瀬木貴将 / Takamasa Segi


1990年にボリビアでデビューを果たし、日本唯一のサンポーニャ&ケーナの第一人者であり、 今年9月にニューアルバム『大地のラグーン』をリリースした瀬木貴将氏のインタビューです。


(2003年11月10日/世田谷momentにて/インタビュアー:TERA@moment)




瀬木貴将 (Takamasa Segi)


1966年 東京生まれ。
1966年 サンポーニャ&ケーナ奏者。
1966年 ※サンポーニャとは、南米アンデスで約4000年の歴史を持つ世界最古
1966年  の竹のパンフルート。
1979年 13歳の時、1枚のレコードとの出会いをきっかけにサンポ−ニャを独学で
1966年 始める。
1981年 ライブハウスを中心に演奏活動を始める。
1985年 南米ボリビアに渡り演奏活動を始め、ボリビアのレコ−ド会社の最大手
1966年  DISCOLANDIAから計4枚のアルバムをリリ−ス。
1992年 帰国後、村上"ポンタ"秀一、渡辺香津美、小林靖宏、 福岡ユタカ、佐山
1966年 雅弘らと、「リブレクラブ」を結成。
1994年 全国ツアー。ゲストにパット・メセニ−・グル−プのペドロ・アスナール
1966年 を迎える。
1995年 「Viento〜風の道」「ILUSION〜水のイルシオン」2枚のソロアルバムを
1966年 リリース。
     「瀬木貴将 with スーパーフレンズ」全国8ヵ所コンサートを行なう。
     南米出身の世界級アーティストのペドロ・アスナール、トニーニョ・オ
1966年  ルタらを迎え話題に。

その後、年に1枚のペースでオリジナルアルバムリリース。全国ツアーを全国で展開。
2000年2月26日リリースのコンピレーションアルバム〈NEW ASIA2〉に〈風の旋律〉が収録される。
また NHKで1年間放送されるスペシャル企画〈南極〉シリーズの挿入曲に〈ドライバレー〉を提供。
2003年9月3日、最新アルバム「大地のラグーン」リリース。

どうやって生きていくか、どうやってひとつの物事を成功させるか、どうやったらベストを尽くして、 何が正しい選択なのかっていうのは、音楽を通じていろいろ学ぶ事が出来ますよね。

TERA(以下 T):それでは宜しくお願いします。まず生まれから教えて下さい

瀬木貴将(以下 S):はい。1966年ですね。東京都世田谷区の世田谷です。

T:世田谷のどの辺ですか?

S:もう、すぐ近所(momentの)ですよ。子供の頃、よく馬事公苑で馬に乗ったりとかね。みんな世田谷の子供とかいうとね、都会で遊んでるようなイメージがあるじゃないですか。でも遊び場と言ったら、馬事公苑か農大(東京農業大学)ですよ。あとは駒沢公園ね。

T:子供の頃はどんな遊びをしていたんですか?

S:僕はスポーツが好きだったんで、まず野球から入って、サッカー、バスケット、ホッケーときて、サンポーニャをやる前は結構、時代の最先端みたいなものに興味があったんでスケートボードでしたね。まぁ今言っても誰にも信じてもらえないのがね、ちょっと寂しいんですけどね(笑)。

T:(笑)。その頃に聴いていた音楽はどういう感じのものだったんですか?

S:10歳くらいの時からですね、レコード聴くようになったのは。インストだと好きだったのが、ウェス・モンゴメリーっていうジャズのギター奏者で。その頃ってイージーリスニングがあったじゃないですか。それこそポール・モーリアとかレイモン・ルフェーヴルとかああいうのは聴いていて。あと、いわゆる歌ものだとKISSですよね。初めて行ったロックコンサートはKISSでしたね。ロックっていうのは全員顔にペイントしてやるものだと思ってましたね(笑)。

T:(笑)。その音楽を聴いていたのはラジオですか?当時は。

S:いや、レコードでしたね。

T:そうですか。自ら買ったり、家にあるものを聴いたりですか?

S:うん。家にあるものとか買ったりとかして。日本だと長渕 剛が中学1年くらいの時からすっごい好きで、それに興味を持った後は今度アルフィーを好きになって。フォークソングだったんですよね。今じゃどちらもロック色が強いアーティストですけどね、その頃は弾き語りで歌ってたっていうスタイルで。

T:いつ頃からギターを弾き始めたんですか?


S:10歳くらいの時からですね。

T:割とすぐ覚えられましたか?

S:いや全然ダメでしたね。一応Fのコードの壁は超えたんですけど、コードを覚えるのがやっとぐらいでしたね。中学1年の時に、教室にギターを持ってったんですよ。教室で弾いてたんですよね。一応「♪イエスタデー」を単音で弾くぐらいだけど(笑)。そしたら仲のいいクラスメイトが「おっ!瀬木いいギター持ってるじゃん。ちょっと貸してよ」って言って弾き始めるんですよ。ウェス・モンゴメリーのオクターブ奏法で「♪イエスタデー」を演るわけですよ。「これは一生やってもかなわないな」って思って、でも「なんか自分に合った楽器があるんじゃないかな」って思って、いろんなレコードを聴き直していた中に、1枚サンポーニャのレコードがあって。それからですね。この楽器にハマっちゃったのは。

T:実際にサンポーニャを手にするまではどのくらいの?


