我那覇 美奈


1998年、CDデビュー。現在までに14枚のシングル、4枚のアルバムを発表。
先日のイベント「moment jam session#4」にて、素敵な歌声を披露していただきました、現在ニューアルバム、
レコーディング中の我那覇 美奈さんへのロングインタビューです。


(2005年3月29日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





我那覇 美奈(Mina Ganaha)

奄美大島出身。AB型。
1981年 鹿児島県奄美大島生まれ。
1990年 9歳の時、デビューのきっかけとなる“Teens Music
1990年 Festival”に出場。
1996年 15歳で単身上京。
1998年 Sg.『桜のころ』でデビュー。
1999年 1st album「きみにとどくまで...」リリース。
2000年 2nd album「TRAVELING SUNS」リリース。
2001年 3rd album「20」リリース。
2002年 4th album「momentum」リリース。
2002年 7月に実弟が出場を果たした年、
1990年 「熱闘甲子園」(ABC・テレビ朝日系 全国ネット)の
1990年  テーマソング『終わらない夏』リリース。
2003年 映画「あずみ」主題歌『ねがい』リリース。
2004年 5月に1年のブランクを経てリリースされた『月の雫』は
1990年  現在もロング・セールスを続ける。
2004年 9月にFairlife(水谷公生・春嵐・浜田省吾)による
1990年  楽曲提供の『砂の祈り』をリリース。

現在までに14枚のシングル、4枚のアルバムを発表。
そして、2005年、春、現在ニューアルバムのレコーディング中!
 我那覇 美奈インタビュー

自分にとって大きい変化が訪れるまえぶれという時期で、歌詞も全然書けない状態でスタジオに入ってる時に、弟が甲子園に出たんですよ。スタジオのTVで応援していたら、弟が代打でホームランを打ったんです!すごい感動してバーッて涙が出て号泣でした。「お姉ちゃんもがんばらなくちゃ」って思って、がんばってる弟や自分に対して歌を書こうと。

TERA(以下:T):では宜しくお願いします!

我那覇 美奈(以下:G):はい。

T:まず生まれた場所を教えてください。

G:鹿児島県の奄美大島です。

T:ご兄弟は?

G:今20歳の弟が一人とその一コ下に妹がいます。こう見えても長女なんです。うちは兄弟も家族もみんな仲いいです。

T:小さい頃は、どういう遊びをしてたんですか?

G:兄弟全員、家にはいなかったですね。野球とかサッカーとか、そういう外に出て遊び回る、野山を駆け回るような事ばっかりしてましたね。

T:家の周りってどんな感じなんですか?

G:奄美の中でも名瀬市という市の生まれなので、人が思い描くいかにも田舎っていう、信号もないんじゃないのっていつもいわれるんですけど、それより街って感じですね。港の街って感じ。家のすぐ裏に港があって、大きい道路が走ってて、まあ大きいっていっても普通の二車線ですけど(笑)家が建ち並んでいて、学校もすぐ近くにあって、あと、うちは家庭裁判所と留置場の間に家が挟まれてて、たまに護送車みたいなのが走ってましたね。(笑)

T:(笑) へぇ、凄い環境ですね。小学校に入って、なにかやってた事ありますか?

G:外で遊ぶか、人の前に出て歌ったりしてました。親戚で集まったら前に出て歌いたがる子っているじゃないですか。まさにああいう子。「私が、私が」という子で、小学校に入っても、私は記憶にないんですけど、友達とか家族の話によると、そうとう出たがりだったみたいです。小学校の時は、バレー部に入ってスポーツもやりつつ、バンドもしてたんですよ。小学三年生の時に、小学生の女の子だけのバンドを作るという広告が新聞に載って、歌うのが大好きだったので応募して、何も楽器はできなかったからヴォーカルとして入ったんです。それが、今につながっちゃうんです…。

T:バンドでは、どんな歌を歌うんですか?

G:それが変わったバンドで英会話教室の先生が集めたバンドだったんですよ。先生がカーペンターズをすごく好きで、そのバンドはカーペンターズのカヴァーだけをやるバンドにしようって。うちの母がすごい音楽好きで、カーペンターズも聴いていたんで、「じゃあ私歌いたい」って、英語もわかんないけど覚えて、歌ってました。カーペンターズの歌しか歌ってなかったです。

T:そのバンドで発表会みたいな事は?

