里村美和 / Yoshikazu Satomura

#3,4『JOURNEY to LOCK THELOCK』にて、西本明氏、長田進氏と共に音楽を担当し、今回『野次馬音楽隊/ORDINARY HEROES』にて主演、音楽を担当したパーカッショニスト里村美和氏の過去から現在までを辿ったインタビューです。

(2003年6月5日/四谷フリースタジオにて/インタビュアー:TERA@moment)


里村美和:Satomura Yoshikazu

Percussonist
1955年3月25日生まれ。 東京都出身。
高校時代、一年生の時にドラムを始める。その後「佐野元春」「佐藤奈々子」と出会い、渋谷エピキュラスにてLIVEを行う。
大学入学後、コンガと出会いを機にパーカッションを始め、1981年スタジオミュージシャンとしてデビュー。
1984年佐野元春「Visters Tour」よりザ・ハートランドに参加。
その後、ツアーミュージシャンとして「尾崎豊」「つのだ☆ひろ」「沢田聖子」などのツアーに参加。現在「天才トノサマBAND」「杉真理モンキーフォレストバンド」「OHANA BAND」「LOVENOTES」、庄野真代、織田哲郎、柳ジョージ等でのLIVEの他、映画「20世紀少年」サントラ参加、スタジオミュージシャンとしても活躍中。また、定期的にパーカッションのワークショップも行っている。

【主なライブ、レコーディング参加アーティスト】

佐野元春 / 尾崎豊 / つのだ☆ひろ / 小坂忠 / 鈴木康博 / 杉真理/ 鈴木雄大 / 天才トノサマBAND / ブレッド&バター / OHANA BAND / 木根尚登 / 鈴木晃二 / 谷村新司 / 江口洋介 / 森進一 / 勝新太郎 / 柳葉敏郎 / 及川光博 / 中村一義 / 川村かおり / 相川七瀬 / 白井貴子 / 鈴木祥子 / 沢田聖子 / ともさかりえ / 和久井映見 / 相沢友子 / 都はるみ / ラッツ&スター / デキシーダンタス / コレクターズ/カーネーション / GREAT3/ BEGIN / LOVENOTES / 杉真理(モンキーフォレストバンド)/ 海援隊 / 木根尚登/ 安藤秀樹 / 村田和人 / 山本英美 / 土井晴人/ 久保田早紀 / 阿川泰子 / 杏里 / 石川さゆり / 加藤登紀子 /etc.


僕の人生のドラマに出てくる出演者は。いろんなとこに伏線があるよねっと思って。一回会った人がまた再登場したりとか。全然違う顔で現れたりとかするんだよ。非常に人生の面白さを感じます。

TERA(T):それでは宜しくお願いします。まず生まれと場所を教えて下さい。

SATOMURA(S):生まれたのは1955年3月25日。両親は東京・池袋に住んでたんですが、母親が出産のため山梨の実家に戻って生まれました。その後、2才から埼玉県浦和市、現在のさいたま市でずっと育ちまして。

T:小さい頃は、どんな事して遊んでたんですか?

S:割と覚えてるのは缶蹴りですかね。小学校、中学校。今考えると自分がカメラマンになったような感じのイメージ遊び。例えば、河原で自分が上から空撮で、アパッチーと騎兵隊がいるようなイメージで、いないのに持って自分でヘリコプターで撮ってるような感じの遊びとかね。弟と二人で、ちっちゃいオモチャみたいので、主人公にしてドラマを作るみたいな感じの遊びとか。そういうのをやってた気がしますね。テレビゲームとか無かったから当時は。自分達でイメージする遊びはやってたね。

T:最初に音楽に目覚めたのは、いつ頃ですか?

S:小学校の6年か中学校の1年の時に『埼玉国体』ってあって、その為に、何か鼓笛隊ってのが結構盛り上がってて、小学校でね。国体がやるもう5年ぐらい前から、プレ国体みたいのがあるじゃない。それで最初、小太鼓とかやりたかったんだけど、なぜかその小学校は男の子の太鼓がいなくて女の子ばっかし。で、男の子はたて笛か、もしくはたまにピアニカをやるぐらいで、なぜか男性の打楽器奏者いなかったんだよね。だからちょっと小学校で恥ずかしいじゃん。だから仕方がなくてさ。最初は小学校の時は鼓笛隊では笛とピアニカをやってたんだけど、家のオヤジの仕事の関係で鼓笛隊を、新宿の多分、アルタ前だと思うんだけど、そこでなんか小学校の鼓笛隊が演奏するみたいな時に、私の実家にですね埼玉の浦和の家にですね、トラックが来て鼓笛隊の楽器を全部運ぶ日があって、その時に小学校の鼓笛隊の太鼓類全部大集合したんですね。そこで大太鼓とか小太鼓とかを並べて、ドラムセットのようにして、叩いてみたりしました。

T:その頃って、どんな音楽を聴いてたんですか?

S:そうですね、割と今でいう『イージーリスニング』に近いものが多かったと思うよ。

T:例えば?

S:なんだろ?『ヘンリー・マンシーニ』だとか『バートバカラック』みたいのとか。割と、あまりリズム関係ないの多かった。小学校まではね。

T:それは家にあったレコードですか?

