浜田毅 / Takeshi Hamada


大蔵映画に始まり、三船プロ、国際放映、セントラルアーツで撮影助手として現場を踏み、『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣』でキャメラマンに。その後、近作の『壬生義士伝』まで近年の日本映画を代表する数々の作品にてその手腕を発揮。現在も『陰陽師』『にわとりはハダシだ』等の作品が公開準備中の撮影監督、浜田毅氏。浜田毅氏の過去から現在まで、作品を辿ったロングインタビューです。


 2003年7月1日/世田谷momentにて
 インタビュアー:TERA@moment



TERA(以下T):それでは、浜田さんの出身から教えて下さい。

浜田(以下H):昭和26年12月6日生まれでね。生まれは北海道の岩見沢って所で、親父が団体職員で転々としたから、岩見沢・北見・留萌、中学校は留萌ってとこで。それで札幌で中学・高校を過ごして、1年間浪人して東京に出てきたってとこかな。

T:小さい頃の映画の思い出はありますか?

H:映画が好きだったんだよ。っていうのは、俺ん家はテレビがなかったの。高校入ってもテレビがなかったの。だから俺が家を出るまでテレビっていうのが家にはなかった訳。親が買わなかったんだよね。それも小学校の1.2年の頃は珍しかったんだけども一気に普及し始めて。でも買わなかったの。もう最後にはテレビがない家は俺んとこだけなんだ。テレビっていうのは、ほとんど観たことがなかったの。例えば、よその家行った時に、何かを観るっていうぐらいで。だから必然的に何かものを観るっていうのは映画しかなかったの。後は本読むか映画しかなかったの。親が意識的にそうしたんだと思うんだけど。だから映画はよく観たね。

T:一番最初に観た映画って覚えてます?

H:一番最初に何を観たかっていうのは覚えてないけども。最初だったかどうかわからないけども、例えば親と一緒に札幌に出て「映画観よう」って。親は確か『ベンハー』だったか『十戒』だったかを観ようとしたの。ちょうど、そん時にやってたのが『嵐を呼ぶ男』だったと思う。で、俺達『嵐を呼ぶ男』を観たいと言って観た記憶がある。それと小学校の頃、留萌だったら、やっぱり『ノンちゃん雲にのる』とか『にあんちゃん』とかね。何かそんなの全部観てたような気がすんだよな。

T:それは親に連れられて?

H:親に連れられて行ったのもあるし、俺の2才上の兄貴がいたから、兄貴が中学だとすれば俺が小学校5年ぐらいで、兄貴が観に行く映画を俺が一緒に観に行ったとかね。『世界残酷物語』とか、そんなようなやつも観に行ったような気がする。それこそ小学生にしては背伸びしたような映画も観たような気がする。それはやっぱり兄貴の影響っていうのも大きいかもわからないけどな。

T:当時、映画を観る時は何を基準に?

H:俳優しか意識してなかったんじゃないかな。監督もスタッフも、スタッフなんかもちろん意識する訳ないよね。俳優だけだったような気がするけどね。

T:当時、好きな俳優は?

H:好きな俳優ね、子供の頃は誰だったんだろうな?中学ぐらいになってくると、例えばアンナ・カリーナがいいとかジョアンナ・シムカスがいいとか『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグがいいとかっていう風になるんだよね。だけど子供の頃は浜美枝が好きと思ってファンレターを書いた事もあんだけど。よくよく考えてみると『浜美枝』の家だと思って書いてたんだけど、きっとあれは東宝撮影所だったんじゃないかな?という。今、俺は砧に住んでて思うけどね。『砧』という住所だったような気がするんだよね。

T:そこまで覚えているんですか?

H:それは『砧』と読めないで書いてたような気がするんだよね。

T:もう高校あたりは一人で観たりとか?

H:やっぱり中学の後半から高校にかけてが一番観たかな。中学の時は柔道部だったんだよね。それで柔道は強かったの。中学の大会で無差別とか中体連とかで、それは体重制だったんだけども優勝したりしてたから。柔道であちこちから「来ないか?」っていう誘いがあって。でも俺は「柔道は中学で卒業した」と。「高校入ったら俺は映画観るんだ」って言って。俺が入ったのは普通の公立の高校なんだけど、そこでも柔道部に誘われたんだけども柔道部嫌いでね。あの体育会のノリが嫌いなんだよ。だからやっぱり柔道部はやらないで、それで映画だけ観てたような気がするけど、高校はね。

T:その頃は、将来何になろうとかって考えてたんですか?

H:あの頃ね、ちょうど世間が騒然としてたし、何になるって言っても。要するに田舎を出たかったんだよね。凄く田舎を出たくて。でも勉強してる訳じゃないから、やっぱり1回浪人して。とにかく受かった所に入ろうと思って。それで親に「仕送りは、もうほとんどいらないから」って言って出てきたのが、明治に引っかかって出てきた訳。だけど結局、家を出てきたかったっていうか、北海道を出たかったんで、その時何をやりたいかっていうのはあんまりなかったんだよね。ただ、大学もほとんど行かなくて。あと法政に映研があって法政の映研の連中と遊んでた。それは田舎の同じヤツラでね。東京に出てきてすぐ働かなきゃいけないんで、アルバイトしたりしてた。

T:どういうアルバイトですか?

H:赤坂のとんかつ屋で出前してた。それと同時に法政の映研の連中と遊んだりしてるから必然的に学校に行く時間もないよね。ちょうどその頃アンダーグラウンドの演劇が盛んというかな?その連中と法政の連中の一部と俺とが北海道で芝居をやるっていう風になって。僕らは制作みたいな事をやる訳ね。段取りしたり、公演の場所を作ったり。先乗りしてキップ売ったりとか。北海道は俺の地元だから、札幌を皮切りみたいにして11月から12月ぐらいにかけて一ヶ月芝居をやったんですよ。今でも役者でいるけど『丹古母鬼馬二』ってのと、もう一人先輩と、あと二人若いのと役者が4人で、スタッフは5.6人いたんだよね。合宿しながら。向うで皆メシを食う事は食えて帰りの旅費が出て帰っては来れたんだけども、アルバイトはクビになってた訳ですよ。一ヶ月休むから。アルバイトをクビになっちゃったって言って飲みに行ったとこが、ピンク映画の女優さんの店だったんですよ。そこは何回か行ってたんだけど『乱孝寿』さんっていうピンクの女優さんの店で、渋谷にあったんだけど。そこに行って朝から飲んでたら「大蔵映画で撮影助手探してるよ」って言われたんですよ。撮影ってのはやった事ないから、やった事ある訳ないよね。大体、生意気だったんだと思うんだけど「助監督ないか」って言ったんです。助監督は一杯だって言われて「それじゃ撮影の事なんか何にもわかんないけどいいのかな」って言ったら「中途半端に知ってるヤツが来るより知らないヤツの方がいい」と言われたの。そういう風に言って呼んだ人が小野進さんといって、僕の今でも先輩なんだけど、唯一ずっとやってる人なんだけど。その人のとこに行って、大蔵映画で20才の時に撮影助手を始めたのが、この世界に入るきっかけかな。

T:そこで生活は出来たんですか?

H:大蔵映画では、貧しかったけどね。それまで1年間はアルバイトして食ってた訳で。大蔵に行った時は月4万円くれたのかな。ほとんど金があるという風にはならないけども、どうやって暮らしたのかな?女と暮らしてたから食わしてもらってたっていう部分もあるかもわからんけどね。それでピンク映画をやって1年したら大蔵映画が撮影をしなくなるというか「解散する」っていうんで『人類の性典』っていう大きなピンク映画を作ったんですよ。それで初めてクレーンなんていうの乗ったしね。何かそれなりに大きかったんだけど、別にギャラとかは大きくないけどね。撮り終わって大蔵映画が解散してスタッフがばれたんですよ。皆テレビにいったりして。ちょうど国際放映に空きがあるっていうんで国際放映に行って。それが初めての16ミリで。最初どうしていいかわからないぐらい、全く初めて見る機材だからね。それ誰も教えてくんなかったんだけど。一人いいヤツがいて教えてくれてね。教えてもらったら何とかなったんだけど。今だにそういう学習として学校で映画を学んだとかっていう事は全くないんだよね。全部経験っていうかな、ほとんど全部現場。

T:国際放映で始めて手掛けたっていうか、参加した作品は?

H:それは『ケーキ屋ケンちゃん』っていうケンちゃんシリーズがあったでしょ。そん時に杉村六郎っていうのが助監督にいて。その時のカメラマンとか他の人の事は忘れちゃいましたけどね。北泉さんだったかな?でももう辞めてるかな。大蔵の時の人も皆辞めちゃって、残ってるのは僕の先輩の小野さんだけかな。

T:『ケーキ屋ケンちゃん』やってる頃は、テレビが全盛で忙しい時期ですよね。

H:『ケーキ屋ケンちゃん』行って、今度は『子連れ狼』に行ったんですよ。『子連れ狼』で色んな人に知り合ったんだけど。そしたら小野さんが三船プロに入って。「三船プロでこういう番組をやるから」といって、僕は『子連れ狼』を降りて三船プロに行ったのかな。三船プロに行ってやったのが『旅人異三郎』っていうやつと、それから『大江戸捜査網』っていうやつね。それが22の時ですね。

T:三船プロには社員でですか?

