杉山章二丸 / Shojimaru Sugiyama


1990年『MOJO CLUB』のドラマーとして、レコードデビュー。3月、久びさの復活ツアーの活躍も記憶に新しい、杉山章二丸さんのロングインタビューです。インタビュー当日、偶然にもベースの谷崎さんが同席しての収録となりました。

(2004年4月2日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




杉山章二丸 (Shojimaru Sugiyama)


1958年 神奈川県生まれ
1988年 MOJO CLUB 結成。
1990年 東芝EMIより、1st album『社会復帰』で、レコード
1990年 デビュー。
1990年 2nd album『ホーム・シック』リリース。
1991年 3rd album『GAME』リリース。
1994年 メルダック移籍後、album『THE MOJO CLUB』
1994年 リリース 。
1995年 続いて、album『HOUSE PARTY』
1995年 MOJO CLUB の活動を休止。
2003年 MOJO CLUB として8年ぶりのライブを行う


自分が「どうしても付いていけなかった」っていうのか「納得できなかった」というの。何か「やいのやいの」懐かしがられての存在「章二丸」っていうさ。それは嬉しいんだけど、それだけじゃやばいもんね。どう考えても腕が伴っていかないっていうのが自分で分かるから。だから、ちょっとまたそこから1年ぐらい空白してて。それで、若い子とアマチュアバンドを色々とやったりとかして。


章二丸(以下:S):よろしくどうぞ。

TERA(以下:T) :まず、生まれと場所から教えてください。

S:生まれは横浜。横浜に生まれました。小口というところで生まれちゃいました。昭和33年12月9日ですね。多分そうだと思います。

T:兄弟は?

S:兄弟は、4人兄弟の末っ子。

T:小さい頃はどんな事して遊んでました? 

S:遊んだ記憶はほとんど覚えてないの。小学校3年生の時に、姉ちゃんにコンサートに連れていかれて、そこからよく覚えてるんですよ。

T:何のコンサートですか?

S:GSのコンサートに連れられていって、そのときにドラムを始めて見て、「うおっかっこいい」って。その帰り、楽器屋さん行ってスティック買って。そこから。10歳のとき。そこから遊びと言えば、棒握って何かたたいてるか、あとは野球やってるかでしたね。

T:学校で発表会みたいなもので、ドラム叩いたりとかは?

S:1回だけあるかな?学校ではマーチチングとかやってるじゃないですか、あの辺とかは一切出なかった。小学校卒業する時に、学園祭っていうの、文化祭っていうの?何ていうの、ああいうので「はーい」って手挙げて、「おまえが何でやんの?」みたいな感じで、そのときべろべろっとやっちゃったわけよ。そしたらみんなびっくりしたっていう。

T:曲名とか覚えてます?

S:「山の何」だったかな?「何とかの山賊」、「山の山賊」とか何とか(笑)何だっけな?

谷崎:(笑)「海の海賊」(笑)まんまやないかい!

T:家でドラムやってる時は、何かレコードとかなんかに合わせて?

S:レコードとかね、テレビかな。テレビの歌謡番組とかあるじゃないですか。あれとかを見ながらとか。兄ちゃんとか、ベンチャーズとかそういうの聞いてたから、そういうのに合わせながら。あとはほとんど枕たたいてたね。自分で勝手に。

T:よく好きで聞いてたレコードとかってありました?

S:ないですな。

T:好きな音楽とかは?

S:全然ないの、そういうの。ただ、ドラムだけなの。だから音楽は関係ないっていうのかな。ドラムが入ってれば、そこに耳がいって聞いてた。テレビだよね。歌謡番組の。歌謡番組見てて、当時、歌番組とかやってて、後ろでオーケストラがバックやってるでしょう?そこのオーケストラやってる『ニューハード』っていうフルバンドがあったんだけど、そこのドラマーの人が、当時で言うと太鼓を、ツーバス使って、10個ぐらい並べてるような派手な人たちだったの、当時珍しく。そこに目がずっといっちゃって、そこからその人に憧れちゃって、テレビも毎回歌番組見て、この人の弟子になりたい、なりたいってずっと思ってたんだよ、ほんとに。それで中学入って、その頃はもう「まだ弟子になりたい」とか「ドラマーになりたい」とかという意識はなくて、ただ憧れで見てたというか。

T:中学入ってバンド組んだりとかは?


S:やってたけど、やってたというか、野球のほうが好きだったから、中学2年の夏まではずっと野球ばっかやってて、ドラムもドラムセットを自分で新聞配達して買っておいてたんだけどね。やって、そしたら野球やってて、2年の時に自分で野球で怪我して、自分で打って目にボールぶつけちゃって、それで中学半分ぐらい学校に行けなかったのね、学校へ。こっちね、失明しているんですよ、野球でね。1年半行ってないっていうことは、もうやばいでしょ。勉強も全然わからないし。入院してるときに、もう高校に行かないでドラマーになんべって思って、そこからテレビの憧れの師匠に手紙書きまくって、弟子にしてくださいって。全然中学生だから相手にしてくれないの。でも、電話かかってきて、高校入るちょっと前かな。それで、姉ちゃんと一緒に渋谷公会堂に会いに行って「弟子にしてください」って。断られたの、その時。「とりあえず高校だけは行け」と。高校卒業したらば来いって。とりあえず行っとけって言ったから、わかりましたってちょっと勉強して、高校に一応行った訳ですよ。すぐ辞めて。(笑)高校行きましたって。それですぐ弟子にしてくれて。ヨモダさんっていうんですけど。今はもうやってないんじゃないかな?

