桂 歌蔵 / Utazo Katsura


1991年12月、桂 歌丸の門下となり桂 歌郎に。1996年2月、二ツ目で桂 歌蔵 に。そして来年、2005年5月には真打昇進を迎える桂 歌蔵さんのインタビューです。

(2004年10月5日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




桂 歌蔵(Utazo Katsura)


大阪生まれ。


自分的には世の中には少しでもいろんな活動やりながらでも、ちょっとは認めてくれてる方もいると思うんですよ。だからそういう風にさせてくれた恩人でもあるから。恩人というか、すごい恩があるから。落語家になったからこそ、そういう活動もできた。落語に対して今度はこっちが恩返ししなきゃいけないなと。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。まず生まれと場所から教えてください。


桂 歌蔵(以下:K):生まれた場所は、大阪府堺市です。

T:ご兄弟は?

K:兄弟は妹が一人ですね。

T:仲はよかったですか。

K:あんまり仲よくないですね。割と軽蔑されていたようなところがあったのかな?

T:小さいころは、どんなお子さんだったんですか。

K:割とみんなイメージ的に快活なイメージがあると思うんですけど全然そうではなくて、部屋にこもってフィギュア集めたりだとか、漫画読んでたり、怪獣の特撮ものの人形を買ってきてはつくったりだとか、タミヤの改造プラモデルコンテストに出すようなのを一生懸命つくっていたり、そういう子供でした。

T:小学校の頃、部活とかは?

K:やってなかったですね。どちらかというと帰宅部で、行きも帰りも、小学校のころは集団登校とかあったんですけど、そういうのにもなじめなくて、どちらかとういうと1人で行ったり帰ったりするときにストーリーを考えて大河ドラマみたいに自分でものがたりをつくって、1年間でこの話をつくろうとか、自分の頭の中でつくってやってましたね。

T:そのストーリーは、どういう風にまとめていくんですか?

K:主役がいて、敵役がいて、主役のやつに仲間が集まってきて裏切ったりとか、ものすごく信頼していたやつが途中で悪いやつに殺されちゃったりして、みんなでわーって泣いて、あいつのかたきを打ってやるとか、そういう壮大な話をつくってましたね。

T:それはどこかで発表するとか?

K:発表するわけではないんです。ただ、行き帰りの楽しみで、きのうはここまで話が進んだとか、きのうはどこまでだったっけとか、ある意味講談に通じるような、ストーリーを自分でつくってやってたんですよ。別にそれは発表するわけじゃないんです。自分の頭の中で、今は全然覚えてないんですけど、やってた記憶があります。

T:テレビとかはよく見てました?

K:テレビは見てましたね。そうですね、テレビは、やっぱりああいう僕らが小学校のころは、年代的に特撮物が好きだったから、ありとあらゆるものを見てましたね。

T:特に好きだったものは?

K:やっぱりどっちかといったら、大きく変身するのは嫌なんです。等身大で、自分の体と同じぐらいのが戦うのが好きでしたね。だから、変身ものでも、巨大化してビル壊すとかは、非現実じゃないですか。どっちにしても非現実なんですけど、等身大で変身してるヒーローの方が身近な感じで。

T:ウルトラマンより仮面ライダーとか?

K:仮面ライダー世代ですね。仮面ライダーのほうがチープな感じで、僕はチープな中に楽しみ見いだすタイプなんで、仮面ライダーは、もっとマイナーな方が好きでした。だから、ウルトラマンだったらスペクトルマンにいったりとか、仮面ライダーだったら変身忍者嵐の方が好きだったりとかね。

T:変身ごっこみたいな?

K:友達がいなかったもので。割と自分の家の中で人形にやらせてましたね。「変身サイボーグ1号」を買ってきて着せ変えて。きのうはイナズマンで今日はミラーマンとか、そういう事して楽しんでましたね。

T:中学入ると?

K:中学生になってもあいかわらず帰宅部で、行き帰りのストーリーが、より壮大なロマンになっていって、話がエスカレートしていくような(笑)、そういう3年間だった記憶がありますね。

T:部活もやらず?

K:部活もやらなかったですね。ただ、僕小学校の1年からずっと部活じゃないんですけど、親に無理やり剣道とかボーイスカウトをやらされてたんですよ。親にやらさせるのが嫌でね、剣道も嫌だったんですね。剣道だったら同じ道場で火木土が剣道なんですけど、月水金が空手なんですよ。なんで空手をやらせてくれないんだって、ずっと幼な心に思ってたんですけど、空手はあの頃って悪役のイメージがあるから柔道だったらいいんだけど、体が姿勢ががに股になって猫背になるからだめ。剣道だったらりりしいしって。ボーイスカウトにも入れられたんですけどね、協調性がないもんで、カブスカウト時代に、山でたき火を取ってこいって言ってもね、いなくなっちゃったりとか、みんな心配して探しにいったら一人ポツンと川を見てたたずんでたりとか、そういう子供でしたね。

T:じゃあ中学時代までずっとそういう。

K:そうですね。中学校時代までは漫画を部屋で書いたりとか、少年ジャンプ読みまくったりとか、そうですね。そういう子供でしたね。

T:高校は?

K:高校になってちょっと変わり出したんですね。中学3年から高校に変わる頃にロックとかを聞き出したんですよ。僕はどっちかというと特撮物が好きだったんですけど、お笑いもすごい好きで、小学校の頃から唯一、人と交流を持てるというのはお笑いで漫才を考えたりとか、台本もつくったりとか、落語をアレンジして漫才にして2人でクラス会でやったりとか。中学校までもお笑いが好きだったんですけど、ずっと、でも高校入る直前ぐらいから、パンクロックを聞いたんですね。もともといかがわしいものとか、B級とか、主流から外れたものが好きなんですよ。パンクロックっていうのは、どうも当時のロックの主流、ハードロック、ヘビメタみたいなテクニック至上主義、長髪みたいなのを否定するところから来たから面白いって聞き出したんで、高校時代から変わったんですね。僕も出来るんじゃないかっていって、絶えず学校というのに向かないんですね。学校の中っていうのが嫌で飛び出しちゃうとか。外でバンド組んだりとか、アクティブになり出したと時ですね。それと同時に親に反発するかの様に、空手にも通いだしたんですよ。それで、今までお笑いが一番好きだったものに、具体的に格闘技。その中にパンクっていうのが入って、お笑い、格闘技、ロック、この3つが確立されたような、高校時代でしたね。

T:バンドとかは?

K:バンドやってましたね。高校時代大阪だったんですけど、具体的によくああいうプレイヤーのメンバー募集だとか、ライブハウスとかロック喫茶に行ってメンバー募集の紙を見て連絡したりとか、いろいろ活動してスタジオ入ってバンドやってましたね。

T:どういうバンドだったんですか?

K:パンクでしたね。とにかくあの頃、クラッシュが命だったから、とにかくパンクで。日本で言うとアナーキーとかなんですけど、どうしても海外の方が好きなんですよ。イギリスのロックが。でも、話が合うのかなかなかいなかったから、アナーキーとかのコピーバンドしてお茶濁しましたね。

T:発表の場とかは?

