talk & interview: 手塚るみ子

手塚るみ子(Rumiko Tezuka)
手塚治虫の長女。プランニングプロデューサーとして、 これまでに『私のアトム展』等、手塚漫画に関する企画を手がけ、特に、音楽と手塚作品を結び付けたオリジナルの企画を立ち上げ、その独自の手法にて数々のCDをリリースしている。

「今、手塚るみ子さんにとってのアトムとは?」

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TERA(T):それでは、宜しくお願いします。まず、生まれからで。

RUMIKO(R):東京の練馬区、西武池袋線の富士見台と云う所です。そこから30分くらい歩いた所で。 虫プロダクションと同じ敷地内のお家でした。家があって庭があって虫プロダクションのスタジオがあって。

T:小さい頃の事で、何か覚えている事ありますか?

R:家には、いつも知らない人がごっそりといたんですね。とにかく朝礼の時と昼休みになると、虫プロの社員がブワーと、ひとの家の庭に下りてるんですね。皆、お弁当を食べたり、フォークダンスを踊ったり、朝礼だから体操したりとか。ちっちゃい時には、常に知らない人がいっぱいいました。
当然アシスタントが家には居て、2階が父の書斎があって、そのすぐ下に作業場があって、常にアシスタントが居ましたし、色んな出版社の編集さんが出入りしていたから、本当に我が家は7人家族だけれども、これ以外に複数の人がいっぱいいる家でした。

T:虫プロの方たちとは、遊んだりしていましたか?


R:遊んでもらっていましたね。うん。今だに出版社とか、虫プロの昔の同窓会みたいな集まりがあると、「るみちゃんは〜」みたいな話をされて。もう38にもなる娘を捕まえて「るみちゃんは、るみちゃんは」っていう話をされますね。でも出版社辺りの編集さんは、当時はまだ若手の編集さんも今では局長クラスとか、もっと上のクラスに取締役とかになっているから、そういう偉い人に捕まっては「るみちゃんはお転婆で大変だったんだよ」とか「トイレに連れていったんだよ、ビービー泣きながらね」なんて、そういう話されて、結構最悪。だったり。

T:小学校に行き出した頃は?

R:小学校に入る前の辺りからだと思うんですけど。知らない間に漫画を描くようになったんです。家に父親の描き損じた原稿がいっぱい落ちていたんで、それを拾っては落書き帳にしてて。その内に自分でも漫画を描くようになって。小学校に入ったら、自分で漫画の雑誌?今でいうミニコミみたいなものを、作るようになったんですね。それをクラスの皆に見せて回ったりとかしてて。タイトルは『青空』っていうタイトルで、大学ノートに表紙をちゃんと作って、中に長篇漫画と4コマ漫画を、ちゃんと分けて何種類か描いて、それを毎号出していたんです。

T:その漫画で、今でも覚えている内容のものはありますか?

R:えーとね。結構、ませてたとこがあって。少女漫画も読んでるし、それこそ家に色んな漫画があったから、大人の漫画も読んでいたんです。で、恋愛漫画を描く訳ですよ。つたない絵なのに、男の人と女の人の恋愛の話を描いているいちに、男の人が女の人の服を脱がして、はがい締めにしている。どうみてもこれは強姦じゃないかみたいな展開の絵を描いていたらしく、私は何の気なしだったんだけど。先生がそれをみて「とんでもない!」っていうんで、親を呼出して「お嬢さんが、こんなものを小学校2年くらいで描いてます」と、「どういう教育なされているんですか」と。「家にちょっと見てはいけないような漫画が沢山あるから、多分影響を受けたんだと思う。本人は何も分かってないでしょうけど、ちょっと子供の目に触れないような所に置いてくれ」という風に、親は説教を受けたという風に。しょっちゅう親は呼出されていたようです。

T:その頃って、漫画も沢山あったと思うけど、TVが当たり前になっていた時代ですよね。

R:TVは、アニメは見てましたね。家の父親のアニメもそうだし。あと『カルピス劇場』があったんで、あのシリーズはずっと見てたかな。あと父親が映画が好きなんで、『洋画劇場』っていうのが、結構9時くらいから始まるじゃないですか。日曜日の夜とか。それは一緒に居間で見てたりとかしてましたね。だから『王様と私』とか、あのユルブリンナーが出てる。割とそういうミュージカル系ですね。『メリーポピンズ』とか『オリバー!』とか。ミュージカルだから子供が見ても楽しいじゃないですか。そういうものは良くちっちゃい時から見ていた覚えがあります。

T:小学校の後半になると?

