小峰公子 / Kouko Komine


1991年「Karak」として、1stアルバム『Silent days』にてデビュー。現在「Zabadak」への参加など、さまざまな活動を続けている、小峰公子さんのロングインタビューです。

(2004年4月16日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




小峰公子 (Kouko Komine)


福島県生まれ。
1991年 ギターの保刈久明とのユニット「Karak」として、
1991年 CDデビュー。 同年、1stアルバム『Silent days』
1991年 (キングレコード)をリリース。
1992年 2ndアルバム『flow』(キングレコード)をリリース。
1998年 「Karak」としては、6年ぶりの3rdアルバム、
1991年 『七月の雪』(biosphere records)を発表。
2000年 斎藤ネコカルテットの演奏による初のソロアルバム
1991年  「palette」リリース。

最近では、吉良知彦のソロユニット「ZABADAK」を中心に、
演劇、CM音楽など、さまざまに精力的な活動を行っている。


「どうしよう?」と思ったときに、やっぱり私が自分の力で音楽をやりたいなと思って、初めてそこでまともに自分でやろうと思ったんでしょうね。それで、親には申し訳ないけどって、1年だけ私の好きな事をやらせてくれって父親に言って、そしたら父親が「1年じゃ好きな事は出来ないかもしれないよ」って言ってくたんですよ。「やってみなさい」って言われて、じゃあちゃんと音楽に向き合ってみようと思って。


TERA(以下:T):まず、生まれと場所から教えてください。

小峰(以下:K):福島県で生まれました。

T:子供の頃のお話を聞かせて下さい。

K:福島で育ちまして、親が銀行員だったんです。それで、引っ越しがよくあったので、白河市っていう所と、いわき市と転々と。最後に住んでいたのが郡山なんですけど。高校生までそこにいました。

T:小学生の時は、どういう感じだったんですか?

K:あのね、優等生だったんですよ。(笑)

T:(笑)あと、兄弟は?

K:兄と妹がいて真ん中なんですよ。要領よかったんですよね。今考えると、優等生でいたほうが、居心地がいいっていうのを察知していたんじゃないかと思うんですよね。そうしてると、やりやすいぞっていうのがあったんじゃないかな。

T:兄弟でよく遊んだりとかは?

K:しましたよ。やっぱり兄の影響というのはありましたしね。兄貴が小学校5年の頃にビートルズの映画「LET IT BE」が流行ってたのかな?それで、音楽では影響うけてましたね。3つ違うんですけどね。

T:楽器は、小学生の時は?

K:やってました。3歳の時、今でも覚えてるんですけど、いとこの家で初めてキーボードを触って、離れなくなっちゃって、インプロビゼーションの世界にはまり込んで。(笑)それがきっかけで、うちの親が「じゃあ習わせた方がいいかな?」と思ったみたい。で、普通に習い事として習ってて、小学校の時はエレクトーンをやってましたね。

T:家には?

K:小学校2年でエレクトーンを買ってもらいました。幼稚園の時からだけど、うちに帰るとキーボードを弾くのが楽しみみたいな。

T:最初にバイエルとか?

K:いや。ヤマハだったんですよ。ポピュラー寄りだったんで、コードから入っていく様な。結構柔らかいですよね。楽しんで出来たのは良かったかな?と思うんですけど。でもバイエルとか、友達がやってるのを聞いて、耳で覚えて弾いたりとかしてましたけど。

T:割と家で毎日?

K:毎日弾いてて、転換期は高校ぐらいだったけど、シンセ買ってもらったんですよね。でもずっとやってましたね。

T:中学校になると、ほかに何か趣味とか好きな事とかは?

K:好きな事?ですかね。「チューリップ」が好きでしたね。(笑)チューリップ大好きだったんですよ、私。大ファンで、ファンクラブに入ってましたね。チューリップの曲とかをよくエレクトーンで弾いたり、ギターでも弾いて。ビブラートは財津和夫の歌まねで会得したし。毎日でっかい声で歌ってましたね。あ、ギターを初めて弾いたのは、多分ビートルズの「ゲットバック」だったと思うんですけど。「 A〜GD」みたいな。(笑)中学校の時は、フォーク全盛みたいな感じだったんで、フォーク雑誌とかよく読んでましたね、中学生のくせに。

T:ライブとかは?

K:ライブはですね、年がばれるんですけど、最初にそういう感じで見たのは、中学校の時に、「ワンステップフェスティバル」っていうのがあったんですよ。郡山で、オノヨーコが来たりとか、キャロルの解散記念コンサートとかそれであったり、ジュリーとか、サンハウス、そういうのが出た一大イベントですよ。日本のウッドストックみたいな。それを見に行ったりしましたね。チューリップも見ましたけど。(笑)

T:「チューリップ」に入ったのは、何の曲がきっかけだったんですか?

K:「魔法の黄色い靴」ですね。日本人なのにビートルズっぽい匂いがすごいしたので。そのうち「心の旅」とかですごいヒットしましたよね。

T:初めて買ったレコードは?

K:初めて買ったのは、多分幼稚園の時に、兄と一緒にスパイダースのシングル買ったと思うんですよ。タイガースは新譜が出る度に買いに行ってましたね。レコードが300円の時代に。そのうち360円になって、高くなった!って思ったんですけど。5つか6つぐらいの時から買ってましたね。

T:高校入ると、何か。

K:高校入るとバンド始めましたね。

T:編成はどんな感じで?

K:編成は、女の子バンドではベース弾いてて、他にもやっていて、私、「Karak」でデビューしたんですけど、その時に、もう既に相手の保刈君っていう人とバンドやってたんですよね。私はキーボードで入って、あの頃、高中正義とかの、いわゆるそっち方面のコピーバンドみたいな。「黒船」とかもやってたな。ミカバンド。

T:バンド名は?

K:忘れたい、みたいな。(笑)何だっけな。3つぐらいやってたんですよね、バンド。

T:そうなんですか。発表する場みたいなのは?

K:ありましたね。コンテストとか、地元のそういうのも出た事あったし、あとはやっぱり高校生同士で公会堂を借りて演奏したりとか、そういうのもやりましたね。あとは文化祭、例に違わず。男子校にも行っちゃえみたいな。女子校だったんですよね、私。

T:女子校は面白いですか?