K:発表の場は、1回だけ高校2年か高校3年生の時に、普段はロック喫茶なんですけど、ライブハウスにもしてくれるところでベーシストの人が神戸に住んでたのでライブハウスでやった記憶がありますね。あと、あの頃、パンクってすごく政治的じゃないですか。そういうメンバー募集で知り合ったら、すごい大人に見えるんですよね。政治的なミニコミなんかもつくってるような、そういう男性と女性と知り合って、「ボーカルやってみない」って。きっと若くて勢いがあったから。やろうかなと思ったんですけど、大学生の人達って、ものすごく大人だったから、ちょっと怖かったんですね。何も考えてないヤンキーパンクの感じの人らのほうが一緒に楽しくやれたっていうか。大学生のギターの人と待ち合わせ場所にいったら来なくて、同棲してた女の人が来て喫茶店で話をしたんだけど、女の人、すごいロックの派手な化粧をしてて、たばこ吸ってるんですよね。なんて大人の世界なんだろうって。こっちは、ほんとに生涯童貞を貫くかのような心境だったから、何て大人なんだろうって、震え上がった記憶があります。今思えばかわいい少年だったんでしょうね。ちょっと甘酸っぱい青春の思い出でしたね。

T:高校出るころは?


K:高校3年ぐらいから東京に出て行きたくなったんですよ。かなり厳しい家だったんで。東京の大学どこでも、3流大学でもいいから受かったらいきたいと。日芸に一番いきたかったんですけど、日芸ってあのころ実技試験とかそういうのがあったから、そっちの勉強をさせてくれないし出来なかったから、どこでもいいから入っちゃえって。

T:東京はどの辺に?

K:最初は大学1年のときに、親が厳しい、うち親父が大蔵省だったんですよ。だから厳しい家で、大学1年の時に寮に入れられたのかな。東松山というところで。寮にも親がついていって、親父がうちの息子をよろしくお願いしますって。大学1年のときは埼玉にいて、ほんとは2年契約なんですけど、1年で飛び出して、2年からは東京の江古田に住むようになりました。やっぱり日芸とか憧れがあったんでしょうね。

T:大学1年の時、活動は?


K:軽音楽サークル入って、ピストルズとかクラッシュのコピーをやって、学祭とかでライブやったりしてたんですよ。何かそれで解決しているんですよね。例えば、落研の人たちは、結局、落研で終わっちゃうんですよ。本当のプロにならないんですよ。その後、その時の話術を生かして営業につくとか。だからバンドをやってても楽しい思い出で、所詮、卒業したら田舎に帰って会社に入って。それでときたま趣味でバンドやるっていう考え方のやつだったんで、根本的に合わなくて。何か飛び出す勇気がないというか。そう言ってて、僕も大学に結局入ってきたわけだから、飛び出す勇気は中途半端だったんですけど、でも外でバンドやったほうがいいやっていう事で、江古田とかに行ったら、そういう音楽関係のやつがいるかなとか、映像とかをやってるやつがいるかなというので東京出てきて、大学2年の時、本格的にバンドのメンバーを探し出しましたね。

T:それで、バンド活動を?

K:バンド活動をやって。江古田だったから、江古田のライブハウスで、マーキーっていうフォーク系のライブハウスがあるんですよ。嫌だったんだけど、まあいいや、ここでとりあえずどこも雇ってくれないから、ここで働いちゃえって。うちで食おうと思ったら大変だよって。でもオーナーが「一応雇うから」って。時給は300円ねって。労働基準法に違反してる世界なんですよ(笑)。だめなんですよ。300円っていうのは。それほんと。マーキーのオーナー、はっきり言いますけどね。そういうことをしてるから、こっちも店の酒くすねて飲むようになっちゃったんですよ(笑)。べろべろでいつもやってましたね。「冗談じゃないや、300円なんだ、俺たちは」なんて言いながらね。店終わった後に、そこでギター練習したりして。でも、そういう事をやりつつバンドのメンバーを探して、具体的にライブ活動をやりはじめて、近くでたまたま、そこでバイトしてた女の子で、武蔵野音大の子がいて。武蔵野音大っていうのはピアノ室とかがあるんですよね。そういうところに行って、やっぱりただ叫ぶだけだったから、ちゃんと歌練習したほうがいいよっていって、ピアノに合わせて発生練習とかさせてもらってましたね。あんまり顔に似合わないことやってました。(笑)

T:ジャンル的には?

K:バンドはもう完全にパンクでしたね。高校時代がクラッシュ好きだったんですけど、大学に来てからは「ストラングラーズ」っていうバンドがすごい好きになっちゃったんですよ。高校時代からこの2つのバンドは聞いてたんですけど、ちょっと成長したら、クラッシュって青臭いんですよね。青春パンクで。それにクラッシュは解散してしまったけど、ストラングラーズは活動を続けてたから、すごいはまっちゃって。ああいうバンドをやりたいなと思って、自分がボーカル、ギターで、ベースの人とドラムの人と3人でやって、キーボード入れたいなんて言いながら。ドラムの人が埼玉の坂戸にガレージ持ってるんですよ。そこにドラムセットとベースアンプとギターアンプ持ち込んで、週に一回、日曜日、練習してましたね。

T:皆、将来、プロになろうって?

K:ベースの人とはありましたね。3か月ぐらいなんですけど、練習やってて。ライブ前日だっていう時に、前日にプレッシャーがあったのか、ベースのやつが入院しちゃったんですよ、それで。それで、結局ライブ中止になって、バンドは何となく自然消滅で解散しちゃったんですね。

T:その後は?

K:その後、なんかね、僕は東京出てきても、空手もやりだして、また大阪でやってたのとは違う流派でやり出して。で、空手をずっとやってたんですけど、空手の道場が練馬の道場だったんで、近くにああいう大泉の東映の撮影所があるんですよ。エキストラのバイトとかやってましたね。そういう役者崩れの人とか、大部屋の人とか。だから、演技学校通ったらどうだっていうので、2年間なんだかわからないけど、そういう学校に行ってましたね。今、考えたら、何の役にもたたなかったけど、僕は。何だか知らないけど、やってましたね。

T:それは学校行きながら?

K:そうですね。学校は勉強大好きだったんで、6年も通っちゃったんですけど。それは世間では留年と言うんですよ。適当に、週に1回ぐらい行くか行かないかっていう感じで、課外活動に、昔からそうなんですけど、課外活動に熱中して、そういう演劇の学校行きながら空手やって、バイク乗ってふらふら。暇見たらバイクで気づいたら仙台まで行ってたとか、気づいたらずっと北海道一周してたとか、朝学校行くとき何か嫌だなってバイク飛ばして行くんですけど、江古田から板橋の学校に行くのに、気づいたら遠くのほうに行ってたりとか。何だか分けわからない事しましたね。そういう事しながら、ちゃんとバイトもやって、学校も通ってたんで。そういう演技の学校に。あの2年間ぐらいはバンドはやってなかったですね。

T:後半はどういう活動に?