S:これがね。今でもそうなんですけど、その辺に売ってる楽器じゃないんですよね。でもね、面白いもんでこうゆうのって運命なんでしょうね。うまく出来てるんですよ。レコードを聴いたあと「これは凄いな」なんて思っててね。3日後くらいに、たまたま朝、学校に行く前にNHKテレビのニュースを見てたら『ボリビアからフォルクローレバンドが来日』ってテレビに出演してるんですよ。ライブを1曲くらい演奏してね。それでコンサートがあるのを知って。それが中野サンプラザだったんですよね。そのニュースで見てから、また3日後くらいに見に行ったんですよね。そのコンサートで、楽器屋さんの専門店、サンポーニャとかケーナとかチャランゴのパンフレットが配られてて、そこに買いに行ったんですね。中学1年生の時ですね。

T:最初に楽器を手にした時はどういう感じだったんですか?

S:いや、もう嬉しかったですね。とにかくすごく素朴な楽器じゃないですか。竹を組み合わせてあって。吹いてて凄く気持ちがいいんですよ。サンポーニャを持った時って、例えば今みたいに単音を吹いてメロディーを奏でるっていう事は到底できない訳ですよね。だけど、とにかくこの楽器の音を出すっていう事だけで何かスカッとしてましたよね。 13歳の頃って思春期なわけですよね。今思えば悩むような事ではない事で悩んだりする訳ですよ。例えば床屋さんで髪を切ったら短くなりすぎちゃったみたいなぐらいな事で、永遠と3日間ぐらい悩んでたりとか、そういう年頃だったのが、サンポーニャをやり始めてからは他の事がどうでもよくなっちゃうようなぐらい好きになって。それからはずっと、僕は教室にギターを持って行ってたのがサンポーニャを持って行くようになって。それまで結構クラスの人気者だったと思うんですけどね、それからはクラスの変わり者になっちゃって(笑)。ここが人生の分岐点でしたね。

T:(笑)。最初にサンポーニャで演った曲はどんな曲だったんですか?

S:ボリビアの、僕が買ってうちにあったレコードで現地録音盤なんですけど、フォルクローレのスタンダードで「♪スマック・プニ」っていう曲があるんですね。〈実際に「♪スマック・プニ」を目の前で演奏〉

T:(拍手)凄いですね〜。

S:これね、今だとこういう風にさらっと出来ますけど、当時はここまで出来るようになるまで3ヶ月くらいかかりましたね(笑)。

T:そうですか。それが1番最初の曲ですか?


S:そうですね。1番最初の曲でしたね。それから僕が今使っているのは3列になっているサンポーニャなんですけど、その当時は2列だったんですよね。どういうスケールになっているかというと、2列の上下で交互に「ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド」ってなってるんですよ。

T:なるほど。

S:だから半音がなかったんですよ。フォルクローレのスタンダードはこの2列で吹けるんですけど。〈この時、部屋にいたスタッフの携帯が鳴る。ビートルズの「♪THE LONG AND WINDING ROAD」 〉いわゆるね、今かかっているような曲だと半音がないと吹けない訳ですよ。

T:(笑)。

S:ビートルズの名曲で「♪イエスタディ」ってあるじゃないですか。あれを吹こうと思ったら、頭の部分は2列でも吹けるんですけど、その続きだと音がないんですよね。友達に「『♪イエスタディ』やってよ」って言われても出来ないんですよ。だから最初は無理矢理吹く部分に角度を付けて、出ない音を出したりして。

T:なるほど。

S:それだったら3列目に半音を作って足しちゃえばいいやって思って、自分で作って足したんですよね。そうしたら「♪イエスタディ」もサンポーニャで普通に吹けるようになるんですよね。

T:そうすると元々のサンポーニャっていうのは2列だったんですか?

S:そうなんですよ。だから昔は2列だったから『ニポーニャ』って呼ばれてたんですよ。

T:へぇ。

S:嘘ですよ(笑)。

T:(笑)。騙された!(笑)。

S:信じた?(笑)。やった!(笑)。

T:では3列というのはオリジナルなんですか?

S:そうですね。でも僕以外にも同時期に、この3列というのを発明した人はいたし。うん。まぁ自分で使うサンポーニャって、今この手にしているのがメインなんですけど、だいたいアルバム1枚作るのに5種類以上使うんですよ。キーが違ってたりスケールが違ってたりとか。そういう自分のオリジナルのスケールのサンポーニャをたくさん作っていますね。

T:なるほど。

S:20歳過ぎの頃に、ジャズのセッションなんかに参加させてもらえるようになった頃に、日本のナンバーワンのギター奏者の渡辺香津美さんとセッションさせていただいた時、“ブルーノートスケールサンポーニャ”なんていうのも作ったりしましたね。あとブルース用のセブンスとかね、そういうオリジナルのものを作ってますね。

T:ちょっと話が戻ってしまうんですけど、中学時代サンポーニャに夢中になってから、発表の場みたいなものはあったんですか?


S:うん。その時仲の良かったギターのできるクラスの友達を誘ってバンドを作ったんですよ、4人編成の。それはいわゆるサークル活動みたいにしてたんですけど。中学3年の時に渋谷にフォルクローレのライブハウスができるっていうんで声をかけてもらったんですよ。フォルクローレのプロのミュージシャンなんて当時いなかったし、毎晩ライブをやる人なんてほとんどいなかったんで僕に声がかかって。それからそこのライブハウスに毎晩のように行って演奏するようになりましたね。

T:では、学校が終わってから行っていたという事ですか?