K:面白かったですね。あんまり、私、学校だけが人生だと思ってないタイプの人間だったんで、他のところでも、結構楽しくやってたようなところがあったんで、そういう意味で学校つまらないやとか、そういう風には思わなかったですね。お友達は多かった、今でも付き合ってる友達いますし、ほとんどしゃべりに行ってたようなもので、すごい進学校に行っちゃったんですけど、お勉強がすごい人はすごいし、私みたいにたらたらやってる人はたらたらやってたかな。

T:音楽以外で、高校時代何かやってたんですか?

K:音楽以外にね・・。本は好きでめちゃめちゃ読んでましたけどね。

T:どんな本ですか?

K:文学史を最初から読んでみようみたいなところがあったんで、日本文学史、年表に載ってるようなのを、とりあえず作家別に全部読んでたりしましたね。三島由紀夫とか大好きでしたね、昔。文体が好きだったんだと思うんですよね。耽美なところが。文章が美しいですよね。読んでいて気持ちいい文章というか、酔える、というか。今でもそういうのは大好きですけど。

T:高校出る頃には生活の変化っていうのは?

K:そうですね。とりあえず東京行きたいなって。兄貴が美大に行ってたんですけど、うちは高校出たら東京の大学に行くっていう、そういう流れがあったので、早く出たいなと思ってましたね。早くこんな田舎は出てやるっていう。(笑)

T:それで、実現するんですか?

K:しましたね。(笑)して大学に、某女子大に。女子大なんですよ、私。(笑)

T:またまた。

K:笑われちゃう。そうですね、地味めのお固い女子大に行って、でも兄と住んでたんですね、最初。兄貴は多摩美に行ってたんで、そういう人たちとも遊んでましたね。自由なヒトが多くて、面白かったですね。

T:専攻は?

K:日本文学です。国文科で。実は物書きになりたいとずっと思ってたし。宮沢賢治が好きだったんで、その背景にある仏教との絡みとか、そういうのを一緒に勉強したいなっていう風に、最初は真面目に思ってたんですけど、宮沢賢治の研究で有名な先生がいらっしゃって、その先生の講座を、たまたま高校の時に聞いて、その先生に習いたいなと思って、その先生のいるところを受けたんですよ。結構ちゃんとはっきりした目的があって大学に行ったんですけど、大学行ってからは、計量国語学っていうのが面白くなっちゃって、結局そっちを卒論にしちゃったんですけど。文学少女だったすね。

T:自分で小説書いたりとかは?

K:まあ、小説より、私、やっぱり詩のほうに行っちゃったんですね。今も仕事になってますけど。でも、やっぱりそっちに行きたいというか、今でもちょっと書いてますけど、そういうのを虎視眈々とやってはいますけど。

T:大学行って、音楽は?

K:やってました。田舎でやってた連中、みんなこっちに来たんで、音楽一緒にやってた。いろんなところでね、やりました。早稲田のサークルの中でも日大のサークルの中でもやってたし、そこにだれか1人いたらそこに行くみたいな感じのバンドの活動をずっとしてましたね。1年の時から。文化祭に出たりとかしてましたね。

T:それはオリジナルの曲で。

K:ええ。オリジナルとコピーも半分ぐらい。最初はコピーもあったかな?カールトンとか、ああいういわゆるフュージョンですよね。ただフュージョンは実は嫌いで、ほら、コードめんどくさいし。なんかロックじゃないぞ、っていう。好きで聴いてたのは、高校2年くらいからポリスとかXTCとか、ブリティッシュ系のロックが大好きで。あと、ケイト・ブッシュは毎日聴いてた。ニナ・ハーゲンとかも。あとはプログレ。歌詞がかっこいい、と思いましたね。ユーロ・プログレが大好きで・・リック・ウェイクマンのコピーとかしてましたね。高校時代。キャメルも大好き。今だに泣いちゃう。私、その頃歌なんか歌ってなかったんですよ、歌を歌ったのは大学卒業する頃です。ずっとキーボードでやってて。

T:詞曲はオリジナルで?


K:私、エレクトーンのコンテストでは、曲作ってそれで東北大会まで行ったりとか、そういうのがあったんですけど、バンドでのっていうのは、そういえば作らなかったですね。高校の時は、どうだったんだろう?フォークっぽいようなやつは作ったりしてましたけどね。ただ「自分でやろう、何かでやろう」っていうんじゃなくて、自然発生的にできるものはつくってたみたいな感じだったのかな?

T:じゃあ、割と音楽は、楽しむ音楽で、何かメッセージとかそういうのでなくて。

K:そうですね。まだそういう風に思ってなかったんでしょうね。やっぱり私はそのとき、多分大学ぐらいの時まで、音楽を仕事にしようとは思わなかったし、自分は文章を書いて生きていく人なんじゃないかと思ってたんで、音楽は大好きだったけど、多分それを仕事にするとは全然思ってなかったですね。

T:文章を仕事にしていくみたいな方が強かった?

K:うん。何となくそういう風なものにかかわっていくんじゃないかしらっていう風に、漠然と思ってたんですよね。

T:就職の事というのは、まだ大学に入った時は?


K:ええ。考えてなかったです。何か「出版社に行けたらな」みたいに、きっと思ってたんじゃないかな?と思いますね、入学した頃は。大学の終わりの頃に、モデルの事務所に入っちゃったりっていう事になって、余りこういう事を言いたくないから、もしかしたらカットして。大学2、3年でモデルの事務所に入っちゃって、そしたら音楽やってるんだったらそっちをやらない?って、そういう事なったんですね。

T:モデル事務所に入ったきっかけは?


K:友達がその事務所の人と知り合いだったのかな?そしたら、ちょっとおいでみたいな感じで。(笑)

T:入ってアルバイトみたいな事を?

K:初めに「音楽をやってる」と言ったので、じゃ、そっちやってみなさい、みたいな。たまにちょっとオーディション受けたりとかも、あとちょろっと広告みたいなのでにっこり、ってのもありましたけど、ちゃんとスタジオ代とかも出してもらって、それで自分のオリジナルを作り出したんですよ。私も書きたいな、ってそろそろ思ってたんでしょうね。もう昔のことで忘れちゃったなぁ、なんて。(笑)

T:はじめは、どんなジャンルというか、どういう音楽を?