S:家にあったよ。あとクラシックも結構聴いてたからね。家の母親が声楽家・オペラ歌手を目指してた人で、俺が生まれてオペラ歌手を諦めたとか言ってますが。オヤジはレコード会社の社員だったから。どっちかっていうと演歌系だったけどね。でもレコードっていうのは、その頃は貰ってくる物だと思ってたんで、買うっていう意識があんまなくて。でもオヤジとしては、子供が好きだろうという事で『ビートルズ』とかね、持ってきてくれた。ドーナツ盤が多かったけど。

T:ほとんどが家にあったレコードを聴いてたと。

S:うん。家にある物を聞いてたっていうのはあるよね。

T:中学に上がると?

S:その前にピアノも習ってたんだ。でもモノにならずに。基礎にはなってると思う。今の音楽の。中学上がって今度は、普通の公立の中学校だけど、その頃はグループサウンズが流行り始めてて。『タイガース』とか『テンプターズ』とか。ちょっとお金持ってる不良がかった子が同級生でいて。そいつはギターとかベースやってたんだけど、ドラムセットからアンプから何から何まで持ってて、しかも当時として珍しいと思ったんだけど、中学校の女の音楽の先生が非常にそういうの理解があって、音楽準備室に楽器を置かしてくれて「置いてもいいよ」って「教室使って練習してもいいよ」って感じの空気があって。その当時としてはすごく珍しいよね。グループサウンズとかそういうロックやるのは不良だっていう時代だったから、まだ。で、ドラムセットがあったんだけど、ドラム結構僕なんか上手い人が何人かいて。最初始めた時は十番目のドラマーぐらいだったのかな?中学2年ぐらいかな。中学3年ぐらいまで適当に練習し始めて。そうですね、その頃からちょっと始めてたね。これを。(指を曲げる)

T:それは何ですか?

S:中学1年か2年の時に『子供の科学』って本に、「二進法を使って片手で32まで数えられて両手だと1024数えられますよ」みたいなのがあって。それを読んで、やってたんだけど、最初は曲がんないじゃん。だから授業中にテーブルの上でこんな事して遊んだりとかしてたんですよ。したら、普通の人は出来ないカッコとかあるじゃん?小指と薬指がくっついちゃうじゃない?そういうのが何か中学校では出来るようになってたみたいね。その時これが音楽に生かせるなんて全然思ってなくて、単に興味。どっちかっていうとね、音楽よりも理科・数学系が好きだったかな?小学校・中学校。体育苦手だったかな。唯一出来るスポーツがスキーぐらいで。体育の授業の点数非常に悪かったですね。サッカーも野球もヘタクソだったね。

T:中学時代はどういう生活をしてたんですか?

S:わりと勉強してた。勉強好きだったみたい、中学校は。

T:じゃあ、高校進学に。

S:高校受験組だった。なんだけども、グループサウンズの音楽やってた。

T:中学時代に音楽は何かやっていました?

S:今言ったグループサウンズのいろんな『エメラルドの伝説』だとか、あとは「♪お前のすべて〜」とかね、やってたね。中学校3年まで。でもデタラメなドラムだったから。しかも「インザイヤ25」とか歌ったんだけど、デタラメ英語で歌ったりとかして、ボーカルも少しやってたけど。文化祭はないんだけど、なんか発表することチョコチョコあったかな?って、中学3年で。高校入ったら、少し真面目にドラム勉強したいなと思ってたのね。と言っても音楽の学校ではなく、普通の高校だけど、私立行ったんだけど。立教高校ね、行ったんだけど。一番上手いドラムのいるクラブ入ろうと思ったら、なぜかそこがブラスバンドで。でも入ってから解った感じなんですけど、実は応援団で、結構鬼の様に恐い所だと入ってから解って。

T:すぐ辞めて。

S:いや、辞めずに。恐くて辞められないでしょ?大体。そんな感じで。

T:それを3年間。

S:3年間。非常に精神的にも鍛えられたし、しごかれたからリズムも練習すごくしたし。高校1年の時、もう狭い音楽準備室に竹刀持った先輩がいて、メトロノームの前でカッカッカッカッってちょっとやらされて。放課後2時間ぐらいぶっ続けで。間違ったりすると「たるんでんじゃねー!」バチーンとか言われて。「虎の穴」みたいな状態で。それが1年間、高2ぐらいまであったかな。すごく基礎リズムがそん時についたと。一方、その時に大学に行けちゃう高校だから、普通にやってれば、結構音楽が盛んで、ジャズもロックも何でもあって。その時、最初に会ったバンドが、渡辺貞夫のコピー、カバーをやってるバンドで。その時に一緒に演ったのが「秋山一将」って。今でも有名なジャズギタリストが同級生だったのね。もう彼その頃からピットインに出てたから、皆「プロになるの簡単だ」なんて思っちゃって。ほんとは彼が天才だったりするんだけど、僕らわかんないから「ミュージシャンって簡単になれんだな」って暗示かかった。高1と高2は大体ジャズやってて。あの頃はウッドストックの時代じゃん。その立教高校ってのは、なんか不思議な高校で、野外ステージが大きいのが2つあったね。中っくらいのだと3つか4つあって。いわゆる文化祭って教室ごとに模造紙でこう普通だったらいろんな研究発表するじゃん。そういうのがほとんどなくて、ほとんどがライブハウスな訳。音楽学校でもないのに。教室の約半分はライブハウス。真面目な研究発表もあるんだけど、それは非常に少ないみたいな。その時に多分佐野なんかにも会ったんだろうね。あとは、オクサワくんていうギタリストにも会ったのかな。その時に最初に出たのが日比谷野音の『スーパーサンシャインオレンジバンド』って名前だったかな。バンドで。日比谷の野音でボンゴ1コでスタンドに立てて、確か赤いジャケットを素肌に着て、踊りながら叩いたのが最初の大きいステージですね。

T:どんな音楽やってたバンドですか?