R:小学校の後半になるとですね。ちょうど「虫プロ」が潰れてですね。私は当時の事は詳しく知らないですけど、家を引越すんですね。普通の一軒家を借家で借りて。仕事場は高田馬場に別に父が持ってて、だからもう家には全然父親がいないお家になるんですよ。家族7人だけのお家になるんですけど、そうなってくると、まず家の周りで遊ぶ事はなくなるから、ほとんどが学校と友だちとどっか行くとか。あまり家にいない方でしたね。それで、思春期もそろそろ迎えるじゃないですか。どっちかっていうと、それまでは男の子とばっかり遊んでいたんですよ。もの凄いお転婆だったんで。クラスの男の子しか友達がいないみたいで、いつもどっかで探検ごっこしたりとか、泥んこになって帰って来ましたけど。やっぱり思春期を迎えてからは、逆に女の子の友達が少しずつ増えて来て、交換日記とかね。そういうのが始まったりとか。「だれそれクンがいいね」とかの話で、バレンタインデーのチョコレートをどうするか?とか。そう言う風になって来たかな?
あと、漫画描くよりも、絵を描く方が好きになって、デザイン部っていう課外授業があって、そこで絵を描くようになって。ポスターカラーとか使って、デザインや絵を描くようになり始めたのは、小学校の後半かな。

T:中学になるとどんな感じでした?

R:中学に入ると、更に思春期が進むので、漫画とか絵はずっとやってたんですけども。中学になると新しい人間が入って来るんですよ。あの入試受けて。それまでは小学校はずっと同じクラスだったけど、中学に入って、よそから色んな人間が入ってくると、当然ながら「あっ手塚治虫の娘がいる」っていう話題になって、会う人会う人「お父さんって手塚治虫なんだって」とか「漫画描けるんだ、やっぱりお父さんの影響でしょう?」とか色々云われるようになって。段々嫌になって来て。まあ思春期もあって、親離れもあったんで、漫画描くのとか絵を描くのとかをもう止めようって。その代わり『吹奏楽部』っていうクラブがあって、じゃあ吹奏楽部に入って音楽をやろう!と思って、クラリネットを始めたんですよ。そこからは、もう中学3年間、殆ど吹奏楽部べったりみたいな感じで、絵はあんまり描かない。描いても、自分で楽譜帳の表紙を描いたりとか、漫画は一切辞めて、いわゆる「漫研」とか「デザイン部」とかは、全然行かなくて。

T:じゃあ、クラリネットは、上手くなって?

R:いや。もともとそんなのは、得意じゃ無いんだと思う。音楽は凄い好きなんですけど、自分で今だに「DJやらないの?」って云われてもDJやらないし、多分やるのは得意じゃない。ちっちゃい時からピアノを習わされて、殆ど3日坊主でしたね。ピアノの先生とうまく行かなくて、すぐに辞めちゃうから。すぐサボっちゃうとかだったんで。でも小学生の時からバレエを習ってたんで音感は凄く良かった。音楽に合わせて身体を動かすっていうのが凄く好きで。だから音楽には触れてたいな?って思う。

T:その頃は、どんな音楽を聴いてたんですか?

R:その当時は、吹奏楽部に入ってたんで、聴くのがもっぱら、クラシックが多かった。あと映画音楽。それとマーチングバンド系。他は単純に歌謡曲ですよね。フォークとか。

T:はじめて買ったレコード、覚えている?

R:小学校の頃かな?野口五郎。タイトルは忘れちゃったけど。あとは父親がTV局とかレコード会社から、貰って来る訳ですよ。サンプル盤を。で、中学になると、少し興味が出て来るから。我夢の「愛はかげろう」とか、グレープ。あと、パンタ&ハル。能勢慶子。その辺のなぜかアルバムがいっぱい家にあって、それを聴いていたかな?チャゲ&飛鳥とかその当時のニューミュージックのはしりとかは持っていて。で、めちゃめちゃ我夢にハマりましたけどね。あと、さだまさしもやっぱりそこから入っていって聴きましたね。

T:高校になると活動は?

R:高校に入ると、吹奏楽部で幹部クラスになるんですよ。高校でちょっと環境が変わると、またちょっと気分も変わるんで、吹奏楽部は辞めはしなかったけども、生徒会に立候補して、生徒副会長になったんです。誰もやりたがらなかったから。それと、学園祭の実行委員長っていうのをやって。どっちかっていう、そういうイベントしきり系が好きになってきて。そういう両わらじみたいなのを始めてて、それまでは割と中学までべったりクラシックを聴いて、交響楽の演奏会行ったりしていたけども、高校にもなると、もっと外に目が向くようになって、その頃から他の音楽も聴くようになったかな?ある時、うちの兄が、もう大学に云ってましたから、多分、兄も色んな所からサンプル盤を貰う中で、爆風スランプのサンプル盤が兄の部屋にあったんですよ。兄が映像作家を始めた頃で、爆風スランプのメジャーデビューする時のプロモーションビデオを、兄が撮ったらしくで。それで爆風スランプを聴き始めて。「世の中には、こんな面白い音楽があるんだ」と思いまして。その後にブルーハーツとか電気グルーヴとかそっちにいくんですね。あと中学から高校に上がる時に知り合ったボーイフレンドの子が、オフコースにハマっていて、やたらオフコースのレコードとかくれるんですよ。だからなかなか邦楽系から抜けだせないんですね。高校を卒業するまで。殆ど邦楽。どっちかって云うと、親しかった人が、サークル、クラブ、学園祭実行委員とかの仲間が多かったので、あまりロックとか聴いている人がいなかった。もちろんビートルズとかは知ってましたし、もともと家はおばあちゃんが、ビートルズ、モンキーズ、ピンクフロイドのファンだったんで、家にレコードはあったんですけど、知ってはいたけど、自分で聴こうとは思わなかったですね。うん。

T:高校を出てからは?