K:最初はね、思い返すと一番最初って、今とそんな遠くないんじゃないかと思うんですよ。何かちょっと童謡っぽいニュアンスもあったような曲も書いてたりするところもあったし。今また歌ってもいいかな、って最近思うようなのもあったり。でも、そうですね。バンドでやってたっていうのもあったんで、ちょっと味付けはフュージョンだったかもしれないですけどね。それで初めて歌いましたね。まだ全然なってなかったですけど。デモテープとったりとかし始めました。

T:その時は、バンド名ついてました?

K:ついてましたね。「小峰公子とKarak」って、今と同じ名前でやってました、たしか。

T:そこがスタートみたいな感じ?

K:多分そうですね。あ、でも一番最初は、最初にモデルの事務所の人がお金出してくれてたころは、多分ソロだったですね。バンド名って、きっと考えてなかったと思いますね。

T:大学出る頃にはどういう感じになってたんですか?

K:大学出る頃には、もう私、デビューします、みたいな風になっていたので、「就職しないよ」って親に言ったんですよ。ちょっとここから先もあんまり言いたくないんですけど、色々とトラブルがありまして、私の担当のマネージャー絡みの事で、レコーディングも決まったとか言われてたんだけど、ちょっと事件などがあってぽしゃっちゃった。それが大学卒業する寸前でしたね。それで「えーっ!」と思って、就職もしないでそればっかりやってた訳なんで、バンドで合宿したりしてましたしね。「どうしよう?」と思ったときに、やっぱり私が自分の力で音楽をやりたいなと思って、初めてそこでまともに自分でやろうと思ったんでしょうね。それで、親には申し訳ないけどって、1年だけ私の好きな事をやらせてくれって父親に言って、そしたら父親が「1年じゃ好きな事は出来ないかもしれないよ」って言ってくたんですよ。「やってみなさい」って言われて、じゃあちゃんと音楽に向き合ってみようと思って。

T:それで、大学出て?

K:大学出て、そうですね。遅いですよね、スタートが。音楽的にきっと。新宿に「ルイード」ってライヴハウスがあったんですけど、そこに出る事が決まって、そのライブに向けてボイストレーニングの先生を紹介してもらって初めてちゃんと歌をやり始めたんです。古賀義弥という先生で、『今夜は最高』って番組ありましたよね、タモリさんのやってた。あの番組でボイストレーニングを、いろんな歌手の方たちにしている方で。素人はとらなくて、タレントさんとか歌手とかに教えてる先生なんですけど。私はその先生に会えた事はとてもラッキーだったなと思うんですけどね。いろんな勉強させてもらいました。歌の他にも。周りの事を見る大切さとか。その番組に連れてってもらって、いつもすごい種類の歌を歌うんですね、ジャズからミュージカルの歌から。それを全部「とにかく歌えるようにしろ」って言われて、リハーサルシンガーみたいな事をやらせてもらってたんですね、2、3年かな。22才のときから。それはすごい勉強になりましたね。泣きながらやってましたけど、すごいきつかったから。コピーライターのバイトをしてたんですよ。それをやりつつだったので。バブル全盛だったんで、いっぱいコピーの仕事はあったんですね。結構お金は稼げてたけど、それを全部、私はバンドのリハ代とか、ギャラに使って。そのバイトと、あと『今夜は最高』の、その先生のお手伝いというかアシスタントをさせてもらってたっていうのが、大学卒業してから続きましたね。それからその先生の紹介で、ポリドールのディレクターを紹介していただいたんですけど、その方が私のいた事務所、揆楽舎という、加藤登紀子さんの事務所なんですけど、そこに紹介していただいて、そこでちゃんと所属アーティストみたいな形でバントを面倒みてもらえるようになった。そこまで2,3年かかりましたね。

T:事務所入ってから、活動は変わったのですか?

K:バンドは、メンツを集めやすくなったかな?っていうのは、ありましたよね。あとはマネージャーさんがいてくれたから、やっぱり今まで足りない事をすごいやってもらえたし、「なんていいんだろう」って思いましたけどね。(笑)

T:デビューは?

K:デビューするまでに結構かかったんですよ。私たちみたいなジャンルの人が、あんまり昔は、いなかったですから、今でこそ「小峰さんの世界の歌詞を書いてください」とかって、発注来るんですけど。その頃、某レコード会社に持ってったら、ディレクターが「こんな自然現象とか、主語とかない歌詞は困るんだよね」とか、「ユーミンみたいなの書いてよ」とか、平気で言われてましたから。あとね、そういうジャンル的にちょっととっつきにくかったのもあったと思うし。ライブハウスで、お客さんも付いてきてはいたんですけど、ライブハウスとしては、最初「対バン組むバンドがないぞ」みたいな。誰と合わせていいかわからないみたいな事をよく言われましたね。でも、「エッグマン」のマネージャーの高橋さんが、今でも親しくさせてもらってるんですけど、「マンダラ」の小倉さん紹介してくださったり、昔「芝浦インクスティック」ってありましたけど、あそこなんかも紹介していただいたり、すごいお世話になりましたね、そのころ。高橋さんも困ったんだと思うんですよ。対バンで組んで盛り上がっていけるようにしたいって、すごい考えてくれてたと思うんですよね。

T:その頃の活動バンド名は?

K:「Karak」でしたね。

T:ずっと?


K:ええ。で、最初は私が曲も書いてたんだけど、郡山から一緒にやってきた保刈久明君っていう、彼と一緒にやってて、彼がすごいいい曲を書くし、もう途中から全部お任せになっちゃって、私が詩を書くっていう態勢になって。保刈君と私と2人で所属してたんですけど、その事務所も。で、いろいろあったもののキングレコードでデヴューしたのが91年ですね。

T:最初のアルバム名を紹介して下さい。

K:最初のアルバム名は『Silent days』っていうものだったんですけど。

T:内容的には。


K:内容的には、アマチュア時代の集大成ですかね。(笑)

T:皆さん、デビューアルバムはそんな感じですよね。

K:そうですよね。

T:でもセレクト大変だったんじゃないですか?曲目いっぱいで。


K:そうですね。いっぱいあったし、私はもっと他に入れたいのとかあったりしましたね。ファーストでしか入らない曲って、やっぱりあると思うんですよね。そういうので「ちょっと外したくないな」と思ってのにちょっと外れてしまったのもありましたね。でも、やっぱり、レコード会社の人は、新しい曲をっていう風に求めるし。今思うと、その時の機会、本当にその時期でしか書けないっていうのもあったと思うんで、それはそれでよかったかな、と。

T:1stアルバム、周りの反応はどうでしたか?