S:どっちかっていうと、今で言うプログレっぽいファンクなのかな。

T:当時いた洋楽のアーティストで例えると。

S:それも小野田に聞いて下さい。

T:70年代前半ですね。

S:そうだね。何というんだろ、ちょっとジャンル的にわかんない。だから70年・80年日本でも流行ってたんだろうけど、その辺の知識が少なくてすいません、未だに。

T:小野田さんとは高校3年間まで。

S:大学も。6年間は一緒で。でも高校1年の時はアイツもいないわけでまだ、小野田は下なわけで。俺が高2の時に高校入ってきた。彼はね。

T:その時にバンドは?

S:バンドは組んでないね、小野田とは。

T:高3の時に。

S:高3の時に。何か小野田がいるバンドで12人編成ぐらいのバンドだった。イベントっぽい感じでやったな。

T:大学ではどういう活動を?

S:大学入って。高校ってどっちかっていうとジャズが多くて、合間に何故か『キングストントリオ』のカバーやってるバンドとか『イースト』ってバンドのカバー。そういうフォークソング系のバンドもやってたし、そのアキヤマ歌ってるジャズのバンドもやってたし。一方ちょっとずつロックっぽいのも始めたけど。どっちかっていうとロックっぽいのは大学の途中から小野田に誘われてマナのバンド(マナ・アンドドロッピングパイ)、を始めた時が初めて。16ビートだけどロック。そういう感じの。

T:具体的にはどういう活動だったんですか?

S:それは一応「ポプコンで入賞したいぞ」みたいな、そういうのが目標だったみたいで。なんだけど、まだその頃は全然音楽真面目じゃなかったし、軽井沢で合宿すれば遊びにばっかし行ってと小野田に怒られてたのね。当時から後輩である小野田には怒られてたね。アイツの方が1年下なのにもかかわらず。バンマスだったし。もうリハーサルしないで遊びに行ってたもん、俺なんかね。それで怒られてました、すでに。

T:合宿して、ライブハウスでライブをやって?

S:ライブハウスでやったんだと思うよ。でも、ほとんどヤマハがらみが多かったでしょ、あの時は。次いでに言うと。その頃に、若かった佐橋くんにもヤマハで会ったんだね。その頃、「道玄坂のヤマハで店頭ライブってやると、ヤマハの道玄坂のスタジオがタダで使える」ってシステムがあって。要するに客寄せをやってあげる変わりに、スタジオタダで使えるよみたいな感じで。

T:大学時代は、主にそういうステージで。

S:そういうステージやってて、『ドロッピングパイ』でデビュー出来るから、大学時代は就職活動しなくていいやと。大学4年ぐらいから「プロになれるんじゃないかな」と思い始めてて、その時はバンドでデビューしかイメージなくて。デビュー出来そうだからって4年生の12月1月2月ぐらいはそういう気持ちでいて。「じゃあ、いいんじゃない?このバンドでデビューしましょう」って話になったんだけど、段々雲行きが怪しくなって。『クラウンレコード』で、レコーディングした時に斉藤ノブさんが来て、僕は簡単なことだけで、ノブさんがこうカッコイイことをやってたみたいな事があって。「なんか、これ怪しいなー。俺の立場はマズイかも知んないな?」と思ったら案の定「ボーカルだけデビューにします!」みたいになっちゃって。「バンドは、いりません」みたいになって「えーっ!」とかなっちゃって。大学の4年の2月ぐらいにそんな事になったので、1月か2月になったので、仕方がなくおじさんのコネの会社に入社しまして。サラリーマンを。

T:具体的には、何をやってたんですか?

S:営業なんですけど、通信機関係みたいな感じの会社。主に警備会社に機械警備の機械を売るみたいな。通信機器を売るっていう会社に。3年か3年半いて。

T:その間音楽活動は?

S:すぐ続けて。前のバンド辞めちゃってる訳だけども、今度は、弟経由で江古田で『パイナップルカウンティ』っていうライブハウスやってるアライマサハルくんってヤツと弟が仲良くて。そこに村田和人ってヤツが出てきて、そいつと一緒に『アーモンドロッカ』ってバンドを作って、僕がそこに入って。それはね、『ドゥービーブラザーズ』っぽい感じ、カリフォルニアサウンドみたいな感じの。を作ってて。1年ぐらい湘南の『リトルジョージ』って所に出たりとか、ほとんど誰も湘南に住んでないんだけど。イメージは湘南っていう戦略で売り出そうみたいになって。それで、当時のムーンレコードかな、「アーモンドロッカ良いから、デビューさせましょう」みたいになって。「じゃあ会社辞めましょう」となって。会社辞めて。「デビューすることになったぞ」と思って行ったら、また今度も「村田くんだけでいいから。バンドいらないや」ってなっちゃって「えーっ!またですかー?」ってなって。だけどマナとは友人関係は続いてたんで、相談に行ったら、「じゃあ大学4年の時にレコーディングした時のティンパン関係に来たキーボードの田代真紀子さんって女性がスタジオミュージシャンやってて、その人がアシスタント探してっからシンセ運ぶ仕事やらない?」っとか言われて。運んでセッティングするっていうのを半年ぐらいやって。やってる間にいろいろ勉強になったね。