G:ヤマハに練習する場所があったので、そのヤマハ関係のイベントがあると、ゲストみたいな感じで出たり、あと一番大きかったのは、1年に1回の「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」に出るっていうのが目標でした。初めてティーンズに出た時に、奄美で優勝したんですよ。それで鹿児島の大会に出場して。だから初めてステージに立ったのは9才で3年生でした。他のメンバーは5年生、6年生で、バンドといってもドラムはいましたが、あとはシンセなんですよ、3人ぐらい。シンセでギターの音とかベースの音とか出しながら、カーペンターズの「ブリーズ・ミスター・ポストマン」をやって優勝したんですよ。

T:じゃあ小学校3年生の時から、ずっとそのバンドは続く?

G:私が6年生に上がるくらいまでは続きました。みんな中学生になって奄美を離れる子も出て来たりして、なんとなく自然消滅みたいになったんです。その頃に、レコード会社と前の事務所スタッフの方が会いにてくれたんです。

T:それは、どこで見つけられたの?

G:優勝した時の「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」のビデオが、回り回って、レコード会社や事務所の方たちの目にとまって、この子を探そうということになったらしいんですよ。でも昔のテープらしいから、大人になってるだろうということで探してたら、まだ6年生の子だっていう事がわかって、ヤマハの教室に、そちらにあのバンドのヴォーカルをやってた女の子はいますか?と連絡がきたそうです。その時には、絶世の美少女だって噂が広がってて(笑)。それで、うちに電話がきたんですよ。まず親がでて、話としては、怪しいじゃないですか。まさか奄美大島でスカウトされるなんていうのも、それまでもなかった事だったから、「怪しい、怪しい」とかいってたんです。でも一応会ってみようという事になり、東京から会いに来てくれたんですよ。絶世の美少女という噂の私は、その時ソフトボールやってたんで、モンチッチみたいな頭ですごい日焼けして、まゆげもぶっとくて、本当に少年のようだったんです。それでも何故か「一緒にやろう」といってくれたんですよね。それが、中学に上がる前の春休みでした。

T:それで中学校に上がる時に、なんか動きが?

G:事務所としては育てたいという気持ちが大きくあったので、中学から東京に出て来て欲しいと言われたんですよ。私は「行きたい、行きたい」っていったんですけど、両親的には多感な時期に手放すことはできないと、中学生の間は、レッスンをしに東京に行ったりしながら、奄美大島での中学校生活もエンジョイしましたね。

T:それで中学時代は部活とかそういうのは?

G:バレー部に入ったんですけど、土日とか休みの日は、鹿児島に歌のレッスンをしに通ってたので、バレーの試合とか全然出れなくて、やっぱり中途半端にやるのはイヤだなと思って、1年生のときに辞めちゃいました。そして中3のときに、このままだと思い出がないなと思って、生徒会に立候補して、生徒会長をやったんですよ。

T:生徒会長ってどんなことやるんでしたっけ。

G:とりあえず目立ちたかったんじゃないですか(笑)ちょっとみんなから浮いてるくらい熱い子でした。新入生歓迎会や文化祭みたいな行事を、一生懸命やるっていう事がカッコ悪いみたいな時期に、ひとり熱くて、みんな楽しくやった方がいいじゃんと思って、多分立候補したんですけど、今考えるとみんなあいつにやらしとけみたいな感じで、のせられてたのかなという気もするんですけどね(笑)生徒会って1年生、2年生の代表がいて、みんなで話し合って物事進めるから、部活やってない分、先輩、後輩とかなかくて、すごい楽しかったですよね。

T:レッスンにも通ってたわけで。文化祭とかそういうとこで歌ったりとかは?

G:なんか文化祭とかでは歌いたくなくて、何もやってなかったらやるんですけど。もうレッスンとか通ってたし、すごくイヤな感じかなぁと思って、音楽と関係なく、脚本書いて劇をやりました。

T:へぇ、それは、どんな劇だったんですか?

G:3年生の時に、うちの母の体験を元に書いた学園ものだったんですけど、何年かしてビデオが出て来て見たら、「なんじゃこりゃ」みたいな(笑)すごく恥ずかしいです…

T:そういうこともありつつ、中学卒業する頃は、どんな感じになってきたんですか?

G:卒業する時は、「とにかく東京に行ける、歌の仕事ができる」っていう思いで、いつごろデビュー出来るとかは決まってなかったんですけど、不安とか一切なく、本当に夢と希望だけを持ってました。だから家から離れて寂しいとか、友達と離れて寂しいとかいう記憶とか感覚はあまり残ってないんですよ。すごい前ばっかり見てたような気がして。それが中学を卒業して奄美を離れる時だったんですよ。とにかく「何が待ってるんだろう」という気持ちで、一杯でしたね。

T:家族も「いってらっしゃい」みたいな感じだったんですか?