K:「デビューできてよかったね」、「ようやく出たね」みたいな方が多かったのかもしれないですね。音の反応の前に。メンバーもライヴをずっとやってきた人たちでレコーディングしたし、デモテープとの差、とかはあまりなかったと思うんですが、ようやく、こういうの作りたかったんだよなみたいなのが形になったのは、とてもすごい嬉しかったですね。でもそういえば、キーボードの菅野ようこちゃんに「CDになってようやくカラクの作りたい音がはっきり見えた」っていわれたな。

T:それに伴ってライブは?

K:やりましたね。東名阪ツアー行ったりとかしましたね。ライブ大好きでした。デビュー前からお客さんは安定してついてきてくれて、もうワンマンでやれるようになってましたね。今考えると不思議なんですけど。CD出したら、わっとやっぱり全然考えられないくらいにふえたんで。

T:2枚目は?

K:2枚目は『flow』っていうアルバムを出しましたね。

T:内容的には?

K:内容的には、どうなんでしょうかね。どうだったんでしょうね。やっぱり半分ぐらいはずっとライヴでやってた曲でしたね。曲いっぱいあったんですよね。まだCD化してないのもいっぱいあるんですよ。

T:他の活動は?

K:その頃からかな?1枚目を出してからかな。大阪とかでDJやったり、そういうような事も。FMリクエストアワーっていうのをやったりしてましたね。あと、京都のαステーションっていうところで、週1で3時間の生番組やってたんですよ。そういうのもその時期でしたね。毎週泊まってました、京都に。

T:収録はもちろん京都で?


K:ええ。生放送なんで。

T:それがどのぐらい続いたのですか?

K:それはね、やってた期間は全部で、1年半ぐらいでしたかね。1人で京都でやったのは半年かな?

T:ラジオのDJは好きなんですか。

K:好きですね。もうべらべらしゃべりますよ。(笑)

T:何かコーナーみたいなの作ったりとか、ご自身で企画とかするんですか?

K:お友達のミュージシャンが多いんで、なまじデビューするまで時間かかってたもんだから。それで関西にプロモーションに来たときに出てもらったり、そういうコーナーもやってましたしねあと本のコーナーとか、映画のコーナーとか、民族音楽を結構紹介してたかな。異常ですよ。ジェゴグとかをオンエアする。(笑)とかやってましたね。ホーミーとかやったりね。

T:次のアルバムは?

K:3枚目が、その出る前にですね、『エニシダ』っていうシングルが出てですね、シングルが出てその後、キングとはさようならしてしまいましたね。

T:キングを出た後は何か変わった事はあったんですか?

K:変わった事はあったんでしょうか?(笑)キングを出て、とりあえず事務所もその後辞めたんですよね。それで事務所にいた方がその後の面倒をみてくれてたんです。で、「Zabadak」のコーラスで参加したりしはじめました。デビュー前にはしてたんですけど、やっぱり「Karak」でデビューするとなると、ほかの人のコーラスやったりとかというのは、あんまりしない方がいいみたいな、事務所的にそういうのがあって。私は他の人たちのサポート、結構好きなんですけど。それで「やっちゃだめ」っていうのがなくなったんで、「いろいろ、またやれるかな」って。そういう自由さはありましたね。原マスミさんのに出たり、くじらのライヴライブとか・・・今でもやってますけど。あと、仙波さんのライヴで歌わせていただいたりとかしたのは、楽しかったですね。事務所にいたら出来なかったなって思いました。今はどうなんでしょう、もうそんな事言ってる事務所ないのかもしれないけど、昔はそんな感じだったんで

T:活動範囲が広くなってきたっていう感じですか?

K:そうですね。

T:でも、そのころ一番やってて楽しかったのは何ですか?

K:楽しかったのはね、やっぱり「Karak」のライブですね、あとCMの仕事が多くて、割と楽しんでやってましたね。割とというか、とっても楽しんでやってましたね。

T:それは歌で?

K:歌です。多分「Karak」の反動があって。ネコさんとやったライブを見ていただいてもわかると思うんですけど、色々でしょう。「一曲目聴いたら民謡歌手かと思った」って言われたんですけど、初めてきた人に。でも、「Karak」では「Karak」のカラーがあるからこういう風にしなきゃいけないとか、MCでばかな事を言っちゃいけないよ、と言われたり、イメージつくらなきゃいけないみたいなところがあったし。それはイメージが固まってないと売るほうとして売りにくいという事なんでしょうけど。でも、私はいろんな歌も歌いたいし、そういうのが出来る場が、CMだったんですよね。民謡っぽいのを歌ったりもできるし、演歌みたいなのも歌えるし、きれいなボイスの重ねたのとかも出来るしっていう。

T:それからの流れというか、90年代後半に向かっては?


K:90年代後半に向かってはですね、とりあえず「Karak」で、私はもう1回メジャーで出したかったんですけど。なかなか上手くいかなくて、本当にいろいろ当たったりしたんですけど。インディーズでは声かけていただいたりしてたんですけど、なかなかそういう気持ちに私もなれなくて。「ここまで来たら頑張っちゃうぞ」みたいに思ってたんですけど、妊娠したんですよね。出産前に何とかせにゃあかんぞみたいなのもあって、ちょうど「バイオスフィア」って、ザバダックの吉良君がお世話になってる事務所の社長さんに「うちで出さない?」って言ってもらって、3枚目の『七月の雪』っていうCDを出しました。

T:内容的には?

K:これはですね。キング以降のやってたものを集めたっていう感じですね。ライブで人気高かったようなのを入れたっていう感じでしょうかね。

T:ライブが最初にあって、そこで作られた曲が、形になっていくみたいな流れですか?

K:そうですね。曲を保刈君がつくって、それに私が詩を書いて、詩を書いたら歌って、かちっとデモテープつくって、それをサポートメンバーに渡して聞いてもらって、ライブやりますっていう感じでしたね。

T:サードアルバム『七月の雪』の話に戻りますが、上がりとしてはご自身的にはどんな感じ?