T:番組のビックバンド?

S:フルバンドだね。ジャズとかそういう。譜面でやってる世界ですよね。

T:弟子入りして、まず何をやるんですか?

S:バンドボーイですな。バンドの楽器運びとか、そういう。かなり、十何人のメンバーの楽器を運ぶわけじゃないですか。大変でしたよ。でも「入って半年でこのローディーなんていう仕事は辞めないと、お前はプロなんかなれないよ」って脅かされて、「半年かよ」って。半年のうちに、要するに仕事見つけなきゃならないんですよ、ドラムで。そうしないと、もう君はプロなんかになれないよって言われて、必死に練習して、そういうのは嘘なんですよ、後で聞いたんだけど。一生懸命練習して、でも半年たって仕事なんかないわけじゃないですか。やばいな、もうやばいなって。でも、ちょっとたってからすぐキャバレーかなんかの仕事が。

T:それは16、17才ぐらい?

S:そうですな。18才かな。

T:働き出してからは、ローディーしないで、その仕事を?


S:ローディーしないで、そういうキャバレーからステップアップするわけですよ。でも、キャバレー時代、結構長かったね。もちろん、師匠のところに遊びに行ったりとかして。

T:実際、師匠から与えられる仕事というのはなかった?

S:与えられるというと? 仕事回してもらう回してもらうとか?

T:うん。

S:ないない、そんなこと。教えてもらったこと1回もないですもん。師匠にドラムなんて。そんなもんじゃないですか。盗めみたいな。芸人の師匠の弟子と一緒ですよ。

T:そのキャバレー行ってたときのエピソードとかあります?

S:エピソード。何も楽しくないですよね。

T:実際、どういう曲をやるんですか?


S:一応譜面で全部やるんですけど、要するにその当時のはやりの歌とか、スタンダードなジャズとか、何でもありなんですよね。大きいところに行くと、演歌歌手とかがショーで来るわけですよ。譜面持ってきて、いきなりショーのバックをやるわけですよ。まあ、ひどいもんですよ。初め、譜面なんか適当に、読めないのに読めますって入るわけですよ。「大丈夫ですから」って。それで、ぽんと出されて、わからないけど、一応やるわけですよ。エンディングが合わない、先に終わっちゃうとかいっぱいあるわけですよね。それでも知ったかぶって、あらーみたいな感じで。そんな世界ですよ。それで、耳で譜面を聞きながら、音を聞きながら覚えていったみたいなところかな。まるっきりそういう教育みたいな、音楽的な教育なんか受けてないから、独学ですよ。そんなのは音楽のミュージシャンの業界からいったら、底辺の仕事ですよね、ミュージシャンで。キャバレーから入って、歌手のバック、だんだんステップアップしていくと。で、スタジオ関係行ったりとかして、それで一流ミュージシャンみたいな感じでなっていくわけじゃないですか。バンドは別個ですよね。

T:それで、その次の展開っていうのは?

S:そういうふうにやってて、うだつが上がらない状態で、ちょこちょこいろんなアイドルとか、タレントとかのバックもやってたんだけど、行き詰まるんだよね。そこから上に行くというのが本当に大変というか。スタジオミュージシャン的な。それで、一時期やめて、スナックを友達と二人で出して。

T:場所はどこに?

S:原宿の竹下通り抜けたところの。で、スナックをやったのかな?

T:何でスナックを?

S:あるキーボードの方がいて、ジャニーズ系のね。ジャニーズ系のバックやってたキーボードの人がいて、その人とよく知り合ってて、その人がね、ビートルズが好きなんですよ、僕はエルビスが好きなんですよ。それで、ビートルズとエルビスのビデオを流す、何か両方とも違う分野じゃないですか。ファンが全然違うというか。逆におもしろいんじゃないかって。そういうビデオを流すお店をやらないって話しかけられて、おもしろいかなと思って。それで二人でお金出し合って、出したんですよ。出してもお客さん入らなくて、竹下口だからエルビスのファンとかは来るんだけど、商売にならないんですよ。それで、片一方の人が、カラオケをやっぱやらなきゃだめだなと。カラオケですよ、そんなお店で。俺は「それやるんだったら、俺は辞める」って「食えなくたっていいじゃん、別に」って思ってて。そうもいかないでしょ、商売だから。それでもう辞めちゃったの。

T:何年ぐらいやってたんですか?

S:3年ぐらいやってたんじゃないかな。俺がやってたのは1年ちょっと。その店やってる頃に、そこのお店は、ジャニーズの関係の方がいっぱい来てたので、それでそのときにある歌手の人が来てて、プロデューサーの人と。それで「今度久々にライブやるんだけどって言って、ちょっとバックやってくれないかな」っていう話で、じゃあ、いいっすよってやったときに、始めてリハーサルやった時に、三宅伸治がギターで来てたんですよ。この時に初めて会ったのかな。

T:その歌手は誰ですか?

