沢田聖子 / Shoko Sawada


1979年、「キャンパス・スケッチ」で、デビュー。5月21日には通算33枚目のシングル「雨ノチ晴レ。」とLIVE DVDをリリースして、現在25thアニバーサリーツアーを展開中の沢田聖子さんの、過去から現在までを辿ったロングインタビューです。

(2004年6月3日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)





沢田聖子 (Shoko Sawada)


1962年  東京生まれ B型
1979年  クラウンレコードから『キャンパス・スケッチ』でデビュー。

2004年 5. 21  通算33枚目のシングル『雨ノチ晴レ。』&初のライブDVD
2004年 5. 21  『In My Heart Concert 〜心は元気ですか』発売



         詳しい情報はオフィシャルサイト

コンサートも私の音楽とか、私の存在自体もそうなんですけど、ファンの人にとって元気になれるきっかけであれば嬉しいなと思ってるんですよ。沢田聖子というポジションがあるのであれば、忘れていたようなホッとする気持ちとか、優しい気持ちとか、よし、じゃあ明日から俺も私も頑張ろうみたいな、何かそういう風に思ってもらえるところに、自分がいられたらいいなという。だから、自分の音楽というのは、ポジティブなものを提供していきたいと思っているし、自分自身もこういう性格なので、元気を私から取ってしまったら何にもないというところなので、だからコンサートをすることが喝を入れるみたいな、おい、みんな!元気になろうよ!ポジティブに考えようよ!みたいなところなんですよね。



TERA(以下:T):まず、生まれと場所から教えてください。

沢田(以下:S):東京都です。生まれた病院は聖母病院というところです。別にクリスチャンではないんですけど。それで、聖という字を、聖母病院の聖母マリアの聖なんで、聖という字をとって、母が憧れていたバイオリニストか何かがいらっしゃって、その方がショウコさんという名前で、それで聖という字をとって。ショウと読めるかどうかわからないという事で、区役所に出して。でも聖徳太子のショウでもあるしという事で通ったらしいんですけどね。そこで聖子と名前がついたという。

T:小さいころはどの辺で遊んでいたんですか?

S:うちの近所で、いつも自転車とか木登りしたりとか、2つ違いの兄がいるので、大体男の子が遊ぶような感じでしたね。うちの前の路地でソフトボールをやって、向かいの窓を割ったりとか。忘れられないですね。兄貴とお小遣いを2人で出し合って、近くのガラス屋まで行って買いに行って、お向かいのおじさんのところに「ごめんなさい」って謝りに行ったりとか。あと、親に逆らって怒られても、私、怒られても全然開き直っちゃって平気なんですよ。ごめんなさいってすがりつくタイプじゃなく、「いいよ、じゃあ別に私、野宿するもん」っていう子供で、それで日が暮れて、昔の家だったので、木造の平屋で。雨戸があるようなお家で、全部閉められちゃうんですけど、でも全然平気で、隣の家のビワの実を取りに行ったりとか。泣く兄貴をなだめつつ、大丈夫だよ、お兄ちゃん。ほら、ビワを食べなっていうような、そんなのはしょっちゅうですね。(笑)

T:すごい活発な感じですね。

S:そうですね。反対にお人形さんとかもらっても、平気で髪の毛とか全部切っちゃったりして。あげたおばちゃんの方が泣くみたいな。「せっかくのリカちゃんを、あなた何するの!」っていうような、小さい頃からそうやってサバサバなところが。いろんなお稽古ごともやってたんですけど、童謡を習いに行ったり、ピアノとか、水彩とか、いろんな教室に行ってたんですけど、多分もう3つ、4つ、5つぐらいのときから独立心が強くて、親の手に引かれたりするのが嫌で、平気で「バイバイ」って言って、振り向かず1人で教室に行くぐらいな子供でしたね。

T:テレビは全盛の時期ですよね。

S:そうですね。小さい頃にモデルもやっていたんですけど、テレビコマーシャルに結構出たりして。よく覚えているのは、渥美清さんと一緒にパンシロンのコマーシャルに出たりとか。でも、その当時はまだテレビは白黒でした。

T:コマーシャルは、それ以外にも色々と出ていたんですか?