G:母は私に輪をかけたような性格の人間で、「どんどん行ってこい」って。両親とも好きな事をやらせてやろうという二人で、父は何も言わずに、「とにかく決めたなら最後までやりぬけ」という感じで、送り出してくれました。兄弟はまだその時小学生なので、行かないでみたいな感じはべつになく、「いってらっしゃい」ってみんなに笑顔で送り出されたように、その時は思ってました。今聞くと、母なんかはやっぱり泣きながら見送ってたみたいですけど。

T:で、東京に来ました。高校はこっちの高校で?

G:中学の時、最後1年間勉強して、都立の単位制の高校に入学したんですよ。だから仕事があっても割と融通がきいて、単位をとれば大丈夫という大学みたいな高校で、2年ぐらい通いました。でも16才でデビューして、制服があったり、何時までに行かなきゃいけないとか決まりがない学校で、逆にそういう自由な感じだったら、今行かなくてもいいか、仕事に専念しようと思って、辞めたんです。

T:東京に来て、活動拠点はどの辺だったんですか?

G:一番最初に住んだのは、事務所の社長の家なんですよ。その家には今からやるぞっていう役者や歌う子達が一緒に住んでて、15才の時に8ヶ月くらい住んでました。私が「バイトをしたい、一人暮らしもしたい」ってわがままをいって、16才になった頃には、その家を出て、池尻大橋にずっと住んでました。そこから高校とバイトと仕事に通ってたんですけど、それがすごく忙しくなってきたので、仕事だけになって。

T:はじめての一人暮らしは楽しかったですか?


G:それが、私すっごい恐がりで、実家に住んでた頃は、お化けとかそういうのがすごく怖かったんですよ。一人でトイレやお風呂に行けないぐらい。誰かに立っててもらわないと駄目だったんですけど、一人暮らしし始めると、そんな事いってられないじゃないですか。すごく強くなって、東京はいろんな事件とか起こるじゃないですか、よっぽど普通の人間の方が怖いと思ったら、実家ではかける習慣の無かった鍵も何回も確認して、火の元とかも何回も確認して、「あれ、かけたっけ」とかすごく怖くなったりしてましたけど、だんだん慣れていきました。料理もするようになり、友達ができて、みんなで集まって遊んだりするようになりましたね。

T:東京に来て、デビュー・アルバムまでの流れを教えてください。

G:15才のころ住んでた社長の家に、いろんなミュージシャンや、音楽関係者の人が来ては、飲んだり食べたりしながらセッションをやってたんですよ。その中にプロデューサーの多賀英典さんがいて、私を見て、「自分が音楽的な面で引き受けるから、いろいろやっていいか」って言ってくれて、それが15才の終わりとか16才になるくらいでしたね。その時にファースト・アルバムの詞や曲を書いてくれた、山野英明さんとピカソのVocal辻畑鉄也さんと一緒に、何日間か合宿レコーディングをしました。そこで生まれて初めて、自分の為に書かれた曲に出会って、みんなでああでもないこうでもないなんて言いながら、その時の私は何もわからないまま、ただ歌えるのが嬉しくて、自分の為の曲だというのも嬉しくてという感じでしたね。そうやって10数曲のデモを作ったころ、今のレコード会社のディレクターがやってきて、「一緒にCDを出そう」っていう動きになりました。そこで、デモの10数曲に加えて、2nd、3rdシングルを書いてもらった島野聡さんにも曲をお願いして、出来上がったのが最初のアルバムなんですよ。

T:一番最初にレコーディングで歌った曲って覚えてますか?

G:一番最初は、じゃあどんな曲が合うかということで、好きな曲を聞かれて、カーペンターズ、あと日本語の歌もすごく好きだったので、井上陽水さんやユーミンさん、昔のフォークソングとか歌謡曲といろいろ答えてて、「悲しくてやりきれない」という曲を録ってみることになり、一番最初にそれを録ったんですよ。その時に、ファースト・アルバムに入ってる「逃げ水」だったり、「泳ぐ雪」を箱根のスタジオで一緒に録ったんですよね。そのテープは今も残ってますけど、とっても若い声で、一生懸命歌っているのがすごく伝わる感じです。

T:そのアルバムレコーディングは、わりとすんなり?