S:ナガタエイジっていってね、昔のジャニーズを一番初めにつくったような人。初期の頃ですね。

T:何年ぐらい?

S:おれが25才ぐらいのときだから、20年ぐらい前、そのぐらいかな?

T:1980年入ってたんですか。

S:入ってたかな。25才でそれやって、伸治と会って「バンドやりましょう」みたいな話になって、打ち上げの時に。そこから2年間ぐらい音沙汰なかったんですよ。連絡とれなかったっていうのもあるけど。

T:会って、2年間は何やってたんですか。


S:そのとき、店をカラオケを始めたんたけど、経営から退いて。でも歌手の友人がもう1軒お店をやってて、店を自分で。その友人のバックもやってたから、そこのお店があるんで、そっちを手伝ってくれないって。その2年間はそんな感じかな?そっちのお店行ったり、こっちのお店行ったり、たまに太鼓たたくっていう。全然バンドとか一切やってなかった。

T:「やりたい」っていう気持ちはなかったですか?

S:なかったっすね。バンドっちゅうのは、中学でやったぐらいなもんだから、経験がなかったですよ。どんなもんかもわからないし。

T:それで三宅さんに久しぶりに会うきっかけは?

S:共通の知り合いの方がいて「探してるよ」っていう風に言われて、三宅君っていう子が。そうなんだっていって、約束したからね、前に。結構いい加減にしてたから、すぐ連絡取れたのかな。速攻でもう来て「リハーサルやりましょう」って言って、おれがベース見つけてくるからって3人で。

T:ベースは?

S:鈴木ノブっていうの。

T:ノブさんとはどういう所で?


S:ノブは、ハコ時代に知り合ったのかな。二十歳の頃に。そういうキャバレーとかそういうところで。全然違うバンドで。

T:3人集まったところでどういう話を、最初されたんですか?


S:話も何も、いきなり音出したっていう。伸治はためてた訳ですよ、自分の曲を。一番初めに入って、せーのでやったときがブギーナイト。で、出したときに、結構ショッキングで、おれとしては。びっくりしたのね。あのギターとあのリズム、経験なかったから。うまいとか下手とか、なんだとかそういう問題じゃなくて、なんじゃこらぁって感じ。一発でびっくりしたっていうのかな。おもしろいなと思って。あのパワーには押されましたよね。

T:そこで何曲ぐらい?

S:覚えてないけど、結構やったんじゃないかな。でも、もうほとんどぽんとやって、ぱっとできたって感じだから、全部。伸治はできてる曲だから、リズムだけ聞いて。

T:その時、バンド名はもう出来てた?


S:出来てないです。でも、すぐライブやったんじゃないかな?

T:どういうところでやってたんですか。

S:西荻の『ワッツ』っていう店で。それで、伸治がバンド組んだっていうことを清志郎さんが聞いて、じゃあおれが名前つけてやるって、清志郎さんが名前つけてくれたのかな。おれなんか全然面識も何にもなかったけど。それで、ワッツの初めてのライブのときにお客さんが2人かな。清志郎さんと清志郎さんの知り合い
、それしかいなかったんです。何だろうなこれって。(笑)昔ね。ライブっていうのは、もちろん歌手のバックとかやりながらライブハウスでやるわけですよ。それはそうなんだけど、自分たちのバンドですっていう形でやるっていうのは初めてですね。バックではないっていう。でも、バック感覚っていうのは結構抜けないもんでね。バンドだっていう事だったんだろうね。

T:じゃあ、ワッツでやる時には、もうバンド名が?


S:MOJO CLUB。

T:になってたと。

S:そこからデビューまで何年ぐらいかかったのかな。2年ぐらいでしょ、27才からだからね。

T:初期のLPで野音か何かのライブ盤がありますよね。

S:それはもう結成して1年ぐらいたってるんじゃないかな?

T:その頃は、ライブハウス回ったり?

S:MOJO CLUB? もうがんがんやってたね。お客さん入らないけど、対バンでやったりとかしてて、大体やればそのお店といい、対バンの人たちといい、どんどん引っ張ってきたよね。知らないうちにだんだん人が増えていってるんだよね、今思うと。それは凄いものだなと思って。

T:盤になってる野音のライブは?