H:じゃなくて、全くのフリーで雇われて。1年契約とか半年契約とか。29才まで三船プロにいたんですよ。

T:結構長いんですね。

H:8年間ぐらいいたな。三船プロでやった映画っていうのは『犬笛』の1本で、後は全部テレビ。運がよかったんだけど、22才で三船に行って『大江戸捜査網』やってた時に、チーフが伊藤さんていう方で。僕が24の時に伊藤さんが自主映画をやるっていうんで三船を抜けたんですよ。そしたら一番早く僕はチーフになったのね。24才で。

T:早いですね。

H:だからほとんど嘘ついてたから年とかね。僕が三船に入った頃が22才ぐらいで皆24、5才だったから。22才って言うと確実になめられるんだよね。生意気で、なめられたくないから年は言わなかったんですよ。だから皆同じ年ぐらいだと思ってたんだね。俺がチーフになった時、皆26、7才ぐらいだと思ってたんだよね。だから24才でもすんなりチーフになったんだ。別にチーフになるつもりもなかったし、そんなに早くチーフになるとは思ってもいないから。だからチーフになってから勉強したっていうのはあるよね。

T:すでにその頃は、もうカメラマンになるっていうのは決めていた?

H:以外と環境に流されやすいタイプだから居心地が良かったんだよね、撮影っていう。「映画をやれる」っていうかテレビだったけども、面白かったことは面白かった。現場が肌に合うっていうか。それで撮影っていうのも面白かった。面白くなってきたのかな。それでチーフになったらもっと面白くなったっていうとこがあるね。逆に言えば、やっていく中で面白くなってきたっていうのが。そんなに深い志しを抱いて映画に入っていった訳でもなく、ただ入っていったらうまく肌に合ったっていうか。そんな感じかな。

T:三船プロにいる間は、カメラマンには、まだ?

H:なんなかったですよ。三船プロにいて、ずっと『大江戸捜査網』とかやってたんだけど、やっぱ三船プロ何本か映画を作ってて。ただやっぱり、今ならよくわかるんだけども、よそから来るカメラマンは絶対僕らを使わなかったのね。それでよそから助手が来る訳ですよ。「うわぁ、いいな」と思う訳ですよ。映画やりたいなと思っても三船のカメラマンがならないかぎり僕らは助手でつけなかったんだけど。それが『犬笛』で斉藤孝男 さんが回されて、僕が助手でついて。それで藤沢順くんっていうのも一緒についてっていう。三船では初めて映画をやって。やっぱり面白いじゃないですか。テレビより面白かったし「やりたいな」とは思うんだけどなかなかね。三船をボンボンボンボン出てった連中がどんどんどんどん映画についてた訳、その頃。それで「いいな」と思って外にいったら映画できんのかな?と思ったりもしてたんだけど。なかなか外行くきっかけとタイミングが見つかんなくて。ちょうど29才の時に森崎東さんが国際放映で『蒼き狼』っていうテレビのスペシャル、6時間ものを撮る。そのカメラマンが三船にいた村野さんがやるっていうんで僕と藤沢が三船から出向みたいな形で国際放映に行ったんですよ。それが森崎さんとの出会い。それで3月ぐらいから準備して。結局中国は一ヶ月だったんだけど、日本に帰ってきてセットやったり大島でロケーションしたりして、やっぱり9月10月ぐらいまでかかって。そしたらやっぱり面白かったんだな。今までテレビの連続ものずーっとやってて、今思うと凄い勉強になってんだけど、同じ事を数繰り替えしたから力にはなってるけど、その時は嫌になってきたんだよね、同じことやってんのがね。いいタイミングで森崎さんと出会って「映画監督っていうのは、こういう風な演出をするのか」って思ったのね。その森崎東の演出っていうのが凄く俺にとって新鮮で面白くてワクワクした訳。それでA班たったりB班たったり、中国では僕はCカメをやってたんだけど。藤沢と俺と助手2人しかいなくてね。大島に行った時は、今度僕がBカメを回してて。それで森崎さんはその画が気に入ってくれたんだと思うんだけど「馬の行進」っていうかな?その画をフカンで撮って、なかなか撮影条件もよくて。雲がブァーッて風が強い時で、地面に雲の影がワァーッと流れていく中を、50頭しかいないから50頭全部ひいちゃうと50頭しか見えないから、20頭ぐらいをインアウトさせていくような画を撮ったら、それはそれで喜んでくれたんですよ。その『蒼き狼』っていうのが俺は俺で面白くて終わって。しばらくしたら森崎さんが「テレビの2時間ものやるから、カメラマンでやらないか?」っていう話が来たんだ。それが最初かな。

T:その2時間もの撮ったのは年代としては?

H:29才の時ですからね、80年じゃないっすかね。『木曜ゴールデンドラマ』っていうのがあって『妻は何を失ったか?』っていう新藤兼人さんの本で森崎さんで。強姦されたかされないかっていうような冤罪みたいな話でね。面白い話だったんだけど。それがカメラマンデビュー。その時『蒼き狼』終わった後、三船プロを出てセントラルアーツにいってたんですよ。それでセントラルアーツで撮影してて。それで黒澤(満)さんにそういう話があるっといって途中で降りたんですよセントラルアーツを。そしたら「どうせお前すぐ仕事あるわけないから、終わったら戻ってこい」って黒澤さんに言われたんですよ。それはやっぱり俺は良い人と出会えたなっていうか、すごく助かったっていうかね。やっぱり黒澤(満)さんの言うとおり、そんなに仕事ってあるもんじゃないし森崎さんの2時間ものをやって戻ったら、1時間ものの連続でカメラマンで黒澤さんが使ってくれたの。だからそんなに間が空かなくポンポンと出来たのね。

T:そのセントラルアーツの黒澤(満)さんとの出会いみたいなのは?

H:黒澤さんとの出会いというかね、それは『探偵同盟』っていうセントラルが『探偵物語』とかをやった何年か後に、宮内純と今は拓郎の女房の森下愛子とか、竹田かをりとかナンシーとか、そういうやつらで学園探偵ものをやったんですよ。そのシリーズの助手・スタッフを探してたんで。そこに僕と柳島克己が行った訳、2人で。それで日活で『探偵同盟』をやってた訳。隣のスタッフルームには『プロハンター』っていうシリーズがセントラルでやってて。あの頃セントラルアーツっていうのは全盛で、こっちは『探偵同盟』で、あっちは『プロハンター』。一応『プロハンター』の方がセントラルのA班っていうかな。こっちはB班。常にB班なんだけどね俺は。隣にいたのが崔洋一とか成田とかがいたな。「随分態度のデケー助監督だな?」と思いつつ、のちのち聞くと、彼らも「随分態度のデカイ撮影部だな」という風に言ってたという話もあんだけど。それでセントラルにいて、その時に森崎さんから話が来たんで抜けて1本やって。1本やった時に「何てカメラマンはいいんだろう」と思ったのは、やっぱり助手っていうのは助手で、カメラマンっていうのは映画にまるごとかかわれるというかな。ロケハンから準備から「こんな楽しいことはない」っていう風に思ったんだよな。だから結構わくわくしながら仕事してた。大変だとかしんどいとかっていうのは全然思ったことないんだよね。それでセントラル戻ったら『探偵同盟』が視聴率悪くて打ち切りになって『愛のホットライン』っていう今度また別なシリーズが始まってた訳。そこに入ったら、みんな贅沢だったんだな。みんな日活のカメラマンがやりたくないって言い出して、カメラマンがホントにいなくなっちゃったんですよ。だから俺しかいなかった。俺は残った時に残り5本あってね、その5本を全部やった訳。「全部やれ」って言われて黒澤さんに。それは「もう喜んで」ってなもんでしょ。いくら忙しくても全然嬉しくて。仕事があったと思ってね。そうやってたら、2時間ものでまた森崎さんがやるとか、セントラルも2時間ものが入ると呼んでくれたりっていうんで、2時間ものは何本かやってて。その頃かな?優作の2時間ドラマで『死の断崖』っていうのを助手でついたんですよ仙元さんに。また本編やるっていうんで京都に行く。それは『里見八犬伝』かな。打ち合わせまでしてたとこに、森崎さんから「『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』をやるけども」って言われて、それで仙元さんに「いや、もう、やっぱりこういう話がきたんで、映画をやりたいから」っと言って、そっちを降りた訳。それからは助手はやってないな。

T:実質、映画の1本目が『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』という?

H:それだったの。それ終わって戻ってきたら、今度黒澤さんが、角川のシリーズがちょっとローバジェッドシリーズを作り始めた最初で井筒(和幸)と俺で『晴れ、ときどき殺人』。で崔さんと俺で『いつか誰かが殺される』という風にやってったんだよね。

T:井筒さんとは『晴れ、ときどき殺人』が初めてですか?

H:井筒はそれが初めてだ。

T:この映画に関して何かエピソードとかありますか?

H:あの頃はね、そんなに冷静にいろんなものが見えるっていうよりもがむしゃらにやってたからね。ただ井筒は粘るし「粘るやつだな」という印象はあったけどね。それがどういう風な結果になってっていうのを冷静に判断するほど俺も余裕はなかったかもわかんないな。いろんな思い出みたいな事はあるんだけどね。

T:崔さんとは知り合ってはいたんですか?