S:お兄ちゃんがグリコのコマーシャルの専属をやってたりとかして、それで一緒に出たりとか、あとは西のほうにDXアンテナって、今でもある企業なんですけど、そこのコマーシャルに出た時に、何かそのコマーシャル自体が賞をもらったりとかして、私の大切な毛糸のパンツが写し出されたりした記憶がありますね。お父さん役に「わー」って抱き抱えられてカメラをなめるみたいな時に、私の大切な毛糸のパンツが思いっきり写ってみたいな。そういうのを今でも覚えてますけど。当時は、もちろん今みたいにホームビデオなんてものがなかったし、フィルムの時代だったので。でも、あの人がこんなコマーシャルにとか、こんなドラマに出ていたみたいな、結構特番みたいなのでやったりするので、たまたまファンの方が山を張って出るかもしれないと構えていて、それで、渥美清さんと一緒に撮ったパンシロンのコマーシャルとかが流れたりとかして、それをビデオに取ってくださって。それから、中央道の談合坂のサービスエリアに、グリコのコーナーがあるんですけど、そこに60年代、70年代のコマーシャルをエンドレスで流しているんです。今も流しているかどうかわからないんですけど。それで、出るかもしれないとか思ったら、お兄ちゃんとか私とかが出てる映像もあったりして、懐かしい、出来ればこれ欲しいんですけどぐらいの気持ちでいましたけどね。

T:小さいころ、音楽に触れた記憶は、どの辺から?

S:物心ついた頃から、母がとにかく童謡が大好きだったんですよね。それで、音羽ゆりかご会と、今でもありますけど、少年少女合唱団に、私の意思ではなく、母の思いで、3つぐらいだったのかな?連れて行かされて、それで童謡を3つぐらいから歌っていましたね。基本的なソルフェージュとか、童謡を歌うべく発声練習とか、それは気がついたら毎週毎週通って、習ってました。

T:その頃の音源やレコードは?

S:その音羽ゆりかご会でレコードもいっぱい出してて。先生がカワダマサコ先生という方なんですけれども、その先生がメインで歌って、あとはカワダマサコと音羽ゆりかご会たちみたいな感じのアルバムだったり、あとは運動会用のドーナツ盤だったりとか、そういうので合唱団で歌ったり、ソロで歌ったりという事もやりつつ。あとは、結構イベントとかにも駆り出され、結構忙しかったですね。ゴールデンウィークとか、年末年始とかはホテルのディナーショーで、そういう子供たちの合唱団がガウンを着てクリスマスソングを歌ったりというのを毎年、例えば赤坂プリンスホテルでやったりとか、そういうのもはっきり覚えてますね。

T:当時、人前で歌うという事は割と慣れていた?

S:そうですね。なんか自然に、当たり前のように、日常の中にあった行為ではありますね。

T:小さい頃、なりたいものは、音楽関連でしたか?

S:母は、音大に行かせたかったらしいんですよ。それで声楽科かピアノ科に行って欲しいという思いがあったらしいんですけど、ピアノもやっぱり4つ、5つぐらいの時から習ってはいたんですけど、大嫌いで、全然うまくならなくて、隙あらば「やめたい」とは思っていたんですが、結局、今、弾き語りをしている商売をやっている訳で、不思議なもんだなとは思っているんですけど。自分の中で具体的にこういう職業というのは、大きくなってから、どこかでいい子でいたいというのがあって、母を喜ばせたいという思いがあって、音大に行こうかと思った時期もあったんですけど、でも私が中学ぐらいの時って、ザ・歌謡曲が全盛の時代で、夜のヒットスタジオとか毎週見てたり、スター誕生とか、「君こそスター」だとか、そういうオーディション番組がすごい視聴率のあった時代なんですよね。実はそういうのに応募して、玉砕したという経験も。「スター誕生」には、とりあえずテレビには出たんですけど、欽ちゃんからは「万歳なしよ!」って言われたりしまして。(笑)

T:(笑)それは中学生の時ですか?