S:あれは、RCの前座ですわね。前座だけどああいうところに出れるっていうから頑張ろうかって。その前に、フジパシフィックでしたっけ、あそこでインディーズで1枚出したのかな。それも清志郎さんの関係ですわね。恵まれてますよね、MOJO CLUBっていうのは。要するに、そこにいたっていうだけですから、ほんとに。

T:そして、東芝EMIからデビュー。

S:デビュー前に、野音が終わったぐらいでベースのノブちゃんが辞めるとか、辞めたいって。色々あったんですけどね。俺がリハ行かなかったりとか、サボっちゃったりとか。全然そういう結構やばい状態なのかな。

T:その頃、アイドルとかハコバンとかの生活リズムとまたちょっと違ってきたと思うんですけど。


S:ハコなんていうのは全然お金にならないんですよ。サラリーマンやってたほうがよっぽどいいぐらいでしょ。でも、何かの仕事が入ったりとかすると、1か月の収入が結構上がるじゃないですか。でもバンド活動っていうと、一銭もお金にならないんですよね。リハーサル代ばっかで。また、三宅伸治っていうのが、リハーサルをバンド組んだ当時、1週間のうちに6日ぐらいリハーサルを入れるんですよ。1回のリハも6時間、8時間取るんですよ。バンドのやりとりが楽しくて。全部押さえられるでしょう。行けるはずないでしょ、だって毎日。だからサボったりする訳じゃないですか。仕事も出来なくなるわ、それだけ押さえられると。だから、その当時住んでた彼女にほとんど食わしてもらってる状態でしょう。だから、バンド取るか仕事取るかみたいな状態になって、半々でやってきたんだけど、だんだんこっちが、バンドの方がいっぱいになるわけじゃないですか。そうすると、自然にこっち出来なくなりますよ。だから、バイトもしないバントだけっていう生活があって、女性には本当に苦労かけましたね。でもデビューしちゃったらばいいんだろうけど、デビューまでが大変な訳ですよ。これからデビューだよっていった時に、その女性とは別れましたけどね。(笑)我慢できずに、もう。

T:谷崎さんが入った頃のエピソードは?

S:「ベースいない、どうしようか」って、それでだれかの紹介でいいのがいるからって、それで見に来てもらったのかな、よく覚えてないんだけど。

T:最初の印象とかは。


S:印象?印象が覚えてないんだよね。(笑)

谷崎:ごめんね、薄くて。(笑)

S:自分もバンドを解散したばっかとかっていうふうに聞いて、ずっとリーダーでやってるっていうから。音楽的にいいのかな、合うのかなっていう、それを心配したけどね。でも、こっちはベースなんか、そんなバンドでやってくれると思ってないから、結構2、3人オーディションしたのかな。しっくりこないという。か、まただめなんだろうなみたいな感じで。だから、一生懸命やってもらうために、もうすぐデビューだからみたいな。(笑)

T:3人で初めて音出した時って、覚えてますか?


S:どうだったかね。

谷崎:覚えてないね。

S:覚えてないんだよ、俺もまじで。

T:デビューまでの慌ただしい時期だった?


S:だろうね。結構、すっと入っちゃったんじゃない?

T:デビューが決まったっていうか、もうデビューしますっていう時は、気持ち的にどんな感じだったですか?


S:あんまり、正直言うと、デビューしましたっていうと、取材とか受けると、これでようやくプロですねみたいなこと言われるじゃないですか。全然ピンとこなくて、別にプロって「俺、今さらプロになった訳じゃねえよ」って。昔からプロだもんみたいな、そういう変なところがあって、もちろんバンドでっていうところが、あんまりなかったというのかな、そういう感動みたいな。もちろん、自分のCD、レコーディングというのはもちろん感動というか、嬉しいなとか。その辺、嫌だったろうね。新人バンドだけど30才ぐらいでしょう。偉そうにしてるし、怒られたな、東芝の人に。

T:どういう風にですか?


S:取材とか行っても、あんまりよくなかったりする訳ですよ。

T:具体的には?


S:3人でキャンペーンとか行ったって、ほとんどインタビュー同じでしょう。それで、伸治が1人でしゃればいいようなインタビューじゃないですか。3人、がん首並べていく訳ですよ。こっちはほとんど触れないし、だから俺ら別に行かなくてもいいんじゃないかなって。

T:実際、行かなかった事とかはないですか?

S:なかったかな。

谷崎:行ったけど寝てたりした事はあったよ。

S:谷崎さんはよく寝てたよ。最終的に、東芝の人に言ったんだよね。怒られたっていうか、ちゃんと行った時には「ちゃんと対応してください」といった時に、それはわかるんだけど「とりあえずはしゃべる事もないし、一人で行けばいいじゃないですか」って。そこからかな、あんまりキャンペーンは行かなくなったの。

T:デビュー1枚目のレコーディングとかって、覚えてます?


S:覚えてるよ。

T:どんな感じだったですか?


S:結構ね、時間かかったよね。

谷崎:うん。

S:初めてだし、ああいう形で。伸治とかは、自分の結構構想があるわけじゃないですか、曲の。ドラムということだけど、結構レコーディングの、そういう聴きながらやるというのは、どうも嫌いで、ライブは好きなんだけど、それに戸惑いましたね。

T:録り方は?

S:初め、リズム録って、分けてっていうか、3人で。そこからいろいろかぶしたりとか。でも、1枚目から結構いろんなゲスト来てたもんね。

T:事務所はキティですよね。

S:そうですね。キティアーティストですね。

T:1枚目、デビューのアルバムが出た時は?