S:うん。学校が3時くらいに終わってそのままライブハウスに行って、リハーサルして本番やって家に帰るという。

T:それはアルバイトという形だったんですか?

S:そうですね。アルバイトみたいなもんですね(笑)。その時ちゃんとお金も貰いましたよ。一日行って2000円貰えたんですけど。中学3年生で1日に2000円ですからね。好きな事やってお金貰えるなんて、何てありがたい事だと思ってました。その時の経験が今に生きてる部分もあってね、やっぱり。
僕のその時のギャランティって当時2000円でしたけど、お客さんはきちんと入場料を払って見に来るじゃないですか。そういう部分でプロフェッショナルというものはどういうものなのかという事を凄く学んだし、何が楽しいって、毎晩のように演奏できるのがなによりも楽しくて、練習したものをその日のうちに発表できるっていうのは嬉しかったですね。ちょうどウォークマンとかそういうものが出始めた頃で、学校に行く途中とかに曲を聞いて覚えて、それをそのままコピーして、その日の夜に「今日はこの曲やろう」って。

T:それは高校に行っても続いてたんですか?


S:2年間続きましたね。そのお店が2年たったら閉めちゃって、それからどうしようって思ってたんだけど、2年間そういう所にいるといろんな知り合いとかも出来ちゃってたので、その後もテーマパークのイベントで演奏したりとかしてましたね。それから18歳の時に「このままでいいのか」っていう思いもあって、サンポーニャを始めた時からずっと本場のボリビアに行って、向こうのミュージシャンと演奏するっていうのが夢でしたので、18歳の時に向こうに行きましたね。やっぱり本場で演奏したいって誰もがきっと思うと思うんですよ。ジャズミュージシャンだったらニュー・ヨークに行って、とかクラッシックの人だったらウィーンに行って、とかね。そんなようなもんですよね。これが凄くいい体験になって、ボリビアって国自体が日本とすごい懸け離れてるし、接点があるかって言ったらほとんどないような国で。僕にとってはそれが初めての海外旅行だったんですよ。実際、音楽の勉強で行ったんですけど、音楽以上にも学ぶことが沢山ありましたね。

T:最初にボリビアに行って、どういう印象だったんですか?


S:まずね、飛行場降りると首都のラパスっていうところが標高4100メートルなんですよ。まず4100メートルなんて。富士山だって3700メートルとかですよね。そんな所に100万人が住んです大都会があるわけですよ。すっごいエキゾチックでしたね。着いてからすぐに凄く安い1泊1ドルくらいの安宿に荷物置いて、夜ライブハウスに行ったんですよ。そのライブハウスで。何が一番勉強になるかって、日本を出る前からずっと考えてて、やっぱり演奏する事なんですよね。習ったりする事も大事なんですけど、そんな事よりまず演奏する事が一番勉強だなって思って。それで、ライブハウスのマネージャーみたいな人を見つけて、「日本から来たんですけど、サンポーニャが吹けるんで演奏出来ます」って。そしたら快く迎えてくれて。「そりゃいいね。2曲吹きなよ」って言ってくれて。

T:コミュニケーションの手段は?

S:スペイン語ですね。一応言葉だけは覚えて。あと数字は1〜10までは覚えて行きましたね。でもおもしろいんですよね。行くと日本語しゃべる人なんて全然いないじゃないですか。実際演奏もしなきゃいけない、みんなとコミュニケーションをとらなきゃいけないし、おまけに自分で売り込みもしなきゃいけないわけで(笑)。もうね、イヤでも言葉を覚えなきゃいけなくて。それで1ヶ月くらいたったら、自分が普通にスペイン語しゃべってるんですよ。これはね、駅前留学では1ヶ月では無理ですよ(笑)。

T:(笑)。それで1ヶ月たって、どういう流れになっていくんですか?

S:とにかくライブハウスでの演奏がウケちゃって、向こうでバンド組んで毎晩演奏してて。次第にバンドのメンバーが「もう1件ライブハウスがあるからそこに電話しろよ」って言うんですよ。そんな電話なんてできないじゃないですか(笑)。海外で暮らした事ある人ならわかると思いますけど、初めての海外で初めての電話ってめちゃくちゃ緊張しますよね。顔が見えれば、まだボディランゲージでなんとかなるにせよ「こう言え、ああ言え」なんて言われて。その時思いましたね。何でもきっかけは自分で作らなきゃいけないんだって。とにかく、そういうボリビアのラテン文化、先住民の文化が残ってる国ですけど、なんていうか生きる姿勢みたいなものを沢山学びましたね。あと、とにかくラテンの人達の良さっていうのは挨拶ですよ。僕は小さい頃、海外に出るまでは、日本人は礼儀正しくて挨拶ができる人種だと思い込まされていたけど、まだまだですね。ラテンの人たちに比べると。会ったら必ず全員と握手ですよ。仲が良かったら全員とハグですよ。まずはそれからですよ。日本だと「おはようございます」ってそれっきりじゃないですか(笑)。誰がいるんだかわからない、みたいな。必ず向こうだと知らない人がいたら名前を紹介しあう、っていうのは当たり前だし。別れる時なんかもそうですよね。「お疲れさまで〜す」なんて言って勝手に帰る人なんていない。必ずその場にいる全員と握手して帰って行く。こういうところをまず最初に学びましたね。タクシーに乗っても面白いんですよ。必ず挨拶するんですよね。「こんにちは」とか「おはようございます」とかね。日本なんて「渋谷まで」で終わり(笑)。運転手なんて「はい」とも何も言わないみたいなね(笑)。

T:(笑)。それでどうなっていくんですか?