S:中3か高1かそれぐらいの。いわゆる「新御三家」とか、「中三トリオ」とかの時代ですよね。桜田淳子さんとか、そういう時代で。

T:まだオリジナルではなく、カバーですよね。

S:全然。まさかシンガーソングライターになるっていう事は、全く、1ミクロンも考えてなかったですね。歌謡曲の方にきれいな洋服を着て、ハンドマイクで振りつけをして歌うっていうのには憧れ、小学校、中学ぐらいで憧れてはいましたけど、まさか自分で曲をつくって楽器を何か弾きながらやるっていう仕事に就きたいとは思わなかったし、憧れも全くなかったし、自分で作れるとも思ってなかったので。曲をつくり始めたのは、イルカさんのオーディションを受けたのがきっかけで、それでデビューが決まってから、「弾き語りはできないの?」って言われて、「いや、やったことないです。」「曲つくれないの?」「いや、やったことないです。」「じゃあ、チャレンジしてみたら?」って。「じゃあ、出来るかどうか分からないけどやってみます」っていう、デビューが決まってからシンガーソングライターという具体的な職業が目の前に立ちはだかったっていう感じで。

T:イルカオフィスのオーディションというのは「スタ誕」とかそういう応募の流れの延長上ではないんですか?

S:全然違います。それも「瓢箪から駒」っていうところで、小さい頃、某モデルクラブに入っていたんですけど、中学ぐらいから思春期で体系とかが変わってくる頃、モデルの仕事だったので、その現場に行って、「この服を着て下さい」とかって言われても、だんだん履けなくなって来たんですよ。(笑)お尻が大きくて「うーっ」とかっていうような時が中学ぐらいからあって。それでモデルの仕事自体に、将来性を自分自身は感じていなく、こっちの仕事はいずれフェードアウトだなと思っていたんですが、とりあえず顔写真はパンフレットに高校まで載っていて。それでイルカさんの事務所が新人を探しているという時に、事務所の社長さんがこれからの、その当時まだ「フォーク」という言葉が残っていたんですが、「ニューミュージック」という言葉が生まれ始めた70年代の終わりぐらいで、これからは、例えばイルカさんとか、中島みゆき、ユーミンさんっていう、いわゆるフォーク系の女性シンガーソングライターとはまた違うビジュアルから入っていけるようなシンガーソングライターじゃなければいけないというのがあったらしく、モデルクラブの顔写真から新人を探そうとしたんです。まず歌唱力とか声とかというのは二の次にして、当時いっぱいモデルクラブがあって、パンフレットを集めていて。それで、私の隣の子に決まったんです。「この子に会ってみよう」っていう話になったんです。それが高校2年の夏だったんですけど。実際コンタクトを取って会おうとした時に、モデルクラブの方で、ダブルブッキングで、その子にモデルの仕事が入っていたらしく、そのイルカオフィスのオーディションに彼女が来られなくなったと。穴をあける事は出来ないという事で、隣に写っている私のところに。たまたまで「お前は夢を見るな」と言われて、それでイルカオフィスサイドも、隣に写ってる子も同じ年だし、会ってみるだけ会ってみてもいいんじゃないのっていう事になって、私がピンチヒッターで、その穴埋めみたいな形で行ったんですよ。「じゃあ、とりあえず歌、歌えるんですか」って言われて、「はい」って言って、高田みずえさんの『硝子坂』を歌って、もちろん弾き語りができないので、クラウンレコードで受けたんですけど、ピアノの先生みたいな方がいらっしゃって、その方がアップライトピアノで弾いて、私は「♪きらきら光る〜♪」とか、その当時のヒット曲をこぶしを回しつつ歌ったんです。それで、クラウンのディレクターが何人かいらっしゃったんですけど、「この子はだめだ」っていう、NGが出たんです。