H:ほとんど知り合ってなかったですよね、だから。すれちがってるだけですね。存在は知ってて『いつか誰かが殺される』というのを持ってきて、初めてお互いを認識したっていうのもあるかもわかんないですね。それはそれで面白かったんですよね『いつか誰かが殺される』っていうのはね。崔と本格的に『友よ、静かに瞑れ』で何となく「まともに組めたかな」っていう気はして。あれは色々あって一回は「解散だ!」っていう風にまでなって。

T:それはどういう。

H:えっと撮影的な事故があったんですよね。キズが出たり。それでリテイクしたり黒澤さんに怒られたり「800万かかったんだ!」とか言われたり。もう一回沖縄に行き直したからね。そんなこんながあったり。あと結構暗ーい画面でね「お前こんなに暗くするために何でこんなにライト使ったんだ!」とか言われながらね。「いやいや、暗くするのも金かかるんですよ」って言ってね。ただやっぱりあの時に思ったのが、映画を撮る場合の、例えばスタッフと監督との関わり方みたいなものが、崔洋一っていうのは基本的に男気のあるやつっていうか、そのどっかイキに感じたっていうか、やっぱり「責任は全部俺が背負うんだ」っていう、そういうものはある人だと思うんだよね。すると、スタッフと監督というのの関係っていうのが、単なる上下関係ではないと思うんですよ。どっか横並びの中の共犯関係みたいな。ひとつの事をなす為の。それがやっぱり『友よ、静かに瞑れ』で、崔さんとは俺の中では確認できたかなっていうね。すごい暗ーい画面で、暗くて濁った画面で、俺だってドキドキドキドキしながらラッシュ観て「いいのかな?どういう風にクレームが来るかな?」と思った瞬間に崔が立ち上がって「良い調子だ、ハマヤンこの調子がいいよ!」って最初に言った訳よ。そうすると他の人何も言えないんだよね。ケンカの仕方を知ってるっていうか、先に攻めたもん勝ちっていう。暗ーいんだけど、先に「いいよ!」って言ったら「ダメだ!」って誰も言えなくなるんだ。あのケンカの仕方の上手さはね俺が学んでもしょうがないんだけど、みた気はしたね。同じような事を俺が言える訳じゃないから、自分がやってる事だからね。やっぱりラッシュ観て電気が付いた瞬間に出る言葉としては、こっちはホッとするし頼もしい援軍っていうかね。「よーし、OKだったら行くだけ行ってしまえ」なんていう風に思う。そん時はまだ若いし、今でも失うものなんかないんだけど。もっとなかったから、行くだけ行ってしまえっていう風になったかわかんないけど。今だったら「行くだけ行ってしまえ、でもちょっと待てよ」という風にもしかしたら考えるかもわかんないけどね。

T:続けて崔さんと『黒いドレスの女』を。

H:そうね。それはやっぱり1年以上いろんなことがあって、俺はホサれてたという認識で。1年、空いてるでしょ?でも「そんな事はない」とは黒澤さんは言ってたな(笑)。1年間映画がないっていうのは、それまではなかった訳だから。『黒いドレスの女』をやって、照明技師は変わったんだけどね。それでまた崔さんと組んで。今度は暗くなく撮ったんですよ。微妙に崔さんと俺との中の意思一致っていうのが「同じことはできねーな」というね。『友よ、静かに瞑れ』は行くだけ行ってしまった映画だから、あれはあれでいいやっていう。「次やる時は同じ事はできねーな」という認識は、どっかであったと思うの。具体的にそれを語りあったという記憶はないんだけど。

T:美術の今村(力)さんとは、これが初めて?

H:力さんと初めてかな。CMでやってたかな。映画では初めてですね。いや面白かったですよ。やっぱりこっちの予測を超えてくるから面白いですよね。俺は撮る人、極端に言うと、力さんは撮られる物を提供する人でしょ?ワクワクするよね、あーいう風な仕掛けてくるとね。コノヤロー!と思う時もあんだけど、どうすりゃいいんだよっていうぐらい。でもなかなか刺激的だったな。こっちもそれに答えれるだけのものがあったかどうかわからないけども。あと、今だったらまた違うとは思うけども。また今の力さんとも当然違うとは思うけどね。でもやっぱりその時にしか出会えないっていうか。作品っていうのは、その時にしか出会えないからね。あの時の力さんは、やっぱ刺激的だったですよ。やっぱり刺激的なデザイナー、僕は『友よ、静かに瞑れ』の時の小川(富美夫)っていうのも刺激的だったけどね。

T:那須監督の『新宿純愛物語』。これは?

H:これはね。結局全部黒澤さんのチョイスだと思うんだよね。那須さんっていうのは、それまで『ビーバップハイスクール』で、森勝さんとかいろんな日活の方と組んでたんだよね。そこでその人達以外と組まそうと思って、黒澤さんがプロデュースした訳で、黒澤さんがプロデュースした訳で。作品的には今までの那須さんの世界とは、ちょっと違ったとは思うんだけど。今だに俺の中で一番ハードだったかもわからないね。全体の現場もハードだったって事もあるし、監督の方向性が見えなかったかな?っていう気も。結構それなりに大変な作品ではあったんだけどね。

T:続けて『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』ですが。

H:榎戸はね、いいヤツですよ。それもセントラルなんだけど、伊地智さんっていう、キティのメインのプロデューサーだったかな。やっぱり監督が熱く思い入れてた話だったから。後は俺がそこにうまく乗れるかどうかって。でも俺なりにはすごく楽しめたし。そこで照明の熊谷さんとも初めて組んで面白い経験したし。それまでは結構がむしゃらではあったけど、なんとなく状況が見えつつあったかなっていう気はして。まだまだ若いですけどね。でも思い出に残る作品だな楽しかったし。一晩の話だから毎晩夜遅くてね、しんどかったけど。榎戸が徹夜で役者に芝居つけて終わって夜が明けて、撮影が終わって榎戸の一回上がったテンションが下がらずに、体が震えてるんだよね。体が震えてる榎戸と2人で明け方やってるバーに入って一杯飲んで、それで別れた記憶があって。それは結構思い出すんだけど。監督の震えが止まんなくてね。何回もNG出して、うまくいかないから自分のテンションがどんどんどんどん上がっていって、最後OK出した時に震えててね。「いやー演出家って大変だな」と。「ま、一杯飲もうか」っていう風にして飲んだ記憶があるな。

T:次がまた崔監督で角川の『花のあすか組!』。

H:角川の『花のあすか組!』は『帝都物語』のオープンを大改造して使ったんですよ。予算の関係でGOするまでが結構大変で。それまではセントラルだったんだけど、それは東映に入ったんですよ確かね。そしたら、やっぱり結構なオープンセット作ったから、そこで2週間連続徹夜とかね。

T:美術は今村さんですよね。

H:今村さん。それで東映にもオープンたてたりして。それがね「うわぁー、撮影所っていうのは力あるなー」と思った第1回かな。撮影所をフルに使ってやった最初ではあるんだよね。今までセットはあったりしたけど。東映がGOになった瞬間の撮影所が持ってる底力っていうかね。それは凄いなと思った。バッとプレハブは建って電話は引かれるは、寝泊まりする所は出来るは。あの仕切りの凄さは、撮影所ってムダな固まりみたいなもんだけど、なかなか凄いと思ったのが『花のあすか組!』かな。面白かった。

T:また続けて崔監督で『Aサインデイズ』ですが。


H:『Aサインデイズ』は最初俺がその頃アメリカロケって話があってラスベガスまでロケハンに行ったりしてたんですよ。確かそれが引っ掛かってたのかな「最初出来ない」って言ったんですよ。そしてそれがパッと中止になったんですよ。で崔さんに「中止になった」って電話したら、すぐその話が僕はやれるようになって。俺、衣装合わせって嫌いなんですよ。でも過去で一番面白い衣装合わせが『Aサインデイズ』かな。1970年代でしょ?微妙に俺達の時代じゃないですか。やっぱり衣装合わせやっててね面白いんだな衣装が出てくんのがね。沖縄ロケで『友よ、静かに瞑れ』に続いて崔さん沖縄ロケ第2弾だと思うんだけど、結構それなりに沖縄知ってたし。それで話自体も好きな話っていうか、好きな本だったな。あれも今村力でしょ?セットが大映に出来てて、なかなか素敵なライブハウスで。あれはね、今だに大好きな映画だな。何か、ちょうど優作が『ブラックレイン』やってて、その勢いでセットに遊びに来たことがあんの。俺が椅子に座りながらリハーサル観てたら「こらっ、手抜いてんじゃねーぞ」って後ろから言うから「誰かな」と思ったら優作で。やっぱりなんかこうそのまま撮影休みの時に、崔さんと俺と優作と石橋で飯食ったんだけど結構『ブラックレイン』の余韻がグアッとあって、何かね凄い熱く語ってたんだよな。それからだからね、すぐ逝っちゃったのはね。

T:それが終わって、次は『バカヤロー!2』ですね。

H:岩松了と鈴木元と知り合ったというのでは面白かった。ああいう話をやろうとする企画はそれなりに面白いし。それほど作品としてはあまり心に残ってないんだけどね俺の中ではね。

T:次は一倉監督で『悲しきヒットマン』。

H:それはね、京都行きたかったんですよ。その頃になってくると、何となく少しは回りを見る余裕が出てきたとは思ってたんだけど。京都っていうのは色んな話を聞く訳ね。大変だとかね。「よーし、そんじゃあ行ってやろうじゃないか」と思ったの。話が来た時「面白い」と思って。それで行ったのは一倉さんと俺だけで、撮影部は助手が行ったけど全員。それで京都行って、メインスタッフが集まるんですよ、撮影所のお偉いさんから、一応挨拶させられる訳
ね。一応「一度来たかった京都に来れてうれしい」みたいな事を話す訳じゃないですか。結構大変だったんだけど、俺の中ではその、向こうの人とぶつかる事は何の恐くもなくて、結構ぶつかったんですよ。向こうの美術さんとぶつかったり。向こうの大道具さんが準備しなかったり。そん時には「お前らが準備しないなら俺がやる!」って言ったりね。そんな風にしてケンカも出来たし。そしたらその内に言う事聞くようになるっていうか、やっぱり一回かましてくるっていうかな。嫌な体質っていうかわかんないけど。今は大分なくなってきたと思うんだけど。結構肩で風切って歩いてたかな。撮影所にボロ車停めて休みの度に競艇行って。好き勝手飲んで。そういう意味では東京でずーっとやってて、東京の東映とか日活とかっていうのの撮影所の楽しさ・面白さ・嫌なとこってのもわかったけども、すんごい良い経験したな『悲しきヒットマン』では。あれやったら撮影所なんて恐くも何ともなくなるんだよね。真夏でずっと『菊化荘』っていう狭ーいとこにいてさ、そこに送られてきた台本が『病院へ行こう』っていう台本なのよ。

T:滝田監督の?