T:70年代後半ですね。

S:そう。あの頃はインベーダーゲームが流行ってたんだけど。それをやりたくてもやっちゃダメだなと思って。スタジオの外に。他のアシスタントがいる時に、ブースの中に入ったりとか。ヘッドホン借りてかぶってパーカッションの人に見せてもらったりとか。特に斉藤ノブさんは顔知ってたし、前も会ってるからね。あとは浜口茂外也さんとか。あとは古い人達、いわゆるラテンと言われてるパーカッションの人に見せてもらって。譜面もその時、半年間で勉強して。「いつか俺もスタジオミュージシャンの方にいこうかな」と思ってたんだけど。したら、たまたま、その 田代真紀子さんが、その僕の師匠っていうかまあその人が妊娠して、休業することになって。「困ったな」と思ったんだけど、逆にそれはいいタイミングで。カラオケがちょうどスタジオミュージシャンで録る時代だったのね。始まってブームになってて。いわゆる本チャンのスタジオミュージシャンは高い。で「若手いないか」って事で「丁度いいじゃん」って。インペグさんが俺が練習してるの見てたらしくて、「叩ける」って事で。どっちかっていうとカラオケスタジオミュージシャン的な感じで、スタジオミュージシャンの仕事は始まったかな。当時は、ほとんど生じゃない?打ち込みはないから。テレビの仕事も沢山あったし、普通のレコーディングもやらせてもらったし。ただ、やっぱりカラオケが一番おいしかったよね、一日10時間とかあったから。毎日のようにあったから。

T:そういう時は、パーカッションで?

S:さっき言わなかった。そうだね。ジャズはほとんどドラムだったんだよね。上手いドラムが大学2年に入ってきたんで、私はクビになりまして、ジャズバンド。『プロフェッツ』っていうバンド、クビになりまして。「じゃあいいや」と思って、パーカッション好きだからパーカッションやろうかな?っていうのが大学2年だね。それからはパーカッションだけ。ドラムは、やっぱりやらずに。ただ、ドゥービーっぽいバンドの時はたまにドラム叩いたよ。ドゥービーのカバーしてたから。

T:スタジオミュージシャン始めからは、バンドは?

S:今は沢山やってるけど、その当時はバンドって事はあんまり考えつかなかったね。最初もうほとんどスタジオミュージシャンだけでも、超忙しかったんで。まあ半分以上カラオケだったけど。段々いわゆるメジャーな人のレコーディングさせてもらって。だからいろんな人のレコーディング、最初の3年ぐらいバシバシやってたね。

T:じゃあ、70年代はそういう感じで過ぎて。80年入っては?

S:そしたら、佐野がニューヨークから帰ってきて。佐野のライブは、サラリーマンの時から見に行ってたね。村田をやる前から観には行ってて。ただパーカッションが佐野のバンドに入るってイメージ、まるでなかったから。まあそんな感じでいたら、たまたまニューヨークから帰ってきた佐野が下町の方のイベントスペースでコンベンションやったんだ。それは当時はテープか、だったかわかんないけど、まあ音流したとこで、俺はパーカッション。で、佐野が歌っていう、二人だけでやるっていうのでやって。そのすぐ後に『ビジターズツアー』が始まった、佐野に関して言えばね。それまでは、ちょこちょこと色んなバンドやったんだろうけど、あんまり帯でやった感じがない。多分スタジオミュージシャンやったついでにやった。ま、あるとすればあれだ、ピットインでやってたボブ斉藤のバンドもその頃やってたかな。あとは、そうか、ラテンのバンドも珍しくその頃1年だけやったかもしんない。あの穴井忠臣さんと一緒に。いわゆるキューバっぽい音楽を。サルサとかラテンとかのやつをね。

T:長いスパンでのバンドというのが『ザ・ハートランド』が最初で?

S:それもちゃんと仕事的になってって意味ではね。いわゆるリハバン的なことではパラパラやってたけど、その前にも。本格的なバンドでツアー出るっていうのは佐野が、最初になるのかな。その前も村田のライブとか、あとはどっちが先かわかんないけど、久保田早紀さんとかその頃だと思うんだよ。あとは三田寛子さんとか、そういうアイドルっぽい人とかのライブをやってたと思う。

T:本格的に佐野さんとの『ザ・ハートランド』に入って、ツアー回ることになって。『ハートランド』入って、小野田さんは知ってたわけで。他のメンバーとのコミュニケーションみたいなものは?