R:大学に入って。大学に入ってからは、もう音楽辞めちゃって。どっちかって云うと、イベント制作とか、そっちがやりたい気持ちが強かったのと、大学入って遊びたい気持ちがあって、どーでもよくなっちゃった。
テニス同好会なんて入っちゃって。どーでもいい状態で。で、そこで知り合った先輩とおつき合いする中で、ジャズとかブラック系の音を車の中とかで良く聴いていて、そこから洋楽に入って行ったんで遅いですね。めちゃめちゃ。すべて男の影響ですね(笑)。

T:大学は、4年間しっかりと?

R:はい、しっかりと。うん。遊んでいたいというか、プラプラしてた。その頃はもう「父親が手塚治虫というのは関係ない」と思っていたから。もう本当に就職活動するまで、世の中というものを考えた事がなかった。「今ある目の前の楽しさだけをむさぼる」みたいな、そういう大学生活だった。どっちかというと、友達付合いとか、サークル付合いとか、そういうのにのめり込んでた時期ですね。

T:就職活動は?

R:4年生ぐらいで、考えるとなった時に「じゃどうしようかな?」と思った時に、やっぱり「モノを作るイベントとかを仕切る」っていう楽しさを知っているんで制作関係に進めたらいいなって。本当に世の中の事を知らないし、何も考えないで。無謀なアイデアで代理店に行くか、TV局に行くか、制作会社に行くかっていう、あさはかにそう思っていて。当然親のコネは考えられるんですけど、当時あえて親にそう言う風なのがイヤだったので「関係ないや」と思っていたんで、最初は自分で動く訳ですよ。当然コネもなく、その業界に鼻も引っ掛けてもらえないですから。その内にちょっと「これやばいな」って。親に相談したら、いくつかTV局とか紹介してもらって。ただ受けても、実際落とされるんですよね。面接まで行く前で落とされていますから。あと、そんな事で父親にちょっとでもお願いしちゃうと色々聞かれる訳ですよ。「制作の何がやりたいの?どういう制作やりたいの?」って。自分としてはイベントをやりたいと思っていたんで。頭の中で想像したものを、現実にしてみたいっていう大雑把な目標だけど。その頃、セゾングループが急成長しているバブルの頃だったんで、やたら色んなイベントをやっていたんですね。文化的な。それを見ちゃってて「ああいう事をやりたい」っていうイメージがあって。そのグループの広告会社を受けたら、たまたま運よく受かったというか、面白がってもらって。

T:その会社に入って、最初どんな感じでした?

R:まずは社会人になって、現場を知る事から始めて。最初の何年間はアルバイトみたいなもんじゃないですか。現場を知るっていうだけで。しかもバブルの頃でしたからね。色んな細かいイベントから何から先輩に付いて回って、徹夜して現場を見たりとか。モーターショーとか何かの博覧会とか、その当時あったんで。そういう所の仕切りを手伝ったりとか、もうとにかく現場をやっている事が、凄く楽しかったから。まだ、自分独りでプロデュースとかは、とんでもなく出来なかったですけど。先輩に付いてコンパニオンの指示を任されたりしたのは嬉しかったし。あと紙面上の企画書から入っていく訳ですよね。1年後にはパビリオンになっているとか。そういう行程が楽しくてしようがなかった。でもまだペーペーだったから、楽しいっていうのが全面的にあるだけで「責任」とかないじゃないですか。「お金は?」とか無いから最初の1,2年は楽しかった。

T:その中でも、何かしてみたい事や、目標とかは出て来ましたか?