S:それでね、向こうでセッションをずっとやってて、ボリビアと日本を行ったり来たりしてて、向こうで演奏したい時には向こうに行って、みたいな感じでやってて。それで僕が20歳くらいの時からオリジナルを沢山書くようになったんですよ。これがまたひとつの僕のきっかけにもなるんですけど、ずっと書いたオリジナルで1本デモテープを作ったんですよ、10曲入りの。それはまぁもちろんサンポーニャがメインなんですけど、サンポーニャのバックを全部シンセの打ち込みで作ったんですよ。だからちょっとテクノ・プログレ・ポップ・ロックみたいな感じな。今聴くと違和感の固まりみたいなサウンドなんですけど(笑)。今、僕の音楽って基本的にアコースティックで、打ち込みってほとんど使わないし、今回出したCD『大地のラグーン』も同録(同時録音)でね、全員「せーの」で録ってるんですよ。その当時はダビング、ダビングで繊細に作ってたし、譜面なんかもきっちりがちがちに作ってたし。それで日本で作ったCDを、僕が1番憧れているボリビアのサビア・アンディ−ナっていうバンドのリーダーに送ったんです。そしたら電話がかかってきて。初めてボリビアに行った時に。そのリーダー、オスカル・カストロっていうんですけどね、面識はあったんですよ。仕事はした事なかったんですけど。「デモテープ聴いたよ。とってもいいよ!今度いつボリビアに来るんだ?来るんだったら、ボリビアでレコードを出さないか?大手のレコード会社が3つあるからおっきい順に回ってみよう!」って言ってくれたんですよ。嬉しくて嬉しくてね。でも20才過ぎだしお金なんかもなかったから、それからは一日300円生活やって、お金を溜めて旅費を作ってまた向こうに行ったんですよ。オスカルが空港に迎えに来てくれて、またホテルに荷物置いて、今度は1ドルホテルじゃなくて(笑)、ちょっと高くなったトコロに(笑)。まぁ歳もとってたので。それで、朝10時と同時にボリビアのレコード会社に行ったんですよ。そこのディレクターに音を聴かせたら「すぐ契約しよう」って言ってくれて。もうすっごい嬉しくて。それが僕にとって最初のデビューですね。

T:何というタイトルのアルバムですか?

S:『UNA ZAMPONA PARA EL MUNDO』。日本語に訳すと「世界のためのサンポーニャ」っていう。素晴らしいタイトルですよね(笑)。僕が考えた訳じゃないんですけどね(笑)。

T:何曲入ってるんですか?


S:10曲入りですね。

T:リリースされてからの反響はどんな感じでしたか?

S:そうですね、それで凄くそれがボリビア人にとっても新鮮だったらしくて、リリースして数カ月たってEl Diarioっていう、ラパスで一番おっきい新聞があるんですけど、そこの記事を読んでいくと、【Takamasa Segiのことを知ってるか。彼の音楽は僕たちが待ちに待った音楽だった。それが今ここに誕生した】みたいなことを書いてくれて。それはどういうことかと言うと、自分たちの国の楽器をメインに
して、日本のハイテクノロジーのシンセサイザーの打ち込みを使った日本の最先端のものと、ボリビアのサンポーニャの融合された音楽だっていう事で。今までもそういうものはあったにせよ、そこまで派手ではなかった訳ですよね。その辺が受け入れられたひとつの要因だったんじゃないかと思いますね。それが凄くヒットして、そのレコード会社のヒットチャート1位をとったりしましたね。

T:では、すぐに次を出そうという話にもなったんじゃないですか?


S:それからすぐ次を出しましたね。4枚出しましたね。

T:どれくらいのスパンですか?


S:2年間で4枚くらいのペースですね。そこがボリビアでのピークでしたね。

T:それも日本とボリビアを行ったり来たりですか?


S:そうですね。でもその時は忙しかったので、その2年間はほとんどボリビアにいましたね。やっぱり今度は自分のオリジナルですよね、勝負をしてるのが。それがすごくやりがいがあったし、あとは向こうのミュージシャンとのセッションっていうのが、その時一番おもしろかったですね。今までは僕が、フォルクローレのスタイルに入っていたのが、今度は僕のスタイルに向こうのミュージシャンが入る訳ですよね。

T:その2年間で瀬木さんのサンポーニャにも変化っていうのはあったんですか?


S:変わってきましたね。その時一番仲が良くて、今でもずっと付き合いがあって、今回の『大地のラグーン』にも参加してくれているチャランゴ奏者のドナート・エスピノーサって人がいて、彼がボリビアの中で僕の音楽の一番の理解者で、彼もちょうどその頃、従来のフォルクローレのスタイルじゃなくていわゆるバンド編成とかストリングスを入れたセットでコンサートをやり始めた頃なんですよ。もう、彼とは向こうに住んでた2年間は、毎日のように会って毎日のように音楽を2人で作ってましたね。

T:そのドナート・エスピノーサさんの楽器というチャランゴとはどういうものなんですか?

S:アンデス版ウクレレみたいな感じですね(笑)。ちっちゃいギターですね。

T:なるほど。ドナート・エスピノーサさんもCDを出されてるんですか?

S:うん。そうですね。彼のソロCDを僕がプロデュースしたりとか、実際にそういう事もしたり、もちろん僕のアルバムには参加してもらってるし。

T:向こうのレコーディングスタジオっていうのはどんな感じなんですか?日本と変わりますか?