K:やっぱり演技の先生の言ってる事って、わけわからないんですよ。頭でっかちで、何かもともと演技とか、演劇ってそんなに好きじゃなかったから、こんな事してても、所詮大部屋で終わっちゃうんだろとか、どっかでシニカルな、本当にやりたい事はこれじゃないっていうのが、流れでやっちゃったけど。だから、ね、よく歌手の人とか、音楽活動やりながら役者やったりとか、役者やって音楽活動したりする人いるじゃないですか。何か気持ちはわかるんですよ。でもやっぱり僕は、あの頃は、純粋にバンドをやりたいなっていうのがあって、学校は2年間で卒業と同時に、また音楽活動やり出しましたね、バンド。

T:バンドブームの頃ですね。

K:そうです。バンドブームの前夜ぐらいでしたね。インディーズ御三家とかいうのが出て、ラフィンノーズ、ウィラード、有頂天とかが、がーっと来て、新宿アルタ前でやったりとかで、イカ天ブームの前なんですけど、これは何かやりださなければと思ってやり出しましたね。でもつるんでやるというのは出来ないんですよ。もともと一人が好きな人間なんで。一人でやっぱり、あんなにマーキーとかライブハウスで働いてるのが嫌だったんだけど、ギター一本持ってライブハウスでやり出しましたね。上馬のガソリンアレイとか、渋谷のアピアっていうところで、月に一回ずつライブをやってましたね。

T:その時はどういう曲を?

K:自分でオリジナルで曲を全部つくってやったんですよ。あの頃、エルビスコステロとか、グラハムパーカーとかが、神様みたいに好きだったんで、グラハムパーカーとかもちょうどアコースティックギター1本でやり出したころだったんで、そういうのに影響された曲をつくり出したんですけど、歌詞が日本語で、何か泉谷的、長渕剛的に見られたりしてたんですよね。結局、やっぱりパンクなんで、荒っぽいんですね。自分の頭の中で、たぶんドラムとベースがあってつくってるから、稚拙なんですよ。テクニックも。ギターただ掻き鳴らしてるだけで、細かくギターでも聞かせる表現形態っていうのにテクニックがついていかなかったっていうか。ずっとライブやってたんですけど、だめでしたね。上達しなかったですね。

T:その時は本名で?

K:「ショウゴ」っていう名前でやってましたね。新宿ロフトで1回最後ライブやったのかな。新宿ロフトのアコースティックデーみたいなのがあって、そこを何かのつてで出してもらって、ロフト出たっていうので、そこでちょっと燃焼しちゃったような。そこでそれからもうあんまりライブに身を入れなくなったんですね。その頃、たまたまライブハウスで知り合った、ストラングラーズのミニコミ誌つくってる子がいて、むかしジャンジャックバーネルと付き合ってた子がいて、その子の紹介で、ストラングラーズのジャンジャックバーネルの住所、電話番号を聞いたんですよね。あの人は日本人が好きな人で、たまたま同じ流派の極真空手だったから、手紙書いてみたらって。何となく「あなたのファンです」って、あなたに影響受けてこんな僕も革ジャン着てバイク乗ってますって。あなたと違ってベースは弾かないだけですけど、僕もバンドやってましたみたいな感じで書いたんですよね。イギリスのケンブリッジに住んでいたんですけど、89年の終わりぐらい、バンドブームが、がーっといった頃に、バンド辞めちゃってたんですよ。どうしようかなって時に、ジャンジャックバーネルから手紙の返事が来て、「うちの道場へ来てケンブリッジの道場をやってるんで、うちに来て空手の修行をしたり、指導員をしたりしないか」って来たんですよ。最初社交辞令かなと思ってたら、たまたまその女の子がイギリスライブに行ったら、後で楽屋に呼ばれて、「君、ショウゴっていう日本人の男知ってる?」って、「早く来るように言ってくれ」って。で、それを伝えて帰ってきたら、もうこれは行くしかないなと思って、90年の春にイギリスに行きました。初めての海外旅行ですね、一人で。

T:行って、具体的にはどういう動きに?

K:そうですね。ロンドンでちょっと過ごして、ケンブリッジのジャンジャックの道場に行って。そこで空手の修行をしてきたんですよ。寝泊まりは、近くにストラングラーズのオフィスがあるんで泊めてもらって。それが僕にとって一番のカルチャーショックっていうか、一番飛び出た瞬間かな。何か飛び出たんですよね。やっぱり強烈だったんですよね。初めての海外旅行がイギリスで、憧れてたイギリスなんだけど、でも何事に関しても僕っていうのは奥手立ったし、世間知らずだったから、それがイギリスにいきなり飛んでいって、イギリスのそんな日本人より体のでかいやつらと組み手やって、夢にまで見てたジャンジャックバーネルと一緒にパブに行って飲んだりとか、オフィス泊めてもらったりとか、ずっとしてたから、ちょっと夢のような体験だったですね。それが一番大きかったですね。

T:向こうでの生活はどのぐらい続いたんですか。

K:そうですね、何カ月か居て帰ってきましたね。浦島太郎状態で、成田に着いたら、もう嫌なんですよ。日本人が。あのころイギリスの生活が、ほんとに夢のような、龍宮城みたいなものだったから、帰って来たらた日本でこうやって暮らしていかなきゃいけない。みんな無機質な顔してて、みんなスーツ着て真面目な顔してひたすらつまらない顔して仕事してる。で、あんな強烈な体験したから、何か自分はこの事を、何か具体的に世に話したいなと。ただ自分の思い出で日記に書いてるだけでは終わらせたくないな。ラジオでしゃべったり、文に書いてそれを発表したりとか。自分はすごい体験をしたんだから、それを世に、こんなすごいことしてきたよって。自分の中だけですけど、今考えたら大したことないんですけど、話したいな。面白いエピソードがいっぱいあったんで。どうすればいいんだろう。でも、具体的にもうライブハウスに戻ってまた一人結局お客さんが3人、5人のうちわの、自分がひたすら電話かけてチケット買ってくれないっていって呼んでくれたお客さんしか来ない。顔見知りの。スポットライト浴びてるけど、客席はまだら。そこで弾いて歌う。どこに行けばいいんだろうって90年に帰ってきた時、考えましたね。どうすればいいんだろうと。そんな役者のところに飛び込んでも、全然そういう演劇論もわからないし、そんなこと勉強する気もない。音楽だって中途半端。何があるんだろう。空手だって向こうに行ってきて、ちょっと教えたり組み手やってたけど、空手のレベルだって、全日本チャンピオンとか、そういうのは自分からしたら人間のレベルとは思えない。すごい悩みましたね。

T:その後、変わった出来事が?

K:そうですね。90年の春帰ってきて、91年までの間が一番つらかったんですよ。自分の中でどうすればいいんだろうって。その頃、町田の団地が当たって、同棲してた女性がいたので一緒に町田の団地に越したんですけど、団地に住んで、ふもとまで下りてくるのが30分ぐらいかかって、下りるだけでもすごい労力がかかって。さあバンドやろうと思って、メンバーに会いにいくのも、新宿に会いに行くにしてもすごいきついんですよね。新宿に会いに行っても、それが徒労に終わる場合もあるし。だから、もうこもり出した頃ですね。町田の団地で。で、ふもとに下りて来て町田の町を歩いてても、鏡に映ってる自分が25歳ぐらいなんですけど、どうなるんだろうっていう顔で。将来先が見えないっていうか、ものすごく焦ってた時期がありますね。具体的にバイトはビルの警備員とかやってたんですよ。毎日、毎日それに費やしてたっていうか。かなりお酒の量もふえて、どうすればいいんだ、どうすればいいんだって自問自答ばっかりして、日記にそういうのばっかり書いてた時代でしたね。

T:何か打開できたきっかけみたいなのはあるんですか?