でもイルカさんの事務所の社長さんだけが、履歴にピアノっていう事を書いてたので、「ピアノ弾けるの?」って言われて、「習っているんですけど」、「じゃあ、ピアノの弾き語りってできる?」って言われて、「やった事ないですけど。」「もし出来るんだったら、1週間後に聞かせてくれ」って言われて、「はあ」って言って、他の人たちはNGだったんですけど、なぜかイルカさんの事務所の社長さんだけが、1週間後にピアノの弾き語りを聞いてみたいという事になって、私はモデルクラブから、「お前は夢を見るな」と散々言われていたので、私は行ってイルカさんにお会いして、サインでももらって帰ってこようぐらいな。イルカさんについての知識も、『なごり雪』ぐらいしか知らなかったので。そんなつもりで行ったんですけど。帰りに太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』の譜面を買って、それで練習したんですけど、1週間じゃ弾き語りなんか出来ないんですよ。ピアノは弾けても歌えない。歌をちゃんと歌おうとすると、ピアノがダメだ・・という状況で1週間が経ち。で、クラウンで弾き語りをしたんですけど、クラウンの人は「だからだめでしょう」みたいな、「だからこの子はNGなんだ」って言われて、駄目出しが出たんですけど、なぜか社長さんは、何かを感じてくれたみたいで、「君は真剣にシンガーになるつもりはあるか?」って言われて、シンガーソングライターは、全く私にとっては寝耳に水の職業だったので、「はぁ」って感じだったんですけど、ただ「歌を歌う事は好きだったので。チャンスがあるのであれば、そうですね、チャレンジはしてみたいですね」っていう話をして。「じゃあ、半年後にデビューをさせてあげる」と。で、その半年の間に弾き語りの練習をして、出来る様になれば、シンガーソングライターとして弾き語りとしてデビュー、出来なければハンドマイクでデビューという、本当に私はつくられたデビュー、そういう意味だったんですね。
 それで、レッスンを受けると言っても、ボーカルレッスンを受けるという訳でもなく、代々木上原のリハーサルスタジオで事務所の社長をお客さんと見立てて、その当時もてはやされていた「CP80」というヤマハの電気楽器があったんですけど、「それを弾きながら、曲も作ってみろ」と言われて、それから詞と言えないような詞みたいなものを書いて、メロディーを何となくつけてみたいな曲を、自分のオリジナルと、あとはイルカさんから『シオン』という曲を、その時、練習曲が全然なかったので、書いていただいて。あとは、『翼をください』とか、『時代』とか、そういうフォークソングを弾き語りでできるような、簡単な『僕たちの失敗』とか、簡単なコード進行のものを数曲、ライブ形式でやったんです。30分のステージと見立てて、MCとかを入れて、社長さんをお客さんとして。そういうレッスンというか。でも私は、コンサートとか見た事なかったんです。岡田奈々ぐらいしかなかったので。(笑)MCと言われても何話していいかもわからないし。で、自己紹介をしますというような事から始まり、「そんなんじゃお客さんは帰ってしまう」というところで、いわゆるフォーク系の人たちのステージングというのはそういうものではないという事をいろいろと。で、イルカさんのライブを見させていただいたり、歌謡曲とは全然違う、夜のヒットスタジオに出演しないようなシンガーって、こういうジャンルがあるんだというのを初めて知って。「へぇー」って思って。そこから勉強を、すべて吸収できるものはしていくという形で。それで何とか半年間で数曲弾き語りが、何とか、今思えばとてもとてもというレベルなんですけど、まあまあとりあえず社長さんからは合格点をもらって、それでイルカの妹分ということで、ピアノの弾き語りでデビューということにこぎ着けたんですけど。

