石黒ケイ / Kay Ishiguro


1977年にアルバム『ものがたり』でデビュー。現在、ニューアルバムをレコーディング中の、石黒ケイさんの、過去から現在までを辿ったロングインタビューです。

(2004年8月25日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




石黒ケイ(Kay Ishiguro)


 神奈川県茅ヶ崎市生まれ。高校時代「ビーバブ」を結成。
相鉄ジョイナス・フォーク・コンペティション決勝大会に
進んだ事をきっかけに、デビューが決まる。
 デビューシングルは筒美京平プロデュースの「恋人時間」。
 アート・ペッパーはじめ有名ジャズミュージシャンと共演した
アルバム「アドリブ」「アンダートーン」、横浜コンセプト
アルバム「YOKOHAMA RAGTIME」「パープルロード」
「ヨコハマ・ノクターン」など14枚のアルバムを発表。
 特に「アドリブ」「アンダートーン」はJAZZ歌謡POPS路線の
先駆的アルバムとしても評価されている。
CMイメージソングやドラマ・映画の主題歌も多い。
 また、女優としても数多くの作品に出演している。


私も今の私で自然に出来るなら、やってもいいかな?って。何か無理して、昔の疲れてた頃みたいに、「ああじゃない、こうじゃない」って言われて、私が洗濯機に回されるみたいな感じのような、そういう事じゃなくて、そのまま今の私がすーっといればいいのなら、やってみようかなみたいな気持ちになって、やり始めたんですけど。


TERA(以下:T):よろしくお願いします。

石黒ケイ(以下:I):よろしくお願いします。

T:まず、生まれた場所からお聞きしてもいいですか?

I:生まれは、茅ヶ崎です。

T:兄弟は?

I:兄と2人です。

T:仲は良かったですか?

I:小さい頃はね。お嫁さんが来たら、もう全然だめですね。

T:幼稚園、小学生の頃は、どんな感じでしたか?

I:幼稚園の時は、「いたくないな」と思うと、途中で帰っちゃったりとか、そういう子。で、小学校、中学校は、ちょっと早熟な子。

T:部活動は?

I:中学の時は、愛ちゃんのように、卓球をやってました。中学のクラブ活動で卓球を。

T:小学校の時、何か楽器とかは?


I:うちは、音楽一家っていうか、母や母の妹のおばさんや、みんな。私の祖父やらおばあちゃんやら、みんな音楽に携わってきたので、ほんと音楽一家なんですよね。そういう中で音楽を聞きながら育ったから、好きになっちゃったって感じ。

T:お父さんとお母さんは、何か楽器とかを?

I:父は全然、音痴で駄目なんだけど、母は邦楽の方ですね。日本舞踊とか、三味線とか。母の母が、昔、若い時に「娘義太夫になりたかった」とかっていうぐらいの音楽好きで、そんなところから。私のおば、母の妹が、ずっとクラブで弾き語りをやってたりとか、そういう事で、何か影響されてる。

T:小学校の頃、何か夢みたいなものは?

I:小さい時から、「私、歌手になるんだ」とか、そういう事はなかったんだよね。

T:他になりたかったものってありましたか?

I:あんまり考えてなかったみたいね。体育が全然だめで、1なのよ。だけど、卓球だけはできたの。だから、卓球部に入ったのね。

T:試合とか、大会とかは?

I:うん。出ましたね。

T:どういう感じでしたか?


I:横浜であったの。県大会に出て、1回戦で負けたの。(笑)

T:卓球以外では?

I:中学の頃は、おばさん、おばさんが一緒に暮らしてたりなんかして、ピアノがあって、年じゅうピアノでぽろぽろ一緒に歌ってたりとか、そういう意味で年じゅう歌は歌ってたみたいですね。

T:歌ってた曲って、どういう感じの曲ですか?


I:何だろう?おばさんが弾いてた曲だから。フォークかな。森山良子さんの歌とかかな。

T:よく聞いてたレコードはありましたか?

I:うちにジャスのレコードがあって、それを聞いて子供心に「ジャズっていいな」って思ったのは覚えてるんですよね。「好きだな、こういうの」って思ったの。

T:高校入ると?

I:高校に入ったら、女の子3人でグループを組んだんですよ。「ビーバブ」っていう名前で、フォークですね。自分たちで作詞作曲してたんですけど。それで、コンテストに出たんですよ。そのコンテストがきっかけで私は歌手になったんですけど。

T:オリジナル楽曲は、石黒さん自身は、曲も詞も。

I:もう1人友達と一緒に、作詞作曲を一緒にした。何か、好きなもの同士でやり始めたって感じ。そう、中学の時から、もう好きな子同士で音楽活動はあったの。それから、高校に行って、「ビーバブ」っていうグループをつくったんだ。

T:ジャンル的には?