S:(笑)。凄い日本とは違いますね。とりあえずシンセの打ち込みを使ってるわけですよね。僕の最初のアルバムがそういう形でいってるので。シンセを同期させるので一応24chのアナログの1インチのテープ。一応レコードは日本とその当時変わらない。あれ?もうデジタルが出てた頃かな?24chのアナログは世界基準ですからそんなには変わらないですよね。まずシンセをパラで出すと最低でも10chとかいるわけですよね。その時僕が使ってたセットでも14,5chはありましたからね。でもね、シールドがないんですよ。5ch分くらいしかないんですよね。まずはシールドを集めることから始めるんですよ。自分のシールドとかも全部持ち込んだりして。いわゆるキャノンシールドとかっていうのが売ってない訳なんですよ。スタジオ入って、まず1日目。何もできなかったですね(笑)。それから14,5chつなげてやってみると、今度は3ch分くらいダウンしてたりとか(笑)。それでまた全部やり直して「さぁやろう」とか思うと今度は電圧が下がったりしてて、レコーディングしながらどんどん音がちっちゃくなってっちゃったりしてですね(笑)。そういう事を経験して、その時思いましたね。日本だったらシールドなんてものは楽器屋さんに電話1本すれば配達してくれるじゃないですか。でも、そうじゃないんだと。ここにあるものでやらなきゃいけないんだと。生きる知恵みたいなのを覚えましたね。うん。

T:まだその時は日本ではレコーディングはされてなかったんですか?


S:そうですね。人の作品には結構参加させてもらってましたけど、自分のソロ作品のレコーディングはまだでしたね。

T:その2年間でアルバムを4枚出されてから日本に戻ってこられるんですか?


S:93年くらいですね、本格的に日本でやり始めたのは。とにかく当時はセッションをやりまくってましたね。その時僕が多くセッションしたのは、六本木PIT INNが一番メインでしたね。六本木PIT INNっていわゆるライブの伝導じゃないですか。まず、そこに出れるっていうのが凄く嬉しくて。そこのスケジュール表に自分の名前が1行載るっていうのがもうほんとに嬉しい事で。初めて僕が六本木PIT INNに出たのが90年ぐらいなんですよ。ボリビアに居た頃から「日本に戻ったらPIT INNに出演してみないか」と声をかけてもらっていて、ボリビアでアルバム4枚出して成功したわけだから、それを今度日本に持ち帰らなきゃいけないじゃないですか。とにかく自分のバンドを作ってソロアルバムを出すまでずっと六本木PIT INNで過ごしてましたね。ちょうど90年ぐらいの時からギターの渡辺香津美さんやドラムの村上"ポンタ"秀一さん、ベースの青木智仁 さんとか、今もずっと付き合いが続いてますけどピアノの佐山雅弘さんたちと出会って、言ってみればこれ以上、上がないっていうくらいインストの中ではベテランの人達で、その人達の全盛の頃ですよね。そういう人達と一緒にセッションできるというのは、自分にとってエキサイティングなことでしたよね。それと同時に、自分と同年代の仲間。ずっと初期の頃の作品にずっと参加してもらっている、ギターの鬼怒無月っていうほんと名手がいるんですけど、その彼とずっと音楽を一緒に作れたっていうのも凄いありがたいことだし、そこに出入りしてたいろんなミュージシャン達と出会えたってことは今となっては財産となってますよね。それこそ東儀秀樹さんなんかも、今や東芝のトップアーティストですけどね、僕のライブなんかに来てくれて、龍笛とか吹いてくれてね。

T:それで日本でやっぱりアルバムを、という流れになっていくんですか?

S:そうですね。最初のアルバムは95年に、アルファ・レコードから『VIENTO〜風の道』っていうのを出しましたね。

T:『VIENTO〜風の道』はどういう感じのアルバムなんですか?

S:これはね、全曲オリジナルだったんですけど、デビュー盤だったっていうのありましたし、その90年ぐらいから僕がずっとボリビア時代から作ってた曲の、集大成みたいな感じですね。いわゆる、僕の今のスタイルの一番のバックグラウンドになっているサウンドですね。だからデビュー当時から応援してくれるファンの人なんかは、今回の『大地のラグーン』がどうやって出来たかというのが、この最初のアルバム『VIENTO〜風の道』を聴くとわかるんじゃないかなと思いますね。
その時ずっと共演してくれてたポンタさんや、佐山さん、青木さん、あと福岡ユタカさんっていうボーカリスト、元PINKの人なんかもみんな集まって出来たアルバムで、すごい自分にとっては100%オリジナルが出来たなっていう手ごたえはありましたね。

T:それに伴ってライブもされたんですか?

S:そうですね。その年に大小合わせたら200本くらいやったんじゃないですかね、95年は。とにかく僕もそうだだし、サンポーニャもそうだけし、その当時って今以上にコアなものだったから、聴いてもらわないと伝わらないじゃないですか。だからとにかくライブで回ってましたね。

T:そのうちに次のアルバムっていう話になってくるんですか?


S:そうですね。その年にまたもう1枚出しましたね。

T:それはどういう感じのものだったんですか?

S:それは『水のイルシオン』ていうアルバムなんですけど『VIENTO〜風の道』から繋がるような全部オリジナルのアルバムすね。アルファ・レコードではその2枚をリリースしました。

T:それ以降はどういう感じになっていくんですか?