T:『シオン』という楽曲についてなんですけれども、はじめは練習曲という事で?

S:そうです。そうなんです。たまたまそういう状況だったので、事務所の社長さんがイルカさんに何か沢田に練習曲として書いてもらえないだろうかという事で、イルカさんがたまたまお部屋にそのときシオンのお花を生けてたんですって。それで、『シオン』という曲をということで作ってくださって、それでいただいた。

T:それが後にシングル、アルバムに入る楽曲になったという。

S:そうですね。いまだに、やっぱり『シオン』は自分にとっては原点、そういう意味では沢田聖子の原点でもあるし、ファンの皆さんのリクエストの高い曲ですし、必ずライブでも歌ってるし。今回、『雨ノチ晴レ。』っていうシングルを出したばかりなんですけど、それにも『シオン』を、2004年バージョンという事で、普段、弾き語りをしているのと同じバージョンで、弾き語りで収録したものを入れたんですけどね。

T:近年の話になりますが、『In My Heart』という、ライブのタイトルにも、ファンクラブ名にもなってる『In My Heart』。これは何か意味のある言葉なんですか?

S:『In My Heart』っていう曲をつくったんですけれども、その曲が生まれた経緯というのは、結局現実は現実で、ちゃんと現実があって、それをポジティブに考えるもネガティブに考えるも、その人次第じゃないですか。でも、現実は現実なんだと。うまくいかない現実があって、だけど今がそこだと思えば、必ず這い上がれると思えばポジティブに現実を笑って過ごせるし、「あ、もうだめだ、もううまくいかない、もう死ぬしかない」って考えれば、同じ現実でも、その気持ちの持ちようだなと思って、結局はすべて自分の心の持ちようだというところで作った『In My Heart』っていう曲なんです。

T:なるほど。

S:その曲を歌えば歌うほど、実感として「そうだよな」と噛みしめる事が多く、コンサートタイトルにもそれをつけて、結局うまくいかない事の方が多いけど、「気持ちの持ちようだよ、だったら、ポジティブに笑っているほうが得なんじゃない」っていう思いがあって、それでコンサートも私の音楽とか、私の存在自体もそうなんですけど、ファンの人にとって元気になれるきっかけであれば嬉しいなと思ってるんですよ。沢田聖子というポジションがあるのであれば、忘れていたようなホッとする気持ちとか、優しい気持ちとか、「よし、じゃあ明日から俺も私も頑張ろう」みたいな、何かそういう風に思ってもらえるところに、自分がいられたらいいなという。だから、自分の音楽というのは、ポジティブなものを提供していきたいと思っているし、自分自身もこういう性格なので、元気を私から取ってしまったら何にもないというところなので、だからコンサートをすることが喝を入れるみたいな、「みんな、元気になろうよ、ポジティブに考えようよ」みたいなところなんですよね。


T:例えば、99年に20周年を迎えて、25周年が今年に。そういう節目について、沢田さん自身に特別な思いは?

S:全然ないですね。何にも。事務所サイドでは、そうやって今年、25年っていう風にうたって、25周年ツアーでとか、DVD出したりとか、写真集出したりとかって、それはあくまでも事務所サイドのものであって、私は何にも、別にそういった意味では、何にもないですね。気負いとかは。というか、しようがないですもん、気負っても。節目も別に自分で意識して20年やってきました、25年やってきましたという訳じゃなく、「きのう、きょう、あした」のつながりで、たまたま20年になりました、25年になりましたという事で、何にも自分の中では変わらないし、変われないですね。

T:なるほど。これまでにかなりの楽曲数あるわけですが。1曲1曲に思い出とかいろいろあると思うんですけど、今まで自分が歌ってきた楽曲の振り返る時があったとして、何を考えたりするんですか?

S:今、ツアー中なんですけど、やっぱりそれも25年ということを意識しての選曲なんですよ。なので、ファーストアルバムだったり、セカンドアルバムだったりっていう、昔の楽曲をたくさん今歌って、もちろん新曲もあるんですけど、なので25年をざっと振り返る事ができる構成になっているんです。そうすると、歌って、他の人の歌もそうなんですけど、パッと街中で流れてきたのを耳にして、この曲を聴いてた時は、あの人と恋愛してたなとか、自分はいくつだったって、音楽って、パッとタイムスリップ出来るじゃないですか。その時の匂いとか、風とか、そういうものまでパッと思い出せるんですけど、なので、今、ツアーで昔の曲を歌うと、「この時のレコーディングはこうだったな」とか、「あとファンの方が亡くなってつくった曲があったりするんですけど、あの子、カツミくんっていう名前でとか、今、生きてたらいくつになってるのかな」とか、その彼の顔をはっきり思い出したりとか、やっぱり曲を歌えば、その時々、結局、今、別に特に何もなくずっと気負いなく来てると言ったんですけど、1つ1つを取り上げれば、全部それは、この曲はこういう思いだったとか、時代がこうだったとか、湾岸戦争の時に作った曲とか、最近の事で言えば、『心は元気ですか』っていうアルバムを去年リリースしたんですけど、それは去年から始まったイラク戦争の事で、今も結局、終結どころじゃないじゃないですか。日々全く関係のない、ささやかな幸せな暮らしをしていた人たちが、何の関係もないのに家族を失ったり、手足をもぎ取られたり、とにかく不条理な事がたくさんある時代じゃないですか。で、そういう事をテーマに作っていたり、「9.11」のニューヨークテロで息子さんを亡くされたお父様の、たまたまドキュメント番組を去年見て、それで作った曲があったりとか、もうそれは言っていったらきりがないぐらい、楽曲が生まれるエピソードは、時代をものすごく反映しているものは多いですね。

T:以前のアルバムもその時代性とか風潮を背景にして、沢田さんが感じた事がモチーフになってると思うんですけど、ニューアルバムの『心は元気ですか』の楽曲というのは?