S:そうだね、佐野も知ってたでしょ。それ以外のメンバーも、サラリーマンの時ライブを観てて、打ち上げで飲んだりとかしてたと思うんで顔見知りではあった。伊藤銀次さんも知ってた訳で。サラリーマンの時も知ってて、よく観に行ってて、話もして飲んだりしてて、『笑っていいとも』の音楽録りがあって、俺がアレンジャーに呼ばれて行って。したら銀次さんがいて、俺がロビーで楽器セッティングし終わって待ってたら「あれ?里村くん何してんの?」って言われて「いや、スタジオミュージシャンで叩くんです」「あ、そうなんだ!」って。知らなかったみたいで、あんまり。冗談なのかわかんないけど、と言われてやったのを覚えてるな、その頃。だからそれは佐野の前だよね。やる前だね、ちょうど間だね。計算すればわかると思うんだけど、『笑っていいとも』始まる直前ってことだね。銀次さんも全員知ってたね。

T:初めてツアー出て、何かエピソードとかありました?

S:そうね。最初はツアーが、どういうもんかってよく知らなかったから。たくさんツアーやっていった経験で、シータカ(古田たかし)がいろいろ飲み方を教えてくれたね。ライブ自体も、やっぱり結構シータカの影響は大きいね。やっぱりスタジオで譜面に慣れてるとか、ちゃんとしたアレンジで慣れてきちゃったでしょ?『ザ・ハートランド』だと佐野語で喋るじゃない?佐野が。要するに佐野独特の表現方法でアレンジを伝えるわけじゃない。それが最初よくわかんなくて。それをシータカがよく通訳してくれたね、最初はね。感覚でものを言うけども、僕はもう律儀に何拍って言ったら何拍と思うんだけど、佐野からみれば何拍じゃなくてもいいわけじゃん、そういうのって。そういうのをちょっと俺が真面目すぎだったりするのをシータカとかが修正してくれて。その頃サトボンって言われてましたけどね。「サトボン、そんな真面目に考えなくていいから、佐野の言ってることはそうじゃないから」ってことを教えてくれたみたいなことがあって。それがまあ一番ライブでは勉強になったかな。

T:ツアー終わって、その次の展開は?

S:佐野のツアーの合間も、鈴木康博さんだとか、村下考蔵さんだとか、結構フォーク系のたくさんやったかもしんない。以外とロック系はあんまやってなくて、なぜかフォーク系っぽいのが非常に多くて。なぜだろう?わかんないけど。

T:佐野さんのツアーは、『ビジターズ』からまた『カフェボへミア』に続く訳ですよね。それでレコーディングとかも参加するように?レコーディングはどうでした?

S:ずっとやってたね。それは『カフェボへミア』ぐらいからかな。いわゆるスタジオのレコーディングに比べたら全然もう、全然全く違う手法だもんね。佐野の中では音が鳴ってるんだろうけども。まずバンドに勝手にやらせて。えらく時間かかるよね。もっと言っちゃうと、ベードラの音決めだけで一日終わったりする時もあるし。でもそれで段々こう雰囲気が出来てくっていう、そういうプロセスが大事に出来る。贅沢なレコーディングだけどっていう感じはしてて。いわゆるスタジオミュージシャン的に、もう3時間でピッチリ、バーッてハケなきゃいけないっていうような、そういうことはありえない。クリエイティブな感じで作れるレコーディングだ。それは一番感じたね。でも、それを日本で始めたのは佐野がほとんど初めなんじゃないかなと思うんだけど。他が段々マネし始めたんで、他の仕事・現場行っても、今のスタジオミュージシャンって感じの仕事でない仕事も増えてきて。割とゆったり目だったりとか、雰囲気とか空気を大事にしたりとかっていうレコーディングは出来るようになってくるのは増えてきた。俺に増えたのか、日本中がそうなってきたのかわかんないけどね。増えたなって、イメージが。

T:『カフェ・ボヘミア』のツアーに出ますよね。もうその頃には『ザ・ハートランド』として慣れて。

S:うん。慣れてはきたけども、やっぱどっか俺は今でも細かい所が何かあるみたいで。それは自分でも苦労したかな。よく言えば繊細、悪く言えば神経質みたいな。パーカッショニストにしてみれば、気質としてはちょっとイメージに合わないぞ、みたいなとこがどっかあるみたいでね。

T:その時期、長田(進)さんも加わったという事で。


S:そうだね。長田が入ったのは。オーディションで来たんだけど、それでだいぶ変わったかな。バンド自体もね。(横内)タケの時とは随分変わったよね。

T:『カフェ・ボヘミア』ツアーが終わって80年代後半、他に動きがありましたか?

S:その頃から、いわゆるリハバンたくさん始めたと思う。これきっと佐野のツアーがない時、スタジオもない時って結構時間がたくさんあったので「リハーサルバンド」っていうけど、いわゆる遊びで自分達で楽しんでやるバンドを始めたと思います、いくつか。ていうか、話があればそこにのっかって。別に、ほとんど自分で立ち上げたものはなかったと思う。里村自身が立ち上げたものはないんだけど、人に呼ばれればすぐヒョコヒョコ行ってたかな。そういう意味では、またマナともやってるんだと思う、その間。

T:90年代入って動きは?

S:そうですね。『ハートランド』を辞めた後かな。西本明がやってた「尾崎豊をやんないか」って事になって。明が呼んでくれたんだけど、長田も一緒だったのね。

T:その時はどうでした?

S:尾崎くんはね、佐野の九州の『ビートチャイルド』あれの時に会ってるんだよね。えっと、九州のホテルで一緒にエレベーターに乗った時に、明に紹介されて「尾崎豊君て言うんで」と。当時、明もすでに仕事してたと思うんだけど。話をしたのは覚えてる。それは映像で覚えてるぐらい覚えてる。でも、申し訳ないけど私は尾崎くんの音楽を全然知らないでいました。そん時はね。仕事を始めてからだもんね、ちゃんと聞くようになったのはね。

T:それは最初は、ツアーって事で?