H:うん。それはね滝田洋二郎との初めての出会いでね。京都で台本を読んだ時、面白くてね。「うわぁ、こんな面白いのあんのか」と思ってね、すぐ連絡して、いついつ終わるからっていうので。それで、すぐ入ったんだよね。京都は京都で最後、照明部なんかとはいい関係築けたと思ったんだけど「このー、一生、時代劇やってろ!」って言うぐらいムッとしたりもした時もあったんだけど。

T:『病院へ行こう』は当時、どこか新しい感じでしたよね映画的に。

H:あの時は、ものすごい新しいと思った。やっぱり俺がやってたのは『悲しきヒットマン』っていう、もしかすると、ものすごく古いタイプの本だったんだよね。古いタイプの映画っていうよりは、古いタイプの本というかな。だからその人と人との会話がどうしても、その為の会話っていうかな。だけど『病院へ行こう』は会話が噛み合っていく中で、ポンとドラマが展開してくっていう。ワクワクして面白くて。それは『メリエス』の小林寿夫がプロデューサーだったんだけど、小林が森崎さんの『蒼き狼』の時に録音部のチーフだったんですよ。それからの関係っちゃ関係なんだけど。滝田さんが、いつもやってた人が体悪くしちゃって、それで小林が俺を推薦してくれて。ちょうどそん時に俺「キネ旬」かなんかにピンク映画から出たという僕の記事が載ったんですよね。それを滝田さんが読んで「一回組もうか」って事になったんだと思う。それはそれで結構ね面白い出会いで、やっぱり現場も面白かったんですよ。作品的にも好きだしね。それで、初めて照明で組んだのが高屋っていう。今、北野武組をやったりしてる。

T:続いて薬師寺監督『幕末純情伝』ですよね。


H:『幕末純情伝』。それはね、「とうとう来たか俺に時代劇が」と思ったんだよ。やっぱり三船でやってて時代劇が嫌で嫌で、「もー、あの嘘臭いっ」と思って。それで現代劇やりたくて出たっていうのがある訳。それが十年間ぐらいたってで逆に嬉しかったの。それで照明で組んだのが、当時三船の時に『黒いドレスの女』をやったりした長田と組んだんだけど。一緒に時代劇やってたからね。今俺達が時代劇出来るならという意味で、非常に今思うとヘタだと思うし稚拙だと思うんだけど、でもすんげーワクワク楽しんで。まあ角川だから、そこそこの予算はあったから。結構、楽しんで出来た時代劇だったな。

T:次が『いつかギラギラする日』。

H:ちょうどね、『幕末純情伝』やってる頃に『いつかギラギラする日』の話があって、38才の時に『幕末純情伝』、それで『いつかギラギラする日』。何が嬉しかったかというと、『幕末純情伝』の時は「やっと時代劇が来たか」と思ったし、そんで『いつかギラギラする日』は「あの深作欣ニがっ」と思って。やっぱり深作さんに指名されたと思うと嬉しかったですね。「一回監督に会ってくれ」っていうんで、成城の喫茶店で会った時に、いろいろ観てらして。やっぱり崔さんの映画を結構観てたんだよね、『Aサインデイズ』とか『友よ、静かに瞑れ』とか。だから『幕末純情伝』の仕上げがあったりして、前半のロケハンにはちょっと行けなかったりして。途中からロケハンして。5月ぐらいから10月ぐらいまで、ずーっと相当楽しく深作ワールドで遊ばせてもらったなという気がしましたけどね。

T:美術は今村さんですね。

H:力さんで。セットも大変で、ロケセットも大変で、やっぱり作さんがこだわり始めたら、もう全部ひっくり返っちゃうんじゃないかってぐらい皆ドキドキしてね。ドキドキすんのとワクワクすんのが、何かこうね。三日間撮って三日目に朝、俺とぐるっと歩きながら「どうも浜田くんあの、あそこのトーンが、あそこはスモーク焚いてたよな」「ええ、たいてました」「甘くならないかな?」「いや、あの、甘くする為というよりは、えー空気感を出したいと思ったんで、焚いたんですけども」って言ったんだけど「うわぁー、全部リテイクかな」と思った
りドキドキするんだけど、結局OKだった。「これは全てを複数カメラでいきたい」って言ったのよ俺がね。「アクションだけじゃないのか?」「いや、全部いきたい」と。普通、複数カメラで撮ってなかったと思うんですよアクションは撮ってるけど。あの人は、そういうのをクッと取り入れてくるのが上手くて。「とにかく複数カメラでいきたい」と言ったが故に、最初のクランクインのカットが、ショーケンが歩いてきて店に入るだけだったんだけど、そん時も並べたのよ、カメラをね。それで並べて引き・寄りで撮ったの。そしたらすぐだね、その使い方が上手いよね。常に2台あると思ったら、あの人にとってみれば、こんなにおいしい素材はいくらでも倍づつ撮れてくるっていう風に考えてくるんだと思うんだよね。「こう2台で撮って」「次こう2台で撮って」「次こう2台で撮って」もう凄いから。きっとそれを前は1台でやったりしてたんだと思うんだけど、常に2台で撮るから。挟んで撮る時もあるけど。だから面白かった。それはでも、
照明が渡邊孝一っていう、今一番組んでるヤツなんだけど、彼と一回世界を外から、大きく世界を作りたいっていうのかな、そういうロケセットが作れたから出来たんだと思う。まあ何となく十何年やってて俺達の中の方法論が少しづつ出来上がってきた、ちょうど一番良い時でもあったのかもわかんないけどね。だから面白くてね。

T:ではこの作品から、浜田さん的には方法論の構築というか、その試みを?

H:俺が本格的にフルに2台を使い始めたのが『病院へ行こう』の時だけど。『いつかギラギラする日』の時に『僕らはみんな生きている』のオファーが来て俺はね、『いつかギラギラする日』の初号を観ないでロケハンに行ったんですよ。それが結構大変っちゃ大変で。そこで僕は39才だったのね、その『いつかギラギラする日』から『僕らはみんな生きている』にかけて。延べ五ヶ月ぐらいタイでロケーションして、そんでロードムービーみたいなもんであちこち行って、撮りまくって行ったんだけど、30代のケツに『いつかギラギラする日』と『僕らはみんな生きている』をやれたというのが、なんか次の40代をのりきれるパワーになったかな?という。あの2本をやりきったら恐いもんがなくなったっていうかね。「何とでもこい」っていうか、うまく流れたっていうかな?今話ししてみて思うんだけど、京都行って『悲しきヒットマン』やって、『病院へ行こう』で滝田と出会って、『幕末純情伝』っていう角川の新しい時代劇をやって。その時に『いつかギラギラする日』の話が来て、『いつかギラギラする日』がみんな大変だったんだけど、俺も70キロ切ったぐらい痩せたんだけど楽しくてね。それで『僕らはみんな生きている』やったの。あの頃はね、第1次ピークですね。その2本やったら、ちょうど人間って周期みたいなものがあって。俺が20才で映画界入って29才でカメラマンになって、10年間やって39才になって『いつかギラギラする日』と『僕らはみんな生きている』に出会って。そしたら次の10年間が、乗り越える力というかエネルギーというか。それでやっぱり息切れるじゃないですか必ず。走り続けても息切れるけども、何かがないと落ちていくんだよね。落ちていく時にそれをもう一回上げていく、自分の心だけじゃなくてなんかそういう作品に出会えたのが、今までこれた原因っていうか要因っていうかそんな感じがするけどな。だから俺にとっては30代最後のその2本っていうのはね、やっぱり相当忘れられないっちゃ忘れられないかな。

T:『僕らはみんな生きている』に続いて、滝田監督『病院へいこう2』ですね。

H:そん時はもう、当たるもの全てなぎ倒す、結構もうイケイケだったからね。『病院へいこう2』『新宿鮫』ってきてるんだっけ?