K:あのね、妊娠の何カ月目から始まったかな?臨月までやったんですよ。臨月までやって、結構「大丈夫じゃん」なんて思ってたんですけど、臨月になったら急に声が響かなくなって、お腹が詰まってると、響く部分がないみたいなんですよね。で、中断して。3月に子供生んだんですけど、7月、8月ぐらいからまた再開したのかな。だから、その辺のね、そのときしか出せない声が入ってます。(笑)

T:このタイトルは?

K:曲名です。タイトルはね、タルコフスキーの日記に、「七月の雪」っていう走り書きがあるんですよ。多分、彼は映画に使おうと思ってたと思うんですけど、すごい気になってて、そこから私、ただそのセンテンスからだけですけど、歌詩を書いたんですよ。「七月の雪」。いただきました。

T:ファースト、セカンドと比べて、曲的、詞的に、大分変化はあったんですか?


K:曲的なものとかよりも、プロデュースが吉良君なんですよ。保刈君がアトピーがひどくて、手とかも切れちゃって、ギター弾けなくなっちゃったんですよね、その時期。で、アコギとかを吉良君が弾いたんで、サウンド的に変化はありますよね。ギタリスト違うとやっぱり違ってきちゃう。でも一番信頼してる、というか解りあえてたからその変化も楽しめましたけど。ただ、作業的に、もう保刈君もいろんなプログラムに参加して、レコーディングの経験はすごい積んできたし、私は私でZabadakもずっと手伝ってたんで、そっちで得たレコーディングのやり方みたいなのもきっかりできちゃってたんでレコーディングとしてはかなりこなれてましたね、その頃は。だから、あんまり1枚目みたいな無駄な衝突や無駄なこだわりみたいなのがなくなってましたね。1枚目のときなんて、今考えると、1個の音つくるのに何時間もかけたりしてましたからね。

T:サードアルバムが?


K:サードアルバムが、99年4月ですね。

T:「Karak」の活動としては?

K:これが最後ですね。

T:何か、ご自分で決めた事とかあるんですか?

K:自然消滅ですね。保刈君が、ライブ活動に興味がなくなってしまったっていうのもあるし、そうですね、離れてしまったんでしょうね。お互い、結構ほかの仕事も忙しくなってきたっていうのも大きいと思うんですけどね。

T:ファンの人たちの反応は、ありましたか。解散について。

K:解散って言ってないんですよ、今でも。「いつやるんですか」みたいな人も今も時々。「またやってください」とか、言われるんですけど、ちょっと保刈君とまた活動するのは難しいでしょうね。

T:でも、サードは吉良さんが入ってるっていう事と、Zabadakの活動と、交差してるところでいうと、割とザバダックと融合されてる部分は?

K:そうですね。吉良君もポリスターに移る前にバイオスフィアレーベルから1枚Zabadakのソロアルバムを出してるんですけど、その時のツアーには私と保刈君が参加したりもしてましたし、結構一緒の活動をしてたんですね。私がソロとしてライブやる時に「Karak」の歌を今でも歌っているし、その時に吉良君にギターを弾いてもらったりしてるんですよね。なんか滲んでます。

T:そうですよね。何となく、自然な流れなのかもしれないですよね。

K:そうですね。あんまりきっちり分けなくていいんじゃないみたいな。こうなってくると、曲が大事っていうか、アーティスト性とか、イメージとかよりも、その曲を成仏させてあげることが大事なんじゃないかな、ってね。いい形にして出すという事が。どういうアーティストとしてということより、強かったですよね。何より「Karak」の一番の理解者が吉良君で、表現するのも保刈君のほかにはまず、彼なわけで。

T:それで「Karak」解散というか。

K:休止。

T:ですね。お子さんが生まれて、音楽活動中断はあったんですか?


K:なかったですね。出産して2週間目ぐらいに歌詞の発注とか来てましたから。それで、そういう仕事を再開して、7月ぐらいにはザバダックのレコーディングがあったり。ちょっとまだ本調子じゃない感じでしたけど、CMの仕事なんかは随分やってましたね、生んだ直後から。

T:詩を提供されているアーティストの方は?

K:Zabadakはずっと書いてますね。あと結構アニメ関係のイメージアルバムみたいな仕事が多かったですね。聞かないでくださいね、名前忘れちゃうんですよ、すぐ。(笑)いっぱいやってるんですけどね。

T:「Zabadak」は、現在は吉良さんのソロユニットですか?

K:そうです。Zabadakは最初は、東芝で3人でデヴューして。それで、松田君が抜けて、93年に上野さんというもう1人の方が抜けて、それで今、ソロです。ソロユニットって何だ?っていう感じなんですけど。でも、彼も自由な感じになりたかったみたいで、いろんな人とやったりね。吉良君とはZabadakが2枚目レコーディングする前に知り合ったんです。ライブのコーラスで入って。保刈君もサポートやってたんですよ、そのとき。濱田理恵ちゃんが一緒にコーラス、「グラスバレエ」の上領亘君がドラムだったり、すごいメンバーでやってましたね、Zabadakは最初。ドラム2人だもん。(笑)

T:すごいですね。

K:ベース2本だもん。ギター2本、キーボードも、何でも2つみたいな。

T:ザバダックの詩を書かれるときっていうのは、曲が先。

K:そうですね、ほとんど。95%ぐらいそうですね。

T:曲のイメージを聞いてから書くんですか。

K:はい。「Karak」もそうでしたし、Zabadakもそう。ほとんどそうですね。

T:「こういうメッセージにして」とか、そういう事の発注は特になく。

K:ええ。ある時もあったりするんですけど、ほとんどないですね。メジャーでZabadakがやってた頃は、大体の雰囲気みたいなのは話したりしますよね、制作の人たちと。でも、「ハーベストレイン」っていう曲を私が書いてからは、自然派なイメージみたいなのができたみたいで、そういう切り口が多かったですけどね。

T:自然派っていうのは、内容的には?

K:エコロジカルな。大っきい系っていうんですか。あんまりいなかったんですよ。そのころ。だから、そういうものをよく発注されて。今でもそれは私のカラーになってるところはありますね。苦手なんです、恋愛のこととか書くの。恥ずかしくて。(笑)

T:社会性、風刺性なものは?