G:1年ぐらいかかってるんですよね。最初は、ただの田舎から出てきた子で、みんなが一生懸命滑舌から音程まで教えてくれて、その時の私にはわからなかったけど、みなさんが評価してくれてた声の持つ魅力を、どうやったら引き出せるのか、どうやったらレコーディングしてリスナーに届くまでになるのかっていうのを考えて、同じ曲を何度も何度もレコーディングしましたね。実は、一つの曲でもアレンジはいくつも存在してたりして、時間と愛情をかけた1枚が、1stアルバムだったと思うんですよね。

T:1stアルバムの中で、特に印象的だった曲ってありますか?

G:そうですね、やっぱり全部の曲にあるんですけど、最初に歌った「逃げ水」ですね。歌詞の世界と曲のちょっと歌謡曲みたいな感じが、まだ15才だったけど、すごい切ない気持ちがして、「ああ、この切ないのってすごくいいなあ」と思いながら、歌ってた記憶がありますね。あと「ノスタルジア」も、すごく不思議な世界なんですよ。いろんなアレンジが一番ある曲で、一番歌い込んだのはデビューシングル「桜のころ」だし、「泳ぐ雪」は、すごく歌が難しくて、その時の私の許容範囲を超えてて何度も何度も歌うことで、「あっ、歌えた」っていう瞬間を知った曲でしたね。

T:実際にCDが店頭に並ぶことになって、どうでしたか?

G:最初はCDが出るたびに、いろんなCDショップに行ったり、渋谷のスペイン坂に立てた大きな自分の看板を夜中こっそり写真撮りに行ったり、すごくうれしくてしてましたね。でも実感はないんですよね。ライヴにお客さんかたくさん来てくれようが、本当に自分がやってることなのかっていう実感があんまりなくて。すごく忙しかったので、嵐のように毎日が過ぎて行きましたね。3rdシングル「TEARS〜時間の中で...」で、TOSOSINのコマーシャルに出たりもしたので、どんどん自分の手に負えないとこに行くんだろうみたいに感じてた時期ですよね。

T:ライヴは、演ったりしてたんですか?


G:1stアルバム出した後、初ツアーをしました。初めてのワンマン・ライヴが福岡だったんですけど、すごい感動して、泣きそうでした。アンコールきた時は、泣いてたかもしれない(笑)懐かしいですね。アコースティックギター持って人前で歌うこともバンドで歌うことも初めてで、いろんなことに必死でした。それもその時は「できるできる」って言い聞かせて、思いっきり背伸びして、肩にも力入りながら、大人に負けない、都会に負けない、この仕事に負けないっていう気持ちですごく頑張ってた感触がありますね。

T:それで次の2ndアルバムに移る流れみたいなのは?

G:ライヴもたくさんやって、ツアーも終えて、ライヴでやることを意識して、作り出したんですよ。サウンドもそうだし、ギターで弾き語ることも意識しました。その頃、テレビとかコマーシャルに出ててる女の子みたいなイメージが、コンプレックスだったので、もっと音楽やってることを見せたいみたいなものが強くあって…ジャケットに出過ぎるくらい出てるんですけど(笑)その時はそういうことに必死で、私はこうなんだっていうのを出したいという思いで、詞も書くようになってきて、歌い方とかもだんだん強くなっていきました。ライヴで鍛えられた歌声になってきた感じですね。

T:一番最初に書いた詞は?

G:2ndアルバムでは5曲作詞をしたんですよ。その前に「花の咲く街」っていう1枚目のアルバムに入ってる曲で、詞を共作したんです。石嶋さやかちゃんという同じ年の女の子なんですけど。彼女が書く歌詞がすごく好きで、私も詞を書き始めてたんで、一緒に「あたらしいくつ」と「花の咲く街」を書いたんですよ。

T:もちろん皆、曲が先?

G:みんな曲が先ですね。

T:自ら詞をつける曲というのは、選んで?