S:その後の展開というのかな。忙しいわけじゃないですか、結構。撮影したり、取材受けたりとか。芸能人みてえっていう感じですよね。新幹線で移動して、駅着いたら荷物持ちの人がいたりとかして。すごい世界だなって。あれはもう、売れてなくてもデビューしました、メジャーで、キャンペーンで動いた感覚だけでも、みんなこれになるんじゃないかな。接待してくれたりね。いい世界だなって。

T:ライブとかはすぐあったんですか。ツアーみたいな。


S:(谷崎を見て)あったね。

谷崎:俺に聞いてるの? 並行してずっとやってたからね。

S:結構、年間大分やってたよね。百何十本とかやってたんじゃないかな?「キング・オブ・ライブ」だったからね。

T:セカンドは、すぐでした?


S:そうでした? (谷崎を見て)覚えてないんだよね。

谷崎:まあ、流れで。

S:1年に1枚だっけ。

谷崎:(章二は)『タイマーズ』とかやってたから。それで余計忙しかった。ちょうどデビューと重なって、ほぼ同時期。

S:何カ月か、MOJOの方が早いのかな。でも、もうタイマーズはその間にデモテープとかもつくって、ロンドンでレコーディングして、でき上がってMOJOもやったのかな。結構なもんだったよね。

T:『タイマーズ』を始めるきっかけというのは、何か覚えてますか。


S:伸治がそういう清志郎さんとユニットをつくるんだという話をしてて「ちょっとリハーサルやるんだけど遊びに来ない」とかいって「あ、行く行く」って言って、おっさんが「スティック持ってくれば?」って言ってるんですよ。スティックってどういうこう。「叩いちゃおうか?」って。軽く言うから、いや、そういう訳にもいかんよって。でも一応持ってて、それで二人でやってるところにドラムをつけた。そのまんま。(笑)そのまんま、ただ、ずっと居たっていう。

T:『タイマーズ』自体は、どんな印象でしたか?

S:あれは凄かったですね。衝撃的というか。でも、一生懸命やってたっていうだけですよね。何もかにもが一番、忌野清志郎っていうすごい方と一緒にやっちゃうわけじゃないですか。そういう感覚もないままに流れてた。でも、嬉しかったのは、清志郎さんがタイマーズやって、デモテープとってて、おれと伸治とが全然緊張したりとか、プレイ的によくなかったりとかある訳じゃないですか。その時でも「バンドなんだよ」っていう。「初めはこんなもんだよ、みんな」って。「頑張ろうよ」って。「売れたらいいね」みたいな。清志郎さんがポルシェに乗ってて、レコーディングしてる時に、ポルシェに乗っけてもらったんですよ。助手席に。いいな、かっこいいなとかって。「今度、タイマーズも売れれば、おまえも買えるようになるから頑張ろうよ」って。そんな事、言ってくれちゃうんだみたいな。嬉しかったですね。こういう感じのやり方じゃなくて「一緒にやっていこうぜ」みたいな。だから、一生懸命やりましたよね。

T:MOJOのデビューもそれと重なってて。


S:ですね。

T:では、『MOJOCLUB』と『タイマーズ』が、同じステージ上がるっていう展開も?

S:ありましたね。1日3本とか。タイマーズ、ヒルビリーバップス、MOJO CLUB、その3つでいっぱい回ってた訳ですよ、学園祭を。学園祭回って、学園祭も1日2本とかって、2か所とかあったりしたのかな。1回やればMOJOとタイマーズやる訳ですよね、おれと伸治は。それが2か所なんかあった日には。それを1か月ぐらいやってましたね。今考えると凄いなって感じですよね。あんまり覚えてないですね。

T:MOJOは東芝EMIで3枚リリースして、契約切れましたよね。


S:ですね。

T:その時期は?

S:契約が切れても次があったからね。全然切れるから、ああどうしようっていうのはなかった。キティは東芝と一緒にやめたんだっけ?

谷崎:ほぼ同時期。

S:要するに、クビになったんだよね?

谷崎:キティがつぶれたんじゃないかな?

S:キティがつぶれたのか。

T:次がメルダック。何か変化ありましたか。


S:わからないな。ディレクターが変わった程度かな。本当は違う訳でしょう?メルダックと東芝EMI。上の人はどう考えてるかわからないけど。やってる方は全然。わかんないよな。アルバムの内容は、でも段々変わってきてるんじゃないかな?

T:メルダックで2枚。『MOJOCLUB』、解散しましたね。


S:解散して、解散というか、解散だね。

T:その時期は?

S:その時期なー。

谷崎:さあ、転落の軌跡が。(笑)

S:(笑)。どうなのかな?

谷崎:破滅への第一歩。

S:(笑)解散つっても、解散つってさ、事務所も要するに無くなる訳じゃないですか。その当時、おれ結婚しちゃったんだよね。

谷崎:何回目の?