K:具体的なものっていうのは別にないんですよ。ただ、これはほんと運命の出会いなんですけど、その頃、癒しになるっていったら、図書館に下りていって、落語のテープとか聞いてたんですね。僕は、桂枝雀っていう人が大阪時代、高校時代からすごい好きで、もう落語の世界では神様みたいな人で、枝雀師匠のテープを聞いたりとかしてたんですよ。具体的に東京に出てきたきっかけの一つは、ビートたけしだったんですね。ビートたけしが大阪の自分から見たらかっこよかったんですよ。ビートたけしが好きで東京に出てきて、大学時代もオールナイトニッポン聞いたり、テレビをずっと見てたんですけど、ビートたけしが師匠とあがめてたのが、立川談志師匠だったんですよ。いわゆる、例えばセックスピストルズがすごいやっぱりおれたちはイギーポップが師匠みたいなものだ、ザ・フーが師匠みたいなものだっていう態度で来るからそしたら、さかのぼってフーとか、ポップを聞くようになりますよね。ローリングストーンズ聞いてたら、ローリングストーンズの師匠だったっていうチャックベリーとか、ブルースのB・B・キングとか聞くようになりますよね。だから、ビートたけしが師とあがめてた談志師匠とかも聞くようになったんですよ。東京出てきて、こういう格好いい落語もあるんだっていうので。たまたま町田から鶴巻温泉まで毎日ビルの警備に行ってたんですけど。ある日、自動券売機にお金入れる時、下にホットドックプレスがあったんですね。拾って電車の中で読んでたら、今、注目の若手3人みたいな、いわゆるジャンルは違えど。ちょうどJリーグが91年ぐらいに発足した頃だから、北沢豪とブランキージェットシティの中村タツヤと、それとあと1人立川志らくが載ってたんですよ。イカ天の後にヨタロウっていう番組があったんですね。若手落語家がやってる番組。立川シラクって立川談志の弟子。でも、落語っていうのは、50、60にならないと出来ない商売だと思ってたんですよ。若手の頃は世に出れないで、セミの幼虫みたいなもんで土の中にもぐってるものだと思ったの。「若手で三十前後、俺と年、1つぐらい上、でももうこうやって出てやってる。もしかして。こんな派手な格好して、現代の事を語ってる。もしかして落語家っていうのは、入ってそういう事が出来るの」っていうのが。落語が好きで聞いてたんですけど、具体的に寄席に行った事もなかったし傍観者でしかなかったんですね。好きな事を話せる、これはどうなんだろうって考え出したんですよね。延々寝てもさめても、僕は落語が実はずっとフォークギターでずっと弾いてた時も、結局がなり立てて歌ってても、それじゃ客がついてきてくれない。内輪の客ももう集まらない。なにかMCをいろいろ考えるようになったんですよ。だから、MCで漫才のテープとか落語のテープとか聞いてきて、それを参考にしたりして。結構トークの方がだんだん発達してきて、何だもう曲に行っちゃうのっていう感じで舞台でずっと2年ぐらいギター1本で弾いてた時も、話すほうが受けるし、面白いんですよね。やっぱりそっちのほうが向いてるのかなって。落語っていうのはどうなんだろうっていうので、談志師匠の独演会とかを、具体的に町田から通うようになったんですね。それですね、きっかけは。

T:具体的にその世界に入るきっかけは?

K:遅いですね。91年ぐらいからですね。具体的に落語家になってみようかな、もう26だと。これぐらいの年から出来るだろうかとか。いろいろリサーチしてきたから4年間は前座修行がある。31だ。31にならないと自由になれない。4年間は刑務所入ったようなもので我慢しなきゃいけない。立川談志一門、要するに立川流っていうのは、お金払えば前座として認めてくれて、寄席には出てないけど、談志師匠の身の周りの仕事をしなければいけないと。立川談志一門は、立川志の輔、立川志らくっていうのがいる。で、どうだろうと思っているうちに、寄席も見に行くようになったんですね。談志師匠の具体的に社長とかにも会ったんですよ。談志師匠のところはどうなんでしょうかという事で。合って話してて、こんな言い方してはなんなんですけど、ちょっと難しいんですけど、談志師匠はあくまでステージでカリスマ性があって、アントニオ猪木みたいな所もあって、はったりが上手い人だから、ビートたけしのようなカリスマ性もある。でも、あんまり嫌なところは見えないんですよ。嫌なところもいい感じで使っているというか。でも、談志師匠に弟さんがそっくりなんですよ、社長で。最初に200万要るよって。学校ですから、あそこは。親に相談して「何とか貸す」と。でもお金っていうのは、自分の足かせになっていって、それで嫌になってやめていった人の話も随分聞いてるんですよ。それだったらいろいろ修行させてくれるところのほうがいいのかなとか考え出したんですよね。具体的に、東京出てきたときに、自分の精神たるんでるから、極真の内弟子になって、極真会館の本部道場内弟子になろうかななんて恐ろしい事、考えた時代もあったんですよ。自分の中で追い込んでみたいなっていうので、内弟子になって修行させてくれるところとかないかなと。いろいろ見てたら、その頃ですね、「桂歌丸」っていう名前が浮かんできて、「笑点」っていう番組でああいうイメージしながらも、講座をみたらきっちりやってるんですよ。全然笑わせる話じゃなくて、怪談話を最初やってたんですよ。この落差はなんだろうと思って、ああいうのがカッコいいかなと思ったんですよね。マスコミで売れてても、本当の落語はかっちりやってるっていう。この2つの空間をうまく使ってるっていう。で、うちの師匠、今現在の桂歌丸のところに91年12月に一応家に行って、入門許可されましたね。それですね。今現在の桂歌蔵という人間のスタートですね。

T:まず何をやるんですか?

K:まず入ったら、最初、91年12月に師匠の家に行って、近所にアパート借りてもらって、92年の1月から前座修行が始まったんですよ。まず、2月から寄席の楽屋に入れるんですけど、1月はずっと師匠のかばんを持って回るんですね。あちこち師匠の営業先とか、師匠のかばん持ちですね。そういうところで落語界とはこういうものなのかっていうのを学んでいきましたね。寄席に入る前のしきたりで、太鼓の叩き方を覚えたりとか、寄席のフチョウっていうのがあるんですよ。あんまりギャラをほかの人にわからないように、バンドマンとかにも、昔の色物の人、漫才の人らとかも、言葉があるように、1、2、3、4、5を、ヘービキヤマササキカタゴみたいな。いや、もう、ほんとに例えば3万しかもらえなかったよっていうのは、いや、ヤマしかもらえなかったよっていう話とかを、そういう数字のフチョウを覚えたりとか、言葉のいろいろな、いわゆる業界用語を覚えさせられて、しきたりとかを覚えさせられましたね。具体的に92年の2月から寄席の楽屋に入りました。

T:生活は、どういうリズムで?