R:うん。代理店に入って、何となく自分が仕事が出来ている気分に勘違いしてて。いつか父親と一緒に仕事が出来るだろうなんて目標があって。要はお兄さんが映画やってて、父と対等に話をしていたんですね。映画の事とか仕事の話を。それを横で見てて羨ましかったんですね。それまでは「手塚治虫なんて関係ないや」って思っていたけど。どこかで自分も「お父さんとそういう話をしてみたいな?」って気持ちが芽生えて来て。そして代理店で色んな博覧会とか色んなイベントやると「いつか自分の父親に仕事を依頼するような立場にもなれるかも知れない」とかを考えるように。そう考えている内に父が身体をを悪くしていくって。いう。その一方で、その代理店に入っておつき合いをした人と結婚したいっていう気持ちがあって。で、その結婚っていうのも、一つ親からの卒業っていう自立っていう気持ちの表れで。自分が家庭を持ったら、手塚家って家庭と対等に。それこそ父親に娘として卒業するというね。そういうセレモニー的なものが、そこでも出来るだろうとか思って。一方では仕事の部分で一方では娘という部分の両方で「父に一人前に認めてもらいたい」という気持ちがその頃から出来て来て。それがちょうど社会人2年目ぐらいで。だけど、そう思い始めたのと同時に父の具合がどんどん悪くなって。そういうのも知らないで「結婚したい」って、ずっと父親に云ってて、母はずっとそれを止めていて。「何でわかってくれないの」って。結果「じゃあもう彼と一緒に家出して住んじゃう」とかいう話になって。それで父親が「分かった。だったら、ちょっと話をしよう」っていうんで、彼と私とそれぞれと話をして「じゃあ、取りあえずお前達、家を出てみろ」と。「一緒に住んで、まあやってみて、上手くいくんだったら、その時は認めよう」と父親は云ってくれたんです。それで二人で住むようになって。でも半年後に父は亡くなってしまったんで、結果的に何の結論も父親からは貰えなかったし、自分達としても何か大変申し訳ない事をしたままで。自分個人は、仕事の目標の「父と一緒に仕事をしたい」という気持ちと、人間、娘としての卒業っていうか一人前として認められたい気持ちが満たされないまま亡くなってしまったんで、とにかく物凄い挫折感と絶望感に。それが社会人2年目の終わり頃です。ここが「私の第一幕の終わり」です。「ここで休憩に入る」というか。

T:その後は大変だったと思いますが、、。結婚は?


R:していないんですね。結果的に。やっぱり凄い個人的な目標が『手塚治虫という父親に認められたい』っていうのが、仕事の部分と結婚という部分であって。結果的に本人が死んでしまって、もう何をどうしたって、本人からOKをもらえないというか答えをね。「一人前として認められない。その目標とするものは、もう手に入らない」っていう気持ちになってしまって。「自暴自棄」みたいになっちゃってて。だからある部分、彼氏との目標ってのにも何かどうでも良くなっちゃってきて。自分の精神的にかなり父親を亡くしたっていうのが大きかったんですよね。体重10Kgぐらい一気に無くなって、もう生きているのが詰まらないくらい、もう仕事もプライベートも「どうでもいいや」になっちゃったんで。ストレスが凄いたまっていたのと、多少精神的に参っていたから、彼とのコミュニケーションもうまくいかなくなって。結果、何年後かに別れる事になるんですけど。もう一方で、その時何に救われたかっていうと、やっぱり仕事なんですよね。ちょうど部所が変わって、手塚治虫が亡くなった事が色々な部分から注目が集まっていく中で、うちの会社が「桃太郎伝説」というアニメをやっていたんですよ。そこのプロデューサーが「うちの会社に手塚治虫の娘が居るんだって?」って聞いて「だったら一緒に俺と仕事やろうよ」っていって下さったんですね。で「どうせだったら、お前は自分のお父さんの作品をアニメ化してプロデュースを企画してみたらいい」という話をされて。「ああそうか、そういう道もあるのか」と。それまではイベントしか知らなかったんで「じゃあ1からその先輩に付いて、アニメをプロデュースしてみようかな?」と。その頃のアニメっていうのは、動きも全然なくって、スポンサーのキャラクター商品を前提としたものの作り方しかしていないから。60年代に父親が作っていたアニメや自分達が見て来たアニメと全然違うなって思って、どうせ手塚治虫の作品を改めてアニメにするんだったら、フルアニメーションのお金をかけた形でやりたいと思って。そういう企画を作ってみたんです。それは『鉄腕アトム』とか『ジャングル大帝』とか誰もが知りつくした作品ではなく、例えば『やけっぱちのマリア』とか割とこう知られていない作品のアニメ化を考えていました。そうしている内にそれらの作品を読み返すようになったんですね。これまで殆どは読んでたんだけど「まあどうでもいい」と思って読んでいたんです。でもあらためて読み返してみると、そこには色んな事があって。父親の精神性とか生まれてから今まで父親が体験してきた事とか、或いは父親が漫画を描くと云う作品の中での葛藤とかそんな事が沢山出て来て。改めて自分の父親の人生が分かって。そこから「もう本人は、実物は居ないけど、漫画の中では、まだ生きている」って思った。もうむさぼるように読み返したんです。そのうちにTERAも知っているあの「アトムの生誕40周年」の機会がやって来て。だけど手塚プロダクションは、まだ手塚治虫が亡くなったばかりで、てんてこ舞いしていたんですね。それどころじゃない状態だったんで。「もったいない。アトムが生誕40周年を迎えるのに、何か誰もやろうとする状況じゃない。だったら私がやる」って。手塚治虫のメイン漫画でありながら、古典的な文学であったし、実際アトムの原作を読んでみれば、もっと今の時代に分かる事もいっぱい描いてあるんだと思って。アトムの生誕40周年のモチベーションを自分で作っていこうと思って、アニメ化うんぬんじゃなくって、とにかくアトムを売っていきたいと。自分のスタイルで企画書作って、動かすようになったんですね。

T:それが『私のアトム展』ですね。

R:そうですね。それが、原宿ラフォーレであった『私のアトム展』に繋がっていくんです。

T:実際、企画が進み始めて、どうだったんですか?