S:いきなりツアーだね。リハーサルは結構長くやったので。ま、佐野方式だよね。その佐野の方式は、明が尾崎に伝えたのか、尾崎が佐野くんみたいにやりたいと思ったのか。だから非常にリハーサルの形は似てたよね。いろんな手法が。ちょっと違うのは、やっぱりスタジオ慣れしてる滝本とか居たので、佐野に比べるとちょっと効率よくっていう感じはあったけど。

T:ツアーはどうだったんですか?

S:佐野ん中にある「バンド全体の暖かみ」みたいのがちょっとなくて。もちろん冷たい関係じゃないけどね、尾崎のバンドも。もっとこう研ぎすました感じが尾崎のツアーには、あったかな?と思う。その方が和める部分もちゃんとある。ま、尾崎もあるんだけど、なんかそれでも和めているようでどっかこう「とんがったままあるぞ」みたいな違いがあったかな。比べるとね。あと小屋が佐野よりも大きいキャパんとこが多分、ドームツアーっぽいのがあったからかもしれない。代々木体育館だとかあったでしょ?

T:その後、90年代後半になってきますよね。


S:その辺から、どっちかっていうと、まあ普通にスタジオやってたって思うんだよね。あと、たくさんバンドを、たくさんたくさんやってた。杉(真理)さんと始めたのは、6.7年位前じゃないかな?『ハートランド』解散した後になるかな。

T:『ハートランド』の最後のライブ、横浜スタジアムは、どうでした?

S:あの時は、久しぶりだったんだけども、どう言ったらいいのかな。俺はとっくに辞めちゃってる感じだから、なんかちょっと変な感じだね。『解散ライブ』という感じじゃないね、俺はね。俺が行く方から見ると。あの時ね、俺、たまたま全然違う用事で、オヤジので神奈川県民かなんかでコンサートあって、昼の部かなんか観て、神奈川県民から横浜スタジアムまで歩いて行ったと思う。楽器は前から運んでてもらって。覚えてるのは、その時「赤い靴」だっけ、あったじゃない。あの前、何人か写真撮ってんな?って見ながら歩いてた記憶があります。演奏そのものは、演奏した時の実感よりも、後でビデオで観たイメージの方が脳裏には植え付けられちゃってるんで。あの時の感覚っていうのは、そうね、ビデオのイメージの方が大きいかな。

T:『ハートランド』って里村さんにとっては、どういう存在なんですかね。

S:やっぱり一番長く音楽深く携わってきたっていう感じ。今は別にもう『ハートランド』なくなって、違うバンドでやっていて、それでもレコーディングにはたまには呼んでもらっていて。そういう意味では、自分では継続してるような気持ちはあるのね。辞めちゃったって気はないかな、今の方が。横浜スタジアムの時は辞めちゃった感覚はあったけど、今は辞めちゃったって気がないね。

T:『ハートランド』って里村さんにとって、佐野さんとの繋がりの様な感じなのでしょうか?

S:高校から知ってるから、佐野のつながりの方が大きい。佐野に『ハートランド』がかぶってきたみたいな感じかな。後からくっついてきた感じ。段々変化はするんだけど、始めたばっかしはスタジオミュージシャン的な思考しかないから、佐野が『ハートランド』っていってるけどそれは外から見える形で、バンドじゃなくて、あくまでもサポート集団だぞと。そういうドライな感じで最初見てたのね。で、やってるうちにお客さんの方も『ハートランド』という見方をするじゃない。で、やってるうちに段々バンド意識は俺の中でも芽生えてきた感じはあるから。だから『ナポレオンフィッシュ』の時にショックだったね。ある意味自分の中ではね。自分もバンドの一員だと思ってたから。『ハートランド』自体でいうと、「あんないいバンドはないな」と思う。この前、昔のちょっと資料でもらったカセットを聴いてみたら、すごくいいと思って。こんなの今でもありえないだろと思うぐらい、いい演奏。いいグループ。あとは、よく一番思ったのは、佐野がわざとやってる場合もあるし、間違った場合もあるんだけど。例えば歌詞を間違ったりとか。一番二番歌うのが一番三番で歌ったりとかってことが、たまに起きたりとか。なんかあった時に、バンドが二手に分かれるじゃない。それがこう分かれてギューっと戻ってく感じがスゲーバンドだなと思うことが非常に。特に後半はあって。それはカッコイイなと思って。その内に逆に「誰か、皆、間違えねーかな?」と思って。間違えて、そっからグーっと立ち上がる感じが、こう「復活」って感じがとっても気持ちいいなっていうのかな。

T:それは、メンバーが皆、感じてた事なのですか?