I:フォークですね。

T:デビューのきっかけとなった出来事を教えてください。

I:それで、3人「ビーバブ」で、横浜の「ジョイナスフォークコンペティション」っていうコンテストに出て、決勝まで行ったんですよ。優勝はしなかったんですけど、その時に審査員だった人に「ソロデビューしないか?」ってスカウトされて、それがきっかけで、こういう風に歌手になったんです。

T:その後の流れみたいなものは?

I:その後、そのコンテストで優勝したのが、山崎ハコさんだったのね。それから彼女のレコーディング見に行って見学したり、そういう芸能界っていうか、あの頃、フォークがすごい流行ってて、芸能界っていう感じじゃないわよね。そういうレコーディングだとか、取材だとか、彼女のそういうのにくっついてどんなものかって見学させてもらったりしてたのね、高校の時。それで、私がデビューしたのは高校卒業して1年ぐらいたってから。

T:実際のレコーディング作業に入るまでは、どのくらいの期間があったんですか?

I:まず、最初は。一応、笑っちゃうんだけど、「アイドル路線でいこう」っていう事になったんですよ。それで、筒見京平さんの曲だったんです。それで筒見京平さんのお家にレッスンに行ったりとか、そういう事もありましたね。1曲目が、筒見京平さんの「恋人時間」っていう曲で、デビューしたんですけど、全然売れなくて。私もアイドル路線に全然乗っからなくて。山崎ハコさんのステージ見たり、活動を見たりして、「こういうシンガーの方がいいな」って思って。それで、スタッフも「じゃあ、路線変えよう」って事で、私も作詞作曲したり、ギター持って歌ったり、ピアノ弾いて歌ったりっていうシンガーソングライターの方向に進んで行ったんですね。最初のファーストアルバムに、筒見京平さんの曲が2曲ぐらい入ってるから、そんなにたってはいないと思います。

T:ファーストアルバムの話をちょっとお聞きしたいんですけれども。1977年の『ものがたり』ですけれども、このアルバムというのは?

I:まず、ボツになる写真が、何かわからないけど、ジャケットになっちゃったのよ。それで泣いてたの、私。まずそれで「もう嫌、このアルバム!」って聴かないでいたの、ずっと。(笑)でも、最近、聴いたら、結構いいじゃんと思って。

T:当時、あんまりお聴きになってない?

I:聴いてない。

T:レコーディングしてから1回も?

I:(笑)

T:サンプルが上がると、手にとったりとかは?

I:もう出来上がってきたら、顔そむけてたもん。「こんな写真のジャケット、嫌だ」とか思って。

T:その話って、割と有名な話ですか?

I:何か、事務所がごまかしてたみたいね。

T:そうですか。ジャケットの事は置いておいて、最近、お聞きになってご本人的には?

I:まず感じたのは、ファルセットが綺麗だったんだなと思いましたね。こんなファルセットが、私、出てたんだって思った。今は出ない。年のせいもあるけどね。

T:楽曲的に、中でもお気に入りとか、何かそういうのは。

I:意外に、筒見さんの曲が良かったりして。2曲入ってます。

T:タイトル曲の「ものがたり」は?

I:私の作詞作曲ですね。

T:続く2枚目、1年後の1978年の『女は女』、これは、どういうアルバムですか?

I:これはね、「愛する女は飛ばない」とかっていうキャッチフレーズをつけて、その頃、すごい飛んでる女っていう言葉が流行ってたんですよ。「男をしのぐ女」、「一人でも生きられる女」みたいな、強い女がすごい流行ってた時代で。だけど、私は、「愛する人がいなければ、生きていかれないの」っていう女を歌おうという事で、作ったアルバムなんです。

T:この時代、映画とかでも独立する女性を主題にした映画とか多かったですね。中でもお気に入りの楽曲は?

I:私が言った事が、すごくよくわかっていただけるような歌は「ひとり暮らし」とか、「泪の河」とか「夜の兵士」とかそういう歌が。

T:2枚目っていう事で、レコーディングはもう慣れてきた頃?

I:そうですね。でも、歌入れてて調子の悪い日でとれない日とかは、泣いたりなんかして困ったんじゃなかったかな。

T:タイトルの「女は女」は、どういった形でつけたんですか?