R:もう、やり方も解らなかったんで、がむしゃらに「やりたい!」っていう気持ちだけで動いていたんで。だから手塚プロダクションとか、コーディネーションの古川タク先生とか、参加してくれた人たち全部に、もう本当に失礼にあたるやり方をしていたんですけど、結果的には、皆、これを機会に『鉄腕アトム』で楽しんじゃおうみたいな感じが出て来て、展覧会そのものが凄く盛り上がったし、1つとして、同じ『鉄腕アトム』が描かれて来なくて。それをその時に見て「こんなにアトムが皆の中で成長しているし、リスペクトされているし、手塚治虫の影響下っていうのが、こんなにもあるし、こういう事が今後も出来るんだ」という手ごたえがありましたね。初めて自分がプロデュースした仕事だったから、とても周りから評価していただいて、別にやり方は評価されてないんですけど、やっぱり娘が動かしたっていうのは、大きかったみたいで、娘がやったからこそ、みんなが同調してくれた動いてくれたという部分もあった。赤の他人だったら、ここまで動かないという部分で。そういう事では「娘という血をもらった人間としての意味ってあるのかな?」って思って。うん。

T:「私のアトム展」は、とても色んな人が集まって凄く楽しかったですよね。

R:そうですね。後にも先にもこんな事は一回きりですからね。要は、手塚治虫の『鉄腕アトム』は誰も畏れ多くてイジれないですから。それを「正々堂々とイジってよし」だから、逆にここぞとばかりに皆、力作でしたからね。本当、コラボレーションの面白さというか、化学反応した時にどれだけのものが出来るのかその手ごたえは、最初やって凄くインパクトありました。あと、これをやった事で、手塚治虫で終わらない手塚治虫の次の世代の精神とか、作品が次世代にも繋がって行く事が出来るという。例えば、会場に見に来た若い十代のカップルが「アトムは知っているけど、漫画は読んだ事はない。けど見に来たら面白そうだし、読んでみよう」とか。或いはデザイナーの子が興味を持って見に来た時に、帰りに落書き場所に自分でアトムを描いて帰るとかね。「こんな企画をやることで、人はそこから手塚治虫に入って行く。そこから先はその人達がどう捕らえるかであって、キッカケを作る事が出来るんだ」と。何か「これが自分の仕事、ライフワーク」なんじゃないかって。私がいる限り。しかも「娘がやると云う事で、人が動きやすいのであれば、これも有りなんじゃないかな?」って。うん。そこが動き始めですよね。今のスタートは。

(以上前半:後半へ)

 

私の「鉄腕アトム」
〜100人のアーティストによる「私のアトム展」〜

発行:マガジンハウス 1993.3.23 第一版発行


↑ 父・手塚治虫氏と。


↑ CM出演時のスナップ


ELECTRIC-BRAIN feat. ASTROBOY
2003.04.07 Release ¥2,667(without tax)
MRBT-001 MUSIC ROBITA
下:初回プレス限定ボーナスCDケース

1.Mijk Van Dijk・・・・・・・JYUMAN BARIKI
2.Ken Ishii・・・・・・・・・To the sky beyond
3.Technasia ・・・・・・・・Birth of a hero
4.Rei harakami ・・・・・・・Theme
5.Co-Fusion・・・・・・・・・ATOM
6.Ree-K・・・・・・・・・・・I am machine
7.Atom Heart・・・・・・・・Musica Robita
8.KAORU INOUE ・・・・・・・Assimilation
9.Haruomi Hosono・・・・・・ATOM WALK
10.COLDFEET ・・・・・・・・So Low
11.ROVO・・・・・・・・・・・ASTROVO
total time 63:42

 


『Electric-Brain feat. Astroboy』フライヤー
(画像をクリックすると拡大します。)

『 Electric-Brain presents Astroboy's Birthday Party NEW CENTURY ATOM ! 』
日時:4月19日(土)24時〜オールナイト
会場:新宿リキッドルーム(http://www.liquidroom.net)
出演:Mijk Van Dijk,Ken Ishii,Co-Fusion,Ree-K,他(予定)
VJ:KLOMA
主催:MUSIC ROBITA


ATOM KIDS Tribute to the king "O.T."