G:そうですね、やっぱり書きたいなとか、書くイメージがわいたものとか、そういう曲を選んで書いてますね。恋愛だったりとか、色んな人との関係の中で思った事とか、だんだん自分の事を書き始めてた感じですね。

T:今、この2ndアルバム「TRAVELING SUNS」に思うこと。

G:そうですね、何かの芽生えっていう感じですね。「自分でいろんな事をやりたい」ということが芽生え始めた感じがしますね。何もわからないで歌ってた1stアルバムを経て、一歩を踏み出そうとしているっていうか、よりもっと自分が発信したいっていう気持ちが生まれて、でも自分でどうしていいかわかんないという戸惑いもありました。

T:タイトル「TRAVELING SUNS」は、どこからでてきたんですか。


G:それは、いろんな場所でいろんな人と歌を通して知り合うという、すごい幸せな気持ちとか、責任だったりっていうのを、旅というか、ツアーという感覚だなって感じ始めて、それが歌詞になったのが、「トラヴェリング・サンズ」ですね。

T:次の流れなんですが。

G:2ndアルバムを出して、ツアーをしました。そして、3rdアルバムを作る時は、もうすぐ20歳になる頃だったんですよ。自分の中で20歳になる、10代が終るっていう気持ちや、歌詞を書くっていう気持ちがすごく強くなってる時でした。その頃ハシケンさんや深沼元昭さんとかいう、自分で音楽を作って歌ってる人、丸山史郎さんだったり、色んな人達と知り合って、プロデューサーがいてではなくて、音楽作る人と自分と1対1みたいな感じで作りました。いろんな人達の自宅のスタジオに行って、「ああでもない、こうでもない」っていいながらやったりしました。そういうことが出来たので、3rdアルバムの『20』は、東京に出て来てすぐの自分を少し俯瞰で見れたり、東京に出て来てすぐの気持ちを歌詞で書けたりとか、「ふたつのあした」という曲では、自分の心の内を歌詞にできたアルバムです。地味だけども、すごく好きですね。

T:これジャケットが面白いですね。

G:なんか普通の写真じゃなくて、いろんな人達に、私の顔がどう見えているかを知りたくて、似顔絵を書いてもらったんですよ。回りの身近なスタッフや、曲を書いてくれた人とか、自分も含めて。そしたらみんな描こうとすると、とにかく眉毛がすごい太かったっていう(笑)我那覇の顔を書こうと思ったら、眉毛がばーんと太くて、口が大きくて、なんか力強い感じの顔をみんな書いてくれて、なんかそういうふうに見られてるんだなと思って、すごい面白かった。見られてることとか、自分を客観的に見たりするとか、内と外の自分に対する見方や考え方、そういうことを多分考え出した時期だと思うんですよ。二十歳になって、大人になるっていう事は、自由だけども、自分で全部責任持って生きていくのかっていう、なんかちょっと、10代のころとは違う階段を上がって行かなきゃいけないんだなって、戸惑いとかも含めてありましたね。その頃に初めてホームシックなって、すごい時間差があるんですけど(笑)上京したころは希望だけで出て来て、忙しくて必死だったんですけど、けっこう落ち着いてきて、ちゃんと自分の時間もあって、音楽活動というのをやってたんで、逆にいろんなことを冷静に見始めた時でした。

T:これジャケットは、使用したのは、いろんな人に描いてもらったの中の1枚?

G:ブックレットの中も全部似顔絵なんですよ。ジャケットはその中の1枚です。それは深沼さんが描いてくれたもので、一番上手だったんですよ。みんな適当に書いてるのに(笑)絵描きさんや普通のイラストレーターさんにに描いてもらうのは面白くないなと思ってたから、みんなにお願いしてたら、深沼さんの絵がすごい上手だったので、「なんでこんなに上手なんですか!」とかいいながら、「ジャケットにしていいですか?」って(笑)

T:この3rdアルバム『20』の中で、印象的な曲は?


G: いっぱいあるなぁ。今も関係もあって、大ファンのハシケンさんとの出会いは大きかったです。アジア国際音楽祭に出演した時にハシケンさんも出てて、奄美大島の島唄を歌ったんですよ。沖縄の島唄を歌ってる人は見たことあったけど、奄美の島唄をカヴァーして歌ってる人を初めて見て、その時つながりができて、「波の音」という曲を書いてもらいました。そのころからだんだん奄美だったり海だったり、そういうことを意識し始めましたね。島の人でもなければ、縁もゆかりもないハシケンさんが、南の島にすごく感銘を受けて、沖縄に何ヶ月か弟子入りして、島唄を歌えるようになって、それをまた独自の音楽にして歌ってて、そういう音楽のやり方ってすごく素敵だなって思いましたね。そこで、自分らしいそういうやり方ってあるのかもしれないと、奄美と自分というのをちょっと考え始めました。あと「ふたつのあした」という曲が歌詞の部分で大きいですね。バラードの曲なんですけど、その歌詞が、心のまま生きていくことも、作った自分でいることも、どっちもできない自分をここにいてもいいの?といった今までに書いた事のない内容で、すごく泣きながら歌詞書いた覚えがありますね。そのころ「ふたつのあした」は今の自分に大事な歌だなと思いながら、歌ってました。

T:通常、詞を書く時って、どういう感じで書いてるんですか?