I:その頃は割と事務所のスタッフみんな交えて、みんな年上の人たちばっかりで、割とリードしてやってたのは、その人たちで、私は割と付いてってた感じですから、私がタイトルをつけたりとかっていう事は、その頃は、まだなかった。

T:ライブもやってたんですか?

I:その頃、山崎ハコさんのステージの前歌をやってましたね。

T:中で、ハコさんの「ケイのブルース」ってありますよね。これは、どういった感じでつくられたんですか?

I:それは彼女が、私のイメージでつくってくださった曲です。私の声、その頃、すごいきれいだったファルセットの声を生かしてつくってくれた曲で、とてもいい曲だなと思いました。

T:続く3枚目、1979年の『潮騒』、これは?


I:これもやっぱり『女は女』の世界を引き継いでて、ある浜辺の物語っていう感じでつくったアルバムだと思います。

T:続く、4枚目の『アドリブ』。

I:一番。私のいっぱい出した中でも、一番、売れたアルバムで。その時に、女性ジャズボーカルが流行って。私が一番最初なんだよね。ジャズポップス。みんな他の人は英語で歌ったんだよね。私は私のオリジナルにジャズを取り入れたっていうアルバムなんですよ。

T:それをやるキッカケは、ご自身で?

I:すごくジャズが好きだったという事もあって、スタッフもジャズが好きで。私の声が、何て言うんですか、いっぱい音が重なってるサウンドじゃなくて、すごく空間の多いサウンドに合う歌い手だっていう風に、みんなが思ったのよね。

T:アート・ペッパー参加という事なんですけど、これはどういう流れで?

I:アート・ペッパーが日本に来日した時に「吹いてもらおう」っていう風になったのよね。それもみんな仕掛けたのも、うちのスタッフと事務所のスタッフと、レコード会社のディレクターなんかの思惑があったんじゃない。私なんか、ひよっこで、21、2歳でしょう。吹いてもらってるっていう感じですよね。

T:どんな印象でしたか?

I:もうね、足引きずってて、奥さんが手を引いてきて、貫祿ありましたよね。印象的なのは、腕のタトゥーが印象的だったな。どんなタトゥーが入ってたか忘れちゃったけど。

T:結構びっしり。

I:うん。

T:セッション自体は、何日間かということではなくて。


I:ううん。私の曲を流して、それにアドリブしてもらうっていう感じ。ボーカル後だったりしてた。2曲。 あと、トゥーズ・シールマンズと。

T:アルバム『アドリブ』に関して、中でも石黒さんの気に入った曲は?

I:そうですね。やっぱり「ひとり暮らしのワルツ」っていう曲は、一番、皆さんに「いい」って言われたし、今回の私の今、録音しているアルバムにも入ってる曲なんですけど。いいと思いますね。

T:ジャケットは、当時どんな印象だったんですか?

I:『アドリブ』のは気に入ってますよ。今、ビクタースタジオってあるの? ビクタースタジオで撮ったの。歌入れか何かで、夜すごく疲れてる時に撮影した事を思い出した。その頃、しょっちゅう黒の革の上下のジャケット着てたんですね。黒のスーツを。

T:じゃあ、私服、そのままで?

I:うん。そのまま。ステージもあれ着てたね。あればっかり着てたね。(笑)

T:ライブは、このあたりは結構?

I:ええ。「石黒ケイと男たち」っていうライブをやってましたね。今も覚えてるけど。1人ずつゲストをお呼びして。例えば例に出すと、黒田征太郎さんだったり、岡本おさみさんだったり、あと誰が来たかな?いろんな人が来たんだよね。

T:一緒に歌ったり?

I:対談。途中で出てきてもらって、おしゃべりしたり。で、1曲歌ってもらったり。結構やりましたよ。地方に行ったりもしたし。

T:なるほど。続く5枚目のアルバムの『アンダートーン』。

I:それは、『アドリブ』が割と、私なりにヒットしたというご褒美で、ニューヨークで録音させていただいたんです。そういうアルバムです、それは。それもやっぱり大物ジャズプレイヤーに参加していただいて、ペニー・カーターさんと、あとニューヨークで、ジャズミュージシャン、あっちのミュージシャンと一緒に。

T:曲は、どんな感じで作っていくんですか?