S:そうですね。テーマが「命」ですね。『心は元気ですか』というタイトルも、今、すごい便利な時代で、何でも欲しいと思ったらすぐに手に入るじゃないですか。コンビニもあちこちにあって。パソコンでわからない事でもすぐに情報が、家にいてゲットできる。不景気だと言っても、日本は豊かだし、食べるものに困る事もないし、とても物質的には豊かなんだけど、「心はどうなんだろう?」と思った時に、見た目はとても元気そうな人たちが多いんですけど、実はものすごく病んでいる時代だと思うんです。この間、佐世保の女の子が同級生を殺してしまった、刺してしまったという、カッターナイフで首を。常識では考えられないけれども。便利になる事によって、大切なものを絶対1つずつ失っていると思うんです。私、いまだに携帯電話を持っていないんです。すごくそういうところが依怙地で、今この時代にアナログに生きるぞって感じなんですけど、ほんと不便なんですよ。携帯がないと。今、公衆電話もなかなか、あったとしてもテレカが使えなかったり、もう・・・とかっていう感じなんですけど、でも昔はこうやって面倒くさいと思っていた事を当たり前に1つずつやってたし、今すぐ連絡をとりたいと思っても、その人が日本にいなかったら連絡はとれなかった。そしたら1日待ちましょうとか、1週間待ちましょうとか、そうやってゆっくりと仕事をしていたと思うんですよ。それで、ちゃんと生活していた、成り立っていたわけじゃないですか。それが、今、どんどん便利になって、どこにいるかということが瞬時に分かる。反対に、スローフードだとか、スローライフとか、何かある意味ビジネスにしようとして、またそんな事言っちゃってとか、私なんかは思っちゃうんですけど、それが当たり前だった訳ですよね。今、当たり前の事を当たり前と思えない、生活にだんだんなってきている。昔だったら、本当にお醤油を借りに隣にいく長屋みたいな、そういうところで人間関係がつくれていた訳じゃないですか。主婦だって、子供を育てるのに、親が同居していたり、おばあちゃんがいたり、そういうところでの知恵をいろいろと夜泣きがひどい、どうしたらいいのって、でもねって教えてもらって、ああ、そうかってわかるところが、核家族になり。で、都会では動物も飼えない。そうしたら、テレビゲームを子供たちはやるのが当たり前。電車に乗ってても、みんな携帯でメールなんかしているのって、すっごい私、異様な光景だと思うのは、自分が携帯を持っていないひがみなんだろうかと思うんですけど、みんなつながっていたいって思って携帯電話なり、メールをするって言ってるじゃないですか。1人でいるのが怖い。だれかとつながっていたいからメールをする。家に帰ってもすぐにパソコンの電源を入れて。っていう割には、込み入った話はしないじゃないですか。表面的な付き合いだけで、ここからは入ってこないでよっていう。だれかがそこに土足で入ってくると、うざったいからって言って、殺しちゃおうとかね。すごい変な時代に、すごい怖いなと思ってるんですよ。それは、大人がいけないと思うんですよ。結局、利益を追及して、どんどん便利になっていくわけじゃないですか。さらに便利なもの、便利なものというと、それをみんなが欲しがり、お金を出して。だから、難しいですよね。経済をよくするためにっていうことなんだけど、でもね、何か余りにもエゴにまみれ過ぎてるんじゃないの?人類は?みたいな。だから、もっともっと何にもない時代がとても豊かだったということを、私たちは今勉強しなきゃいけないんだと思うんです。本当に無人島にみんなで行って、魚をとって。その1匹の魚の命をたってしまうことにごめんねって言いながら、だけどあなたのお肉を私たちにくださいと。私たちはそれで生きて生かさせていただきますみたいな。植物にしてもそうだし。そういう事をね、どうしたらいいんでしょうね。一番そこが大切なことだと思うんですよ。

