鈴木雄大 / Yudai Suzuki


今回、moment jam session#1「We'll Meet Again」に参加していただきました、鈴木雄大氏のインタビューと、最新メッセージ映像をお届けします。最後に、メッセージ映像もあるので、お見逃しなく。


(2003年9月2日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





鈴木雄大(Yudai Suzuki


 1959年12月29日 東京都生まれ。
 幼少時からピアノを習い、中学時代に初めてギターを手にする。高校時代より音楽を中心とした生活に明け暮れ、この時期劇団「ミスタースリムカンパニー」との交流も始まる。 慶應義塾大学商学部在学中の1980年、仮歌のつもりで(本人談)録音した楽曲「ゴーン・ザ・サマー」でポリスターからデビュー。
  その後、1982年に都倉俊一氏のプロデュースのもとアルバム「FRIDAY NIGHT」で正式にデビュー。翌年、シングル「レイニーサマー」がスマッシュヒット。その名前を知らしめることになる。
 1990年頃までソロアーティストして活動を続けるが、以降、他アーティストとのコラボレート企画、作家及びプロデュース活動等に比重を置く。そのような活動の中、気の合うミュージシャン仲間と「天才トノサマBAND」を結成。いわば「裏・雄大」(本人談)的な歌詞の世界とファンク色の強いサウンドで、ソロとはひと味違った魅力を垣間見せる。
 2000年、1990年のアルバム「東京者」以来10年ぶりのソロ名義の作品「Jellyfishとラブソング」をリリース。「レイニーサマー」のリメイクを収録など、話題を振りまく。さらに同年夏には初のマキシシングル「太陽の匂い」もリリース。また、ギター一本でどこにでも赴くという主旨の「出前ライブ」にも積極的に取り組んでいる。音楽活動以外にも、CMナレーションなどでその独特な声質を披露、話題を振りまいている。
 最近では小柳ゆき、MISIAに楽曲提供をしたのも記憶に新しいところ。現在次作に向けて楽曲制作中。

 また「天才トノサマBAND」名義でも、アルバムリリース、ライブなどを行っている。そして今年末には、ソロのニューアルバムをリリース予定。


自分の出来る事で最高の事をやりたいと思ってやってはいたんだけど、ホントにやりたい事は別にとっておいたりとか。何かで上手くいった時に、それはまた後で出そうみたいな。曲作りながら、作ってる途中でどんどんどんどん違う曲も出来るんですよ。これはここでは出来ないんだけど「良い曲だから、後でやろう」とか。でもやっぱり「やりたいのはこっちだったんじゃないかな」と思って。

TERA(以下:T)まずは、生まれから教えて下さい。

鈴木雄大(以下:S)生まれたのは新宿区下落合の病院です。12月29日、年も押し迫った頃にね。

T :しばらくは、下落合に住んでたんですか?

S :ずっと住んでました。住所は豊島区なんですけど、大学に入るぐらいまでは。大学に入ってからはちょっと、いろんな所へポツポツと引っ越しましたけど。

T :小さい頃は、都会育ちっていうか、都会の中で遊んでたんですか?

S :うん。

T :遊び場ってどんなところだったんですか?

S :空き地ですね。まだその頃は空き地がその辺でも。ちょっとだけ畑とかもあったし。そこが遊び場になってたりとか野球やったりしてましたね。公園はあんまりなかったか。今はホント住宅街で空いてる土地なんて一つもないけど、前はね結構あったんですよね。代々木の大江戸線の駅があるんですけど、あそこの階段上ってく途中に『昭和34年の代々木駅前』って写真があるんですけど、見たことないですか?

T :ええ。

S :もう代々木駅前の道路がね、舗装されてない感じで「どこですか?ここ」みたいな感じなんだけど「そんな時に生まれたんだな」と思いましたよね。あっという間にアスファルトになって。そういう時代だったんでしょうね、きっと。

T :割と外で遊ぶ方だったですか?

S :そうですね。

T :テレビは?

S :テレビもよく観てましたよ。テレビの事はよく覚えてますよね、ずっと。『鉄腕アトム』世代ですか、まだ白黒でしたからね、最初はね。『ナショナルキッド』とか観たの覚えてますよ。

T :映画とかは?

S :映画もね、ホントは観るの好きなんですけど、中学生ぐらいになってからですね、観るようになったのは。

T :何か印象に残ってる映画はありますか?

S :なんだろう。『イルカの日』って映画観たのかな?中学生の時に。あとタイトル思い出せないけど。高田馬場の映画館に友達と行って、ホントは『ウッドストック』観に行ったんだけど、やってなかったのかな?違うの観て帰ってきて。よくわかんないけどオドロオドロしい映画で面白かったんですけど。

T :音楽はもう、その頃はされてたんですか?


S :僕は、3才ぐらいからピアノやってまして。9才ぐらいまで。あんまり好きじゃなかったんですけど、家にピアノがあって。多分、母親の物だったと思うんですけどね。それを習わされてて。僕の行ってた幼稚園が、週に2日しか行けないんですよ。毎日行かないの。一日は、皆でお絵書きしたりなんかして遊ぶ日なんだけど、もう一日は全く音楽しかやらないんですよ。別に音楽大学の附属幼稚園ってわけじゃないんだけど、そういう感じの事に力を入れてるのかな?ピアノやって帰って来るんですよ。友達はどんどんどんどん上手くなんだけど、俺はあんまり上手くならなくて。辞めちゃったんですけど。そういう幼稚園だから皆に歌を作らせたりとか。自分で卒業式の時に遠足で行った時の事を歌にしたんですよね、僕が。それを一人で歌ったんですよ、卒業式の時に。オリジナルソングみたいなのありますよね、幼稚園の。それをソノシートに録ったんだけど、僕の歌も入ってるんですよ。一人で歌ったのが無伴奏で。その頃から音楽多分好きだったんじゃないかと思うんですけど。ピアノ、覚えちゃえば出来るんですよ。「譜面見ながらやりなさい」って言われるんだけど、それが出来なくて。普通は、譜面見ながら弾くっていうのを教えられるんだけど、一曲全部覚えてからじゃないと楽しく弾けないっていうか。

T :最初に覚えて弾いてた曲は?