I:うちで集中して、その気になって、出来るみたいな、そんな感じ。まあでも、大体「いつごろレコーディングになって、いつごろ出すから、曲づくりやってね」って言われてやるっていう感じかな。

T:次のアルバムはこういうアルバムにしようとか、テーマを決めてなのか、出てきた曲を中心に集めて?

I:そうね。大体、話もしたりして作る曲もあるし、自然に出てきた曲からなる場合もあるし。その辺は割とアバウトなんだよな。曲が先とか詞が先とか決まってない。

T:『アンダートーン』の中で、「ケイの子守唄」っていうのがありますよね。これはどういう曲ですか?

I:「ケイの子守唄」は、やっぱり愛する男性へのメッセージ。今度のアルバムにも入りますけど。男たちへのメッセージ。「癒し」っていう言葉はあんまり好きじゃない。男の人たちへ贈る歌。

T:続く『Story』。これは結構、バラエティな感じですね。

I:それはほんと、文化人の人とお遊びしたっていうアルバム。

T:色んな人が参加されてるのですが、一人一人お会いして?

I:そう。頼みに行ったの。一人一人にお会いしに。「作ってくれませんか?」って。みんな感じよかったですよ。上村一夫さんのお家に行った時は、こういうお部屋でお仕事してるんだなとか思ったしね。そのアルバムがきっかけで荒木経惟さんなんかとは結構仲よくしてもらって、よくステージに遊びに来てもらった事もあったし、荒木さんがばんと売れちゃうちょっと前かな、その頃って。『Story』を出した時に、コンサートもやったんですよね。

T:次のアルバム『Yokohama Ragtime』ですが、これは?

I:それは、私が横浜に住んでて、横浜っぽい歌を歌ってた事もあって、横浜をテーマにしてつくったアルバムです。

T:「横浜ホンキートンク・ブルース」は?

I:それはエディー藩さんの曲。それでエディーさんなんかとステージ一緒にやったりとか。そのアルバムでもエディーさんにギター弾いてもらってますけどね。

T:ライブとレコーディング活動の2本柱で慌ただしく流れていたと思うんですけれども、この時期っていうのは?

I:割と、ライブ活動が充実してましたね。何か聴いていただけたと思うんですけど、ライブ盤のあの感じのステージをその頃ずっとやってましたから。その頃、一番、石黒ケイらしさみたいなものを出してた時代だと思いますけど、多分。

T:続いて、『Purple Road』。

I:それも『Yokohama Ragtime』パート2みたいな感じで。横浜っていう街が、すごい好きだったから。やっぱりジャズの発祥地みたいな、そういうノスタルジックな部分もあるし、好きだから、よかったですよね。

T:そして、『You Remember Me』。

I:それは、井上大輔さんのプロデュースで、そこからちょっと「ポップになろうよ」みたいな、そこからちょっと方向がね。

T:方向を変えるという事に関して、石黒さん自身はちょっとやってみようかっていう感じに?

I:うん。そうね。妥協もありましたし、事務所をもっと盛り上げなきゃいけないのに、協力しなきゃいけないんじゃないかみたいな気持ちもあったし、売れなきゃいけないんじゃないかとか、そういういろいろな気持ちがあったから。でも、結果として見て、ポップスを歌ったからって売れるわけじゃないんだよね。

T:中でも印象的だった楽曲ってあるんですか。

I:それは、今回のアルバムにも『Mr.Trombone』って、向井滋春さんのトロンボーンをフューチャーした曲があるってすけど、向井さんからプレゼントされた曲が1曲あるんですよ。「Something Sweet」というその曲に私が自分で詞をつけて、それがとても印象的でしたね。

T:続く『情事』というアルバムは?

I:それは、私のプロデュースしたアルバムで。

T:全曲オリジナルっていう?

I:『モン・サン・ミッシェルの孤独』と同時発売だったんですよ。

T:2つのアルバムの違いというのは?

I:『情事』の方は、もう私自身のプロデュースで作詞作曲全部で、『モン・サン・ミッシェル』は、全部ポップスの方々にプロの作詞作曲の方にお任せして、シンガーとしてだけで。両極端なアルバムを同時発売したんです。今思えば、『情事』っていうアルバムも、マスターベーションだなっていうアルバムなんですけどね。昔の映画で、「情事」っていう映画がありましたでしょう。モニカ・ビーティ、ああいう雰囲気が好きで、あれが好きで「情事」ってつけたんだけど。中で「情事」っていう曲が入っているけど、それはちょっと乾いたトランペットが入ってるようなのなんですけど、何かちょっとそういうのを意識したりしたアルバムなんです。

T:同時の『モン・サン・ミッシェルの孤独』は、楽曲が出来てどうでしたか?ボーカリストとして歌ったという感じですか?