S:と、思うよ。だから、多分佐野は後半は、わざとっていうのが結構あったんじゃないかな。お客さんのノリ見て、ここはもうちょっと間奏延ばした方がいいなって急に思い立って、わざと延ばしてみたりとか。したんだと思うよ。そうすると間違える人出るじゃない?必ず誰か。ピッタシ合わなくなった時にでもガーっと立ち直る感じがカッコイイなっていうのを。それはバンドの力だなっていう事。それは佐野に聞いて下さい、意図的にやってんのか。どっちなんだろうね。

T:ちょっと話は戻って。杉(真理)さんとの話なんですけれども。出会いっていうのは。

S:どうなんだろう。はっきりしたことは覚えてないんだけど。あっ思い出した。鈴木康博さんのツアーだとかレコーディングやってた時に、ビートルズの、何周年になるんだろう。シネクラブの。あそこが主催するイベントがあって、いろんな人がビートルズを歌うっていうイベントがあったのね。その時に、前から知っていたんだけど一緒に演奏することになってっていうのが最初と思う。

T:最初やってどうでしたか?印象は。

S:今までのミュージシャンとはタイプ全然違う。普通のミュージシャンは皆、自然体であろうとわざとであろうと、自分を、見せ方をとっても気にするじゃん。杉さんは逆で見せ方を崩すのね。要するにカッコつけなさすぎ。「もっとカッコつけて下さいよ」って時があるぐらい。「え、そんなこと冗談言っちゃっていいわけ?杉さん」ってな事とか。それがビックリしたね。一応マネージャーとか本人も含めて、衣装もちゃんとするってのはあるんだけども、いろんなことが、佐野くん、尾崎くんとかに比べると。自分のスター性をかなぐり捨てるとこはあるね、杉さん。変(笑)。一般の人っぽいってのはそうなんだけど、歌って前に立つとすれば変。庶民的というか。庶民的目指してんのかも知れないけど。なのに、やってることは結構、よく聴いてみると超カリスマだったりとか。ちょうど普通のアーティストと裏返しな部分が杉さんにはある気がするね。俺の中のイメージだけども。

T:あと他に活動しているバンドがいくつかありますよね。

S:『天才トノサマバンド』は、やっぱり鈴木康博さんがらみかな。和田加奈子さんって人のサポートもやってて、事務所が一緒だったのかな。その時に伊豆田くんも初めて会ってんだよな。で、(鈴木)雄大が『天才トノサマバンド』始めたばっかしの時かな?「パーカッションやってもいいよ」って言ったの。「ホントー?」とか言って。それも話した場所覚えてんだ。新宿パワステで、杉さんのライブを雄大と二人で観てて、そん時話した気がする。で、天トノをやることにした。何年前だろう?その後、パワステは何年か続いたよ。それで終わっちゃったわけじゃないよパワステは。10年以上になりますね。天トノはテントノでおもしろいし。あと、いわゆる普通のメジャー音楽シーンには登場していないけど、『ラブノーツ』も面白いんだよね。Hiro 川島が、トランペットを吹いてるやつで。今は会社員ではありますが、非常にそういう意味ではアーティスティックなことを考えているし、チェットベーカーとも共演してるし、チェットベーカーのトランペットが川島の誕生日にヨーロッパから郵送されてくるぐらい。

T:『ラブノーツ』は、どういうバンドなんですか?

S:もともとジャズバンドだから、井上真紀ってボーカリストと、Hiro 川島のユニットなのね。サポートって感じなんだけど、でもバンドになりつつもあるかな。元々ジャズバンド、なんだけど、井上真紀がフラダンスの先生もしてるんで、その関係もあってハワイアンも最近はやるようになって。それも不思議な縁で、『ハワイアンのOHANAバンド』もそうじゃん?あっちもやってさ。他にも結局ハワイアンっていくつか、そのさっきの『アーモンドロッカ』のアライくんっていうのもハワイアンやってるし。なぜか、いろんな方からハワイが押し寄せてきた時期が、今年ぐらい去年ぐらい。天トノの話で思い出した。それまでね、俺ソウルファンク実は大好きで、昔はディスコ大好きだったから、その佐野のツアーの時も尾崎のツアーの時も、打ち上げの後は必ずディスコで踊ってた。わりと『シック』とか今で知ってる『アースウィンド&ファイヤー』とか、そういう感じの曲とか好きだったのね。『スティービーワンダー』も好きだけど。あと一番好きなアーティストは『プリンス』だけど、そういうのはディスコでかかんないからあれだけど。ホントはソウル好きだったんだけど、ずーっと出来なかったのが、つのだ☆ひろさんのバンドで出来てっていうのをちょっと言っときたいかな。つのださん流れで会った人達とは今でも、ソウルファンクからヒップホップまでの繋がりで、例えば久保田さんってギターの人とか、円道一成さんっていう『キリン淡麗生』やってる人とか。あの人のソウルファンクバンドなんかも、今でもやってる。最近の動きとすればね。あとゴスペルもなぜか多いね。流行りだからかな。円道一成さんの奥さんのギラともやったし。さっき言って話した、つのだ☆ひろさんとのつながりで『アダマンツ』の西込くんの流れで、小坂忠さんの方のゴスペルもやったし。あと全然違うゴスペルも二つぐらいやってるかな。考えてみれば掛持ち多いですよね。同時進行ですよね。

T:最近、ワークショップで教えてますね。それはどういう経緯で?