1998.11.26 Release WPC6-8522
WEA JAPAN


アトミック番長! 転校編

CD 1998.10.21 Release VICL-60298
VICTOR-HAPPY HOUSE


鉄腕アトム/音の世界〜 ROOTS OF ELECTRONIC SOUND

CD 1998.8.26 Release WPC6-8493
WEA JAPAN


アトミック番長!!!〜ガレージ・ダイナマイツ

CD 1997.06.25 Release WPC6-8362
WEA JAPAN

 

(インタビュー後半)

T:その後、広告会社からは独立されるんですよね。

R:なぜかというと、こういう個人的な、文化的な、お金うんぬんじゃないことに関しては、なかなか代理店の中では、やりずらいんですね。でもいい会社だったんで、社内でやらえてはもらえていたんですが、申し訳ない気持ちが私の中に出て来ちゃったんで。会社に何の利益もないのに。だから「辞めさせて下さい」と。

T:そして、色々な企画を立ち上げていかれるんですね。その中でも音楽作品が多いですね。

R:そうですね。音楽が多いかな?『私のアトム展』の後『オサムシに伝えて』という自分の言葉で父への思いを綴ったエッセイを書いて。その次の年、もう一冊本を書いて。その次の年に、たまたま知り合ったワーナーのレコード会社の方がいらして、お話している中で、ミュージシャンの中には、多くの手塚ファンがいるという事を聞きまして。色んなミュージシャンの方に紹介してもらったら、皆やっぱり手塚の話をするんですよ。「僕はファンで、ああいうのやこういうのが好きで」とか「『火の鳥』をモチーフにした曲がある」とかね。そういう話をしていく内に「何か音楽の世界でできるな」って思って。ワーナーの中で手塚作品に関して好意的な上司の方達が「じゃあ、『鉄腕アトム』で何かやろうか」みたいな話から。CD『鉄腕アトム 音の世界』というSE集ですね。「それを復刻させよう」と。あともう一方でですね、30を過ぎてからですけど、クラブにハマりましてですね(笑)。それは最初「ロックス」っていう渋谷のクラブがあって、SONYのレコード会社の人とか音楽ライターがDJやっていたんですけど、そこに誘われて行くようになって。その内、新宿の「ローリングストーン」とか、毎週末毎にクラブに行って。その内ブームがロックからテクノになって、テクノとかトランスのパーティーに行くようになって。そこにも手塚のファンや手塚に影響を受けたアーティストが沢山いて、やはりDJが影響を受けているんですね。ある時に『レインボー2000』という大きなレイヴパーティーが、日本で初めてあって。その主催の人たちと話をしていたら、「『レインボー2000』のコンセプトは『火の鳥』に凄く近い所があるんだよ」って。「いつかテクノとかトランスっていう音楽の中で『火の鳥』をやってみたい」って。自分もそういう現場にいって「ああ、ここで感じるものっていうのは、手塚治虫の『火の鳥』とか『ブッダ』とかと感じるものが同じだな?」って思って、いつかそれをやってみたいという気持ちは出て来たんですね。でも、いきなりテクノとかトランスとかの世界には持っていけなかったんで「最初は邦楽かな?」っていう事で、「生誕70周年」のトリビュートの企画をやったんですね。それが、『アトムキッズ』です。

T:この『アトムキッズ』の企画あたりのお話を聞かせて下さい。


R:これは、ちょうど手塚治虫の生誕70周年という企画で、当時ワーナーの方とCDの仕事をさせてもらっている中で「モチベーション的に「70周年」というのがあるんですね」という話をしていて「じゃあ、トリビュートかな?」と。「漫画家のトリビュートとか今までにないよね」と。でも実際に多くのミュージシャンがリスペクトしているんだから出来るだろうな?って思って。そしたら「じゃあやってみない」と言ってもらって進んでいった企画です。でも最初どういうやり方がいいのか全く解らないんで、まずは参加してくれそうなアーティストをバーッと選択して。そこからどんどん声をかけてまわった。その中でアーティストサイドから「どうしてもやりたい」とかの連絡をいただいて、それで集まったのがこのコンピに入っているメンバーになるんです。基本的には皆、手塚ファンの方で、半分はカバーものとかミックス、アレンジもので。あとは1からのオリジナルでイメージを書き下ろしてみたいという事で作っていただいた曲です。だから割とバラバラ?バラバラだけど1枚のコンピにして聴いてみると結構まとまっている。年令も、あんじの様な若い子から、上は細野さんまで、皆それぞれの世代によって手塚作品に対する感覚が違うので、それが面白い。ショーンレノンも手塚ファンで、少年ナイフの関係から「是非入りたい」との連絡をもらって。本当に、この企画では、コラボレートの面白さを感じましたね。

T:この後の動きはどのようになっていったんですか?