S:それからはね、1年に1枚くらいのペースで、今度はレコード会社がポリスターに移籍しまして、ポリスターから今回のアルバム『大地のラグーン』にいくまで、アルバムでは9枚目になりますね。

T:なるほど。

S:ひとつ転機が表れたのが97年から98年にかけてなんですけど、97年の「LUNA」ってアルバムまでは、それまで全部日本人のミュージシャンと録ってたんですよ。セッションし始めた頃の仲間を集めてやってたんですけど『LUNA』を出した時に、『LUNA』が自分の中でも凄い気に入ってる作品で、完成度の高いものが出来て、実際リリースしたら次はそれを超えなきゃいけない訳じゃないですか。
で、『LUNA』を出したあとに全国ツアーやって、ツアー終わって「これは何かしなきゃいけない」って思ってアマゾンに行ったんですよ。

T:ほぉ。

S:それでちょうどボリビアに住んでた頃からよくアマゾンに遊びに行ってたんですよね。凄い好きでね。ボリビアにトリニダートっていう街があるんですけど、アマゾンの上流で一番大きな街があって。そこでカヌー買って船外機、モーター付けて、ポーター1人雇って川下りをしたんですよね。ブラジルのベルンっていう所まで5000km下ったんですよ。これがなんか、今度は人生観が変わりましてね(笑)。

T:ちょっとしたというか、冒険ですよね。

S:冒険でしたね、これは。1ヶ月かかったんですけど、ずっとポーターと2人っきりで、寝る所と言えば途中の村とか、まぁ村がない時はカヌーで夜走りして、ポーターと運転交代しながら月明かりを頼りにずっと川を下っていくんですよ。その時、ギター1本持っていってて、カヌーの上とか訪ねた村でずっと曲作りをしてたんですよ。それで40曲くらいできたんですよね。

T:ほぉ(驚)。

S:それで翌年98年かな?『FOREST RAIN』っていうアルバムを出したんですよね。ここから僕のサウンドが変わってきましたね。

T:この『FOREST RAIN』に入っている曲は、ほとんどがその時のものなんですか?

S:そうですね。それまでは結構バンドのリズミックなものが多かったのが『FOREST RAIN』以降は、もっと内面的というか、よりアコースティックになものになりりましたね。そのアマゾンで川下りして曲作ってる時にね、いろんなミュージシャンの顔が浮かんでくるんですよ。音が聴こえてくるっていうか。この曲のギターはこの人だなとか。それで今度はね、南米のミュージシャン仲間を集めて、ブラジルのトニーニョ・オルタっていう、ほんとブラジルのコンテンポラーニアミュージックの中のギターでは第一人者ですよね。パット・メセニーが彼を師匠として、やってたくらいのマエストロがいるんですよ。そのトニーニョ・オルタとウーゴ・ファトルーソっていうウルグアイのピアニストで、きっと南米のピアニストの中でベスト5に入るんじゃないですかね。ミルトン・ ナシッメントとかジャバンとかそういうスーパースターたちのバンドマスターをされてた方で、その2人の音が浮かんできて、あとずっと僕の大親友のパーカッションニストのヤヒロトモヒロさん。この4人で『FOREST RAIN』を録ったんですよ。これが新たな自分の、よりオリジナリティーを出すきっかけになりましたね。だから『LUNA』と『FOREST RAIN』ではかなり僕のサウンドが変わってますね。よりもっと深く入りましたね。

T:なるほど。それから2000年に入ってどういう流れになっていくんですか?


S:そうですね、2000年に入ってから出したのは『LUNA』までのベスト盤『SONGS OF THE WIND』が出てね、その2000年の秋に、ちょっと原点に戻ろうと。それでボリビアレコーディングしたんですよ。さっき話したチャランゴのドナート・エスピノーサをはじめ、18歳の時に初めてボリビアに行った時に出会ったミュージシャンが、今みんなスーパースター達なんですよね。それを一同に集めて。
5人集めたんですよ。それで『アンデスの風に吹かれて』をボリビアでレコーディングしましたね。

T:何年ぶりくらいだったんですか?ボリビアでレコーディングされたのは。

S:ん〜。10年ぶりくらいになりますよね。

T:ボリビアに戻ってみてどうでしたか?

S:そうですね。まぁ見る顔は昔と変わってないんで(笑)、何か我が家に帰るようなもんでしたね。そのメンバーのうちの2人がね、凄くいいスタジオをボリビアのコチャバンバって街に作って、今度はシールドがないとか(笑)、そんな事もなくて、いいマイクもちゃんとあって。でも、僕がこだわってるのは同時録音だから、そうすると今度はブースがないんですよね。でもこれも面白かったんですけどね、最低4人一緒に音を出さなきゃいけないんですよ。チャランゴとギターを1部屋にするとしても、パーカッションとサンポーニャは離さなきゃいけない。だから3部屋必要ですよね。でもブースは1部屋しかない。音決めに悩みましたね。うん。リビングがあって「リビングでパーカッション鳴らしたらどうだろうとか、サンポーニャを鳴らしたらどうなるだろうか」とかね。もう終いにはトイレですよ(笑)。「パーカッションはトイレがいいんじゃないか」なんてね。でもね、その時のパーカッションニストが、僕がボリビアでデビューするきっかけになったオスカル・カストロっていう『サビア・アンディーナ』のパーカッションニストなんですけど、「俺はSegiのためならトイレでも叩くぜ」って言ってくれて(笑)。結局トイレっていうのはなかったんですけどね。結局僕はね、コンソールルームでやったんで、エンジニアはもう全く音をたてずに、テープを回すのもそっとやるっていう感じで(笑)。僕、昔中学生の時か高校生の時にリッチー・ブラックモアの自伝で、『♪HIGHWAY STAR』がどうやって出来たかっていうのを読んだんですよね。あの最初のスネアドラムっていうのはバスルームで録ってんですね。自然のリバーブを出すために。何かそういうのを思い起こすようなレコーディングで(笑)。「そっかぁ、きっとリッチー・ブラックモアもこういう気持ちで録ってたんだ」とか思いつつも「何で僕はトイレにいるんだ?」みたいなね(笑)。