G:元々詞を書くのが好きだとか、言葉遊びが上手だとか、そんなこと全然ないので、「よし書くぞ!」って思って書くんですよ。「ふたつのあした」はとにかく自分を出したいって思いながら、自分と向き合いながら戦いながら、その時のデイレクターにも手伝ってもらい書きあげた覚えがありますね。けっこう大変ですね。

T:けっこうぎりぎり?

G:ぎりぎりまでやってましたね。それはいつもですけど(笑)

T:それで次の4枚目のアルバムなんですけど。そこまでいくのに何かありましたか?


G:3rdアルバルを作って、どこへ行こう?みたいな感じになった時、デビューのころからずっと影になり日向になりいてくれた星勝さんという大大先輩がどっしりと、「じゃあ俺の船に乗れ」みたいな感じで言ってくれて。今までアルバム1枚通して誰かにプロデュースされたことがなかったので、今回は星さんに委ねようという気持ちでした。そのころ今までいた事務所をやめるという、自分にとって大きい変化が訪れるまえぶれという時期でもあり、歌詞も全然書けない状態でスタジオに入ってる時に、弟が甲子園に出たんですよ。スタジオのTVで応援していたら、弟が代打でホームランを打ったんです!すごい感動してバーッて涙が出て号泣でした。「お姉ちゃんもがんばらなくちゃ」って思って、がんばってる弟や自分に対して歌を書こうと思い、「スーパースター」という曲を書けたんですよね。だからもちろん全部大切だけども、4thアルバムは一番「スーパースター」っていう曲が大きかったですね。こんなに伝わるしいい歌を書いて歌えるんだから大丈夫っていうそんな感じでしたね。

T:じゃあその出来事がきっかけに?

G: そうですね。だから「スーパースター」も書けたし、スイッチがバンと入って「今回のアルバムは自分の中で一番振り切って、音とかもいっぱい入ってて、派手な歌もすごい強いものを出してしまおう」と思って作りました。ジャケットも皮パン履いて、エレキ持って、ライヴも少し派手な感じで歌も歌いまくりみたいな時期でしたね。

T:ほとんど作詞は、自らで。

G:そうですね。4thアルバムは自分の事っていうよりも、誰かに対しての歌詞が多かった気がします。今読むと、ちょっとテクに走るというか(笑)歌詞を書くっていう事をそれまでやってきたから、きっと上手になったんでしょうね。

T:このあとはいくつかマキシが続くんですか?


G:アルバムを出した後、「あずみ」の主題歌の依頼があって、そこから時間があいて、「月の雫」ですね。「あずみ」の主題歌「ねがい」を出したころ、ツアーもやり終えて、「音楽をやめようかな」っていう時期だったんです。「ねがい」をリリースした後、事務所を離れるって決めて、音楽自体もやめて島に帰ろうかなって思ってたんですよ。

T:そこまで思った理由ってなんだったんですか?


G:「ねがい」を作る時、音楽をやる環境としてはいい体制だったんですけど、自分がもう精神的に負けちゃってて…「もう自分は人の前で歌う資格はないんじゃないだろうか」と思い、一度奄美大島に帰って、「本当に歌いたくなったら、やればいいんじゃないのかな?」と思ったんです。若い時から同じレールで走って来て、このままでいいのだろうか?って自信がすごくなくなってきて、いい歌を歌ってるかどうかもわからなくなってきて、自分に対しても携わってくれる人達に対しても失礼だし、それを聴きたいっていってくれるファンの人達にも失礼だし、こんな気持ちじゃとてもじゃないけど立てないと思ってたら、案の定スタジオでマイクの前に立っても歌えなくなっちゃったんですよ。どういう自分で立てばいいのかわかんなくなっちゃって…それで、1回奄美に何ヶ月が帰っていいですかとお願いして、おじいちゃんおばあちゃんがいる奄美からちょっと離れた喜界島に何日か行ったり、他の島を回ったりとかしながら、いろいろ考えたんですよ。でも2〜3週間ぐらいすると、いや、やっぱり歌いたい!っていう思いがすごい湧いてきたんです。でも何か今までと違うやり方をしたいなと思ってお世話になった事務所を辞めたんです。そんな時、レコード会社の方から我那覇の歌ならば、絶対まだまだ出来るはずだっていう風にいってもらって、それで私「もうちょっとこの場所でがんばってみたいです」ということになりました。そこから「月の雫」に繋がるいろんな人達との出会いや、奄美大島という場所に対する思いとかがどんどん出て来るんですよね。無理矢理出すとかじゃなくて自然にやりたいと思って、「月の雫」が出来たんですよね。「月の雫」でスラッキーギター弾いてくれてたIMEHAさん達との出会いだったり、「青空」を作ってくれたゲンタさんとの出会いもあって、その後、Fairlife(水谷公生・春嵐・浜田省吾)のみなさんと出会って今につながっていくんです。