T:去年、『ナンクルナイサ』というシングルが、結構いろんなところで話題になってましたが。これを書いたきっかけを教えて下さい。

S:沖縄はプライベートでもダイビングをするので、好きで。で、ライブでもここ数年、年に2、3回は行ってるんですね。日本の中で考えれば、沖縄はまだスローライフな、それを意識して、ビジネスとしてやる訳ではなく、沖縄人の_がのんびり、沖縄タイムというのがあるぐらい、のんびり、いわゆる「ナンクルナイサ精神」なんですよ。時間におくれても、ナンクルナイサ、何かうまくいかないことがあっても、ナンクルナイサっていう。その、のんびりとした精神を、もっと見習うべきだなと、現代人は思うんですよね。この言葉を、たまたま2年か3年前に、本屋さんで知ったんですよ。最初は意味もわからないし、どういうふうに発音するのかもわからなくて、聞いたらそういう意味だよ、「何でもないよ、大丈夫だよ」っていう意味で、すごくいい言葉。ナンクルナイサっていうのは、すごい勇気づけられる言葉だなと思って、それで「この曲を作りたい!」と思って。それで、もう15分ぐらいで作っちゃった曲で。やっぱり沖縄の言葉なので、メロディーラインは意識して、沖縄音階ぽいような感じにはしたんですけど。だから、ごめんなさい、話がね、長くなっちゃうけど、結局は、嬉しい事も悲しい事も自然の摂理なんですっていう事を言いたい。月の満ち欠けとか、潮の満潮になったり、干潮になったりというのと同じように、人間もいい時もあれば絶対悪い時があるんだから、悪い時にお金が全然ない時に、ビジネスで儲けたいと思う事自体が不自然なんだ。無い時は無い時なりの楽しみ方をすればいいんじゃないのっていう、何とかなるんだよっていう、ナンクルナイサというところで作った曲なんですけど。

T:夏に向けてのモーメントのテーマの「FREEDOM」というのも、最終的には人間として自然と対峙しなきゃいけないという大きいテーマが立ちはだかってくるという事を考えると、この楽曲を聞いた時に、テーマは近いなという感じで思ったんですね。

S:そうですね。今、物があふれ過ぎちゃってて、人々もいっぱい色んなものを持ち過ぎちゃってると思うんですよね。もっとはぎとって、はぎとって、一番大切なものは何かという事を考えないと、手遅れだとは思いたくないけれども、怖いですよね。今後、未来がもう欲にまみれて、このままいっちゃうと、怖いですよね。

T:一見、正しいものとして捉えがちな「多数」なものに負けずに、「少数」でも「1人」でも発言していく事をやめなければいいと思うんですね。小さいからあきらめるんじゃなくて、そこからみんなでやっていければいいなと思ってるんですけどね。

S:私に出来る事は、こうやって思ってる事を作品にして、歌っていく事しか出来ない。じゃあ、政治家になろうかって、そういう訳でもないし、今の政治家だって、もう誰に清き一票を入れればいいのって、政治家っていうか、そこら辺自体から腐っているし、みたいな。