K:生活は師匠のところだから、まず朝8時に起きて。うちの師匠の家っていうのは狭いんですよ。ものすごく細い家で、近所では「鉛筆御殿」って言われてる家なんですけど、家まで体型に似せることないじゃないかって。だから、あんまりにも狭過ぎて家に住めないんですよ。近所にアパート借りてもらって。狭い家に一生懸命掃除をして。師匠は今でもそうなんですけど、横浜でしたから、横浜の黄金町という駅から、ずっと片道1時間ぐらいかけて、東京新宿スエヒロ亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、国立演芸場、いろんなところを10日間ごとに回ってました。10時から行って、寄席での楽屋修行をやって、あの頃、人数少なかったから、昼夜通しで9時ぐらいまでずっと寄席で昼夜やらさせる時もあったんですよ。夜席が終わって帰ってきたら、もう11時ぐらいですから、この時は師匠のところにはあいさつに行かないでそのまま家に帰って寝るんですけど、昼席だけで終わる時は、師匠の家に行って、帰ってきましたって、師匠の家の雑用をしてっていう、そういう生活でしたね。

T:具体的に落語を覚えるのは、どういう風に?

K:三遍稽古といって、師匠の家に伺って。師匠は稽古部屋を持っていたので、そこに行って師匠と一対一で差し向かいに師匠がやるとおりに15分なら15分のねたを聞くわけです。師匠があんまり忙しい場合はテープレコーダーで録ることを許されるんですけど、昔からの技法だと三遍稽古で3回聞くんですよ。3回聞いて、それを頭に全部入れなきゃいけない。今度は3回聞いたら4回目は自分が師匠にねたを披露する。それでここはこうだよ、ああだよっていうのを聞いて、それで、それを上げるっていうんですよ。仕上げる。上げてもらうっていうのは、オーケーだっていうことなんですけど。上がらなかったら、もう1回やる。また上げてもらう工夫をする。その講座にかけていいよっていう、舞台でやっていいよっていうのを、講座にかけていいよっていう評価が出るまでは、師匠の前でやるわけです。

T:どのぐらいで覚えていくんですか?

K:あの頃は、すごかったですよ。僕は月に1本ぐらい覚えてましたね。4年間で何とか40本から50本は覚えようと思っていたので、そういうペースで覚えてました。

T:次の年は?

K:そうですね。92年はもう無我夢中でやってて、93年も変わらずですね。4年間変わらずですよ。あの頃、前座さんって、みんな年食ったのが多かったんですよ。二十代半ばぐらいの、一番年下の先輩でも僕より3つ下なんですよ。だからみんな、僕27で、そいつが24だったんで、みんな年食って入ってきたんですね。要するにサラリーマンやってたりとか、卒業しても何となく踏ん切りつかなくて、やっぱり厳しい世界ってわかってるから、10代が飛び込むのっていうのは、私の所属していた落語芸術協会は少なかったんですよ。具体的には年代のジェネレーションギャップは感じなかったんですけど、でもやっぱりストレスはたまるわけですよ、すごい。このままだと精神的にまいっちゃうなっていうのがあって、「何かストレス発散できるものはないだろうか。94年で30歳を迎える。このまま寄席で30歳を迎えるのか。何か具体的に」って考え出したんです。横浜の近所にボクシングジムが出来たんですよ。同い年の人で、大橋ヒデユキさんっていう人がいて。東京に出てきた大学2年の時に、空手やりつつ1年半、ヨネクラジムに通ってたんですよ。空手は、顔面攻撃がないので、ボクシングっていうのはどうなんだろうって、1年半通ってたんですけど。そのヨネクラジムで大橋さんは世界チャンピオンのスターだったんですよね。ジムっていうのは、アマチュアでエリートしか相手にしないジムだから、具体的に20歳で行ったとしても、プロに選手になるようなトレーニングをさせてくれないわけですよ。大橋さんはもう王子様のような扱いなの。僕はほんとうに相手にされていない、その他大勢の中でやってたから、その人がたまたま近所で大橋スポーツジムっていうのをオープンしたんですよね。同い年だし、ボクシングのプロテストっていうのが、30歳になると受けられないんですよ。プロライセンスとって、何かっていうのは、このまま30歳になってしまうのは何か悔しい。何か証になって、生きてきた証みたいなものを残せないだろうかと思って、昼席もちょっと余裕が出てきた頃で、3年目なんで、割と昼席中心にあけてもらえるようになったんですよ。前座さんもだんだんふえてきたから。夕方帰ってきて、師匠のうちで雑用しても8時ぐらいには帰れるんですよね。で、師匠にちょっとお伺い立ててみようかなと思って、師匠に「ちょっとお願いがあるんですけど」って。「何だ」って。「ちょっと近頃、なまってまして」って。「おまえはやっぱり大阪出身だからな」って。「言葉の矯正に通うのか?」って。「そっちのなまってるじゃなくて、体がちょっと」って言ったら、「そうか体使うのか、踊りか?」って。「習い事を。三味線か?」って、全然話が通じないんですよ。ボクシングジム通うっていうのは、もうあまりにも宇宙旅行に行くようなものなんですよ、うちの師匠にしたら。「それはどういう事?」って。「落語に何か関係があるの、それは?」って。大橋スポーツジムっていう名前だったんで、体が資本ですから、スポーツジムにって。「何考えてるんだおまえは」って。「まあ、寄席の前座修行とか、落語の負担にならないようだったら行ってもいい」っていう事を許可得たのが94年の2月でしたね。7月誕生日なんで、その間、絶対通おうと思って、毎日1日も休まず、寄席にももちろん行きつつですよ。で、ジムに行って、大橋さんに「あ、いいよ」って。具体的に大橋さんが現役の日本チャンピオンを週末になると呼んできてくれて、スパーリングやらせてくれて。いきなり「スパーリングやらなきゃだめだよって。そんなのは実践でやらなきゃ、プロテスト受からないよ」って。それで、とにかくガンガンスパーリングやってたんですよね。でも、スパーリングやるとね、あんなヘッドギアして、グローブつけてても、やっぱり顔がはれたりとか、パンチ食らうから、最初の頃ってまともにパンチくらったら、舌が回らないんですよ。やばいなこれはって。やっぱりボクシングってこわい世界だなと思って。具体的にパンチを食らわない練習とか、防御を体で覚えていくんですね。こう当たると芯に当たらないだろうとか。でもやっぱり口が切れたりとか、鼻血が出てきたりとか、目に青たんできたりとか。毎朝師匠に家に朝行って掃除とかするんですけど、ちょっと目はれてたりすると、師匠が嫌なおびえた顔するんですよ。こいつ夜な夜な何か本牧とか元町にこっそり抜け出して飲みに行ってけんかしてるんだろって。嫌なやつ弟子にしちゃったなみたいな。こいつけんかばっかりしてるんだろうな,外でって。そういうのうち持ち込まないでくれよって。非暴力主義な人ですから、ガンジーみたいな人ですから、性格は過激な、攻撃的な人ですけど、精神的な暴力はすごい人なんですけど。で、ボクシングプロテスト30歳ぎりぎりで一発勝負で受かりましたね。

