ナレーションをやってみたいですね。昔一回コマーシャルのしゃべるの、めがねのコマーシャルをやらせてもらったんですけど。知り合いにクリスペプラーがいて、その事務所の人に言われて。それで2回ぐらいオーディションも含めてやった事があって。声も腹式呼吸でしゃべらないと低音とか出ないし、そういうのは、かつぜつの為にもいいと思ったし。で、あんまりナレーションだから矢面に顔がでない仕事が多いじゃないですか。

T:ほかには?

Y:うーん。あんまり場違いなこともね。出来ることと出来ないこととあるから。役者さんだって、一時憧れて、映画にも一本出てますし、あれ、ARBの石橋凌が主役のやつで、「さらば相棒」って、DVD出てると思うけど、ロストの店長やってる。それとかかまやつさんの流れで、カメラマンの助手とか、3本ぐらい出させてもらったかな。まだそのとき、でもね、30代だったんですね、20代かな、役者は40過ぎてからじゃないとできないんじゃないかと思ったの。やっぱり人生経験とどこから指されてもばっと振り切れる人間性と、知性をもってなきゃだめじゃないですか。やっぱり役者っていったら、演劇論じゃないけど、そういうのをぶつけ合う、そんなこと全然知らないし、。だらか40過ぎてもうちょっと人間構成ができて、やっぱりそれからの勝負の仕事なんじゃないかなとちょっと思って。断念しましたけどね。だから今でも興味は持ってるけど、映画も好きだし、役者さんも大分友達もいるし、三浦友和君も知り合いですけど、やっぱりすごいですよ。役者馬鹿て言われるだけあって撤してるし、やっぱりカッコいいですよ。男が男にほれるというのを持ってますよね、そういう人たちって。魅力がすごく。それはどういうことかって言ったら、やっぱり不言実行なんですよね。約束したことをちゃとやるし、言わないでもちゃんとやるし。すぐれた男でしょう、男優ってね。だから、やっぱりかなりでき上がってますよね。

T:今年は、TORIIですね。

Y:そう!やっぱりギター弾くのが一番自信もあるし、一番楽しいし。それでやっぱり今まで築いてきたノウハウも一番わかってるところだから。終わりはないんだけど、日々向上ということで努力はしてるつもりですけど。やっぱりうちじゃ前からおやじなんか相変わらず反対してるしね、こんな業界。僕らのおやじの世代はそんな時代じゃないですか。その辺がおれのパワーになるかもしれない。みんなおれなんか、みんなうちで好きなことできるんじゃないかとみんな思ってるかもしれないけど、意外と現状は厳しくて。上に親がいると、やっぱり音もでかく出せないし。悩みになるのかもしれないけど、やっぱり大声張り上げてギターかなぐり弾ける場所がどうしても必要じゃないですか、それを確保するのが大変かな。やっぱり昼間からはできないし、夜中になっちゃうし、夜中だと遅くまでなっちゃうしね。だから、その辺をうまく迷惑かけないように。だからって改めてスタジオなんか押さえてやっても違うんですよね。改めて無にならないと、何でも自然なものって出てこないじゃないですか。ゼロにするっていうのかな、フラットにするというか。それにやっぱりいお願いしますって言われても、なかなかなれないじゃないですか。そこにやっぱりできるような集中力を持ってやらなきゃいけないんだと思うけど、ちょっと弾いててもすぐほかのこと入っちゃったりするから。(笑)でも、このごろ、クリームのコピーのバンドとか、TORIIでもやろうとしてるけど、ちょっと難しいコピーとか、そういうのをやってコピー最近またよくしてるんだけど、すごい新鮮で。昔、子供のころ聞いてとれなかったのが、今ではとれるわけじゃないですか。こんなふうにやってるんだなとか、自分のレベルがこのぐらいまでは来てるんだなとか、そういうのがよくわかって楽しいかな。

T:今日は、どうもありがとうございました。

Y:どうも。

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