T:はい、そうですね。

H:そうだよね。だから『病院へいこう2』は『病院へいこう2』で作品的にはもしかすると『病院へいこう』よりも完成度が高いのかもわからないんだけど。色んな事させてもらったし、何をやっても「あ、これ出来ない」とか「こんなことは出来ない」っていう思いは全くなかったな。その頃は。だから『新宿鮫』の時も、ただ『新宿鮫』をやるっていう時に、例えばスバル前集合して新宿ロケとかっていう、撮影所出発で新宿ロケっていうのは、それだけはやりたくなかったのよ。「新宿にスタッフルーム作ろう」って言ったの。新宿のド真ん中それも歌舞伎町のド真ん中にスタッフルーム作って、皆スタッフルーム集合で。そこから新宿のロケーションに出るようにしたのね。そうすると何となくね、ずーっとそこに何ヶ月かいるから自然と新宿に馴染めるというかね。それが良かったような気がするけどな。

T:スタッフが新宿の住人みたいな感じで、その感覚を維持しながら撮影したと。


H:そうしないと何か凄くね。ビビるしね。一人ビビるんじゃなくて、例えば俺がビビると皆ビビるからね。だから、スッと撮影に入っていくっていうか、新宿の中で空気のように撮影をやってくっていう風になりたかったんだよね。だからその辺が、そういう方法論とかそういう流れをうまく『病院へいこう2』もそうだけど『新宿鮫』もうまく出来たかなって気がしたけどね。

T:続いて『未知への旅人』ですね。

H:うん、そうなんですよ。それはね、僕にとっても信じられない出会いでね。ちょうどそん時に岡田裕介さんから連絡をもらって行ったんだけども、そういう超能力者の話をやるっていうんで。それで「えー、何で俺なのかな」と思いつつ、俺でなくてもいいんだけど、俺超能力者というのがよくわからなくて。作品を受ける事についての迷いはないんだけど、その内容がよくわからないっていうのがあったんだよね。そんな時に知り合いの家で飲んでたら、そいつの友達の彼女が中国人で、彼女が来て「実は今度こういう話をやるんで中国に行くんだよ」って話になったら「私も透視が出来るんです」って言うのよ。「えっ?透視が出来るってどういうことよ」「いや、私はあなたたちが書いた文字を耳で見ることが出来る」っていうんだよ。それでやってみようじゃないかって言って難しい字を書いたんですよ。そいつにトイレに入ってもらって紙を丸めて「いいよ」って来たら耳に入れるの。「これは、こういう字ですね」彗星の『彗』っていう字なのよ。合ってたの。びっくりして俺の中では何のトリックもないから。そしたら側にいた俺の助手の山下ってのが「俺は信じられない。俺が書く」って言って、そいつが俺達にも見せないようにして字を書いてたの。そいでもう一回やったの。したら「こういう字ですね」って『墓』って書いたの。『墓』って書いてあんの。それはもう俺達は信じた訳ですよ。それは見ることが出来るというか、この中で感じるのが出来る。これは人に言ってもね絶対わかんないんだよね。でも、その子は結婚したり別れたりしてるから、自分の人生は読めてないと思うんだけど。ものすごくキレイな子でフェイちゃんっていうんだけど。その時に知り合ったタカツカヒカルさんっていう人は今だにつき合ってはいるの。俺が足を捻挫した時に、すぐ撮影に入んなきゃいけないんだけど歩けなくなって「やばいな、どうしようかな。よし、タカツカだ!」っと思って電話して。そしたら「すぐ来なさい」って言って、歩けなかったんだけど、こんなんなって歩いて行って。30分ぐらいずーっと手をあててもらったら、歩けるようになったのよ。それはね、やっぱりそういう自己治癒力を喚起するっていうかな、そういう力は俺はあると思うんだよ。撮影中も一人捻挫したヤツがみてもらったら、急に歩き出したんだもん。その時はそいつの問題だと思ってたんだけど、俺は自分でやられた時に「なんて効くんだろう」と思ったんだ。人間には、そういう能力があるというのを、まざまざと自覚させられた映画だったな。だから面白かった。

T:続けてまた滝田監督作品で『熱帯楽園倶楽部』。

H:タイ第2弾。これは非常に面白いというか、やっぱり話の作りとしては『僕らはみんな生きている』ほどのインパクトはない。だけど軽いコメディーとしては面白かった。結果的にはそんなにあたったりはしなかったと思うんだけど。でも面白かったな、色んな事が出来て。やっぱり海外における撮影って、日本よりもっとやれる事が広がるんだよね。タイは2回目だし、これは3年に一度ぐらいタイでロケーションしないとダメだなと思ってたぐらい面白かった。

T:次が、久しぶりに崔監督の『マークスの山』。

H:それもね、『熱帯楽園倶楽部』はタイの真夏に撮影したんですよ。タイ人には真夏で撮影するなんて気が狂ってるって言われたんですよ、四十何度になる訳だから。それも初めて「太陽が恐い」と思ったんだよ、そん時。日射しの下に出るのが、ものすごく暑くて。四十何度だから、体温より熱い訳だから、直射の下は五十何度になるでしょ?すごく辛くて辛くて、暑いのがね。そこでポンと本が送られてきたんですよ。次これですって。それが『マークスの山』でしょ?冷え冷えとした雪山じゃない。もうワクワクしたね、タイで読んでて。「よし、次は雪山だー!」と思ったらね、結構ファイトが湧いてきたね。台本の送られてき方とか原作の送られてき方ってのがものすごく良かったんだね。真夏のタイに『マークスの山』読んだらね、もう行きたくなってね、ワクワクと。凍え死にたいと思うんだから。それで、そのまんま『マークスの山』になだれ込んで。あれは美術、今村力でしょ?

T:はい。

H:ロケハンで山登りを始めた時に、山登りっていうのなめてるからね。前の晩、カーッと山小屋で酒飲んで、皆が登ってんのに俺達は8時ぐらいまでゆっくりして。それから登り始めたら、ものの15分もたたないうちに、すんげー後悔したのよ。この作品を受けたのを。だって山登りがこんなに辛いとは思わなかったから。6時間かかったんだよ上まで。もう死ぬかと思ったんだけど、死にはしねーんだけどね。山登り辛くてさ。結局、俺は5回登ったのよ。その内、楽になるんだよ全然。山っていいなっと思って。撮影終わってからも登りに行ったんだよ山の人に挨拶にって。山の連中にも出会ったっていうのもあるし。それで山登りっていうのが人を引き付けるっていうのが、これかっていう経験はちょっとだけしたけどね。撮影はそこそこ大変ではあったけど。結構、賛否両論、難しい話なんだけど、俺は好きな写真ではあるな。何となく崔さんの世界が、いい意味のスケールアップして出せたんじゃないのかな?って気がするけどね。

T:崔監督作品では超大作ですね。

H:そうだよね。金かかってるしね。100人登らせたんだからね、山。大変だね、100人登らせて撮るのが。捜査会議の風景とかっていうのは、あの人相当こだわったからね、リアルなとこにね。捜査会議なんてのは、警察もののあ
る種あの時代の映画の教科書みたいにはなったと思うよ。

T:次が伊丹作品『静かな生活』ですね。

H:応援で『スーパーの女』はカーチェイスをやったの。伊丹さんがカーチェイスが撮るのが嫌いなんだと思うんだよね、大変だから。人物はプロセスで撮ったのかな。その下絵のカーチェイスを全部撮ったの。「カーチェイスを撮って下さい。ただ走ってるとことを撮りゃいいんです。」って簡単なようなこと言ったんで、いやいやそんなカーチェイスだったらやんない方がいいっていうような話になって。それで「これコンテって誰が描いてんだ」って言ったら「スタントマンが描いてます」で、「見せてくれ」って見て、破り捨てて「こんなんで撮れる訳ないだろ!」ってなって。カーチェイスに近道はないの、一歩一歩撮るしかないんで。もう一つづつきっちり撮ってくから、2週間かかったんだけど、毎日朝コンテ出してスタッフルームにFAXして。それを助監督が伊丹さんに見せた。「OKが出ました」って連絡が来て集合して夜に撮影して。
っていうのを2週間くり返して撮ったの。だから結構たくさん撮ったのよ。それなりの自信作。カーチェイスって結構俺やってるからね、それなりに上手いんですよ。

T:次が、中田監督の『女優霊』。

H:10日で撮った。中田秀夫っていうのが『Aサインデイズ』とかで助監督でついたりしてて昔から知ってるんだけど。テレビの15分ものを初めて監督する時も俺やってるの。それでイギリスに留学して帰ってきて、そういう話になって。「予算がないけども」って言うんでやって。結構面白かったよね10日間でね。ホントに低予算で、日活の中でやってるから撮れたようなもんで。なかなか金のないのも楽しいなっていうのが、何本かあるんだけど。まあ中田さんの出世作になったから。あれでドンと仕事くるようになったからね、よかったんじゃないかな。

T:続けて『岸和田少年愚連隊』ですね。


H:これは、いろんな因縁があって『マークスの山』の時に井筒が出てるんですよ、殺されるヤクザで。それの衣装合わせしてる時に俺が『岸和田少年愚連隊』を読んでたんですよ。それで衣装合わせに行って。崔さんいる前で井筒に「面白いよ」っていう風な話っていうのはそりゃ失礼だし、そんなこと出来ないから。崔さんがトイレ行った時に「やー、和ちゃん、『岸和田少年愚連隊』、これ面白いよ」って言った訳。それで榎プロデューサーにも「これ面白いよ」って言ったの。そしたら2人はすぐ読んだの。で、榎はすぐ映画化権とったの。それで始まったの。結局そこにオファーしてたセディックの中沢がいて、彼と松竹と共作みたいになったんだけど。それで、監督誰にするかって言ったら、やっぱり井筒だろってなって。井筒だったら「俺だろ」ってなるじゃないっすか。ホントに久しぶりに井筒和幸と組んだんです。作品は自信あんだよね。

T:大阪ロケですね。

H:うん。あれは実質23日ぐらいで撮ってんだけど、延べでいうと40日以上かかってんだよね。3日やって4日休み、4日行って3日休みとか。ナイナイがスケジュールとれなくて。ナイナイが全部で21日間しかなかったんだよね。でもなかなか面白かったっすよ。その3日間、4日間はハードだった。また2日、3日休めるでしょ?だから結構ムチ入れられるじゃないスタッフも。久しぶりに井筒の世界を見たから面白かったけどね。だから最初にやった『晴れ、ときどき殺人』の時には感じなかった、その時には俺がまだわからなかったっていうか、井筒の世界っていうのが『岸和田少年愚連隊』ん時には凄いよくわかったっていうか。