S:5.6年前に、リハーサルバンドやってたバンドが、TCA・東京コミュニケーションアートっていう西葛西の音楽学校の講師のバンドだったの。俺は講師じゃなかったんだけど、学校側は講師じゃないとスタジオ使っちゃいけないってリハーサル出来なくなっちゃって、「じゃあ講師にしちゃえ」みたいになって俺講師になっちゃったんですよ。講師採用の時にたまたま話をもってきてくれた人がいて。講師になったら堂々とリハーサルスタジオ使えるぞみたいな事だったような気がする。それで教えてるうちに教えるのが面白くなってきた。それより前から個人レッスンは何人かしてるんだよ。あの頃、杏子さん教えたし。いろんな人に教えてたけどね。ワークショップって形にしたのは、この2年ぐらい。ここで教えてて、「教えるのも面白いな」と思っていたら、たまたま主婦の皆さんだとかサラリーマンの皆さんがやりたいってことになったのが去年かな。なんで、ワークショップって形は去年かな。それで、寒くなったんで場所探してたら「ハワイアンドリーム」がやってもいいよってなったんで。

T:「ハワイアンドリーム」ってどういう所なんですか?

S:ウクレレショップ。ジーストリングっていうブランドの、輸入販売元かなんかだと思うんだけど。その場所でウクレレワークショップやってたんで、ここで使えるよってことになって。「こんな大きい音、平気ですか?」って言ったら「大丈夫です」って、ワークショップやったわけ。それが今のワークショップのいきさつ。考えると、本当、いろんな人が微妙にからんでるよね。僕の人生のドラマに出てくる出演者は。いろんなとこに伏線があるよねっと思って。一回会った人がまた再登場したりとか。全然違う顔で現れたりとかするんだよ。非常に人生の面白さを感じます。

T:なるほどなるほど。今後、活動でなんかやってみたいこととか。

S:今ちょっと一時、ずーっとやってきた中で足りない部分、ロックっぽいもの、フォークっぽいもの、ハワイアンっぽいもの、ゴスペルもやってて、やっぱりどうしてもソウルファンクっぽいものと、あとラテンっぽいものっていうのは自分の中で、仕事としては足りないなっていうかな。バランス的にいろんなことをやりたいわけね、と思ってるけどね。

T:今回、moment映画『野次馬音楽隊』に出てもらってっていうか。きっかけを作ってもらってっていうか、やってみてどうでしたか。

S:今回の映画の方は、一番やったことないジャンルだったけど面白かった。『野次馬音楽隊』だってこんなことが、酒飲んで話した伊藤監督が、シナリオ書いてると思わなかったみたいな流れだし。でも、それで第二弾も作りたいなってぐらいにちょっと今気に入ってるけど、この状態を。もう、次の『野次馬音楽隊2』が作れるもんならば、シナリオの元ぐらい書けるかなっていうのはあるよ、すでに。

T:撮影自体はやってみてどうでしたか?

S:そうですね。プロモーションビデオの撮影は佐野の時とか、他の人でも経験あったけど、あーいう撮り方、映画としてやるの初めての経験で、しかも外のロケでしょ?非常に面白かったね。想像してたよりも遥かにいろんなことが起きたりとか、いろんな工夫があったりとか、ということに気がついて面白かったです。

T:その前に『JOURNEY to LOCK THE LOCK』の音楽もやっていただいて。

S:映画につける音楽ということで、パーカッションとピアノとギターが欲しいよって言われたんで、一番多くセッションしてる二人、明と長田と、まあしばらく会ってなかった二人ですけれども、あの、マジで、随分時間があいたにもかかわらず、すぐスムーズに自然に演奏が出来たなって感じだね。マジで、これは。ま、要するに、関連のある二人で、あの映画に一番合いそうな二人という意味で、非常にいい、映像にあった音が作れたと思います。ただ、結果的には明と長田がほとんどアレンジしたみたいなもんなんですけど。いつものように結果的には僕は、くっついてるだけになってしまいました。アレンジ的には、あの二人がやった感じになってます。

T:7/30のライブも宜しくお願いします!


S:OKです!


最後は『今、里村さんにとって、パーカッションとは?』を聴いてみました。これはムービーで本人の言葉を聴いて下さい。里村さんの詳しいインフォメーションは、HPをチェックしてみて下さい。また、short filmの『野次馬音楽隊』『JOURNEY to LOCK THE LOCK』も、合わせてお楽しみ下さい。

里村美和オフィシャルホームページ
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/yoshissm/satomura/




 

 

 

 

 

 

 

 

 

【主なレコ−ディング参加作品】

佐野元春

「Cafe Bohemia」 
1986/ESCB1325/Epic Records

「Fruits」
1996/ESCB1741/Epic Records


Bread & Butter 

「BB★C」
1998/ALCA-5256/ALFA

 LOVE NOTES 


「ALBUM/Jazz Love Notes」
(DVD)
2000/TEMC-2303/TEMCA INC

 2B Loved  


「To Be Myself」
BACD-00001/BayArts Products

OHANA BAND 

「’Aha」
2002/PCCA-01720/PONY CANYON

杉真理

「LOVE MIX」
2002/OMCA-5011/OMAGATOKI

天才トノサマBAND

「異形/偉業」
2003/SLG-001/Indies House

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【主な THE HEARTLAND 作品】



『HEART BEAT』
佐野元春
1988.04.21/ESCB1131



『The Golden Ring』
佐野元春
1994.08.26/ESCB1516-8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Message Movie

今、里村さんにとって
      パーカッションとは?


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【映画出演スチール】











moment short film #6
『野次馬音楽隊/ORDINARY HEROES』

こちらからムービーへ