I:大してよくないんだよね。『モン・サン・ミッシェルの孤独』は。

T:これはライブでも?

I:『モン・サン・ミッシェルの孤独』は、ほとんど歌ってないです。

T:『情事』の中の曲は。

I:「情事」の中の曲は歌ってましたね、ライブで。

T:続く1986年の『ヨコハマ・ノクターン』、このアルバムは。

I:それは、その頃、一緒にライブをやってたミュージシャンとつくったアルバムで、それはレコーディングが特に楽しかったアルバムです。もう手作業で、みんなでわきあいあいと作ったアルバムで。冗談言いながら。でも、その頃、一緒にやってたメンバー、アルバム作ったきりで、今、全然どこにいるのか知らないけど。

T:もうライブの楽しさみたいなものを、そのまま詰まってる感じですか?

I:うん。

T:続く1988年の『Bolero』。これはどういうアルバムなんですか?

I:それは、東芝EMIに移籍して、そこから事務所も変わって、プロデューサーも変わって、私的には今言えば、すごい疲れてた時期で、『Amant』の2枚出して、もう歌手活動をやめて引っ込んじゃったわけじゃない。もう疲れてたの。

T:何が、そうさせたんですか?

I:何だかんだ言われるのが、もう七面倒くさくなってたみたいな。

T:活動に関して?

I:イメージとか、何て言ったらいいのかな、プロデューサーとも合わなかったんでしょうね。

T:歌を歌う事に関しては、どうでしたか?

I:疲れてた。

T:じゃあ、余りライブとかも?

I:その頃のテープとか聴くと死んでる。(笑)

T:この2枚に関して、楽曲的に印象的だったのは?

I:「黄昏のエヴリシング」とかっていう曲は、いい曲だなと思ったな。

T:もうこれで歌手活動をやめようという。

I:もう疲れてやめちゃったんですよ。

T:それ以来、ライブとかその辺は一切?

I:うん。やってない。

T:今回、ライブアルバムが久々に出て。

I:もう何年でしょう。何年ぶり?16年ぶりなんですよ。小日向君の強い、「ケイ大丈夫だよ、やりなよ」っていうそういう強い声に励まされたものも、すごくあるし、私も今の私で自然に出来るなら、やってもいいかな?って。何か無理して、昔の疲れてた頃みたいに、「ああじゃない、こうじゃない」って言われて、私が洗濯機に回されるみたいな感じのような、そういう事じゃなくて、そのまま今の私がすーっといればいいのなら、やってみようかなみたいな気持ちになって、やり始めたんですけど。

T:その間、自然と曲が出てきたとか、歌いたくなった時期というのはなく?

I:その16年間の間ですか?もう全然。何がきっかけだっけ?やっぱりファンの方の反響ね。「もう1度ケイさんやってくださいよ」っていう声が思ったよりも多かったというのもあってそういうのに励まされたのもありますね。

T:発表した『ライブセレクション』という18曲入りのアルバムのお話なんですけど、このセレクトについては、選曲については?

I:それは、私が、あの頃ライブで、一番、石黒ケイらしくライブをやってた頃の石黒ケイが、ぎゅーっと凝縮されたアルバムだなと思います。

T:昔の音源を聴き返して、どんな気持ちでしたか?

I:まず、懐かしかったですね。でも、もう今は、こういう歌は歌えないなと思ったし。

T:また歌いたいっていう感じの曲も?

I:その中に入ってる曲で、これからライブやるんだったらこれを歌おうっていう曲もありますね。

T:今、録音してる楽曲というのは、昔の楽曲が中心になっているんですか?

I:そうですね。8曲ぐらいかな。新曲が2曲と、ガーシュインの「I Loves You,Porgy」を、1曲。

T:久しぶりにレコーディングという作業は、どんな感じですか?

I:まず、一番最初のレコーディングの日は、全然だめでしたね。あがっちゃってるし、何十年ぶりでしょう、レコーディングスタジオで歌ったりするの。もう、全然だめ。やっと、この間の日曜日あたりは、なじんできたけど。

T:周りのスタッフ、ミュージシャンは、どんな方が?

I:24歳の天才ジャズギタリストの寺屋ナオ君を初め、そのナオ君のお友達のウッドベースのエガちゃんと、ドラムスのケイタ君と、今それね。まあいいコンビだと思います。これからチャンスがあれば、ライブで一緒にやりたいなって。もしやってもらえるならやりたいなと思う。

T:もう既にライブの意気込みみたいなものが?