T:音の中にその時の生活みたいなものが染み込んでる感じなんですね。


S:そうなんですよ。音楽から学んだんですけど、どうやって生きていくか、どうやってひとつの物事を成功させるか、どうやったらベストを尽くして、何が正しい選択なのかっていうのは音楽を通じていろいろ学ぶことができますよね。結局ブースにしたってないんですよね。ないものはないんですよ。一つ一つの楽器をダビングしてやるのが正しい選択なのか、同録するのが正しいのかって考えて、僕は同録を選んだんですよね。そこでどうやればベストな同録ができるかっていうのをみんなでチャレンジするんですよね。そういう一体感っていうのが凄い重要になってきますよね。レコーディングにしても、ライブにしても。そのボリビアレコーディングっていうのは、15年来の友達と集まって、そういうのをみんなでやった感じでしたね。

T:すごい楽しそうですよね。

S:そうですね(笑)。もう合宿レコーディングみたいなものですね。みんな仲がいいから食事とかもスタジオの中で一緒にするんですよね。僕だけ日本人だから「今日は何を食べる?」ってむこうが聞いてくれるから、次から次に毎日違うボリビア料理をオーダーしちゃったりして(笑)。とにかくみんな凄く仲がいいから、そういう時に話したりするのもほんと楽しいですよね。

T:そうすると、この辺から瀬木さん自身の方向っていうのが定まってきたっていう感じですか?


S:そうですね。でも、まぁやりたい事っていうのは最初にボリビアでデビューした時からきてるんですけど『アンデスの風に吹かれて』を出した時は、こうひとつのチャレンジですよね。ここまで僕のオリジナルが出来てきて、あえてボリビアに戻るわけですから、そこで何か新しいものが生まれるんじゃないかなって思ってたレコーディングだったので、すごくやって良かったですね。

T:なるほど。それで翌年『TREE OF LIFE 』ですよね。

S:これはピアノの佐山雅弘さんとギターの天野清継さんとトリオで作ったんですけど。これは、曲作りかな。曲を作ってる時にね、作曲のほうで「これだ」っていう瞬間がありましたね。この中に入っている『♪グラシアール』って曲と『♪エレファンテ』の2曲は、今までの自分の中にはないスタイルだったので、そういうものが生まれたっていうのがまずひとつ大きいですよね。特に作曲法とか僕は勉強してないんですけどね(笑)、なぜか「これだ!」っていうのがこの時に生まれましたね。

T:それは初めての感覚ですか?

S:そうですね。カラーっていうか肌触りというか空気が違うんですよね。そういうのが作ってて手ごたえがありましたね。このアルバムはギターとピアノと僕の3人しかいなかったから、アレンジには制限がありましたよね。ドラム、ベースがいなかったから、より楽曲の重要性みたいなものが編成が少ない分、楽曲のカラーっていうのが出ますからね、アレンジで補えない分。シンプルですね、凄く。

T:それで次が今回の『大地のラグーン』になるんですね。

S:そうですね。ここでまたレコード会社が変わって東芝になります。3社目ですね。

T:これはどういう流れで制作されたんですか?

S:うん。これはね、まず曲作りをアフリカのナミビアで。ナミビアっていうのは世界で最も人口密度が少ない国なんですね。その分、野生動物の保護区が沢山あるんですよ。それこそ、今回のジャケットになっている象もそうですけど、いわゆるアフリカのサバンナに住む動物たちがたくさん居て、ほんとに自然が溢れているところなんですよ。ナミビアでね、曲作りをしている時に、アマゾンで曲を作った時からそういう大自然で作るって事にこだわってるんですけど、やっぱりこういう大自然の中に入ると、自分が自然になれますよね。だから意図的な部分がなくなるんですよ。次のアルバムはこういうコンセプトで作ろうとか、こういう方向にしようとかって誰もが考えますよね。だけどナミビアに行った瞬間そういうのがサッとなくなるんですよ。自分が自然体になれるから、自分の心の奥から出る内面がそのままメロディーに出てきますよね。そういう部分がすごく表れているところが多いですね。1曲目にいれた『♪サファリに行こう』なんですけど、実はこれはピグミー族に影響されてる曲なんですよ。『♪サファリに行こう』ってね、まず主旋律があるですけど、ピグミー族の音楽をよ〜く聴くとね、メロディーが7つも8つもあるんですよね。違うメロディーが同時に合わさって一つのハーモニーになってるんですよ。昔偉大な作曲家でバッハっていましたけど、彼は4つまでですよ(笑)。
それが7つも8つもあるんですから。それでこの『♪サファリに行こう』は、主旋律の他に、いろいろな別のメロディーを付けて、それが合わさった時にひとつの音楽になるっていうね。僕にとっては、5年前に初めてピグミーが住む中央アフリカに行って、やっと5年越しでピグミーのスタイルを自分の音楽に取り入れることができた、記念すべき曲が『♪サファリに行こう』です。

T:その他の曲っていうのはどういう感じになってるんですか?