S :それはね、もう楽譜にあったヤツで。

T :バイエルとか。

S :そういう感じのヤツですよね。でも、もう今覚えてないんで、全く弾けないと思いますけど。

T :ピアノは、結構長いですね。

S :まあ一応ね。7年間ぐらいやってた事になるんだけど。小学校の中ぐらいになってくると野球とか、そうやって皆で遊ぶ方が好きになっちゃって、どうしても。学校帰ってきてから「20分でいいから」って言われるんだけど、その練習が全然もう出来ない。やりたくないっていうんで。やめたんですけど。それからテレビの音楽とかはしょっちゅう歌ったり、歌謡曲もだんだん観るようになったりとかして。それから中学校に入った頃にフォークブームみたいなのが来たんですね。小学校の5年.6年か、もうちょっと過ぎてかな?『ガロ』聴いてたりとか、吉田拓郎聞いたりとか。そんなところからだんだん音楽に入って自分で作るって感じですかね。

T :実際作り始めたのはギターでですか?

S :そうですね、うん。

T :ギターは、割とすぐに?

S :うん、すぐ出来ましたね、何だか知らないけど。最初はコード押さえるのが大変だったけど。耳で入ってきたものが、すぐ指から出ていくような感じで。「上手いじゃん!」みたいな感じで、自分で「いけるな」と思ってて。で、そのまま。

T :じゃあ中学と高校は、もうギター三昧。

S :うん。学校から直帰で、ずーっとギター弾いてるみたいな。

T :発表の場とか仲間みたいなのは?

S :えーっとね。中学の時にバンド作って、そのメンバーと高校卒業するまでやってたんですよ。

T :バンド名は?

S :最初はなかったんだけど「何か作んなきゃいけない」という事になって『ポップコーン・ベイビー』って名前にしました。

T :『ポップコーンベイビー』。

S :その頃ね『シュガーベイブ』とか好きで、何か「ベイビー」みたいなの、付けたかったんでしょうね、きっと。

T :そのバンドは4、5年?

S :そうですね。メンバーが替わったりしたんだけど、中学校の時の同級生バンドで。

T :それから、大学進学されるんですよね?

S :はい。

T :ギターは続けて?

S :ずっとやってました。高校は私立に入ったんですよ。かなり雰囲気は自由なとこだったんで、学校は、なんとか卒業したけど、時々サボって家帰ってギター弾いたりとかしてましたね。でもその間もずっとやってたんですよ、そのバンド。メンバーの中に、スタジオミュージシャンでエルトン永田って人がいるんですよ、彼の妹がいて。その関係で僕に仕事が来た事があって。それ『ミスタースリムカンパニー』っていうロックミュージカルのバックバンドのギターだったんですけど。その辺からちょっと業界的な人と知り合うようになったりとか。それが高校3年ぐらいだったですね。だから、それが始まってからあんまりやらなくなったのかな?メンバーとは。それまでは高校の文化祭とかでは、そのメンバーでやってたんだけど。

T :デビューは、大学行ってすぐですか?

S :その『ミスタースリムカンパニー』がレコード出したりしてて。僕も曲を作ったりしてたんですよ。僕が役者の中西良太って人と作った曲があったんですけど、それをその人が歌う用に「仮歌を入れといてね」って言われて、僕が歌った仮歌があるんですけど、それが結局、そのまま僕のシングルとして出ちゃったんですよ。それが20才の時で。「えー、そんなの聞いてないよ」みたいな話だったんだけど。シングル、A,B面、中西中西良太さんの作詞で、僕の曲を作ってっていうのが2曲あって。それでデビューしたようなしないようなみたいな感じ。ポリスターレコードだったんだけど。そこの人が僕を売り込もうとして動いてたんですけど。宮本典子さんっていう『ポリスター』から出てる、今でもやってる。当時はね『エピローグ』って曲だったかな。歌のすごーく上手な人なんですよ。ソウルフルな、今でいえばR&Bなんですけど。そういうののハシリみたいなっていうのかな?その人のアルバムのデュエット曲をやるって企画があって、ちょっとデュエットボーカリストとして参加させてもらって。それが僕の次の正式デビューっていうか、東芝から出たレコードのプロデューサーの都倉さんと出会うきっかけになったんですけど。最初、宮本典子さんの曲を作ってもらう、曲の発注の為にそのレコードは持ってったんですよね。そしたら「この歌を歌ってる人は誰?」みたいな。当時流行ってたのが男のシンガーソングライターで、山本達彦とか、だんだん出てきた時だったんですよ。安全地帯とか。都倉さんも、そういうのをプロデュースしてみたいなと思ってたらしいんですよね。ニューミュージック。都倉さんは凄い歌謡曲の人だし、そういうイメージなんだけど、でも実は引き出しの多い人なんですよ。最近、日本の人は知らない人が多いと思うんだけど、海外でミュージカルの仕事をしたり。元々あの人外国育ちで英語が堪能で、向こうの人達とよく仕事してたようなんですよね。そういう当時は、まだ外国で録音するっていうのがそんなに頻繁じゃなかったんですよ。だから、そういうノウハウ生かして良いもの作りたいなみたいな事を考えてたところへ僕がちょうど現れたんで、どうかな?っていう話で。僕、最初は「え?都倉俊一なの?」って、「歌謡曲?」って思って、結構悩んだんですけどね。

T :イメージとしては『スタ誕』とか、あの辺のイメージってありますよね、その頃ね。

S :何か、いけすかない感じじゃないですか。言っちゃあれだけど。

T :「大芸能界」って感じですね。

S :そういう感じもあるし、何か王子様みたいな感じもあるし。と、思ったんですけどね。「そんなデビュー出来るよなんて話はめったにないよ」なんて言われて。「じやあ、やってみようかな」と思って、やることにしたんですよ。あ、今急に思い出したんだけど、柳町光男さんっていう映画監督。

T :はい。

S :彼の『十九歳の地図』ってありますよね。

T :はい。

S :あれ、本間(優二)さんって人が出たじゃないですか。

T :出てますね。

S :あれの役者探しに『ミスタースリムカンパニー』に柳町監督が来たことがあったんですよ。『ミスタースリムカンパニー』の中に役者いないかな?って探しに来てたんだけど。僕が誘われちゃったんですよ。その時は大学入ったばかりだったんで断っちゃったんですけどね。学校休まないとダメって言われてね。学校休むのはちょっとなと思って。真面目だったんですね。何とか卒業しようとしてたんですよ一応。卒業しなくてもいいやって思ってなかったんだよね。行かなきゃと思ってたから断っちゃったんですけどね。でも後で考えれば、絶対に出ておいた方が良かった。