I:うん。ライブは。苦にならない程度にやっていこうかなって思ってます。

T:その新曲2曲は、どういう感じで生まれてきた曲なんですか?


I:「夜明けのララバイ」っていう曲があって、それは16年間のお休みの間に私がいろんな経験をした中で出来た曲で、「パンドラの箱」っていう曲は、9.11事件があってから出来た曲で、これはちょっとそんなに大手を振って、反戦歌ですっていうんじゃないんだけど、ちょっと反戦歌かなっていう。

T:その曲をつくったの最近?

I:そうですね。ここ何カ月。「パンドラの箱」は、まだレコーディングはこれからなんですけど、「夜明けのララバイ」は中村リキヤ君っていうピアニストがいるんだけど、すごいいいピアノを弾いてくれて。これは歌が出来がよければ、かなりいい感じになると思うんですけどね、歌入れこれからなんで。

T:じゃあ、これからの活動に関しては、ニューアルバム発売とライブも。

I:はい。

T:ライブは、大体いつぐらいに?

I:まず12月ぐらいにちょっとお披露目、随分ステージなんかに出たことなかったんで、お久しぶりですみたいなライブを12月にやってみようかなって思ってるところです。でも、ちょっとした、ほんとの息がかかるようなライブハウス的なところで。大きい場所とか、そういうところは望んでないし。

T:そのアルバムとライブの2本立ての活動が。他に何かこれからやってみたい事ってあるんですか。

I:やっぱり、ライブですね。ライブを苦にならない程度にやっていくっていう事と、あとはある程度、今度つくったアルバムが、いっぱいの人に聴いてもらえればいいなっていう願いですね。あんまり宣伝する機会がないから、知ってもらえる事が少ないと思うから、どうしたらみんなに知ってもらえるだろうって思うんだけど。

T:ファンの人たちに向けて、何かメッセージをお願いします。

I:そうですね。もう46歳になっちゃいました。もしよかったら、46歳になった私の歌を聞いてみてくれないっていう感じかな。同じ歌を歌っても、23歳の時に歌ってた歌と、46歳になって歌うのと、ちょっと違いを聴いてみてよっていう感じかな。それは今までの私のファンの人たちに対しての言葉かもしれないけど。でもどっかに私を全然知らない、私が活動してた頃を知らない人たちにも新しく知って欲しいなっていう願いもあるんですよね。もっと若い人たち。だから、そういう人たちにどういう風に知っていただけるんだろうと思う気持もあるし。

T:僕もそうですね。若い人たちに是非っていうのは。どういう反応があるのか、楽しみですよね。ニューアルバム、楽しみにしています。本日はありがとうございました。

I:ありがとうございました。


-end-

石黒ケイさんのインフォメーション等は、
「石黒ケイHP」(http://www.dc-forte.co.jp/kei/top.htm)まで。


【NEW ALBUM】

『石黒ケイ』



石黒ケイ ライブセレクション
SFJP1001-1


 1 本牧挽歌
 2 淋しくもないけれど
 3 女ともだち
 4 ミスターイレーサー
 5 猫に鈴をつけないで
 6 青い夜の世界で
 7 横浜ホンキートンクブルース
 8 ジンハウスブルース
 9 Red Drip
 10 Mr.Trombone
 11 YOKOHAMA BAY BLUES
 12 今朝の気分
 13 大きな金魚
 14 100%
 15 BANANA
 16 すてネコ
 17 憎いあんちくしょうのブルース
 18 サヨナラの鐘       

              税込定価2,800円














































































































【Discography】




アルバム
「ものがたり」

1977/ビクター




アルバム
「女は女」

1978/ビクター




アルバム
「潮騒」

1979/ビクター




アルバム
「アドリブ」

1980/ビクター




アルバム
「アンダートーン」

1980/ビクター




アルバム
「Story」

1981/ビクター




アルバム
「Yokohama Ragtime」

1982/ビクター




アルバム
「Purple Road」

1982/ビクター




アルバム
「You Remember Me」

1984/ディスコメイト




アルバム
「情事」

1985/フィリップス



アルバム
「モン・サン・ミッシェルの孤独」

1985/フィリップス




アルバム
「ヨコハマ・ノクターン」

1986/フィリップス




アルバム
「Bolero」

1988/東芝EMI




アルバム
「Amant」

1989/東芝EMI

by ken-G