T:続けて『さすらいのトラブルバスター』。

H:それは『岸和田少年愚連隊』が成功したんで。興行的には当たんなかったと思うんだけども、評価的には高かったから。すぐ『さすらいのトラブルバスター』のオファーが来たんじゃないかな。そこそこなんだけど。でもまあ楽しんでは撮れたけど。やっぱり井筒の世界じゃないんだよな。ちょっと間違うとホントに軽くなっちゃうから。

T:次は原監督で『OL忠臣蔵』。

H:『OL忠臣蔵』っていうのは、あれは現場に行くのが「こんなに楽しい写真は、なかったな」っていうぐらい楽しかったね。だって女ばっかりなんだから。それが皆かわいい子でしょ?「おはようございます」って言うんだからね。女学校の教師はさぞや楽しいんじゃないかと思うぐらい現場行くのが楽しい写真だったね。ニューヨークロケにも行ったしね。お金がないっていうんで、ニューヨークロケ出来ないっていうんだよね。だけど「ニューヨーク」って書かれてる柱のシーンがある訳ですよ。「これどうすんだ?」って言ったら「いや、東京でニューヨーク風に撮ってくれ」「いや、そんなものは撮れっこない」って言って。「撮るんならやるけど、すごい金かかるよ」って言ったの。「例えば全部外人エキストラ呼んで、そんで車を、むこうの車をタクシー2台ぐらい出した日には大変だぞって」。だから「俺と監督と南果歩だけ行きゃーいいから、それでニューヨークロケさせてくれ」って言ったの。安いチケットで安いホテルでいいから。それでやったのが、頭ニューヨークロケ。だから、よかったですけどね、ニュ−ヨークで南果歩の歩きを撮っただけでね。それと、今は亡き貿易センタービルも撮って。

T:次が『北京原人』。


H:そう。それはやっぱり俺の代表作だよね。究極のカルト映画。『北京原人』ってね、作った人は勇気あると思うよ。ただ、その勇気あるのがはたして成功したかどうか別にしても、あんな事はなかなか考えられないっていう意味でね。それも着ぐるみ着せて、スッポンポンにしてね。それも夫婦と子供までつけちゃって。それが北京原人の骨から出来たっていう、あんな荒唐無稽っていうかウソ八百っていうかね、それを映画にしてしまう。やっぱりその強引さっていうのは、ある意味では悪くないなと思うんだよ。もしかすると、もっともっと跳ねてもよかったのかなっていう気はするけどね。中途半端にヒューマンな方にもってこうとしたから余計あれかなと思うけども、まあなんともいかんともしがたいけど。でも、まあ俺の中では、いや、やっぱ究極のカルト映画だな。すごい金かけてね。中国も行ってんだからね。万里の長城で俺3回ロケしてんだからね。その前の『未知への旅人』もそうだし、初めてやった森崎さんとの『蒼き狼』もそうだし。『蒼き狼』『未知への旅人』『北京原人』3回も、万里の長城でね。そんなにいないと思うよ、万里の長城3回も撮影してるヤツ。行ってるヤツはいるかもわかんないけど。

T:次『ラブ・レター』ですが。

H:井筒の『のど自慢』が先に撮影してて、それで森崎さんの『ラブ・レター』が入るっていうんで。それで『のど自慢』が入る事はわかってたんで、森崎さんと入る前にロケハンをしてたんですよ。そっちはロケハンしてて、それで『のど自慢』撮影してて、年明けて2/1に終わって、2/15ぐらいにクランクインしたんですよバタバタと。『のど自慢』は桐生で撮影してて、桐生から休みの日には帰って打ち合わせして、それでクリスマス休みとかに帰って実景撮ったりしてて、すんごい忙しかったの。一人で、とんぼ帰りしてたりしてたの、桐生〜東京。それで2/1に『のど自慢』が全部終わって、それで『ラブ・レター』入って。浅田さんの話で、やっぱりまあ、そこそこ泣かす映画にはなったと思うんだけども、微妙にやっぱり森崎さんと浅田さんの気持ち、資質の違いっていうかな、その泣かせ方っていうか、微妙にその辺が作品としてちょっと微妙な不協和音があったかもわからんって気はするけども。そこそこ悪くない映画にはなったと思うんだけどね。ただやっぱり品が良すぎたかもわからんな。森崎さんの話としては。

T:次『のど自慢』に関して、『ビック・ショー!』と続きますけども。


H:そうなんだよね『のど自慢』っていうのがやっぱり面白くて。撮ってても面白かったんだけどね。桐生で撮ってて。シネカノンの自主制作第1本目かな。お金なくて貧しかったんだけど。なんかものすごく評判が良くてね、出来上がりが。東宝と松竹で作品を奪い合った。それで値段がつり上がったりして。それで一気に『のど自慢』で皆が盛り上がって、それで公開が『ラブ・レター』より後になった訳。

T:なるほど。

H:それで次の年の正月になった。だから1年置いちゃったんだよね。そん時にもう「第二弾作ろう。赤城麗子で作ろう」って公開の前に盛り上がっちゃったから、急遽ハワイに行く事になって。公開したら大コケにコケて、ハワイのテンションも一気に下がっちゃったんだけど。ただもう始まっちゃってるから。それで結果的にハワイのユニオンの絡みとかで予算オーバーして。作品的にも当たらないじゃないですか。だから『のど自慢』シリーズは2本で終わってしまったんだけど。最初は「これはもうシリーズでいけるぞ」「のど自慢で、これはネタがつきない」って言ってたんだけど。あっという間にネタどころか作品がつきてしまった。第2弾は都はるみを出して終わったけど。ハワイで都はるみのショーは、俺は感動的に観たけどな、自分でやりながら。海外ロケっていうのの面白さっていうのは、たいした映画でないにしてもやっぱりあるんだよ、その『のど自慢』パート2、『ビック・ショー!』か。だからやっぱりそれをやりきると自信になるんだよね。スタッフとしてはすごく面白い経験をしたな。

T:次が矢口監督で『アドレナリンドライブ』。

H:『アドレナリンドライブ』。これも金のない作品だったけどね。あの矢口って若いんだけど、やっぱりすごい優れてると思うのは、自分がやりたい事、自分が楽しみたい事、自分がどうやれば人に観せるのがいいのかっていう事を熟知してるヤツでね、頭のいいヤツなんだよね。自分がどうやれば楽しめるかっていうのを熟知してるっていうか、そこを観たいっていう、その明確な意思持ってるヤツだから。現場は「あ、こーいう風にみるのか」っていう意味で面白かったね。「若いヤツとやれて良かったな」っていうか「矢口とやれてよかったな」っていうのがあったよね。そん時に意識したのが『秘密の花園』とかで東宝でやったりした時に、やっぱり初めて自主映画から出てきて、プロのスタッフと組むと、プロのスタッフとすると「そんなんじゃねんだよ」と、昔からの撮影の有り様押し付けがちにはなるじゃない。それだけは「やめよう」と思ったんだよね。矢口のやりたい様にやってやろうと思った。だからいい形は築けたかな?という気はするけどね。

T:参加する事になったきっかけは何だったんですか?

H:それはプロデューサーだったと思う。プロデューサーが候補で出したんだと思う。最初、山本英夫っていうキャメラマンがいるんだけど、『HANA-BI』とか撮った。山本英夫が候補だったらしいんだけど何かの時かな。山本英夫と呑んだ時にそんな話をしてて、「別に空いてるよ」とかって言ったのかな?「空いてない」とかって言ったのかな?「そんなのやるんだよ」って話だったんだ。そしたら山本英夫が「浜田さん空いてるんじゃないですか?」とかって言って俺の所に電話が来たのかな?そんなような事だと思うけどね。プロデューサーが山本の女房だからな。

T:この映画に関して何か撮影中のエピソードありますか?

H:台風が3つ来たんだよね。東京で十日間ロケーションやって、東京終わって移動して、蓼科で十日間なんだよ。その間3本台風が来て台風に祟られるんだけど、いとも容易くもないんだけど、乗り越えられたのが俺達がプロだからよかったな、プロとして参加出来て良かったなって気はしたけどね。移動の時も台風で、向こうでやってる時も台風で、外でも台風でっていうのが3つあったんだけど、そんなのも乗り越えてみんなで久しぶりというか、初めてぐらいの合宿みたいな撮影だったから。それはそれですごい楽しい、その作品も「金の無いのもいいもんだ」と思った作品かな、「悪くない」と。

T:次が『GTO』ですね。

H:それは金があったんだよね。「金があったのが悪かった」っていう作品かな。やっぱり無駄があったな。映画ってやっぱり脚本。脚本が上手く出来なかったのが致命傷になってる気がするし、鈴木雅之はある種、特異な撮り方をする人だから、特異な撮り方をする脚本になってないっていうのと、それでスタッフがその撮り方に慣れてなかった。鈴木雅之の世界にしては中途半端、俺達にしてみればどういう風な撮り方になるのかよくわからん。脚本がそういう風になってないから、どうしても思いがうまく噛み合わなかった。「あっそういう風に撮るのか、本当にそう撮るのか」って気付いた時には半分以上いってた。それでずいぶん金使ったからね。

T:テレビのドラマと映画の整合性が上手くいってないという事ですか?