S:3回目の。結婚して、結構グレードアップしたような感じで、いいところ住んじゃったのよ。それで気がつくと事務所なくなって、バンド解散しました。「あら。という事は収入ねえってことか?」って。それで、いろいろ『ドラマーズ』だとか、いろいろ仕事を振ってくれたりするんだけど、金にはならないですよね。気がつけば、自分がいけないんだけど、そういう横のブレーンをつくっておかなかったっていうのは。いろいろ解散して、三宅伸治とやるやらないっていうのもあったんだけど、いろいろその辺も色々とございましてね。でも自分から離れていったっていうのも。そういう状態になったんだからしようがないよね。

T:それで、やめて変化した事は。

S:生活はすごかった。結婚したんだけど、結婚して、彼女は同じ業界の方だったので、彼女は結構お稼ぎになってた人で。バックコーラスやったりとかしてたんだけど、でも一応収入がないとまずい訳でしょう。借金しまくって、自分でね。借金しまくって。毎月毎月持ってといて、1年も続かないじゃないですか、そんな生活。でもだましだましやっていって、その間に、ちょっと何というんでしょう、体を壊すような事を、お酒をね、そういう。はまってったわけですよ。そこでもお金は使うわけで。

T:借金プラス。

S:借金プラス。それの借金みたいなもんですけどね。それはもうすごいものでした。最高で月に数十万使ってました。お酒をいっぱい飲んで。そんな生活だから、もうぐじゃぐじゃですよ。精神的にもおかしくなるし。そこで、これはもうやばいと。

T:それは何年目ぐらいで。

S:もう1年目ぐらいからですよ、すぐ。解散して1年ぐらいで、やばい状態なった訳ですよ、その1年間で。やばくなって「借金取りいっぱい来るからやばいよ」って、かみさんに。やばいから離婚しちゃったほうがいいよって。迷惑かかっちゃうから。「俺1人で持つから」って言いながら別れて、そのまま俺はどっかに、遠い国へ行ったわけですよ。遠い国へ。

T:日本を離れたって事?

S:いや。(笑)そんなかっこよくないって。そんなかっこよくないよ。そういう国へね。日本の国内の。その辺うろうろですよね。あっちこっち、要するに路上生活者みたいな。自然にそうなっちゃったっていうのかな。だから、ずっとそういう風な。でも何ていうんだろう、シビアな話になっちゃうけどね、自分が嫌で嫌でしようがない訳ですよ。お酒を抜きたいってね。抜きたいんだけど、そんな状態で、どんどんはまっていっちゃって。2年ぐらい続いたのかな?

T:90年代後半はそういう感じで。

S:うん。もう最低な。そのころは人間じゃない状態でしたね。もう世捨て人でした。音楽なんて、とても耳に入れることも嫌だった。

T:じゃあ、もうスティックは持たなかった?

S:とんでもない。町中歩いてても、音が入ってくるじゃないですか、自分の耳シャットアウトしてましたよ。自分はそういう、嫌だったんだろうね。どんどん落ちるしかないですよ。それで、最終的に抜け出たというのは、そういう生活にもそろそろやばいと思って。そこで何がきっかけかわからないけど、最終的にもう1回かけてみようかなって、人間に戻れるかどうかっていう。

T:何かきっかけがあったんですか?

S:そういう生活が嫌で嫌でしようがないわけですよ。お酒飲むのももう嫌で嫌で。でも、そういう自分も嫌だし。だからお酒いっぱい飲んで死ぬのを待ってたっていうのかな。かっこよく言っちゃうと。死なないわけですよ、人間って。だから、あとは療養所に入るか、そういう状態じゃないと無理でしょ。あとは自分でお酒を絶つか。最終的には自分でお酒を絶つっていうことを決めて、自分の実家に何年ぶりかに頼み込んで、とりあえず部屋に鍵をかけて2週間ほど隔離してくれませんかと。お酒を抜きたいんで、そうやって懇願して、そこからです。そのかわり大変でしたけどね。迷惑かけましたけどね。でも、自分でそれで抜いて、そこからですね。ちょこちょこ世間に顔を出し始めて。

T:最初、お酒が抜けた時は?

S:東京に出てきたんですよ、仕事探さなきゃなって。無い訳ですよね。それで、でもそれでも3か月ぐらい探したりとかしてても、全然仕事もないわけですよ。面接とか行っても落ちますよね。そういう気力もまだ回復できない、3か月程度じゃね。で、また結構落っこちたんですよ。戻りそうになったっていうか。そこから結構やばくなって。でもやばくなってもお酒は飲んでなかったですよ。精神的に立ち上がれないというか、社会復帰できないというか。そこからかな。前にお世話になってた方にお電話した時に、そんな状態だったら「うちに来なさい」って言われて、それでそこにちょっとお世話になったんですよ。そこからですね。生活ががらっと変わったっていうのは。

T:音楽はまだ、耳に入ってない?


S:入ってない、入ってない。そこから、今、働いているゲームセンターに、たまたま行ったらば受かったわけですよ。そこからもうずっと。ちょうど2000年ぐらいかな。

T:ゲームセンターっていうのは?