K:Zabadakの「ライフ」っていう、妊娠中に詩を書いたアルバムぐらいからそういうのが結構出てきたのかな、その頃あった宗教団体へのこととか、シニカルな歌詞とか。今度のアルバムもそういうのが多いって言われますけど、どうなんでしょうね。あまり意識してませんでしたね。普通考えてる事が出てくるんでしょうね。

T:そういう詩は、学生時に詩にしてた流れなのか、Zabadakの影響みたいなもの?

K:どうでしょうかね。影響がないとは言えないと思いますけどね。詩は自由に書かせてもらってますけど、サウンドそのものにパンクな匂いを感じたりする訳ですよ。この曲は、ちょっと皮肉な感じが合うんじゃないかとか、風刺性のあるものが合いそうだ、とかっていうのを、サウンドに感じるんですよ、そのスピリッツを。この曲はロックな骨があるのがいいぞ、とか。曲が始めから持っているものに私が感じ取ったものを入れていく、って感じですかね。だから自然に書けるんでしょうね。

T:2000年入って、何か動き変わった事って?

K:2000年に入ってですかね。そうですね。この間のライヴで、お芝居の方がいらっしゃってましたけど、あの方たちと一緒にやるようになってきたのが、ちょうど2000年ですかね。彼女たちはフランスのアヴィニョンの国際演劇祭っていうのに出てて、それに誘われたんですね。その時に、Zabadakのコンサートを劇場でやらせてもらったんです。いろいろ手配してもらって。それでね、生まれて初めてストリートでも歌ったんですよ。吉良君と二人だけで。

T:どういう曲を披露するのですか?

K:Zabadakの曲と、Karakの曲半々ぐらいでしたね、最初に行った時は。そのまま日本語で。とにかく自分のファンじゃない人の前で、しかも言葉がわからない人の前で歌うのは初めてだったし、ましてや私にとっては歌詩が結構命なのに、それが伝わらないから、言葉になる前にある感情を伝えようと初めて思ったんですよ。「何とかそれを伝えたいな」っていう気持ち。そんな気持ちで人の前に立ったのは初めてだったんで、すごい経験でしたね。反応がすごく良かったんですよ。お客さんはもちろん多くなかったですけど、すごいストレートで、1曲歌い終わる度に「はぁーっ」ていう声が漏れたり、「おーっ」とか、向こうの人って自分の気持ちをストレートに伝えようという気持ちがあるんで、それは嬉しかったですね。その後、ネコさんと、「小峰公子with斎藤ネコカルテット」で『パレット』という初めてのソロアルバムを出したんですけど。ちょうど最初にフランスに行った年かな?

T:ネコさんとのコラボレーションというか、活動というのは?


K:(笑)いやー、ネコさん好きですから、楽しいですよ。最初にネコカルでやった時には、ほんと感動して、あの4人の弦の音の中に自分がいるっていうのは、「うおーっ」と、これはすごいなって。すごい人たちですよ。なんか、相性が合ったんですよね、ネコカルのみんなとも。ネコカルには、私が一番多くおじゃましてるゲストらしいんですけど。いっぱい私の譜面もってますよ、ネコさん。

T:ネコさん、ぶつぶつとした独特の感じがいいですよね。僕も大好きですね。

K:そうですよね。ぶつぶつ言ってますね。話長いですよね。(笑)でも楽しいです、すごい。それで、2000年に入ってからは、私のソロはずっとやろうと思って、コンサートをやってたんですけど、お芝居のほうに出る事にもなったりするようになって。「La compagnie A-n」って言う劇団ですけど、彼女たちのお芝居に出つつ、3年続けてフランスに行って。Zabadakのコンサートとお芝居のほうに出るのと2本立てみたいな感じでやってましたね。

T:お芝居は、どんな事をやるんですか?


K:幾つかの曲をモチーフにして、ダンスとマイムで構成されたお芝居なんですよね。台詞はなくて。だから、海外でもわかってもらえてると思うんですけど。そこで私は歌と、アコーディオン弾いたりしてます。芝居っぽいことはしてません。マイムはちょっとしてますけど。

T:歌は、殆どオリジナルで?

K:メンバーの明樹由佳ちゃんとは知り合いだったんですが、もともと、「zabadakの曲を使わせてください」っていうところからのつながりなんです。で、「いいですよ」って。「アヴェ・マリア」も使ってますがそれ以外はZabadakの曲です。かなりアレンジを加えているんで、モト曲が殆どわからないぐらい変わってるのもあります。そのうちに、楽器指導とか、ヴォイストレーニングもやってもらえませんか、って言われて、教えてたらそれがいつか出ることになってしまったんですけど。

T:公演は年にどれぐらい?

K:その年によって違ってましたけど、海外公演も多くて、おととしは韓国・ソウルでやったあと、パリの大使館でやって、そのあとアヴィニョンでやったり、地方の演劇祭に出たり。海外から戻ったら日本で帰国報告公演、ってのをやる、って感じでしたね。去年はアヴィニョンの演劇祭がストで中止で行けませんでしたけど。

T:その公演は、すべて一緒に。

K:全部とはいきませんでしたけど、主要な公演は回りましたね。もともとは西山水木さんと明樹由佳さんの二人のユニットの劇団で。私が出てるのは「祈りのあとに」っていうお芝居です。

T:音楽活動に関しては、Zabadak中心で。


K:ほとんどZabadakですよね、今。吉良君もこだわりみたいなのはあるとは思うんですけど。オレのバンドだぞ、っていう。でもほとんど一緒ですからね。詩書いて曲作ってという事と、レコーディングも一緒にやったりとかもしてますし。人に説明するのが面倒だと「ザバダックの小峰です」なんて私を紹介することもあったりですね。

T:8月公演の「劇団ひまわり」の公演は、どういう内容ですか?