T:なるほど。すごいですね。

K:よく受かりました。本当にあの時つらかったのが、7月誕生日なんですけど、待たされて待たされて、誕生日前にコミッションに送るんですよ。2か月ぐらいかかるんで、9月の19日に結局プロテストを受けさせてもらったんですね。2人のうち必ず1人しか受からない。対戦相手の2ラウンドスパーリングで。2人とも落ちることもある。合格率が35%ぐらいなんですよ。一発勝負だったんですけど、意外とリングに上がってみたら、それまで逃げ出したくて怖くてしようがなかったんだけど、上がるとスポットライトがあって、あんまり緊張しないんですね。何でだろうと思ったの。後楽園ホールは、実は「笑点」の収録会場だったんですよ。「笑点」のかばん持ちとか来てるから、妙に「笑点」の会場だと思ったら、急に落ちついちゃって、反対に向こうががちがち。最初に対戦相手と握手しなきゃいけないんですけど、すごい突っ張ったやつで怖かったんですけど、向こうがかなり緊張してる感じで、それをみたら余計リラックスしちゃって。本当は2ラウンドなんですけど、1ラウンドでダウン2回奪って、そこでストップなったんですよね。

T:へー。

K:1ラウンドで終わったんで、絶対受かると思ってたら、受かったんですけど、あれを10オンスのグローブじゃなくて、ヘッドギアつけなくて、6オンスのグローブでヘッドギアなしの本当のスポットライト浴びてやったらどうだろうって次の日にあまりの感激で考えちゃったんですよね。4年間の前座生活の中で1日だけだったんですよ。休んだのが。プロテストを受けた日は師匠に頼んで、どうしても親戚の人と会わなきゃいけないんで休ませてくださいって。朝の掃除も勘弁してくださいって。精神乱されたくないから、師匠にあれこれ言われるのが嫌だから、その日だけは休ませてもらって。次の日の朝、喫茶店でモーニング食いながら、もう減量もしなくていい。ジュースも飲める、本当にうっとりしながら世界チャンピオンになった次の日みたいなもので、薄いグローブで本当にやってみたいなと思ったんですよね。でも、うちの師匠に黙って受けてたから、多分うちの師匠っていうのは、その頃の厳しさっていうのは半端じゃないんですよ。もう僕、30回以上くびになってるから、「くびだ、くびだ」って言われて。その度に必死でわび入れて、次の日早く行って掃除したりしてたから、「ボクシングの試合やりたい」って言ったら、「じゃあ、ヤスダさん頑張ってプロになってください」って首になると思った。次の日にうちの師匠の前座の仕事があったんですよ。そこで前の日に休んだり、にやにやしてるから、楽屋で怒鳴られ続けたんですよね。そこで目がさめたっていうか。やっぱりプロ、おれはプロの落語家だから大橋ジムでも優遇されて、日本チャンピオンとスパーリングやらせてくれた。手取り足取り教えてくれたっていうのがあったから、大橋会長には申しわけなかったんですけど、前座終わるまでは休ませてくださいって。向こうにしたらそれはねえだろうって、お前の為に一生懸命やってやったのにっていう、向こうも喜んでたから、今度カワシマっていうヨネクラのボクサーの世界戦があるんで、それが横浜であるんで、前座やらないって、着物姿で登場して、話題になるからやってみないって。でも師匠のおひざもとでそれやったら、もう終わりでしょう。だから、そこでプロになるモチベーションっていうのが下がったんですね。31歳になるまでボクシングを封印して。31歳にジム通い出したんですけど、もう試合しようという気持ちは消えましたね。

T:もうその時は落語一筋でと。

K:そうですね。落語一筋でいこうと思いましたね。なんかそんなことがあったら、本当に自分勝手で図々しい、自分勝手な我がままなやつだと思うんですよ。でも、やっぱり落語家なんだから、そこでいったん区切りつけて、今度は落語の練習ををやって、前座を努め上げなきゃなっていうのがありましたね。で、具体的に何か、試合はもうやる気はなかったですね。モチベーションは下がってるし。

T:それで、前座の生活が。

K:その後1年半あります。

T:その次の展開は?

K:96年になって、「二つ目」というのに承認したんですよ。それまで歌郎って名前だったんですけど、それが今の名前で、歌蔵っていう名前に。もう寄席の楽屋修行、師匠の元から離れる事が出来るんですね。で、そこからですね。具体的に世界が広がったっていうのは。

T:歌蔵っていう名前は師匠からいただいて。

K:そうですね。師匠がある日二つ目が役員会、理事会で決まった時に、朝いきなり、掃除してたら、おまえ「蔵」がいいか、「平」がいいか、っていきなり言ったんですよ。蔵がいいか、平がいいかって。それは一休さんのとんちみたいなもので、「師匠、それはなんでしょうか?」って言ったら、もう駄目なんですよ。野暮だし。もうさすが笑点40年以上やってる人だから、「なぞかけ」なわけですよ。え、名前かな。歌蔵かな、歌平かなって。ピンと来ないとだめなんですよ。そういう修行を僕らにもさせてたから。歌平なんか臭そうな名前で嫌だなと思って、「蔵」がいいですって。「じゃあ、歌蔵」っていう事になりましたね。歌蔵っていう名前は僕は気に入ってるんで。

T:名前をもらう時は、師匠から「きょうから、歌蔵だぞ」という感じで始まる?

K:そうですね。具体的に二つ目なった時に「歌蔵だぞ」っていう事で。96年2月1日から歌蔵のお披露目が寄席の中で。真打ちほど大げさなものじゃないけど、トリじゃないけど、前座の後に二つ目で上げさせてもらうと。格別にそれで。黒紋付きで。

T:二つ目が何年ぐらい続くわけですか?

K:約十年ですね。業界では二つ目の期間は。だからその十年間っていうのは、結局、その時の修行だしその後生きる道しるべになるわけですよ。真打ちになったら、ずっと一生真打ちですから。二つ目の10年間でどういう方向性を自分で示すか、自分はどういう生き方をしていくか、どういう人と出会っていくか、どういう風になっていくか、この間って重要なんです。いろんなケースがあって、前座のころの名前、二つ目の頃の名前、真打ちの頃って、名前が3つ変わる人もいれば、ずっと前座、二つ目、真打ちで同じ名前の人もいるし。前座二つ目同じ名前で、真打ちになって変わるというのもあるし。ただ節目なんですね。

T:90年後半に歌蔵二つ目になって、その後の生活っていうのは。

K:最初、96年、各先輩方から祝儀をいただけるんですよ。上の人が何百人業界の人がいて,そういう人からお金をいただくんですね。そのお金で半年間は、祝儀のお金で半年間ぐらいは食えるんですよ。その二つ目になった時の大変さっていうのは。前座の頃って無我夢中で働いてても、それはなぜか食えるんですよ。前座の給金っていうのは、寄席の楽屋の給金っていうのは、1日働いても1000円だったり、2000円だったりするんですけど、でも師匠が飯食わせてくれたりとか、ほかの師匠が自分の落語会に呼んでもらったら、そこで幾らかギャラもらって。それはちゃんとしたギャラです。何とか生活していけるんですよ。前座でも忙しかったりして、あくまで前座さんとして落語会に呼ばれるわけですよ。二つ目になると、これがいきなり前座真打ちっていう落語会だったりとか、二つ目っていうのは必要じゃないんですよね。だから、最初は全くそれでギャラも上がるわけだし,二つ目さんに前座の仕事をさせるわけにいかないと。お茶くみしたり、着物たたんだりとか、太鼓叩かせたりするわけにはいかない。だから、二つ目っていうのは要らないっていう落語会が多くなるわけですよ。仕事も減るし。だから、祝儀くれる師匠方とかでも、ちょっといじわるな人とか、しゃれのきつい人はこれから二つ目地獄始まるぞとか言うわけですよ。本当に地獄にするか、天国にはならないにしても、何か打開策を見つけるかは自分次第なんですね。

T:あいた時間はどうするんですか?