T:「月の雫」から変わった事は?

G:そうですね。今までと違い3、4人とか少ない人数でスタジオに入って、声の自然なよさをただまっすぐ伝えたいという気持ちで、背伸びせず、本当にいい歌、優しい潮風みたいにすうっとしみこむような歌を録ろうとシンプルなものをやり始めましたね。シンプルさ故の難しさはあるけど。ちょっと体調悪くて鼻声だったりしたら駄目だし、ちょうど「月の雫」を歌う時は、花粉症が発症して大変でした。そういうことも乗り越えながら、奄美で見た風景を歌詞にして、ちゃんとまっすぐ伝わるようにという思いで歌いました。すごく納得のいくものができて、それをすごくいいっていって言ってもらえて、私はこれでいいんだなって自信もついたんですよ。

T:それでここからまた新たなというか、我那覇 美奈さんのスタートになるんですね。

G:「月の雫」から新たな「我那覇 美奈」の始まりですね。また違う、っていっても変わらない部分ももちろんあるけど。ある意味、思春期が終わって、本当に大人になっていく階段をちゃんと登ってるという感じなんですよ。我那覇 美奈の女としての人生もあって、歌手としての人生がまたそこにあって、中身と外身がちゃんと追いついた状態で、ゆっくりスタートし始めたというか。子供の頃から大人の人といるので、耳年増な部分とか、できもしない事を出来ると思い込んでたり事とかがだんだん経験とともに、「あ、まだこの部分は子供だし、出来ないしわからないっていう部分があるんだな」というのをちゃんと認められるようになりました。ここから一歩ずつまた自分のものにしていこうという感じで、すごく音楽をやることが、また一段と楽しくなりましたね。

T:自ら曲を作るということは?

G:作らなきゃいけないということもなく、ギター持ってるから作ってみようかなみたいなニュアンスですね。私はあくまでも「歌う人」だと思うんですよ。ギターを持ってようが持ってまいが、曲を作ってようが作ってまいがあんまり関係なくて、いいと思ったものを伝えたいと。この曲を私が歌ったらもっとみんなに伝わるんじゃないかと思ったら、誰かのカヴァーでもいいと思うし、その垣根があまりなくなって、素敵だなと思うものを歌おうっていう自由な感じです。その自由な感じの延長線上に、たとえば自分で作った曲に、誰かが歌詞書いてもらったらどうなるんだろうとか、そういう楽しみはひとつありますね。

T:「砂の祈り」なんですが、Fairlifeとの出会い、最初の印象、その辺を教えてください。

G:最初、レコード会社のディレクターさんから「水谷公生さんて知ってる?」「歌って欲しいという曲が来てるんだけど、どうする?」という話があり、その時は今みたいにいろんな曲を歌おうとか、誰かの歌ってる曲でもいいというさっき話した歌い手としての腹のくくり方がまだ出来てなかったから、抵抗があって、とりあえず曲を聴いたんです。そのデモ・テープの1曲目が「砂の祈り」で、浜田省吾さんが歌ってたんですけど、それを聴いた時に、歌詞がすごい曲だと思って。しかも曲調や雰囲気が「月の雫」「青空」とIMEHAさん達とやってきた感じの延長線上にある気がして、歌いたいってすごく思ったんですよ。それで、水谷さんにお会いしたら、私の「青空」という曲が素晴らしいと、Fairlfeの皆さんで何度も何度も聴いてすごく感動したといってくれたんです。長く音楽やってる大先輩の方が、こんなに純粋に、まっすぐな気持ちで「我那覇ちゃんに歌って欲しいの」といってくれたのがすごくうれしくて、一緒にやりたい、私が力になれるのならやりたいとすごく思ったところからが、Fairlifeの皆さんとの始まりですね。

T:実際に録音はどういう風に?