T :それに出てたら、また違う道になってたかもしれないですよね。


S :かもしれないですね。

T :役者にね。

S :役者みたいな事をやったかもしれないですね。『ミスタースリムカンパニー』やってた関係で、『ミスタースリムカンパニー』のステージに出てたりしてたんで、芝居に興味はあったんですけどね。でも、それはそれだけで終わっちゃった感じで。

T :1982年に正式デビューで、『レイニーサマー』がヒットしましたね。

S :そこまでは都倉さんのプロデュースだったんですよ。曲もほとんど都倉さんの曲で。最初のアルバムもクオリティ高くて、ロサンゼルスで録音したんですけど。「えー、こんな曲をこの人は作れるんだ」と思ってちょっとビックリしたぐらいの。そういうアルバムだったんですけど。その『レイニーサマー』ってところから、かなり歌謡曲路線に変わっちゃって。僕としては「もうそれ以上はやりたくない」っていう感じで。

T :それは、やっぱり周りがそう動いちゃうんですかね。


S :うーん、やっぱり枚数出なきゃって思ったんでしょうね。周りが動いたっていうか何だろう?

T :やっぱり、ボーンと売れて次、みたいな?

S :結局、僕の出したものの中で『レイニーサマー』は、かなり枚数が売れてる方なんですよ。コマーシャルに使われた事で僕の事を知ったっていう人が結構多いんですよね。そういう意味では成功した方なんじゃないかと思うんですけど。ちょうどそのコマーシャルっていうのがシリーズで。『横浜ゴム』タイヤのコマーシャルなんだけど。その、東芝の安部泰宏さんとか稲垣潤一さんとかが、立て続けにそのコマーシャルに曲を提供する事によってポンポン知名度を上げていったような、そういうコマーシャルだったんですよね。それに僕も使われて、その曲が入って。そういうコマーシャルで上手くブレイクしていく人がいた時代だったんですよね、きっと。

T :そうですね。80年代前半ぐらいから、そういうCMソングでね。

S :そうですよね。やっぱり1枚目は、音楽的なクオリティが高くて好きだって人が沢山いると思うんだけど、でも「一般受けしないぞ」っていう感じだったんでしょうね多分。「もっと大衆にアピールするものを作らなきゃ」って思ったんだと思うんですよ。それでこの『レイニーサマー』って、ちょっとボサノバ調のマイナーでキュンとくるような感じの曲なんだけど。要するに都倉さんの一番得意な、日本人の心をくすぐる世界みたいなやつで。ちょっと嫌だったんですけど、その曲歌うのが。曲はよかったんだけど、その後2、3曲、都倉さんの曲やっぱり、かなり、なんちゅーか。自分で言うのも何なんですけど、皆は僕のことを、割と美形の少年っていう風に見てたみたいなんですよ。僕としては、どっちかって言えばロックミュージシャンとかブルースギタリストとかっていうつもりだったんだけど。そういう捉え方されてて、やっぱ「そういう打ち出し方しよう」っていうのがあったんですよね。ライブでね。その当時ちょっと一瞬、女の子と住んでたんですよ。会場でそういう話をちらっとしたら、レコード会社の人達がメチャクチャ怒ってるんですよね。「何で怒ってんのかな?」と思ったんだけど「そういう話をしちゃダメだよ」って。「何でしちゃいけないの?」って、俺は全然わかんなかったんだけど、「おかしいな」って思ったんですけど。「ファンの人にそういう発言をするのは裏切り行為だ!」ぐらいの事まで言われちゃって。「ちょっとアイドルっぽい売り方してんのに」みたいな。「せっかくそうやって盛り上げてやってんのに台無しになっちゃうじゃない」みたいな。という意識のズレがあって。じゃあ自分としては今やってるように、自分の曲、自分の詩、自分の歌で、自分の伝えたい事とか、そういうのをやりたかった訳だったんだけど、周りのやっぱりスタッフとかレコード会社の人達は、そういう意識じゃなかったんですよね、多分。
 
T :それは1枚目の時ですか?

S :1枚目、2枚目ぐらいの時ですね。

T :事務所は?

S :事務所は都倉さんの事務所。だったんですよ。「そういうのは俺は嫌なんだ」って言ってたら「もう、じゃあどうやって売ったらいいかわかんないから」っていう事で事務所を辞める事になったんですよね。それで、その後に違う事務所に入ったんですけど。しばらく3年ぐらい出さない期間があって、再開したんですけど。レコード会社はそのままずっと同じとこで。東芝から『ファンハウス』に移ったんですけど。『ファンハウス』って、東芝の第二制作っていうのが昔あったんですよ。『チューリップ』とか『オフコース』を売り出したとこなんですけど。そこがボコッと抜けて作ったのが『ファンハウス』なんですね。僕もそこに一緒に移ったんですよ。スタッフも同じで。どれぐらいいたんだろうな?82年デビューしてから、93年ぐらいまで、その同じスタッフの人達とやってたんですよ。同じじゃないけど、まあ似たような。

T :『ファンハウス』に行って変わった事はありましたか?

S :場所が変わったぐらいで、内容的には同じでしたね。最初はディレクターが少し変わったとかしましたけど、特に変わった事はないんですよ。僕の音楽を好きになってくれる人もいたんで、まあ最初は「都倉さんの所にいた時よりは自分の曲も出来るし、いいな」とは思ってたんですよね。でもやっぱり『レイニーサマー』を超えるようなスマッシュヒットみたいなのは出来なくて、だんだんそのコマーシャル出しても売れるっていう時代じゃなくなってきちゃったし、何か「もういいんじゃない?」みたいな話になっちゃって。

T :『ファンハウス』に入ってからは、年に1枚ペースで?