K:あいた時間稽古する、自分でスポンサー見つけてきて、そういう人に連れてってもらってどこかで落語会を開かせてもらう。そば屋、スナックや寿司屋とかで自分で落語会やらせてくれませんかとか売り込む。マスコミに売り込む、いろんな生き方があると思うんです。うちの師匠っていうのは、仕事は莫大に持ってる人なんですね。ほうっておいても仕事の以来が来る人で、僕はあんまりかわいげのない弟子だったから、言うことは聞いてるんですけど、やっぱりちょっと顔に出たり、ふてくされたり、むっとしたりするっていうのは、師匠にしたら絶対服従な弟子じゃないと嫌な人だから、二つ目時代って仕事をもらえなかったんですね。前座の頃もそうだったんですけど。二つ目になった時は、仕事も全然ない状態で、どうしようっていう。あの頃、町田時代の前座になる前に戻ったような、ぽっかりした空間になっちゃったんですね。前座のころは、無我夢中で働いてるから、きついし、精神的にくたくたになるけど、時間は凝縮されてるんですよ。でも、暇なつらさっていうのは大変ですよ。

T:90年代後半は?

K:96年は学芸大学に住んでたんですけど、商店街の人に落語家になってどうのこうのって。落語会やらせてくれませんかとか、どうでしょうかとか、そういう話をしていいよって。近くのスーパー銭湯があったんですけど、そこの親父さんがかわいがってくれて、「うちが休みの日に座敷があるから、そこで落語会やらないか」って、落語会をやらせてもらったりとか。とにかく自分の会をすごいやってましたね。そば屋でやったりとか、寿司屋でやったり。とにかく動いてましたね。で、格闘技の関係者の人と知り合ったりしてたんで、会場とか行くようになって後楽園ホール見に行くようになったりしてたんですよ。そういうところで知り合った空手雑誌とか、ボクシング雑誌の人らに、僕は落語家ででもプロライセンス持ってますとかっていう話をして、「うちでエッセイでも書いてみる?」とか、具体的にちょこちょこ。音楽も。僕は、お笑い、ロック、格闘技、その3つしか興味ない人間だったから、そういう人間ですよっていう事で、うちでやってみて、音楽雑誌、格闘技雑誌でエッセイとか、いろいろコラム書かせてもらえるようになって。そういう関係者のつてで、CS放送の番組をやらせてもらったりするようになりましたね。

T:2000年入る頃までは、そういう感じで?

K:そうですね。2000年入る頃から、急に仕事が来たっていう。あくまでマイナーな活動ですけど、自分的にはすごい、何となくやれてきたなっていう。

T:落語は?

K:落語はね、そういう具体的に自分で行動してやっていたんですけど、やっぱりおもしろい活動をやってるのとか、幾らそういう事をやっても、講座がうけなきゃどうしようもないですから、自分なりに工夫を凝らして、新作も何本かつくったんですけど、新作つくる労力っていうのは、エッセイ書いたりとか、マスコミ活動をやるほうに向けたいなと思ったんですよ。あくまで、やっぱりやってて古典落語っていうのが好きで入ったわけだから、落語やるときは古典落語をちゃんとやりたいなっていうので、古典落語はやっぱり、前座のころほどは正直ないんですけど、やって、それで落語会とか、また呼んでもらえるようになりましたね。自分の会だけじゃなくて。あと、師匠のおひざもとが横浜なんで、横浜テレビっていう地元のケーブル局なんですけど、ケーブル数局でレポーターとかやらせてもらえるようになったんですよ。カメラの前で何かやるというのが今までなかったものでちょこちょこは出てたは出てたんですけど、コンスタントにやれるっていうのがなかったんで、新たな快感みたいなのが出てきましたね。カメラの前で演技するのとか、テンション上げて。客がいないところでやるっていうのは。舞台っていうのはあくまでその場で、風に書いた言葉みたいなもんで、もう流れさって終わっちゃうじゃないですか。でも映像は全体的に残るものじゃないですか。それを見てあとでこうすればよかった、ああすればよかったっていう、そういう反省点とかも、具体的に映像で見直すことができるから、そっちのほうが面白くなった部分はありますね。落語もそういうことをやりつつ。本意なのか不本意なのかわからないですけど、落語一本でずっとやっていきたいなっていうのは、正直言って、前座の頃の日記とか読み返すとえあったんですよ。覚悟を決めて入ったわけだから。でも、何か特徴を出さないとだめかなっていう気もするんですよね。ただマルチな落語家って、そんなもんでもないし、肩書とかいろいろな活動を続けてとか、いってくださるのはありがたいんですけど、何か特色をそんな、わざとつけてやってるわけじゃないんですけど、好きだからこうなったっていうのがあるんですかね。最終的にこういう形でやり出したんですけど、全部つながってる気がするんですよ。小さい頃からのすべて。人間だれでもそうだと思うんですけど、最初言ったように、格闘技とロックも結局、格闘技なんかでもやりだして、そういう仕事をやらせてもらえるようになったじゃないですか。音楽も好きだった。具体的に音楽でも、今、アナーキーの藤沼伸一っていう方と一緒にロックと落語のコラボみたいな感じでライブをやらせてもらったりとかしてるんですよ。

T:それはどういうきっかけで始まったんですか?