G:水谷さんの自宅スタジオでデモを歌った時点で、水谷さんが「もういい、我那覇ちゃんの声で歌ってくれるならもういい」って任せてくれたので、こちらの方でアレンジをいろいろ考えて、全部レコーディングして、出来上がったのをFairlifeの皆さんに聴いてもらったら「すごくいい」っていってもらって嬉しかったですね。

T:じゃあ、上がりとしてはもう満足で?

G:はい!すごくいいものが出来ました。最初はこの歌詞をどういう風に歌ったらいいんだろう?と思ったけど、「そこは我那覇ちゃんの声で歌ったら、もっといろんな人に伝わると思うんだよね」という言葉を信じて、自分を信じて、悩んだりせずに、まっさらな気持ちで歌ったからすごくよかった。

T:今、レコーディング中ですよね。どんな感じで進んでるんですか?


G:これまで録りだめてた曲もあるし、「月の雫」からのやってきた流れっていうものが根底にあって、新しく書いてもらった曲とかもあるので、そういうものを我那覇 美奈といえば、こういう世界観と伝えられるような、優しいけれどはっきりとした意思があるようなものができたらいいなと。あくまでも自由に楽しみながら、優しさとかあったかさみたいなものがちゃんと流れてて、南の香りもして、私が今まで聴いてきた好きな音楽が自然ににじみ出るようなものが出来たらいいなと思って作ってますね。

T:現時点でどんな進行状況になってますか?


G: 感じとしては半分くらいですかね。まだ、作り出す前の曲もあるので。

T:年内に?

G:出したいですね。マイ・ペースなんで、いつごろになるかわかんないけど。

T:今年なんか音楽以外でやりたい事は?

G:今、スペイン語を習い始めたので、しゃべれるようになりたいですね。そして、キューバに行きたいですね。昔からずっとキューバに行きたくて。ラテン音楽も好きだし、キューバとかメキシコとか、行きたいんですよね。ブラジルとかも行きたいな。なかなか行けないけど、旅行したいです。

T:キューバは、いつ頃から行きたいと思ってたんですか?


G:キューバは、3、4年ぐらい前から行きたい行きたいっていってんのかな。最初メキシコの映画を見て、「ブエナビスタ」が出たぐらいじゃないですかね。DVDも買ったし、昔から行きたいという気持ちはあるんですけどね。スペイン語をしゃべってる人を見たり、曲を聴いたりしてるのがすごく心が休まりつつ血が湧くので、何か知らないけど、ラテンが好きなんですよね。優しいラテン。だからキューバとかって優しいじゃないですか。哀愁があるっていうか。

T:あと何か目標とかあります?

G:新しい作品を出したいですね。あと、ライブもやりたいですね。

T:新曲をその中で披露して?

G:そうですね。ライヴは、ワンマンじゃなくても、カフェ・ライヴだったりとか、ゆっくりできるような場所でも出来たらなと思って。

T:新たな我那覇さんの音楽を楽しみにしています。今日は、ありがとうございました。

G:ありがとうございました。


end>

 <DISCOGRAPHY>



○ALBUM○


「momentum」
2002.4.3/FLCF-3905



「20」
2001.3.7/FLCF-3837



「TRAVELING SUNS」
2000.2.23/FLCF-3776


「きみにとどくまで」
1999.3.10/FLCF-3743
○SINGLE○


「月の雫」
2004.5.26/FLCF-4009


「ねがい」
2003.4.23/FLCF-7061


「終わらない夏」
2002.7.31/FLCF-7028


「フルワセテ!」
2002.2.20/FLCF-7011


「ひとつだけ」
2001.10.24/FLCF-7003


「二十歳のうわごと」
2001.2.21/FLCF-3831


「ふたつのあした」
2000.7.5/FLCF-3793


「トラヴェリング・サンズ」
2000.2.23/FLDF-1704


「太陽」
1999.11.3/FLCF-3770


「All I wish "REMIX"」
1999.7.1/FLJF-9526


「All I wish」
1999.6.23/FLCF-3752


「TEARS 〜時間(とき)の中で
...remix〈maxi single〉」

1998.12.12/FLDF-1677


「TEARS 〜時間(とき)
の中で... 」

1998.10.31/FLCF-1677


「微熱」
1998.8.1/FLDF-1606


「桜のころ」
1998.2.21/FLDF-1652
 インフォメーション

我那覇 美奈さんの詳しいインフォメーションは、オフィシャルHP http://www.gogo-planet.com/ganaha/まで。