S :89年までは。

T :5枚発表して、最後は『東京者』というアルバム。

S :まあ、その「いくら作っても売れませんね」っていう事で。遂にレコード会社もどうやって売ったらいいかわからなくなったっていうような感じなんじゃないんでしょうかね。

T :この頃ですよね。momentでも撮ってる伊藤監督の映画に音楽を担当されて。

S :そうですね。

T :あの映画『微熱 MY LOVE』の音楽を担当する事になったきっかけは?

S :何なんだろう?あの映画に出てた、八木沙織ちゃんっていう子が同じ事務所だったんですね。その関係なのかもしれない。

T :映画のサントラっていうのは?

S :その時が初めてでしたね。「やってみたいな?」といつも思ってたんですけど。でも「短い時間でカァーっと、やるものかな?」ってちょっとビックリしましたけど。出来る事は一生懸命やろうと思ってやったんですけどね。もうちょっと時間欲しかったな?伊藤監督。

T :フイルムが完成して「音をつけて下さい」みたいな感じですか?

S :「こんな感じの曲が欲しいんですけど」って言われて。「じゃあこういうのどうですか?どうですか?」って聞かせて「じゃあこれがいいな」とかって感じだったかな。あと「ここに音に必要だな何秒で」とか、そういう感じでしたかね。

T :その短い時間っていうのは、どのくらい?ですか実際は。

S :何か、1ヶ月ぐらいで作っちゃったような気がしました確かね。実際にスタジオに入ったのは3日ぐらいかな?そんなもんでしたね。

T :その映画をやった1990年頃に、ファンハウスを出て。事務所は継続ですか?

S :ええ、ずっと同じでした。ついこの間まで、いたんですよ、その事務所には。

T :90年代入って活動としては?様々な事をされてたと思うんですけど。

S :ファンハウスを辞めた後ですよね。そのファンハウス方面で「レコード出すよ」っていう話があんまりなくなってきて。まあ、それでも「雄大の曲を使いたい」とか「音楽一緒に作りたい」って言ってくれる人もまだいたんですね。それで、その人達が作ってた森川由加里とか、あと『More Than Paradise』っていうユニットがあったんですけど、それはまだファンハウスでやりましたね。森川由加里と歌ったのは『who are you?』。あと彼女のアルバムも何曲か書いたんですけど。

T :『More Than Paradise』っていうのはどういう形体のものですか?

S :これは、船山基記さんというアレンジャーいるんですけど、趣味でラテン系の音楽をやりたいっていう話で。女の子が一人ボーカルで、あと2人ぐらい男の人のボーカルつけて、残りのメンバーは『カシオペア』の人っていう感じのユニットだったんですよ。ボーカルは、Amiって、ファンハウスから「鎌田英子」っていって出してたんですけど、その子が来て。多分ね、「鎌田英子」としてやってた時も船山さんとやってんですよね。船山さんが声を気に入ってて。彼女と影屋淳っていうのがいるんですけど、コイツと俺の3人で。僕もラテン系の音楽が好きなんですよ。ボサノバとか。「そういうのばっかりの曲入れたアルバムを作りたいな」って思ったんで。2枚出しました。1枚はオーストラリアまで行って録ったんですね。

T :それは2枚目ですか?

S :はい。結構ね、良い曲はいっぱい入ってますけどね。

T :この『More Than Paradise』森川さんとの『who are you?』までファンハウスで。

S :はい。ぐらいですかね。それが93年ですか。

T :次が『UB』ですね。

S :これはね、ちょうど『エイベックストラックス』っていうレコード会社がガーッと出てきた時で「コイツらと組んでやりましょうよ」っていう話が事務所の方から来て。ソウルっぽい、今で言えばR&B系のなんかそういう感じの曲だったら出来るんだけど、あーいう「ズンタズンタ」っていう「テクノっぽいダンスものってどうなんですかね」って思ったんだけど、でも「ちょっとやってみるかな」と思って。結局あーいうものでもメロディーが、かなりしっかりしないとダメだし。でもある部分「歌謡曲じゃん結局」みたいなところがあったんで、きっと「僕なりのメロディーとかでも面白いこと出来るんじゃないかな」と思ったんですよ。まあ飛び込んでみたら、それまでやっぱり自分が作ってきたものと全く違う音楽の作り方してて、それまた勉強としては面白かったですね。『エイベックス』には『エイベックス』のサウンドクリエーターみたいなのがいるんですよ。彼らの音の作り方とかをいろいろ教えてもらって。それでまあ『TMレボリューション』あーいう感じのものなんですけどね。だから彼が売れるちょっと前にそういうのやってたから「ちょっと先がけ」とかって思ってたんですけど。

T :でも表記が『BMGビクター』って?

S :なんですよ。制作が『プライムディレクション』って『エイベックストラックス』の中に入ってる制作の。スタジオも全部『エイベックス』のスタジオで作ってたし。

T :『UB』の堀川さんとの出会いっていうのは。

S :それは「ちょっとユニットみたいな形にしましょう」って事で人を探して。「生きのいいヤツはいないかな?」と探したところ、彼を紹介されて。まあ「コイツなら一緒に出来そうかな」って感じだったんで。

T :堀川さんてマニピュレーターで、佐野さんのライブとかやってましたよね。

S :やってました。それで、彼と一緒に佐野さんの武道館を観に行ったりしましたよ。

T :最近の堀川さんは?

S :環境音楽っぽいやつやってましたよね。スカパーとかで流れてるんでしょ? 話は聞いたことあるんだけど、最近どうなのかな。聞いてないですね 。

T :『UB』は1枚アルバム出して、シングルが結構出てますね。

S :3,4枚は、出たのかな?