R:これが終わった後、ちょうど朝日放送さんのキャンペーンのお話があって。それも『アトムキッズ』があったから。「こういう企画で、今度うちのキャンペーンでコンピレーションをやりたい」とお話があったんです。しかもCDだけではなくラジオのパーソナリティのお仕事の依頼もあって。やった事がなかったので、かなりかかりっきりになって。しかも私、自分の声にコンプレックスがあるので、本当はやりたくなかったんですね、CDのお仕事はお引き受けして。『アトムキッズ』に参加してもらったBOOMの宮沢さんとか、清志郎さんとかにお願いして、それは良かったんですけど。ラジオは大変ですね。環境やエコロジーをテーマにした番組で。トーク番組ですから、自分が進行して、毎回ゲストが来て、タレントやミュージシャン、大学の先生まで色んな人が来るので、プロフィールを頭に入れて、話の流れを考えて、色々聞き出さなくてはいけないんですね。何度かお会いしている人でさえ、緊張はしてしまうので、一回目の宮沢さんには、逆にリードされて「るみ子さんの昔の話を聴きたい」とか、ふっていただいたり(笑)。この番組はもう3年続いています。

T:何か勉強には、なりそうですね。

R:確かに勉強にはなりますね。どちらかといえば、人生勉強になる事はあります。個人的にはリスナーの方が「世の中には色んな人生があるんだな」と、「色んな生き方が選択出来るんだ」って云う事で社会をみるっていうね。或いは自分の精神を見直すとかね。という風なメッセージを、私個人的には出していきたいと思っています。

T:それでは、一番最近の活動の話を聞かせて下さい。

R:モチベーションとして、2003年4月7日のアトム生誕の日が近づいてきて、ちょうど1年半くらい前に、「いよいよ、その日が来る」という事で、何かやろうかという考えていた中で、以前にリリースした『鉄腕アトム 音の世界』というSEのCDがテクノの間では、結構色んなサンプリングに使われているんですね。もともとテクノミュージックのパイオニア的な部分がこのアトムのSEを作った大野松雄さんって方なので、アトムでトリビュートをやるんだったら、テクノでやろうと。もう自分がテクノ、トランス、そのクラブに通っていたんである程度のネットワークも出来ているんで、色んなDJと話をして「そういう企画があるのであれば」って事で動き出しました。例えば、今回のMijk Van Dijk(マイク・ヴァン・ダイク)というドイツのアーティストは、タイミング良く昨年の夏くらいに来日する予定があると聞いていて、すぐに行きましたね。企画書持って。もうその場でマイクを捕まえて「アトムは好き?」「2003年4月7日が来るので、この企画に参加してみない?」とその場で「やるやる」と話もらって事務所を通してお話を進めて。香港とフランスのユニットのTechnasia(テクネイジア)のフランスの方のシャールが来日すると聞いて、代官山のAIRに行って捕まえて「こういう企画があるけど?」「やる?」かと、それで「ああ、俺はやるよ」と返事くれて。もう殆どクラブの現場で捕まえて、場合によっては、週末3連チャンで、クラブに行って。それで今回いろんな人が集まってくれて。ケンイシイさんとかもね。基本的に前回の『アトムキッズ』と違うのは、全部がオリジナル楽曲で「アトムの主題歌のリミックスとかアレンジしてくれ」という依頼ではなく「アトムと云うものを、それぞれのオリジナルで作って欲しい」と。「基本的には何でもいい。とにかく自分の中のアトムを作って欲しい」と。そんなお願いで。上がって来たものは、1つとして同じものがない。うん。歌ものは1曲だけ入っていますけど。ジャンルもテクノだけど、ROVO(ロヴォ)みたいなジャムバンドは入っていますし、細野さんとか、REI HARAKAMI(レイ・ハラカミ)君みたいなエレクトロが入っていますし、COLDFEET(コールドフィート)は、ドラムベースでボーカルが入っています。こういうインストものを注文すると似通ったものが出て来がちですが、今回は恐ろしい程、全部違う内容のものが上がっていますね。どれも個性的でかっこいいですよ。皆、こういう面子であるとラインナップをわかって作業しているんで、個性合戦。一応昨年末に締めきりにして、年明けにマスタリングして。うん。

T:そのCD『Electric-Brain feat. Astroboy』のジャケットは?


R:今回ジャケットデザインは大矢寛朗さん。手塚プロダクションと大矢寛朗さんの共同ブランド『Astroboy by OHYA』がありまして、大矢はアトムのモチーフでファッションのデザインをされているんですけど。キャラクター、アトムがバーンと出ているというよりも、迷彩柄の中にアトムがいたりとか、そういう柄の中にアトムのテイストを自然と取り入れるのが、とてもうまい方なんですね。今回のアルバムも、漫画やアニメのアトムがドーンというよりも、自分の心の中のアトムを出したくて。いわゆるテクノという音を作り上げて行くっていう企画だから。その世界観の中のアトムをデザインとして出したくて、大矢寛朗さんにお願いしました。またこのCDはアストロボーイの生誕記念アルバムでありながらも『Electric-Brain feat.Astroboy』っていうだけあって、マイク・ヴァン・ダイク好きが、ケンイシイ好きが、テクノ大好き、クラブミュージック大好きとかいう人達に買って欲しいから、あまりアトムアトムはしたくはないというのもありました。