H:いや、鈴木さんていうのもテレビの『GTO』はやってないから、テレビの『GTO』のスタッフ、監督じゃない人とやりたいという反町の狙いだったらしい。だからテレビをやってた制作会社は使われなくて、メリエスってとこでやったんだけど。やっぱり脚本がすごく上手くいかなかった。カタルシスがなかったなあんまりな。

T:次は『岸和田少年愚連隊』の続編ですね『岸和田少年野球団 』。

H:それは渡辺武、それも金無かった。その前が『PAZUZU』ってやつなんだよ。資料は公開順だから順番が逆だね。『殺しやPAZUZU』っていうのが同じ制作会社で、それが「十日間で撮らなきゃいけない」っていうのよ。それが片山津温泉ってとこで地獄の十日間だったんだよ。すごい十日間で。最後土砂降りの中で立回りして「雨は関係ない、雨が降ろうが何しようが撮りきらなければいけない」っていって、本当に土砂降りの中で撮ったの、全部手持ちで。それはそれで「そんなもの撮りゃいいんだ」って思って撮って、すごい大変で、十日間休み無しで撮影して、十一日目で情景撮って帰ってきた金沢で。「もう限界だな十日間は」って話をしてた訳。それで『岸和田少年野球団』。話がちょっとほろっとする話で、面白く出来てて『岸和田少年愚連隊』の原作者の中場利一ってのが友達なんだよ。だから「金あろうが無かろうがやるか」それで監督も『PAZUZU』と一緒だし。そしたら十二日間連続休み無しで。十二日間休み無しで撮って、十三日目に情景撮って帰ってきたんだけど。「いや何だ伸びるもんじゃないか!」って、ゴルフも練習すれば飛距離が伸びるのと同じように人間やれば出来るじゃないかって。十日間が限界かと思ってたら十二日間撮って、「なんだ伸びるんだ」と思った。それをしみじみと感じたニ本だったな。

T:次が『夜の哀しみ』

H:これは、岡泰叡って三船の時の助監督だったんだ。監督になってからはやった事ないんだけど、5年くらい前からそれを「やりたい」って言って。企画を立ち上げてはなくなってたんだよ。それで「やる」ってなって、やったんだけど。一生懸命撮って、役者も頑張ってたんだけど、「監督が駄目だとこんなに駄目か」っていうぐらい本当に駄目だったんで、最後喧嘩になって。2時間50分あったんだよ、それで「切らない」って言うんだよ。だから「2時間50分じゃ観せられないだろう、こんなかったるいもの」って言ったら。「いや、切らない」って言って。結果、切ったんだけど。ちょっと不幸だったな。いいロケーションであったり、いい役者であったり、いいスタッフだったりしたんだけど。でも監督、プロデューサーが駄目だと、本当に可哀想な。だからいい形で公開されてないと思うんだよね。

T:次が『大河の一滴』


H:これはね、そこそこ金があったんだよな。割と大作っぽい。今までで一番楽な作品だったのかな。

T:それはなぜですか。

H:肉体的に。早く終わっちゃうんだよね。あっという間に。俺と高屋が準備が早いって事があるんだけど。はい「どうぞ」って。朝一番から準備している訳だから監督が来た時には「いつでもどうぞ」ってなるじゃない。「役者さえ出来ればどうぞ」って。監督が試行錯誤してもいいんだよ。カットを細かく、あざとく撮ったりする人じゃないから、ぽっと撮って「OK」ならOKじゃない。毎日定時前に終わって、それで予定より3日早くセット終わってしまって。そのまま俺はロシアロケ行って。ロシアロケが助手無しだったから、だから久しぶりにメーター持って、それでロシアロケをやってきたんですね。だから面白かったけどね、そういう意味では。向こうの助手使ってね。ただ、別に大した芝居の所じゃないから。

T:トータル撮影期間はどれ位だったんですか。

H:やっぱりニヶ月位で、ロシアが一週間で、俺が前後一週間居たからロシア三週間いたな。ロシア行けて良かった。話が微妙に分からないとこもあったんだけど、新藤兼人が書いた脚本だから、五木寛之も文句をつけなかったんだろうし、五木寛之が文句をつけなかった脚本に俺らが文句をつけてもしょうがないし。だから粛々と淡々と撮る。早いよ。

T:次は『パコダテ人』ですが。

H:『パコダテ人』ってのはね『病院へ行こう』の助監督だった前田哲が監督になって。前田哲から電話があって「映画やるんですけどやって下さい」って言って「映画なの?」って聞いたら「映画でやりたい、35ミリでやりたい」「予算は?」「2,750万」。待てよ2,750万?っていうのは昔の『女優霊』が2,750万だったと思うんだ。『岸和田少年野球団』も2,750万だったと思うんだ。それは全部16ミリで撮ってるんだよ。『パコダテ人』は「35ミリで撮りたい」っていう風に俺に言うんだよね。「35ミリで撮りたいのか」。2,750万っていうのは16ミリにしても予算がないのよ。結局は俺のコネクションをフルに使って、機材ほとんどタダ、フィルムほとんどタダ、現像もほとんどタダ。っていう風にしてやったんだよ。初めてね。一回だけ。「もうやらない」って言ったんだ。だから35ミリで撮ったんだけど。535でね。お金無かったけど、そこそこな脚本だったから、結局「前田がビックになればいいや」ってゆうね。「今度俺を呼ぶ時はもうちょっとビックになってから呼んでくれ」って言ったんだけど呼んでくんないんだよな。っていうことはビックになってないんだ。

T:撮影エピソードありますか。

H:二十日間かけたんだよ。その時、クランクインの時に相米が死んだのよ。そいつ相米のとこにもついてた奴だから、それなりにショックはショックはだったな。延ばしている暇はないから頑張って撮ったけど、同じ事ニ回できないな。自分でコネをフルに使って頭下げながら仕事するのも嫌だな。でもそれで前田がビックになって行けばね、その後一本撮ったから少しはいいと思うんだけども。作品の中の画の狙いとか凝る所っていうのはお金に絡んだりしてくるけど、そうじゃない所で「発想の転換をして面白い事やろう」とかっていうのはそこそこ出来たような写真だったかな。

T:次は『化粧師』

H:『化粧師』は『大河の一滴』を撮ったりしたフィルムフェイスの進藤っていうのが俺と田中さんを引き合わせてくれたから。一番の乗ったのは京都で撮るっていうので乗ったんだよね。「よし、久しぶりに京都かよ」今度は映像京都だ。映像京都っていうのは西岡善信さんっていう美術デザイナーのいるとこで。そこに俺が行くという事で、それは面白いと思ったし、そういう方がファイトが湧くし。結果的にはやっぱり行って良かったし、あいつらを知って良かったし、京都撮影所、京都オープン、すごいせこいオープンセットなんだけどそこの有り難みも分かるし、限界も分かるんだけど、そこでどう撮るかっていうかな。俺には三船プロっていう、三船プロは小さいオープン持っててやってた経験てのはそれなりにあって、やっぱりそこで八年間やってたらオープンの持ってる限界とか、オープンの持ってる面白さ、やりやすさはそれなりに分かってるから、京都オープン行っても楽しくもあり、「ここまでしか撮れないんだ」っていう思いはあるけど楽しかったってゆうかな。西岡さんは最初はこっちの名前も憶えてくんなかった気がするけど、後の方ではちゃんと憶えてたから。その年に京都でやったのはその後の『壬生義士伝』でやることの伏線にもなってよかったな。それは中途半端な時代劇で大正時代の話だったんだけど。それはそれで良くやれたなと思う。京都でやったっていうのが良かった。

T:画もすごいきれいでよかったですよね。

H:とりあえずそこを外さないようにしようとしたんだよね。あれもいい女がたくさん出たから。

T:次が『命』ですね。

H:『命』 はね、俺ね柳美里って嫌いなんですよ。ただ一稿、二稿あがって来た時はすごく気が重くて乗らなかったのね。それが大森ってやつが書いた脚本ではね、ぽっと素直に入れてね。柳美里の原作とはまた違う一つの映画の世界として『命』ってゆうのが面白いと思って。すごく役者が良かったな。江角と豊川、あの二人が良かったんですよ。それで久しぶりに「こいつらをちゃんと撮っていけばちゃんと映画になるんだ」っていう感じがした映画だったかな。そのかわりこの映画の時間をちゃんと撮ろうと思った。小手先でなく。やっぱりまるごと撮れば世界ができるくらいあいつらに存在感があったから。だから、役者の力っていうかな、それをすごく感じさせてくれる映画だったかな。

T:そして、久しぶりに崔監督ですね。

H:『刑務所』。これは『刑務所の中』って原作の漫画を読んでたんですよ。「これをやるのか」って凄くわくわくして脚本を読んだら何のドラマも無くて、ものすごく面白かったの。あの原作というか、あのシナリオの面白さを再認識していったのは、撮影していきながらっていうのもあるんだけど、あの二十何日間っていうのは面白い時間だったな。撮影したのは『パコダテ人』〜『刑務所』なんですよ。それから『命』なんだ。ちょうど『パコダテ人』が函館で、『刑務所』が網走でその時に北海道のフィルムコミッションが出来て、フィルムコミッションに、一本目が『パコダテ人』で、二本目が『刑務所』で全部俺だったっていう。「フィルムコミッションの○○さんです」「あ、この前はどうも」って感じだったんだよね。だから北海道のフィルムコミッションの二本を続けてやった訳。フィルムコミッションというのが出来てきて、今はとてもいい形で作用してきてると思うけどね。『刑務所』がやっぱり網走刑務所の中を使えたというのが、中というか博物館の中をね。セット一杯だけ組んで、すごく貧しい撮影ではあったけど俺は撮りながらね「これは傑作になるな」と思ったもん。凄くいい感触、撮っててね。

T:久しぶりの崔監督はどうでしたか。


H:元気だったよ。二日目に足捻挫しちゃったから、それで車椅子に乗ってたからね。かえって良かったかも分からないね。非常に御しやすかったよね(笑)ただモニターの前にいるから校庭のシーンなんかだとカメラ反対側にいくと、ぐわ−っと100メートルくらいビジコンのコード引くからさ、呼ばれると凄いんだよ。走ってかなきゃいけないからさ泥だらけになりながら、本人動けないからね。でもある程度先行してこっちが作っていけば何の問題も無い訳で。やりやすかったですよ。何か問題があるとそれは崔さん言うだろうし。