T :5枚出てますね。

S :そんなに出てんの?それでね、最初はその2人メンバーだったんだけど、アルバム出した後に、「女の子入れよう」って話になったんですよ急に。「女の子って、どんな子入れんのかな」って思ったら、モデルさんみたいなタレントさんがやって来て「この子に何をやらせようか」って。「ラップでもやらせてみよう」とか言って。歌は歌えないんですよ、まるっきり。音楽的には素人みたいな人だったんで。でもキャラクターがいいんで「なんか面白いかな」みたいな感じで。いろいろやってたんですけど結局、その子が入って2枚出したのかな。広告塔じゃないけど、その子にいろいろキャンペーンに行ってもらってみたいな感じでやってたんですけどね。何かのイベントの時に『BMGビクター』の人に会ったんですよ。その時、稲垣潤一さんと同じ事務所だったんですけど、彼も『BMGビクター』だったんですね。稲垣さんのライブに行ってたら『BMGビクター』の人と話ししたらね。その人は僕らの制作とは全くかかわってない、もうちょっとランクが上の方の人だったんですけど、その人が「ホントにやりたいことやってる?」って言われちゃったんですよね。でね「ホントにやりたい事じゃない。こうやったら売れるんじゃないかな?受けるんじゃないかな?こういうのを作って売りましょうよ」みたいな、そういう音楽の作り方をしてたんですよね、その『UB』っていうものの成り立ちでしたからね、企画モノ。「こういうのやりたいから」っていうんじゃなくて「こういうの多分売れるんじゃないかな」みたいな。そん時にレコード会社の上の方の人がそう言ったんですよ。

T :なるほど。

S :それで、「これは違うのかな。やっぱりダメなのかな」と思ったんですよね。やっぱりホントにやりたいことやってるヤツと、やっぱりそれやりたくてやってるヤツと、これやったら売れんじゃないかなと思ってやってるヤツと、やっぱそういう事がわかっちゃうのかな?と思って。確かに「いけるんじゃないかな」と思ってたけど、ちゃんと自信もあるものとしてやってたんだけど。でもユーロビートってイタリアとかでね作ってたりすんですよね。イタリア行くと、その人達は「俺達が一番カッコイイ!」と思ってやっぱり作ってるって言うんですよ。『エイベックス』のヤツがね、研修で向こうに行ってノウハウ、音の作り方を勉強してくるみたいな感じで。そん時に「皆、自分達が作ってるものは世界で一番カッコイイと思ってやってるんですよ、アイツらは」。「当たり前だよね」と思ったんだけど。その時に『BMGビクター』の人にそう言われて「あれ?俺ってひょっとしたら、そうじゃない部分でやってないかな」と思って。「こういう風にやりませんか」って言われて、その中で自分の出来る事で最高の事をやりたいと思ってやってはいたんだけど、ホントにやりたい事は別にとっておいたりとかね。何かこれで上手くいった時に、それはまた後で出そうみたいな。この曲作りながら、作ってる途中でどんどんどんどん違う曲も出来るんですよ。これはここでは出来ないんだけど「良い曲だから、後でやろう」とか。「やっぱりやりたいのはこっちだったんじゃないかな」と思って。『UB』もそんなに売れなかったんで。堀川くんはもう、その女の子が入ってきた時点で「こんなんじゃ、やってらんないよね」みたいな感じだったんですけど。かなり彼はアーティスティックな考え方してて、すごく前向きだったんですけどね、そういう形で音楽作ってくっていうのは耐えられなかったんでしょうね。で、まあ、終わってホッとしてるかもしれない。
 
T :その貯まっていった曲っていうのは『UB』終わってからどういう風に?

S :それは『Jellyfishとラブソング』になったりとかしてるんじゃないかな。まだあるんですよ。今レコーディングしてるアルバムの中にも、ずーっと温めてる曲も何曲か入ってますよね。

T :その前に村田(和人)さんや安部さんとかと1枚出してますね。『AMS&I』。

S :それは安部くんの声かけで「ちょっと元気です!みたいな感じのCDでも作ってみない?」っていう話で。ほとんど一発録りに近い感じの録音でね。「コーラスをフューチャーしたものをやりましょう」っていう話で。自分のオリジナルを新しく作るっていうんじゃなくて、今までの自分の中のセルフカバーみたいなのでやりましょうよっていう話だったんですよね。それで僕はファンハウスの時に出してる曲と、ちょうどその時『地球はメリーゴランド』っていう曲があって、それを多分ライブで自分で歌ってたんだと思うんですよね、それを入れたいと思って入れたんですけど。ちょうどその時ね、他にも色んな人があの曲を取り上げてんですよね。鈴木雅之さんとかね。

T :4人は、みんな顔見知りで。

S :ええ、もともと。安部君とは、もうデビューした時からずっと一緒で、よく一緒にジョイントライブやったりとかしてるんですけど。村田さんとはね、コーラスの仕事で、スタジオでよく一緒になったりとか。伊豆田さんは同じ事務所だったんですよ。伊豆田君はね、すごいセンスのいい人で、もう彼の曲にはホントに参ってるというか、すごい好きなアーティストなんですよね。それで「彼と一緒にやりたいな、なんか曲作ったりしたいな」と思って、『IZUーYU』っていうユニット作ったんですよ。それでも何回かライブやってるんですけど。彼の声はソフトな感じで、僕は角のあるみたいな感じの声で。その2人が結構ハモるとね、いい感じなんで。そういう事もあり、何度か2人で一緒にライブをやったりしてたんですけど。

T :アルバムが出た後ですか?

S :そのずっと前から。そんなのやってたら安部君なんかが「いいな」とかって言ってたんで「混ぜてよ」とかっていう感じだったんじゃないかと。僕は『IZUーYU』としてはCDも出したかったんですけど、ちょうどその時、僕の『Jellyfishとラブソング』のレコーディングやってて。このアルバムのレコーディングと、その『AMS&I』のレコーディングっていうのが、ちょうど同じ時期がだったんですよね。まあいろんな順番からいって、まず伊豆田くんのソロのアルバムが、まあ彼も随分出してないですけど、あって、その後でまあやるならやる『IZUーYU』がね、と思ってたんで。そっからはちょっと『IZUーYU』は休んでるんですけどね。

T :伊豆田さんは、杉さんとかと一緒にやられてますよね。


S :一緒にやってますね。彼はホントに皆から、いつも引っ張り出されるんですよね。聞けばすぐにわかると思うんですけど、ポール・マッカートニーに声がそっくりなんですよね。皆、何かをやっぱりコピーして、だんだん大人になっていくじゃないですか。彼はとにかくポール・マッカートニーにすごい系統していたんでしょうね、最初。他にもいろいろ、ビリー・ジョエルとか。なんかね、最初ロサンゼルスでピアノの弾き語りのバイトをしてるところをスカウトされたみたいな人なんですけど。ポール・マッカートニー歌わせるとホントにそっくりで。だから、それ系のアーティスト、特に杉さんとか、あと財津さんとか、あと同じ『チューリップ』のドラムの人なんかからも「伊豆田くん、一緒にやろうよ」っていつも呼ばれてポール役をやらされてるみたいな感じの人なんですよね。でもやっぱりほら、そういうポール・マッカートニーばっかりやってると、自分の曲がなかなか出来ないじゃないですか。だから、ちょっと最近、伊豆田くんも自分のアルバムを作ってるというので、よかったなと思ってるんですけどね。