S:お世話になった人のうちの近くに。たまたま面接受けに行ってて、何回か落っこちてて、そのときも。しようがねえなって歩いてたら、張り紙があったんで、飛び込みで入って、年10歳ごまかして。そしたら受かって。明日から来てくださいって。不安でしたよ、でも。

T:定職ですからね。

S:定職ですからね。でも1か月間、朝9時から5時なんですけど、一分も遅刻しないで、欠勤もしないで、自分で挑戦したわけですよ。とりあえず年も年だし、これできたらば、多分続けられるかなと思って。そしたらちゃんと1か月できて、そしたら自信がつくじゃないですか。楽しくなってきて。そこからだんだん普通の人間になってきたのかな。それで、伸治とちょこちょこ連絡してたのかな。おっさんがソロでやってレコーディングとかやってるっていうから、行ったりとかして。ドラムがいないから、ちょっと遊びでやったりとかしながら。

T:それが久しぶりのスティックに?


S:そうそう。

T:久しぶりにスティックを握ったときの感触は?

S:5年ぐらい握ってなかったでしょう。叩けるはずがないんだよね。でも、頭は叩けたは叩けたんだよね。楽しくてしようがない。ただ、手足がもう全然動かしてないから、そこをリハビリするのは大変だった。感覚は全然変わってないし、昔からテクニックで叩いてるタイプじゃないから。『トランプ』で。三宅伸治の。ニイザさんがやめた後、ドラムがいなかったから、そこからちょこちょこ手伝いながらやって。

T:久しぶりに叩いて、楽しさとかっていうのは。

S:楽しかったですよ。4年、5年叩いてないと、出てくる訳ですよ。それはもう。だから途中て、トランプも途中で辞めたっていうのも「もう叩けないわ」って辞めたの。

T:どんな形で叩けなかったんですか?具体的には?


S:叩けないっていうかな、何というんでしょう。基本的に自分が楽しくないと嫌なタイプなんですよ、基本的にね。でも、プレイ的にも周りの人間がみんな一線でやってる人たちじゃないですか。だから、昔の人が出てきましたよっていう感じて、一応出た時は良かったんですよ。「おー、生きてたの」みたいな感じで。でも、それは一瞬だけであって、あとはやると、周りの人たちとレベル的に迷惑がかかるわけじゃないですか。それを自分で判断なんだけど、自分がどうしてもついていけなかったっていうのか、納得できなかったというの、何かやいのやいの懐かしがられての存在、章二丸っていうさ。それはうれしいんだけど、それだけじゃやばいもんね。どう考えても腕が伴っていかないっていうのが自分でわかるから。だから、ちょっとまたそこから1年ぐらい空白してて。それで、若い子とアマチュアバンドをいろいろやったりとかして。

T:どういうキッカケだったのですか?

S:ゲーセンやってて、路上でやってる若い子がいる訳ですよ、1人で。結構、二人ぐらいいたんで、声かけて、ちょっと遊ぼうよって。で、ドラムなり、曲の感じとか、若い子なんで、かっこよく言うと、プロデュースみたいな。

T:それが『タケル』?

S:そうそう。そういう若い子とドラムは一応たたくんだけど。アマチュアの子たちだから、この力量でもオーケーなんですよ、全然オーケー。普通にやって、ライブハウスちょこちょこやりながら。

T:声かけた理由としては、やっぱり音楽に携わっていたいという気持ちからなのですか?

S:携わるというか、純粋によかったから、すごく。デモテープ聞かせてって、テープあったら聞かせてよって。デモテープなかったから「デモテープないなら作ろうよ」って。スタジオ入って作り出して。あちこち持っていったりなんだかんだして、結構反響もよかった。で、今、その子もずっとやってるんだけど、この間アルバムを1枚つくって。

T:そのアルバムはどういう制作の方法を取ったのですか?

S:アルバムは自分で、俺がつくりたいから、お金出してくれる人を探さなきゃならないじゃないですか。おれか持ってればいいんだけどね、ないから、そういう人たちをライブに呼んだりとかして。でも、一切こっちからお金出してくださいとは、一言も言ってないですよ。向こうから「俺が金出したいんで1枚出そうよ」っていう風に、最終的に言ってくれて。だから、それで作ったというだけの話で、インディーズですよ。

T:音は、どういう感じですか?

S:本当に路上でやってる静かな、がちゃがちゃしてない、普通の、アコースティックな感じですよね、一人でやってる。タケル君というのは、行くところ行くところ必ず人だかりができて、実際にレコード会社とか、事務所関係とかでもいっぱい話がくるんですよ。来るんだけど、本人がどうしても、変わってるやつでね、おれとずっと長いじゃないですか。全部名刺もらっても、何しても俺のところに全部持ってきて、これもらったんですけど、どうですかって。結構見るとちゃんとしてるわけですよ。「いいじゃんこれ、いってみる?」とか。(笑)結構いろんなメーカーの人とか交渉したりとか、話を。いまだにつき合ってますけどね。あくまでも事務所的なものというのは、立ち上げてはないんだけど、おれに任せてもらっちゃってるというのかな。

T:初プロデュースみたいなことですよね。


S:うん。まあ、プロデュースっていうかね。ただ見てただけなんだけど。つくったっていう。

T:今後の展開は?