S:2曲目に入れた『♪ラグーン』。これはですね、動物たちがいわゆる水を飲みに来る水たまりのことをラグーンって言うんですけど、一番ね、動物を見るには夜明けがいいんですよ。太陽が登ると同時にこのラグーンにいるといろんな動物たちが見れるんですね。まず一番最初にこのラグーンに来るのってキリンなんですよ。森の奥深くからゆっくりゆっくり歩いて来て。それがね、姿が見えるまで気配がないんですよね。いきなりキリンが現れるんですけど、まずそこで感動しますよね。それでラグーンで水を飲む。それでね、水を飲んだのにまだラグーンから立ち去らないんですよ。で、ずーっとキリンがまわりを見てるんですよね。そうすると次にシマウマがやってくるんですよ。シマウマの群れ30頭、40頭くらいが、ゆ〜っくりゆ〜っくりくるんですよね。そのあとね、スプリングボックスっていう鹿の仲間みたいなのが来て、ヌーが来たりして草食動物たちが次から次へとやって来るんですよね、順番に。それでもキリンはその場を立ち去らないんですよ。「なんでかな?」って考えたらね、ライオンとかね、チーターとか肉食動物に襲われないように見張ってんですよね。その姿を見たときにね、「ほんとにこの世界には信頼があるな」って思ったんですよね。これが人間だったらね、見張りの人が嘘ついたら食べられちゃいますよ。素晴らしいなって思ってほんとに感動して、この動物たちが遷り変わる姿を1曲にまとめてみたんですよね。

T:アルバム全体で伝えたかった事というのは?

S:うん。まず感じてほしいのが、日頃僕もそうだし、みなさんもそうだと思いますけど忙しいじゃないですか。それぞれね(笑)。そんな中でもね、こうやって今僕がインタビューをうけてる同じ時間にもね、アフリカのナミビアに行くとゾウとかキリンとかシマウマがやはり生活しているわけですよね。地球っていうのは僕らの目の前にあるものだけじゃなくて、もっともっと広い世界なんだっていうのを、
当たり前のことなんですけど忘れちゃってることじゃないですか。だから『大地のラグーン』を聴いていただいてね、ちょっとでもそういう事を思って欲しいし、感じて欲しいですね。まぁ実際にね、日本から遠い国ですから、簡単にぱっと行けるところではありませんが、少なくてもこの音楽を聴いていただいてそういう部分を感じてもらいたいですね。

T:このライブというのは、もう一通りは終わってるんですか?

S:そうですね。一段落していますね、このアルバムに伴うものは。まぁ、年間100本以上はいつもライブをやっているので、いつでもこの「大地のラグーン」に入っている曲は演奏しますよ(笑)。うん。

T:今後、予定されている活動は?

S:そうですね。ライブは頻繁に全国行ってるんですけど、そろそろ次のアルバムの曲作りに入ろうかなと。
うん。年明けあたりにね。

T:もう曲はできてるんですか?

S:まだなんにもないんで(笑)、これから考えて、また曲作る前に今の自分がどういう音楽を作りたいのかもう1回自分に問いかけて、それでじっくり曲を作りたいと思いますね。とにかく自然まかせに楽曲のほうは作りたいと思いますね。

T:今日は、とても楽しい話ありがとうございました。

-end-


瀬木貴将さんのインフォメーションは、
オフィシャルサイトHP「瀬木貴将WEB」
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【Discography】


「瀬木貴将」



LAGUNA DE LA TIERRA〜大地のラグーン
2003.9.3/TOCT-25176


「SONGS OF THE WIND 2 」
2002.11.27/PSCR-6086


TREE OF LIFE
2002.6.21/PSCR-6050


「ANDES〜アンデスの風に吹かれて 」
2001.3.28/PSCR-5940


「WONDER RAIN」
瀬木貴将+井上鑑
2000.7.19 / PSCR-5894


「SONGS OF THE WIND」
2000.5.21/PSCR-5865


「SILENCIO〜静寂」
1999.5.8/ PSCR-5751


「LUNA〜星の旅」
1997.1.25 / PSCR-5574


「NIEVE〜雪の扉」
1996.11.25/PSCR-5548


「ILUSION〜水のイルシオン」
1995.11.8/ALCA-5051


「VIENTO〜風の道」
1995.3.22 / ALCA-5027



「ボリビア盤(LP) 日本未発売作品」



「JATUN RUNA」
OSCAR-SEGI-DONATO
1991 / SLPL-13722

 

 

 

 






























 

 





















































































































 

 

 



















































































瀬木貴将世界周遊記録





「18歳の時の初めてのボリビアでのライブ」
(1995/6 ぺーニャ・ナイラ)



「スーパースター達とのランチ 」
(右からエラルド・アリアス、
ドナート・エスピノーサ、
エドウィン ・カステリャーノス)


「標高5300mチャカルタヤスキー
場でのライブ (ボリビアにて)」




「トリニダード付近の村(アマゾンにて) 」




「中央アフリカの子供達」




「ナミブ砂漠でのライブ(ナミビア)」




















































 

 

 


































































瀬木貴将さん映像メッセージ

Movie

『大地のラグーン』から一曲お願いします。


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Message Movie

『瀬木さんにとってサンポーニャとは?』


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