T:本当にアストロボーイ、アトムは世界中で良く観られていますよね。

R:そうですね。特にヨーロッパ勢は、良く観ていますね。それも作品性まで良く理解していて、単にキャラが可愛いとかではなくて、マイク・ヴァン・ダイクもそのメッセージを良く解っていて「今、戦争が起ころうとしている世の中に、なぜ皆もっとお互いをリスペクトし合わないのか?」と。アトムがよく訴えているような「もっとお互いがリスペクトし合い、コミュニケーションを取り、未来を作ってゆく事をどうしてしないんだろう?」と。「そんな2003年だからこそ、もう一度アトムを復活させるって事には意味があるんだ」って事を、言ってくれていて「こいつ凄ーな」ってね。こういう事は、私や身内が言ってしまうと、とても「ベタ」じゃないですか。私でも身内でも良く知っている日本人の方でもなく、向こうのドイツのアーティストのマイク・ヴァン・ダイクがそこまで読み込んで言ってくれている事がとても意味のある気がして。世界中に「共通言語」として伝わっているなって。特にドイツは89年にベルリンの壁の事があって、多分日本人とは違う世界平和っていう差別のない国境のない社会に対する想いっていうのが有るのだと思う。そこに日本の『鉄腕アトム』っていうのが入り込んでいったっていうのは凄いと思った。『鉄腕アトム』の感覚って、日本の文化じゃないですか。何だかんだ言って日本人の思想だと思うんですね。それがヨーロッパの文化と重なりあっているのが凄いなって。

T:『Electric-Brain feat. Astroboy』の初回盤には、特別ケースが1枚、別に付いているとか?

R:(笑)ああ、これはね。今回、大矢さんが2案のジャケットを持ってきてくれていて、そのどちらも選びきれなくって。「だったら。これ、空ケースで付けちゃえ」と(笑)。したら周りのスタッフが「そんな事考える人は今までいない」って言われて。でも「特典、特典」ってみたいに進めてもらって。「空ケース付!」って。

T:このCD『Electric-Brain feat. Astroboy』のイベントもありますね。

R:はい。このアルバムに参加しているマイク・ヴァン・ダイク、ケン・イシイ、コ・フュージョン、REE.Kというアーティストが集まってのクラブイベントです。これはアトムでのクラブパーティー、これ一回きり。最初で最後じゃないかな?しかもVJにアトムの映像をオフィシャルで使っていいと言ってあるので、この日は手塚プロ、虫プロから全部許諾を貰っていますので、VJもやる気満々ですよ。本当にこれを観れるのはこの日限りです。あと、アトムへアをして来る方は入場無料とか、昔のマーブルチョコを明治さんが復刻して配るとかいろいろ細かい仕掛けもあります。

T:今回のCDは、手塚さんの自主レーベル第1弾ですね。

R:今回、自分で『MUSIC ROBITA』というレーベルを立ち上げて。この『MUSIC ROBITA』というレーベルを作ったからには、今後も出していきたいな?って思っています。うん。ゆくゆくはね『火の鳥』ですかね。あれ12編あるじゃないですか。その1編1編を、違うアーティストで作っていくっていうのをやりたいなって。とても壮大な計画なんで、今すぐには出来ないけど、ゆくゆくはね。レーベルのマーク『ROBITA』は、友達のデザイナーに描いてもらったんです。あの『ROBITA』は『火の鳥』に出て来るあのロボット。

T:なぜ『ROBITA』にしたんですか?

R:何か『ROBITA』は、かっこいいし未来的だし、もともと『ROBITA』は人間じゃないですか。あれは人間が改造されて「中途半端に改造されるんだったら、ロボットにしてくれ!」という話で。でも人間の心を持っているロボットという意味では、またアトムとは別なんですけど。苦悩するロボットなんです。これは、私的なある種のコラボレーションなんですね。

T:今、自主レーベルの第1弾アルバムが完成して、思う事は?

R:今回『鉄腕アトム』で、モチベーションとしては大きかったし、凄い数のコンピレーションで、11アーティスト参加で、それも結構な方が入ってくれましたから、とても大変でしたね。次回はもう少し出来る許容範囲内でやろうと思っていますので。そうですね。『ブッダ』とか『ワンダー3』とか考えてたりしてます。
本当、今回は、お祭りなんで。

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ラストのメッセージは『今、手塚るみ子さんにとってのアトムとは?』を伺ってみました。これは、ムービーで本人の言葉を聴いてみて下さい。このCD『Electric-Brain feat. Astroboy』は、誰もが楽しめる内容のアルバムです。テクノとかが好きな方は是非とも、苦手な人も一度手に取って聴いてみて下さい。そしてアトムのメッセージを心の中で受け取って下さい。そしてレーベル『MUSIC ROBITA』は今後要チェックです。