K:西山水木さんが演出をするんですよ。「空色勾玉」というジュニアファンタジーノベルが原作です。古事記というか、古代の日本の設定なんですけど、闇と光の神の争い、そこに世界の鍵をにぎる少女がいて、という壮大な物語です。面白いと思います。7歳から20歳代まで40人ぐらい出演するんですよ。この間初めて稽古場に行ったんですけど、すごい面白かったですね。子供たちに打楽器与えてやってもらったら、みんなテクニックはないけど、やる気がすごいあるから、面白いんですよね。リズム悪かったりするんだけど、気持ちに迷いがなくて、昔の音楽ってこうだったんじゃないかなって思うような。だんだんに一個の形になっていくっていうのは面白かったですね。

T:それもオリジナル曲を。

K:そうです。まるっきり最初から作ってます。お芝居は、「キャラメルボックス」っていう劇団のを、ずっとここ何年か書かせてもらったりしてるんで、そういうお芝居の音楽のおもしろさも多くなってきましたよね。

T:例えば表現の発表の形としては、色々あると思うんですけど、CDとかライブとか、音楽のライブと比べて、お芝居がついた中の音楽というのは、小峰さんの中でも違った捉え方が?

K:使われ方によって全然違うんですけど、今度の「劇団ひまわり」のは、子供たちが歌う、ていうので、やっぱり言葉の選び方とかも、多分今までより考えて書かなきゃいけないと思うんですよ。ミュージカルなのでストーリーに添っていないといけないし。そういう面白さもあるのと、あと「キャラメルボックス」の場合は、こっちがある程度自由に作って、お芝居にぽんと当てはめて上演するのが多いんですけど、やっぱり聞こえかたが変わってきたりしますよね。印象が違って聞こえます。あと、あんな大爆音で自分の声を聞く事がないので、サンシャイン劇場とかで。やっぱり、他じゃこんな経験できないなっていうのはありますよね。自分の曲かかってるところでみんな泣いてたりすると、へーって。お芝居も音楽も両方うまくはまった時っていうのは、ライヴとはやっぱり違う面白さですね。

T:「Zabadak」の新しいアルバムについて教えてください。

K:『Wonderful Life 』。

T:これはどういうアルバムになってるのでしょうか?

K:これは、成り立ちから言うと、去年の夏ぐらいから吉良君が書きためた曲があって、それが膨大な曲数、十何曲か出来て、そこから歌詩を書いていったんですけど。毎回、曲がいいから、これを台無しにしないように、ってすごいプレッシャーで書いてるんですけどね。去年の今ごろかな、親しい人が亡くなったり、そんな事件もあって、ちょっとタナトス寄りな内容になってしまったところはあると思うんですが、子供を生んで、死ぬ事と生きることっていうのは同じぐらいの大事さを持ってるっていうか、死んだら終わりじゃないって、死から教えられる事もある、っていうようなこともいろいろ考えたりして、そういう思いがベースになってますかね、今度のアルバムは。

T:アルバムがリリースして、周りの反応は?


K:よかったですね。今まで、あんまり吉良君のアルバムっていう事で、歌詩そのものへの反応ってそんなになかったような気がするんですけど、今回はすごいいただきましたね。あと、何というか、玄人好みだったのか、業界の方からのお褒めの言葉とか、結構多かったように思いますね。T:参加ミュージシャンに関しては。
K:参加ミュージシャン。えーっと、関島さんのラッパ隊。関島さんは、私、くじらという、杉林さんのバンドで何度かご一緒してる方で、この曲は絶対関島さんが合うねって、何って言うんですかね、ジプシーっぽいっていうか、そういう雰囲気の曲なんで、お願いしましたね。きれいきれいじゃなく、かっこいい味わいが出るんじゃないかと思って、見事そうなりましたね。ギターの清水さんっていう方は、その時点では全然知らなくて、レコーディングのときもお会いしてなかったんですけど、吉良君がキャラメルボックスの仕事でご一緒して、頼んだみたいですね。あとはほとんど吉良君が。ドラムは楠均さんですね。

T:あと、のらねこ合奏団。

K:吉良君が「弦を入れたい」と言い出しまして、それでネコさんに早速相談したところ、予算やいろいろな事を考えてくださってですね、彼は偉いんですよね、のらねこ合奏団、というアマチュアの方たちをきっちり指導したり、育てようという気持ちがあって、私たちには真似出来ない、すばらしい活動をしてて。じゃあ、のらねこにやっていただこうかというか、ほかは考えにくい状況だったんで、お願いいたしました。

T:写真、きれいですよね、ジャケットの。

K:ええ。ずっとデザイン関係は、海老名さんって、Karakも全部同じデザイナーさんなんですけど、Zabadakのほとんどのアルバムをデザインしてくれてる海老名淳さん。

T:文字が沢山並んでいますね。


K:そうなんです。歌詩の一節が読みにくく配置されています。(笑)

T:Zabadakは、ホームページもすごいですよね。


K:はい。ホームページすごいです。時間かかりますので「気をつけてクリックしてね」みたいな。

T:ホームページでも曲が聴けたりとかもですね。

K:はい、そうなんですよ。

T:つけっぱなしにしてると、ずっと延々と曲が流れ続けるという。


K:そうなんですよ。

T:世界観も、広いですよね、Zabadak、今。壮大ですよね。

K:収拾がつかないみたいな。そうかも知れないですね、そう言われれば。飛行機の中で詩ができること多いんですよね。飛行機に乗ると、いろんな考えか浮かんできて。『Wonderful Life』 の中の曲とか、この前のアルバムの曲とかは、飛行機の中でできたのが結構多かったですよね。ずっと昼だったり、何時間も沈みそうな夕日を見てたりとかする状況があるじゃないですか。そういう時に出来るんですよね。

T:この先の活動として、これからやっていきたいこととかは?


K:やっていきたい事というか、決まっている仕事がたくさんあるんで、それを丁寧にやっていきたいなというのが、正直な話なんです。結構膨大な事になりそうな、今年の予感なので。あと、「非戦を選ぶ演劇人の会」っていうのがありまして、5月5日にイベントがあるんですけど、第1回目から参加させてもらってるんですけど。

T:それはどういう内容に?