T :『AMS&I』と平行に作った、久しぶりのソロが『Jellyfishとラブソング』。

S :はい。

T :『Jellyfishとラブソング』は、10年振りのソロのアルバムという事で。

S :そうだったんですよね。

T :何かその、ソロというところで新しい試みとか。

S :あのね、僕の最初の頃はトッドラングレン好きだったんですよ。あの人自分で全てやるんですよね、スタジオワークをエンジニアリングまで。そういうのに憧れてたところがあったんで。僕の3枚目のアルバムは結構自分一人で多重録音を。『La Shissa』なんですけど。「そこに戻ってみようかな」っていうのがあって。『Jellyfishとラブソング』は、自分一人で作ったアルバムと言っていいんじゃないかと思うんですね。一応『天才トノサマBAND』のメンバーと伊豆田くんには参加してもらってるんですけど、それぞれ1日ずつ来てもらったような感じ。他は全部自分で録ったんですよ。ドラムも叩いたし、ベースも弾いたし。

T :1曲目の曲が、この前『ジャムセッション』でやってもらった。『IDM』

S :はい。そうですね、1曲目のやつ。

T :『Jellyfishとラブソング』の曲の解説を聞いてもいいですか?1曲目の『IDM』。

S :はい。『IDM』はね、これは一言で言えばスティービー・ワンダーですかね。黒人系の、ソウルとかR&Bとかジャズとか大好きなんですよ。やっぱりスティービー・ワンダーにも憧れるというか。彼の音楽って、目が見えないせいなのか、どうなのかよくわからないんだけど、ジャンルに入りきれないところがあるんですよね。普通レコード屋さんに行けばソウルの所にあるのかもしれないんだけど、R&Bかな。だけど、ジャズであったりクラシックであったりロックであったり。一時期『ブラコン』っていうのが流行ったじゃないですか。何でああいう風になってるのかよくわかんないけど、意外とパターンがあるんですよね、どの曲も。「あ、これはこのパターン」みたいな。そういうものに全く入りきらない人なんですよ、スティービー・ワンダーって。そこが憧れちゃう所というか。この曲はスティービー。ドラム叩いてるんですけど、スティービーも自分でドラムを叩くんですよね。このドラムはそれをちょっと真似してますけど。

T :2曲目『真夜中にベルが鳴る』。

S :『真夜中にベルが鳴る』。これはですね、これも一言で言えば『TOTO』ですかね。僕ってあんまり突きつめないタイプなんですよ、どっちかと言えば。流れるままに行っちゃう方で、あんまりこうテンションとかはね、知らなかったんですけど、安部泰宏くんと知り合ってからテンションコードが気持ちよくなっちゃって、その辺が発展してってだんだんこういう曲が書けるようになったんじゃないかな?と思うんですけど。

T :作詞は吉元由美さん。

S :これはですね、吉元さんっていう人に頼んだんですけど、ストーカーの歌なんですね。電話、女の子に夜中にかけるんですよ。そうすると彼女居留守を使って出ないっていう歌なんですね、これは。ちょっと恐い歌ですね。

T :3曲目『奇妙な人』。

S :ちょっと言葉忘れちゃったんだけど、UKソウルというか『ジャミロクワイ』とか、あと『ソウルトゥソウル』とかが来てた頃があって、それって俺が一番得意なところなんじゃないかな?という気がしてたんですよね。こういう曲って、昔からいっぱい作ってたんだけど、全然受け入れられなかったんですよ。いつか出してやろうと思って。ま、結構これもとってあった曲なんですね。『Jellyfishとラブソング』に入っている曲はほとんど、休んでた10年間の間にたまってた曲の中から選んだものなんで。作った年代でいうと10年以上の開きがある事になるはずです。多分『東京者』とかを作ってた頃に、すでに出来てた曲もあるんじゃないかと思いますよ。

T :4曲目の『I wish I'm on my way』。

S :これは、かなり古い曲ですね。僕の曲の中では、ちょっとブリティッシュポップっぽい感じの、まあちょっと変わった曲なんですけど。このコーラス、伊豆田くんに参加してもらって。自分でドラムを叩いてますが。結構気に入ってる曲ですね。

T :次は5曲目『おひる』。

S :『おひる』。これは新しい方なんですね一番。『天才トノサマBAND』でもやってるんですけど。昔はね、メロディーを先に作ってたんですよ、いつも。なんだけど、一時期から歌詞を先に作ることも始めて。で、その中で出来てきた曲なんですね。

T :歌詞先行っていうことになったのは、やっぱりメッセージって事ですか?

S :そうですね、きっと。メッセージだけども、やっぱり言葉の流れの気持ちよさとか、かな?「ワーッ」と書いてって、それにメロディーをつけていくんだけど、つけていく段階でどんどん言葉が変わってくんですよね。言いたい事はこういう事なんだけど、音楽に実際にしていく時点で少しづつ言い回しとか言葉の順番とか変わってくるんですよ。実際に出来てくと聞きやすいっていうかね。メロディー先に作って詩を当てはめるっていう事よりもよくわかるというか。言葉はそんなにわかりやすい言葉じゃないんですけど、でも言いたい事がよくわかるような気がするというのが、そういう風に出来るような気がするんですよね。そうですね、半分ぐらいかな。詩先はね『奇妙な人』もそうなんですよ。

T :6番目は『君の上にある空』。

S :これは何故出来たのかというと。やっぱりユーロビートの曲を作ってたら、途中で疲れたんですね。それでふと「バラードを歌いたいね」って感じがあったんですよね。ユーロビートがガーッと入って、その途中に入ってたんですね、これが。何回聞いても良い曲なんで。でも「誰も歌わないだろうな」と思ってたんですよ。やっぱり自分の気に入った曲は、その当時からいろんな人に曲は提供してたんですけど、音域とかがね広いんですよ、僕は高いし。だからね、良い曲なんだけど、これは人に渡しても敬遠されるタイプっていうのがあんですよね。「良い曲なんだけどな。使えないんだよね、これは」っていう。やっぱり、ある一定の音程、音域内で作って持っていかないと、逆にイジメになっちゃうんで。

T :『虹』。これも吉元さん。


S :そうですね。一応、詩の内容はね「離れてる大好きな人に元気でいてね」っていう歌なんですけど。まあ「そういう歌にして下さい」っていう事で、頼んだんですけどね。

T :里村さんは、Bellで参加。ストリングスは、CHICAさん達だったかな?