S:今、メーカーさん、数社当たって、そういう話はある状態。ただ、ライブやるんだけど、集客するお客さんがいまいち少ないんですよ。その辺をちょっとクリアしないときついかなっていう。まだ二十歳なんで、これからあと1、2年たっても全然問題ないんで。事務所とか、メーカーの方も長い目で見てくれてる。これからですね。多分、オーケーで売れていくでしょう。社長かな。(笑)

T:先日、久しぶりに『MOJOCLUB』があって。最初の話としては?きっかけとしては、6月だと思うんですけど。で、やったわけじゃないですか。

S:やりましたね。

T:どうでした?

S:まさかね、谷崎さんが来ると思わなかったの。

T:なぜ?

S:だってさ、前に1回おれ電話したことあるんだぜ。

T:いつぐらいですか?

S:いつだろう。6月のちょっと前、もっと前だよね。

谷崎:1年ぐらい前じゃない?

S:1年ぐらい前かな。俺が「今度ちょっとやらない」とかって。「嫌だよ。やりたかねえよ」(笑)って、そのまんまだったの。いいか、じゃあしようがねえなって。

T:それは『MOJO』として?

S:MOJO。全然そんな話はなかったんだけど「やんねえ?」って。

T:去年じゃなくて、さらに1年ぐらい前に、MOJOをやろうという考えが。


S:やるべえよって。それはもちろん、たまにぽつんとやるという程度ですよ。

T:その時、もう既にMOJOでやりたいなという気持ちは出てきてた?


S:やっぱり何だかんだ言って、自分が、おれ個人がたたく場というのはMOJOしかないわけですよ。MOJOでしか、自分の存在という価値はないわけですよ。ドラマーとして。やっぱりそこでたたきたくなるのは当然の話ですよね。ただ、そのもうその形がないもので、おっさんとはやってたけど。やっぱりおっさんのソロでやるのと、今回やってるのと、MOJOっていうのは全然やっぱり違うもんだよね。

T:去年の6月、3人で久しぶりに、音出した時は?

S:楽しいとかっていうより、不思議、一生懸命だったね、あの時は。懐かしがってる状態ではなかった。一生懸命。まさに「今、一緒にやってるよ」っていう。楽しかったし、よかったね。

T:今年の1月30日でしたか、チキンジョージ、そこから始まる訳ですよね。


S:あれもしょっぱなというのもあったし、清志郎さんが出たっていうのはあったからね。

T:当日、熱にうなされてましたよね。

S:ほんとに大変だった。

T:それで、本ツアーがありました。


S:意外とリハも2本しかやってないし、流れでやっちゃったもんね。だから楽しかったね。『MOJOウォーキング』が流れるじゃない。あれ、久々に聞いたときには、じんと来たね。袖で待ってるときっていうのは。自分たちを見に来てくれるファンがいる訳じゃない。あんなにいっぱい来てくれると思わなかった。

T:すごい反応でしたね。

S:ね。あれはびっくりしたっていうか、うれしかったね。だから、そこでMOJO CLUBっていうか、バンドの存在、バンドのあり方っていうのかな、お客さんの反応とか、出る自分たちの感じとか、何とも言えなかったね、嬉しかったというか。凄いじゃんと思ったね。

T:また今年、何か所かで見れる可能性もあるかも知れないという話も。

S:あるでしょうね。あるのか?でも、ほんとにやろうかって会えばやるっていう状態な感じでしょ。谷崎さん、プロペラあるし、伸治もソロ活動あるし、それはだからあくまでもやってて、余興的なもので出来ればいいんじゃないの。あんまりやり過ぎても、どんどん客が減っていくんじゃないの。

谷崎:でも、かっこいいと思うよ。

S:じじいが頑張って。つらいけどね。つらいっすわ。

T:今後の何かやりたい事。MOJO、タケル君以外で何かありますか?

S:音楽的な?

T:じゃなくても。

S:展望ね。ゲーセンとか全然やめるつもりないし、その生活があっての音楽。音楽だけが今まで音楽で食ってかなきゃみたいな、そこから退いちゃったり、何かすると、何て言うんだろう、負けみたいなところがあったじゃないですか。全然今ないというか、生活があって、仕事は何でもいいんだけど、生活があって、好きに音楽をやっていく感じ、そのスタンスがすごい、一番気持ちいいかな?今は。そこでもって知らないうちに若い子たちが勝手に売れてってくれたりなんかしたら、全然それでいいんですよ。ただ、向こうが勝手についてくれるんで、余り変わらずに、自然にやっていきたいですね。趣味で一生音楽をやっていきたいなっていう、それかな。それが一番楽しい。

T:今日は、ありがとうございました!


-end-






【Discography】

『MOJO CLUB』



A-LIVE(LP)
SWICH/PSW-1004



社会復帰
1990.3.01/TOSHIBA EMI/TOCT-5637



ホーム・シック
1990.11.7/TOSHIBAEMI/ TOCT-5845

THE MOJO CLUB
1994/05/21/meldac/MECR-30048

HOUSE PARTY
1995.7.21 meadac









































【初プロデュース作品】

『タケル』



SKY
YASR-0402


 1.タンジュンサ
 2.END
 3.旋律
 4.夢のかけら
 5.デタラメ
 6.幻想
 7.晴れの日
 8.SKY        ¥2,000(税込み)








































































































































































































































































































































Message Movie

『みなさんへメッセージ』


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