T:必ずしも「清き」一票になり得ないですからね。

S:そうですよね。それを言っていったら、結局話は尽きない状況になっていっちゃうんで、せめて自分の中で出来る事は、「命は大切なものなんだよ」という事。幼児虐待とか動物虐待とかそういうニュースも結構多いじゃないですか、今の時代は。それも元をたどっていくと、やっぱり愛情に欠陥があると思うんですよ。やっぱり幼いものとか小さいものとか、自分より弱いものを見れば、助けてあげようとか、手を差しのべようとか、かわいいって思うのが自然の感情だと思うけど、そういう風にかわいいとかいう気持ちを持てない環境で育っちゃっている人たちが、もしかして私たちの世代も多いのかもしれないですよね。結局、親の世代になっている訳ですから、そういう人たちが自分の子供を愛せなかったり、抱きしめられなかったりとかするので。でも、今すごく感じる事は、若いころはまだ気盛んな、私は売れるんだとか、売れたいとか思っていた頃っていうのは、いろんなものを犠牲にしていたって、さっき話をしていたんですけど、今、感じるのは、「ああ、生かされているんだな」という事なんですよ。多分、どんなものでも、この世に命を落とした意味を持っていると思うんですけど、その意味が何なのかというのは、私も未だにわからないし、それがわからないから、多分生きてる。それを探し求めて日々生きてるんだと思うんですけど。でも、必ず意味があるだろうなと。で、自分が音楽をやりたい、やりたくないというのとは別として、今、音楽をやっているというのは、「生かされている」と思うんですよ。それは自分の力だけなんてとんでもない。それは周りの家族だったり、スタッフだったり、ファンの人だったり、自分以外の人たちの力によって、私は今ここにいるという事をすごい感じるんですね。もしかして、それをもっともっと大きく言っていっちゃうと、生まれた星なのかもしれない。自分にはどうにもできない運命というか、もっともっと大きな力が作用して、みんなそれぞれ命を持って生まれてきていると思うんですよ。だから、もしかして、不幸にして命をすぐ落としてしまう運命の人でも、それでも彼らが「生まれてきて、命を落とした」というところに意味があるのかな?とか思ったり。私、宗教とかないのでわからないんですけど。ただ、みんな生かされていると思うんです。悪い事をして、人を殺しちゃったりとか、刑務所に入っちゃったりとか、そういう人も意味があって、そういう事をしているんだと思うと、すべてに無駄というものがないんだなと思うんですね。何て考えると、さっき言ってる事と矛盾しちゃうかもしれないけど、今、この先どうなるのかわからない、何か、本当に不透明な混沌とした時代も意味があるのかもしれないですね。私たちに何か警告している事なのかもしれない。わからないけど。なんて事をね(笑)思っちゃうんですよ。

T:「生かされている」という話はとても意味深いですね。そういう事を、あえて言わないよりも言う方がいいかも知れないですね、何かを超えたところで発言した方が。

S:そうですね。「自分で選んでここにいるんだぞ」という感じはあるんですよ。だから、人のせいにしちゃいけないなと。「自分であの時、オーストラリアかニュージーランドに行ってたら、外人と結婚して、青い目の子供を生んで私は今はもしかしてニュージーランドで湖と山に囲まれて優雅な暮らしをしてたかもしれないとかね。(笑)」思うけれども、たらればで言ってもしょうがないので、「あの時に行かなかったのは自分の意思で」、また音楽を始めたのも自分の意思で。ただ未だに、いわゆるブレイクということがなく(笑)でも、みんな自分で選んでる人生なんだなと思いますね。

T:ブレイク、ですか。そうですね。でも必ずしも今の時代でそんなにヒット曲という風に売れても、しょうがないかもしれないですね。中にはとても重要な意味を持つ楽曲もあるかもしれないけど、ほとんどは「ある所のもの」のメディアを通して一瞬、大きくなっている楽曲だから。それより、多分続けて、歌い続けるという事が、絶対僕は大事じゃないかな?と思うんですね。

S:それがね、いつも相反した自分が自分の中にいて、そう思う、継続こそ力なりって思っている。「こうやってアルバムだって出せる、ツアーだって組める、お客さんが来てくれる、買ってくれる、自分がいるという事は、幸せじゃないか」って思う自分と、「いや、やっぱり売れたい」とかね、私、こういう者ですっていう、代表曲、名刺を出せる自分も欲しいっていうのもいたり。人生修行だなと。(笑)幾つになっても。そうですね。人生修行です。

T:沢田さんの音楽活動の中から、生まれてくる「意味あるブレイク」を、とても楽しみにしています。ありがとうございました。

-end-


沢田聖子さんの詳しいインフォメーションは、
 「SMC」沢田聖子オフィシャルHP(http://www.smc-group.com/shoko/index.html)まで。


























【New Release】


[ CD ]


「雨ノチ晴レ」
CRCP-537/日本クラウン




[ DVD ]

「Shoko Sawada 25th Anniversary
In My Heart Concert〜心は元気ですか」

CRBP-5/日本クラウン

 

 

 

 




























































































































































































































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