K:最初は、自衛隊をイラクに派遣する前にやったんですよ。派遣に反対しようという事から始まったピースリーディングだったんですよね。井上ひさしさんの講演なんかもあって、盛りだくさんで。そこでアヴェ・マリアとZabadakの曲を歌わせてもらったんですよ。今回は、渡辺えり子さんが、子供たち向けにピースリーディングを書き下ろしするんです。Zabadakとして歌うのかな、きっと。まだ何も決まってないんです。参加することは決まってるんですけどね。とにかく今、ニュースとか見ても、やっと人質開放されましたけど、やれること何だろうって毎日考えちゃう中で、できるだけの事をやっていきたいなと。非戦の活動とか、イデオロギーとか、そういう匂いがつくようで嫌だという人は、やっぱり多いです。本当はそうじゃないと思うんですけどね。だからまとまらないんですよね。多分党派とか、宗教とか、あったらきっともっとまとまるんでしょうけどね、それがない演劇人とかミュージシャンとかが集まってるもんだから、なかなか色んなものが決まらなくて、最初は結構大変だったらしいんですよね。私は直接運営にかかわってはいないので詳しくはわかりませんが。でも、本当に平和のことを考えてやってる人たちがやっていて、今度5回目を迎えたということだと思うんですけど。私もやれることは、ほんとやりたいなと。

T:そうですよね。割と「反戦」とか言葉を掲げて何かやると様々な反応がですね。

K:共産党じゃないの?とか、ありますね。取材に来るのが。そういうふうに見られるのは嫌だって、参加を敬遠される方も、どうしてもいらっしゃるみたいなんですよね。

T:モーメントも、今、音楽イベントを2回やったんですけど、去年と今年の頭と。「反戦」とか堂々と付けて開催したいんですけど、割と参加する方の思惑みたいな、感情とか、本心とか、いろんなものが交差すると、見てるほうも「マジでやってるの」って。なんか「狙い?」みたいな風に捕らわれるのが嫌で。

K:しゃれなの?みたいな。

T:そう。だから、結構、難しいものがあって。でもどこかできっと「やろう」とは思ってるんですけど。

K:すばらしいですね。そういう事をやっていかないといけないと思うんですよね。

T:そうですよね。例えば「自衛隊は戻したほうがいい」とか言うと、また反応が色々とね。

K:ちょっとここで流せるものかどうかわからないですけど、Zabadakのネットにも今回、吉良君が書いたんですよ。結構反応はあった方らしいんですけど、もっとあるかと思ったら、意外に少なくて。友達のBBS、いつも活発なのに、やっぱ、人質問題について書いたら全く無反応だった、って言ってましたし。

T:怖いんですよね。相手が「多数」になるとね。

K:怖がってるんですよね。一方、誹謗中傷みたいなのとか、すごいじゃないですか。そういう弱いものを寄ってたかってやるみたいな。ネットって、ちょっと失望してしまうのは、そういうところなんですけどね。匿名で物を言っている、しょせんそういう人なのかしらって、今回もちょっと考えちゃったりもしたんですけど。でも首相官邸にメール出したら、返事来ましたよ。(笑)3日後ぐらいでしたけどね。首相官邸よりとかって来ましたね。「ご意見ありがとうございました。まとめて首相にちゃんと出しますから」みたいな内容で。

T:話、またあれですけど、ボランティアで頑張ってた方に対して、行ってない方たちが何か言う事はおかしいじゃないのかな?って思いますよね。

K:半端じゃない嫌がらせらしいんですよね。「非戦を選ぶ演劇人の会」の方には、すごい集まるらしいですよ、いろんな情報が。それがもうひどくて、どうしようっていうぐらいの。高遠さんえらい、って、ひとこと小泉には言って欲しかったですよ。言ったら人気でると思うけど。前々作のアルバムとかね、隠しテーマは「戦争反対」だったんですよ。

T:今年、モーメントの夏に向けてのテーマを「FREEDOM SUMMER」にしようと。去年、実はライブイベントでそれでやろうと思っていたんだけど、参加者や楽曲内容などからまた違う方向に変わって。でもいろいろと迷っていたりもします。


K:いいんですよ。本当に。やったほうがいいです。ジョン・レノンだって、ああやってがっつり運動してきたわけですからね。

T:エンターテイメントの部分と、社会性のあるメッセージ性みたいなものというのは、一緒になれば結構、いろんな意味で価値のある作品が生まれるんだけど。


K:ニュースで見たんだけど、人質解放求めて官邸の前のデモ隊が歌ってたのが、「風に吹かれて」(笑)。私、やっぱりああいうとき歌える日本語の歌つくろうかと思っちゃいましたよ。そういうのないんだなって。

T:そうですね。ないみたいですね。

K:ないんですよ。ちょっとアメリカの歌じゃないだろうって。やっぱり日本人がそういう時に本当に自分たちの言語として、言葉でそういうことを訴えるという歌を作るのは、ちょっと今、テーマかな。

T:日本だから出来るという音楽は、きっとあるんですけどね。日本人は、本当はいい立場なんですけどね。

K:そうなんですよ。ちょっと首相には失望しましたね。官房長官と。言葉づかい、ちょっとあれじゃだめでしょう。

T:いい音楽を絡めて、うまく活動をしていきたいですよね。

K:大きい力になると思うんですけど、やっぱり音楽って、そういう時に。非戦の会も、演劇がそういうことに役に立てないかな?というところから始まってるんで、演劇でやれる事はないだろうかっていう。音楽でも、やれる事はないだろうか?って思いますけどね。

T:「大義名分」みたいなものって、いい時と悪い時とあると思うんですよ。その辺が結構難しくて。「このイベントの大義名分は何ですか?」って聞いてくる人もいますから。


K:いますね。がっちり企画書書かないとつつかれますね。

T:「テーマは何ですか?」って聞かれて「特にないんですけど」って言ったら、「へー」みたいな事思われて、それもまた悲しい部分だと。自然に、そこに集まっている音楽家の方々の活動やその音楽から、聴き取ってもらいたいなあって。


K:「非戦を選ぶ演劇人の会」のイベントも、企画書をつくってて、それでやってましたね。賛同してくださる方にっていう感じで。もっとラフにできるといいんですけどね。

T:また是非、モーメントの活動に力をかしてください。今日は面白いお話ありがとうございました。

K:ありがとうございました。

-end-


小峰公子さんの詳しいインフォメーションは、
「ザバダック」オフィシャルHP(http://www.zabadak.net/)まで。



【Discography】

『karak』



七月の雪
biosphere records/BICL-5002



『zabadak』




Wonderful Life
2004/HARV-0006















































































































































































































































































































































































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『みなさんへメッセージ』


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by ken-G