T:『パコダテ人』、『刑務所』と北海道での撮影ということで何かありますか。

H:北海道は何せ、俺の地元と言えば地元だから、基本的には食い物が合うんだよね。函館も詳しいし。函館は『ギラギラ』でずっと撮影してたし。網走はその前に『ラブ・レター』でも来てるし。やっぱりどこ行っても馴染みがあってね。うまいとこも知ってるし。「北海道ロケには浜田毅をお忘れずに」っていう事だね。

T:次は滝田監督の大作『壬生義士伝』。

H:俺が五十の時、去年。ターニングポイントの作品になった気がするんだよね。その十一年前に滝田さんと『僕らはみんな生きている』やって、十一年後に『壬生』をやれたっていうのが何かもしかしたらそれが一つの流れかな。よかったなと思いますね。『パコダテ人』の時に相米さんが亡くなったでしょ、相米さんが榎プロデューサーと『壬生』の準備をしてたんですよ。亡くなった事で全部御破算にして、それが榎の優れている所だと思うんだけど「相米さんの意を継ぐ」という形で映画を作らなかったんだよね。全く別物として『壬生』を作ろうとした訳で、滝田が挙がってきてやったんだけど。それが成功したと思うんだよね。それも今度松竹で京都でしょ。その前の年に『化粧師』やってるし、ある程度のスタッフ知ってるし、京都のオープンは熟知してるし。もう恐い物なしだったよね。下駄履いて歩いてたけど。やっぱり撮影所の面白さっていうかな、それもまた久しぶりに感じたし。俺達が知らないって事もあるんだけれど京都のロケーションの広さっていうかね、東京にはないね。五十歳にしていい作品に出会えて良かったかなと。あともう十年やんないとね。そうするとまた十年後に何かに出会えると、そうすると飛距離はそんなに伸びないかもわかんないけど。

T:重さっていうか、完成度は滝田監督と浜田さんの間ではありますよね。


H:そうだね。何かね「切り口が肌に合う」っていうかね。結局映画って、映画の流れを誰が責任持って作っていくかっていう事だと思うんだよね。最終的には監督の流れなんですよ。そこに至るまでの流れをこっちがどれだけ作れるかっていう。だから一つ一つのいい画の積み重ねじゃないんだよね。どれだけ気持ちよく流していくかっていうか、例えば場合によっては気持ち悪くするかとかね。違和感が欲しいならどうやって違和感を流していくか、結局は映画って流れだからそれは俺達が作れるかな?って。それを共同作業でやっていく時に合う人と「わかんねーや、こいつの流れは」っていう人もいるとは思うんだけどね。幸か不幸か俺はいい出合いをして来てると思うし、いい人と出会ってると思うんだよね。

T:この後は未公開作品ってあるんですか。

H:この後はね今ちょうど『陰陽師』っていうのが仕上げしてて、それと同時に森崎さんの新作の『ニワトリはハダシだ』っていうのが撮影終わったばっかり。その今仕上げの最中。

T:『ニワトリはハダシだ』っていうのはどういう作品なんですか。

H:森崎さんの全くのオリジナルなんですけどね。これも因縁めいてて、相米慎二の『風花』っていうのがあって『風花』にお金を出した舞鶴の志摩さんっていう人がいて、その人が坂本順治の『ぼくんち』っていうのにお金を出したんだ。その人の好きな監督っていうのが相米慎二、坂本順治、森崎東で。「森崎東の映画を撮りたい」って言い続けてたんだ。それを『壬生』のプロデューサーの松竹の榎っていうのと、ビーワイルドって『刑務所の中』を撮った会社がその人と組んで森崎さんと「映画を撮ろう」ってなって。森崎さんを舞鶴に呼んでシナハンみたいな事をして。とにかく「好きな事をしてくれ」と。ただ『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』みたいなっていうかな。それで出てきたのが『ニワトリはハダシだ』っていうので。原田芳雄さんと倍賞美津子さんと新人の女の子と新人の男の子とっていう話なんですよ。それで男の子は障害児で、女の子は先生で、親父が潜水土木の潜りで、別居している倍賞美津子は神社で飲み屋やってるお母さんでっていうような。それが舞鶴の地元で、ただただ車の数字を憶えるの事だけはすごい子で、それにまつわって例えば盗難車のナンバーを憶えてたり、盗難車に隠されてた手帳の中身を全部憶えてたりという事で、警察とヤクザに追われて、それがゴチャゴチャになっていくという悲劇じゃなくてやっぱり森崎さん流の喜劇なんだけども人は人でゴチャゴチャ動くんですよね。それが撮り終わって思うんだけどすごく面白い。すごく人間が面白い。久しぶりに森崎さんの真骨頂を見たっていう。

T:20年前の『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』のキャスト二人が、それは『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』と並ぶような作品なんですか。

H:また違うと思うけどね。人の有り様とか絡み方っていうのはどうしても森崎さんだから似てるっていう所はあるんだけど。朝鮮人は出てくるはね。『党宣言』の時は沖縄の人だったんだけど。森崎さんっていうのはやる事、書く事全部どこかであった事なんですよ。あった事とか聞いた事とか経験した事の。嘘を書かないんですよね。だからといって悲劇じゃなくて、結局そういうのをやる事によって起きるおかしさっていうのがあの人の喜劇なんだけど。人は人でみんな一生懸命やってるんだけど。それを三十何日でやったんだけど『陰陽師』のまだ仕上げやってるちょうど狭間に一ヶ月半くらいやってて、まだ『陰陽師』は終わってない。

T:『陰陽師』はどうですか。

H:『陰陽師』の氓ヘ『大河』をやっててできなかったんですよ。氓竄チたのは僕の所にいた栢野がやってたんで。優れてキャラクターの際立ってる話だから。とにかく俺の楽しみは野村萬斎を観る事が楽しみだったんだよね。野村萬斎のこうやってやるのを観る事が(手振りで「八卦」)楽しみで、初めて観た時「やっと観れた」って言ったんだけど。お客さんだってそれを楽しみにしてる部分ってあると思うんだよね。だからそれを壊さないように撮ろうと思ったんだよね。それは野村萬斎の呪(しゅ)を唱える事で生まれる、キャラクターというかスーパーマンみたいなあの面白さ。もちろん荒唐無稽だけれども、きっちり作ろうじゃないかとも思うし、プロならなら当然だけど。


最後は『現在の日本映画について』と『映画の撮り方』を聴いてみました。これはムービーで本人の言葉を聴いて下さい。







浜田毅さんの略年表

1951 北海道生まれ。
1971〜

大蔵映画で撮影助手を始める。
石本秀雄氏等の撮影助手を努め、撮影助手として数多くの作品に就く。

1973 大蔵映画が解散後、三船プロにフリーとして参加。主に『子連れ狼』 『大江戸捜査網』等のTV 作品に撮影助手として数多く就く。
1980〜

6時間TV映画『蒼き狼』にて森崎東氏との出逢い。

6時間TVドラマ『蒼き狼』森崎東監督と

1984〜

『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』でキャメラマンとなる。他『いつか誰かが殺される』 『晴れ、ときどき殺人』『友よ、静かに瞑れ』
『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』撮影スナップ

1987〜

『黒いドレスの女』『新宿純愛物語』

『新宿純愛物語』仲村トオルと

1988〜

『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』『花のあすか組!』

『花のあすか組!』崔組

1989〜

1『Aサインデイズ』『悲しきヒットマン』

『Aサインデイズ』バーのシーンの撮影終了後に

1990〜

『病院へ行こう』

1991〜

『幕末純情伝』

1992〜

『いつかギラギラする日』『病は気から 病院へ行こう2』

1993〜

『僕らはみんな生きている』『眠らない街』

『僕らはみんな生きている』滝田組

1994〜

『超能力者 未知への旅人』『熱帯楽園倶楽部』

1995〜

『マークスの山』『静かな生活』

1996〜

『女優霊』『岸和田少年愚連隊』『さすらいのトラブルマスター』

1997〜

『OL忠臣蔵 Chu〜Shin Gura』『北京原人 Who are you?』
『北京原人』撮影スナップ

1998〜

『ラブ・レター』

1999〜

『のど自慢』『ビッグ・ショー! ハワイに唄えば BIG SHOW! Siging inHawaiiハワイ』『アドレナリンドライブ』『GTO』 『ウォータームーン』

2000〜

『殺しやPAZUZU (V) 』 『岸和田少年愚連隊 野球団 岸和田少年野球団』

2001〜

『夜の哀しみ LIVING IN SHADOWS』『大河の一滴』
『大河の一滴』撮影スナップ

2002〜 『パコダテ人 』 『化粧師』『命』 『刑務所の中』
2003〜 『壬生義士伝』

『壬生義士伝』滝田組

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『蒼き狼』撮影中のスナップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Message Movie


『現在の日本映画について』

メッセージムービーを見る
| Mac | Win |


『映画の撮り方について』

メッセージムービーを見る
| Mac | Win |

 

 

 

 


『友よ静かに瞑れ』撮影中のスナップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 





『黒いドレスの女 』




『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・ 』




『花のあすか組 』



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




『Aサインデイズ』撮影中のスナップ


『Aサインデイズ』崔組

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



『僕らはみんな生きている』撮影中のスナップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 
  『マークスの山 』


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『北京原人』撮影中のスナップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



『大河の一滴』撮影中のスナップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 




『壬生義士伝』撮影中のスナップ

 

 

 

 

 


『にわとりはハダシだ』撮影中のスナップ



『にわとりはハダシだ』森崎組