S :やってますね。そうですね、これは生弦をいれたんですね。この曲はライ・クーダーの昔の曲で、多分誰か歌ってるやつのカバーなんですけど。通りの暗いとこで待ってるからっていうような歌なんですよ。結構有名な歌なんで。そのアルバムはちょっと持ってないんだけど。そのイントロをやったから出来たんですね。

T :最後の曲は『Rainy Summer』。

S :これは都倉さんの曲なんですけど、10年間の間にやっぱファンの人達は、すごい待ってたと思うんですよ。ファンの人がやっててくれた僕のファンサイトっていうのがあって。それを見つけて見たら、その中で雄大さんの曲の投票みたいなのがあって、『Rainy Summer』が一位だったんですよね。「これを入れなきゃな」と思ってたんですよね、次にソロアルバム出す時は。でね、ちょっとロックっぽいアレンジというか、その時やりたかった形でやってみたんですけどね。ちょっとこうロックっぽい感じになればないいなと思ったんですけど。

T :改めて『Rainy Summer』を歌ったっていうのは新たな出発点という意味でも?

S :そうですね。そういう意味もあるけど、やっぱり待っててくれてる人に「ありがとう」って。

T :ファンの人に対して?

S :うん。やっぱり昔の曲なんだけど、僕は「こういう風にやりたい、歌謡曲じゃなくね」っていうつもりで入れてみたんですけどね。でもやっぱり「昔のが好きな人は昔のアレンジで聞きたい」って、やってみてわかりました。

T :この『PROVE RECORDS』というレーベルは?

S :これは『チャゲ&飛鳥』の事務所があるんですよ『ロックダム』っていう。そこの中でやっぱりちょっとインディーズレーベルじゃないんだけど、小さいレーベルを作って音楽制作をやりたいねっていう事になったんですね。それで出来た会社なんですけど。僕の他に古川昌義くんっていう人とか、西司くんとかね。彼は、飛鳥さんのバンドやったりしてる人なんですけど。彼らのアルバムが出てて。なぜか、そこの社長の人が来て。ちょうど事務所辞めたばっかりの時だったんですけど「出しませんか?」って言ってきたんで。僕としては、いつでも自分のソロを出したくてしょうがなかったので。タイミングよかったんですね。事務所辞めたばっかりだったんで。逆にそういう話、すごく嬉しかったし。

T :次のリリースの話は?

S :これがね、この『PROVE RECORDS』っていうのがね、なくなっちゃったんですよ。で、この後に『太陽の匂い』っていうシングルを作ったんですよ。これはTBSの『ジャスト』っていう情報番組があんですけど、あれのエンディングに使われたりして。プロモーションもそれなりにやったはやったんですけど。その後で、この会社がなくなっちゃって。まだ廃盤じゃないと思うんですけど。

T :『天才トノサマBAND』は、いつ頃からですか?

S :えっとね、始まったのいつなんでしょうね。もうちょっと前からあったと思うんですよ。『UB』が始まった頃だと思いますね、このバンド始めたのは。

T :90年中ばぐらいですか?

S :そうですね。最初はね、ベースの(今福)知己っていうのがちょっと『ミスタースリムカンパニー』に出入りしてたんですよ。それで面白いヤツがいるなと思ってたら、そいつが持田ヒロツグっていうのを連れてきて「コイツのバンドをやるからギター弾いてくれないか?」って言ってきたんですよ。それで、ドラムの平嶋秀亘と知己と俺と持田の4人で、持田くんの曲をやってたんですけど。それでまあ2年ぐらいやったのかな?ちょうど『UB』が始まった頃からだったんですけど。まあ僕としてはギター弾きたくてしょうがなかったっていうのがあって。結構『天トノ』始めた頃っていうのは、一応ギタリストとして入ってたんですよ。自分としてもギター弾くのは好きなんで。たまには自分のアルバムでも弾いてるんですけど、どっちかっていうとやっぱりボーカリストっていう部分を全面に打ち出していきましょうっていう話で。あまりギター弾かずに、ギターを持たないでライブやる事もあったんですけどね。でも「そんな事してもしょうがないか」っていう感じがしてきたんで。「ギター弾きたい」と思ってたところにそういう話が来たんで、セッション的に加わってやってたんだけど。持田くんがですね、抜けちゃったんですね、肝心の人が。「残った3人で、じゃあ俺の曲やろうか」っていう事になって。始めたんですけど。まあ、その当時スタジオとかで知り合った岸村くんとか、あとは里村さんは、ちょっと昔から知り合ってたんですけど、杉さんの『ピカデリーサーカス』のライブ観に行ったら里村さんが来て酔っぱらってて。「里村さん、元気だったの?」とかって言ったら「元気だけど、俺にパーカッションやらせろよ!」とかって言うから「えー!?じゃあ来る?」とかって。「いいよ、酒飲ませてくれんだったらノーギャラで行くよ!」っていうから「それじゃ、おいでよ」って言って。来てもらってから一緒にずーっとやってんですけどね。だから『天才トノサマBAND』の曲っていうのは全部自分の曲なんですけど、自分のソロアルバムにはちょっと入らない曲みたいな。「ちょっとロックっぽすぎちゃう」とか「過激すぎちゃう」とかっていうものはソロアルバムの中入らなかったりするんですよ。なんで入らないのか。多分、求められてるものの中に入ってないような気がするんで、入れないんだと思うんですけど。でも確かにそれも自分だし、歌わないでいるともったいないしと思ってたんで「じゃあ、このバンドでやろう」と思ったんですね。ちょうど皆のテイストとやっぱり合うし、『天才トノサマBAND』って違う名前でやることでなんか大丈夫っていう感じがしたんで。

T :バンド名が決まったのは?