K:2002年の3月に、「週刊ヤングサンデー」の編集者の人と一緒に飲んでて、きょうARBのライブがあるっていうので、ARBのドラムの人のライブがあって、それ終わった後行かないって。その人もボクシングやってて、ロックも好きな人なんで、割と気があって、それでヤングサンデーの仕事をもらうようになったっていう。打ち上げ会場に乱入したんですよ。話してる時に、アナーキーのボーカルの人とは、昔僕何回か月に1回ぐらい東京FMの番組に、前座の頃、ゲストで呼んでもらったりしてたんで、面識はあったんですよ。そのバンドのギター、藤沼伸一さんも、ARBのドラムのソロライブで、ゲストでギター弾いてたんで、ラジオ番組での面識があったんですけど。あのころ、いつでもラジオでべろべろ酔っぱらってたから、話できないんですよ。ワイン一本がぶ飲みして、終わったあとやたら東京FMの人にからんだりして、「あんな事やって幾つだよ、あんた」みたいな。中学生みたいなルックスで、とっちゃん坊やみたいな。で、外あるいて、からんでるから、これは友達になりたくないなと思ったんですけど。何かすさんだものがあったんでしょうね。アナーキー再結成に関してのね、今考えると。その時もアナーキーのボーカルのシゲルさんっていうのは、ぽつんと隅っこのほうにいて、あんた一応ゲストで来てやったんだから、一緒に楽しく飲みなよって。しかも床にサンカク座りですよ。自閉症の子みたいな感じで飲んでるんですよ。あんた出演者だろうがって。何か、でも、それが妙に近いものがあったんですよね。僕もやっとこういう世界が広がって、楽しくいろんな人との出会いがあるようになったんだけど、基本的に最初からの出発って、一人なんですよね。一人で何かっていうので、僕も体育会系のふりして、実は文科系の人間なんですよね。ちょっとこの人面白いなと思って、声かけたんですよ。「あの時、一緒にラジオで出たよね。あの時ごめんね」って、酔っぱらってって。いやいやって。で、あの人、「おれ、志ん生が好きでさ」って。古今亭志ん生が。志ん生師匠ね、もちろん神様みたいな人ですよって。「今度一緒に飲まない?」って、言ってくれたんですよ。1週間後ぐらいに飲んだんですよね。中野なんですけど、夜の7時ぐらいにあの人と待ち合わせて、中野駅前にすずめのお宿っていうのがあって、夜の7時からですよ、2人で飲み出して、終わったのが朝の5時半ですよ。すずめのお宿で。5時に閉店なんですけど、5時半まで飲んでたんですよ。そんなのあり得ないでしょう。苦しかったな、今考えると。何かあったんでしょうね、あの日は。5時半ぐらいでもう白々と夜も明けた時に、「もう1軒いこう」って。多分うちに来ないかっていう感じだったんだろうな。でも返してくださいって。それから伸一さんの家に行くようになりましたね。伸一さんの家に行くと、必ずテーブルにどんと大五郎が置いてあって、おれとおまえの大五郎がどーんと置いてあるんですよね。「あんただけの大五郎にしてくれ」と思うんですけどね。長いんですよ。ゴージャスな置きかたで、どーんと置いて、冷蔵庫の中にはたぷたぷに冷えた烏龍茶が置いてあるんですよ。それをひたすら飲んで、ああだこうだって話してて。ちょうどあの頃、ソロアルバムを出して、プロモーションビデオをつくるので参加してくれないって。ああやりたいですよって言って。やくざ役でみんなミュージシャンが出てきてていうのに一人いれてもらって。

T:なるほど。

K:具体的に1回、2002年にたまたま東京芸術劇場で独演会をやらせてもらえることがあって、それは文化庁の後援の助成後援みたいなので、何かこういう記念だから変わったことができないかなって。伸一さん、ギター弾いてって。それはおもしろい、やろうって。具体的にじゃあって新作つくって、ああでもない、こうでもない。古典にギター乗せてやったほうが面白いんじゃないかって。これは、志ん生とジミヘンがあの世でコラボしてるような感じでやろうって。よくわからない。どんな会だと思って。だから、それを具体的に頭山っていう題材でやったら、意外におもしろかったんですよ。そこで終わっとけばいいんですけど、伸一さんが今度ライブハウスでやっていかないって、それからですね。

T:もう一人のメンバーが。

K:カオルさんはね、伸一さんが連れてきたんですよ。僕はメスカリンドライブ大好きでしたから、聞いてて知ってたんですけど、スリーピースっていうバンドを見て、「あの子のベースいいな」と思って、ちょっとさそっていいかって。いいですよって。会ってみたら、感じのいい子だし、ベースもすごいし、これはちょっとおもしろいなと。親父2人でやるんだったら、もう一人女の子いた方が、ちょっとは華があっていいだろうっていう、親父チックな考えであの人が誘ったのかどうかはわからないですけど。3人で具体的にライブを、2003年の10月からやり出したんですね。何回かライブハウスでやって、現在に至るっていう感じですね。だから、ライブハウスやっても、僕らはそんなに客呼べるわけじゃないから、毎回赤字はかさんでいって。2004年になって、企画的なライブじゃないとやれないっていうことになって。じゃあ、やりましょうって。何か企画があるたびに出してもらってるっていう感じですね。

T:4月に真打ちに。

K:そうですね。4月に真打ちですね。

T:具体的にはどんな感じですか?

K:4月の真打ちは、まず4月下旬に東京会館という会場を借りましてパーティーをやります。それは今まで支援してくれたお客様方、そういう方を招いて。結婚式みたいなものなんですけど、ああいう会場で食事していただいて、祝っていただくと。5月1日から、5月10日までが新宿スエヒロ亭、昼公演になるか夜公演になるかわからないんですけど、どちらか一応トリで10日間やります。で、5月11日から20日までが浅草演芸ホールで、これもまたお披露目やります。ちょっと飛ぶんですが、6月11日から20日が池袋演芸場。これで通常の寄席興行30日間は終わります。それが来年の一つの目標ですね。

T:具体的に内容っていうのは、どういうことになりそうなんですか。

K:そうですね。トリで古典落語を10日間ずつ変えていこうかなと、今大それたあれなんですけど、ねたも何十本かあるので30日間毎日変えようかなか、20日間新宿スエヒロテイ、浅草演芸ホールが20日連続なんで、そこで20本やって、感じのいいのを最後池袋で10日間やってみようかな、それはわからないですけど、ネタはできるだけ日替わりでかえていこうかなと。いろんな考え方があるんですよね。それはあくまで毎日来るわけじゃないだろうと。だから、自分の得意なねた3本でも5本でもいい。それをずっと回してやったほうが、お客さんには親切だよというのもあるし。確かに30本ねた変えるっていうのは自己満足かもしれないっていうのも一理あるんですよね。来るお客さんは大概1回しか来ないんですから。よっぽど熱狂的なファンだったら来てくれるかもしれないけど、でも大半のお客さんはその日1回限りだと思うんで、そこで得意なねたをやったほうがいいこともいいんですけど。そうですね。

T:最後に、歌蔵さんにとって落語とは。

K:僕と落語とのつながりっていうのは、僕はこういう風にまだ世に出ているか出ていないかわからないですけど、自分的には世の中には少しでもいろんな活動やりながらでも、ちょっとは認めてくれてる方もいると思うんですよ。だからそういう風にさせてくれた恩人でもあるから。恩人というか、すごい恩があるから。落語家になったからこそ、そういう活動もできた。落語に対して今度はこっちが恩返ししなきゃいけないなと。その為にはどういうことをするかというと、落語のよさを人に伝えていくと。最終的に帰るところってやっぱり落語だと思うんですよ。今やってる事っていうのはどういう事かというのは、何か結局、そういうことによって世間の目をちょっとでもね。今、落語界、落語の世界っていうのは、世間からは忘れ去られつつある世界だと思うんで、それをもう一度起爆剤で向けさせる物だと思ってるし、という感じで好きな事をやらせてもらった落語の許容量が広い世界に対する恩返しですね。やっぱり落語家として一生全うするつもりだし、最終的にはやっぱり70、80になった時にはきっちりした落語で、あの人の落語は面白いなと。若い頃、わけわからない事をいろいろやってきたけど、その頃に培ったものがにじみ出てるねっていうので、落語家として大成したいです。

T:ありがとうございました。


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by ken-G