S :これはね、持田くんとやってる頃に、持田くんが僕との話の中で思いついたバンド名なんですね。多分、俺が酔っぱらって「俺は天才なんだ!」とか言ったんじゃないかなと思うんですけど。でね、最初ね『天才トノサマダイナミック満開BAND』っていうバンドだったんですよ。

T :もっと長かった。

S :うん。4人で『天才トノサマダイナミック満開BAND』ってやってたんだけど。まあ、ちょっと長過ぎるし、『天才トノサマBAND』の方がわかりやすくていいかな?と思って。

T :アルバムも、出ましたね。

S :ええ。曲がね、いっぱいになったんで。この『唖形』っていうやつはCD-Rなんですけど。結局やっぱり自分達で出すしかないのかな?っていう事に気がついてきて。やっぱりソロアルバムにしても自分で売らないと売れないしっていう、何か世の中そんな感じだと思うんですよ。今までは、やっぱりレコード会社の人がいて「売ってくるから、こういう曲作ってね」みたいな感じがあったけど、やっぱり自分のやりたいのとズレがあるし、そうじゃない、自分のホントにやりたい部分にはやっぱり「自分で売らなきゃだめなんだな」っていうのが、最近になってようやくわかったりとか。

T :時代は、わりとインディーズとか、かなり個人レーベルに近付いてるんですよね

S :そうですね。その持田くんの歌なんかを聞いてると、やっぱり結構感動しちゃうんですけど。当たり前だけど自分でやりたい事をやってるっていうか。そういうのに触れて「あ、これでいいんだ!」っていうような感じが凄くしたんですね。自分が素直に出てきてるものをやっぱりちゃんと形にしておかないとねっていう気がしたんですよね。

T :今、活動の中心は『天才トノサマBAND』になるんですか?

S :いえ、自分のソロ活動もやってます。今レコーディング中なんですけど。ソロアルバムを12月に出そうと思って。

T :もうすぐですね。

S :うん、もうすぐ、だから終わんなきゃいけないんですけどね、今月中ぐらいに。今はTDのちょっと手前ぐらいです。曲はもう全部出来てるんですけど、詩が一部揃ってないのかな?

T :タイトルとかは?

S :タイトルはね、仮で『ホーリーワールド』っていう事にしてるんですよ。12月に出るんで、まあちょっとクリスマスに絡めつつ。クリスマスソングが、1曲入ってるんですよ。

T :それに合わせてライブは?

S :はい、やると思います。また『SUZU-RI』(*里村美和氏とのユニット)なんかもあると思うんで、多分ね。『天才トノサマBAND』の方も今年の3月に出たので、やっぱりそっちの活動も休まずにやって。CD売って皆に分配するぞっていう。ライブだけだと、やっぱりとんとんになってしまって皆にギャラが十分にいきわたらなかったりとかしちゃうんで。やっぱりをCD売って皆に演奏代とかを還元出来ればいいな?と思ってんですけど、そう簡単にはいかないですよね。

T :『天才トノサマBAND』の映像は?

S :プロモーションビデオを撮ったんですけど。僕の昔からの知り合いでベーシストがいて、彼が映像関係の仕事もなぜかしてるんですね。なんで、彼にちょっと頼んで撮ってもらったんですけど。今プロモーションビデオ『太陽の匂い』のやつなんだけど、webで観れるようになってんですよ。それと、この『天才ファンキー』っていう曲なんですけど、これのビデオも最近作ってみたんですけど。この岸村くんっていうのと一緒にプロデュースチームを組んでるんですね、僕。最近『Keito Biow』っていうのと『三角堂』っていうのやったんですけど。その『三角堂』の事務所の人がね、なんか『天才トノサマBAND』気に入ってくれて「プロモーションビデオ作ってあげましょう」っていう事で。その事務所、映画も作ってんですよね。Vシネマ系のものだけど。役者さんとか監督とかもいるんですよ。『三角堂』は音楽部門だけなんだけど。それで彼らの映像とかも事務所の中で作ってるみたいですね。それで作ってもらったんですよ。それも近々アップしたいなと思ってるんですけど。ただこの『天才ファンキーブラザーメーン』って入ってる『唖形』が今、絶版っていうか、絶版じゃないけど在庫がないので「これは宣伝出来ないね」っていうのがあって。CD-Rなんで、ちゃんとした形でプレスしようと思ってるんですよ。それからかな?

T :じゃあ、また秋以降に再発を?

S :そうですね。もし、上手くいけばソロアルバムに合わせてやりたいと思ってんですけど。

T :それ面白いですね。

S :うん。それについては、ちょっとボーナストラックを1曲ぐらい足してやろうかな?と。

T :じゃあ、持ってる人もまた。

S :そう、買ってくれるといいですね。

T :そうですよね。

S :明日のライブで、ちょっと音を録って、それを使う予定にしてるんですけど。ライブ何回かやって、何回かそうやって録って、良いテイクがあったら使うっていう予定なんですけどね。

T :じゃあ、その辺の新しい情報も逐一ホームページでアップされる。

S :そうですね。

T :また、色々と楽しみにしています。本日は、どうもありがとうございました。

S :こちらこそ。


鈴木雄大さんのの詳しいインフォメーションは、HPをチェックしてみて下さい。
鈴木雄大オフィシャルホームページ→http://www.yudaisuzuki.com/


【Discography】

『SOLO』



19600000の悲しい夜と眩しい夢
1982.11.21/TOSHIBA EMI



FRIDAY NIGHT
1983.2.21/ TOSHIBA EMI



レイニー・サマー
1983.5.21/ TOSHIBA EMI



TOUCH
1983.10.21/ TOSHIBA EMI



愛がない
1984.1.21/TOSHIBA EMI



パラダイス
1984.11.1/FUN HOUSE



東京者
1990.2.25/FUN HOUSE



太陽の匂い
2000.8.23/PROVE RECORDS



Jellyfishとラブソング
2000.1.21/PROVE RECORDSI


『OTHER』


UB
UB
1995.6.21/BMGVicter


A.M.S&I
奇跡はここにあるのさ
1999.11.1/POLYSTAR



天才トノサマBAND
異形/偉業
2003.3.10/Indies House


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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